タロ文庫の作品置き場
2025-12-17 11:23:28
2152文字
Public 作品
 

ゆりかごのプール

2022-11-09
WTWT ep1
入部テスト後〜新人歓迎合宿前の実家でのウィン。
ウィンが無意識のうちにティームを意識している話。
ウィウが想像以上に次兄が大好きで、それが可愛かったので書いてみました。

BU版ウィンは自分に大切なものは必要ないと常に思い込んでいるので、本能が先にティームを見つけて追いかけてるイメージでした。
パチャパチャと心のプールを波立たせよう

 パタパタと軽快にスリッパが鳴る音が近づいてきて右腕の外側に衝撃があった。身体はすくすく成長するのに所作がいつまでも変わらない弟がいつも通り飛びつきながらソファに座る。
「ウィン兄さん、何見てるの?」
「新入部員のパーソナルデータ」
 体重をかけながら手元のタブレットを覗き込んでくるウィウに画面を傾けて中身を見やすくしてやる。大学の学生データと入部手続きの際に書かせた略歴、分かる範囲で調べた公式大会での出場種目とタイムを一覧にまとめたものだ。先日あった入部テストで合格した者は皆、何かしらの大会で表彰台に上がっている。中にはウィンもよく知っているバンコクでも有名なスクール出身の者もいた。データを見る限り、卒業して抜けた先輩たちの穴は充分に埋まりそうだ。
 ウィンが指先で画面を上から下にスクロールしながらぼんやりと卒業生の自己ベストを思い出していると、ウィウの気の抜けた相槌が聞こえてきた。チラリと横目で見れば、ぼんやりと画面を覗いていた顔はすぐに気づいてパッと上がり、ウィンと目を合わせて大きく笑みを浮かべた。あまりにも嬉しそうな顔にウィンも自然と口元が緩む。
 この甘えたな弟は新学期になってからしょっちゅう電話をかけてきては長兄の不満を訴えて、次兄の不在を寂しがった。長期休暇明けはいつもこうなる弟が慣れるまではなるべく顔を見せに帰ってきたいところだが、来週末の新入部員の歓迎合宿以降は土日も練習が入るようになるからそうもいかない。この土日は勉強も遊びも思い切り付き合ってやるつもりだ。ドーベルマンの子犬のような顔で見えない尻尾を振っているウィウの、一日中ついていた寝癖の髪を指先で梳いてやった。
「お前は学校どうなんだ?」
「別に今まで通りだよ。中学からの持ち上がりだからね。クラスメイトのメンツも変わんないし、先輩たちも中学から一緒だし」
「そうか」
「でも授業の進みが早いんだ」
 そう言って唇を突き出すウィウの手には真新しい数学の教科書が握られている。
 ワン兄さんは全っ然見てくれない! とまた長兄への愚痴が溢れ出そうになる突き出た口を指で摘んで黙らせて、勉強を見てやるためにタブレットの画面をオフにしようと側面のボタンに指を這わせた。その時、画面に映る部員のデータを見て、指が止まった。
 もう一度だけ。
 タブレットの側面から画面へ指を移し、スッスッと上に滑らす。何人かのデータを流した後、出てきた顔写真に指の動きを止めた。
 センター分けの塩素に負けない黒髪、水泳選手とは思えない白い肌はけれども病的ではなく蒸し立ての包子のように血行がいい。不自然に引き締めた小さい口、睨みをきかせたすっきりした目元は実際に見ると緩んでいる。
 証明写真だからって意識しすぎだ。
 データに載っていた地方大会は映像の記録をSNSに上げておらず、検索しても結果の順位だけが文字で残っているだけだった。ディーンが参加したユース大会に出た記録もある。特待生に相応しい経歴だ。
「兄さんは、」
 先日の入部テストのタイムは卒業した先輩の自己ベストに並ぶ。プールサイドに腕をついて上がってきた身体は少年の名残があった。顔の横に張り付いた黒髪、真っ直ぐな首筋、まだ筋肉がつきたての胸の中心、引き締まった鳩尾をプール水が滴り、白いタオルで無頓着にゴシリと拭いていた。
「新入生に気になる人はいた?」
「あぁ、スタート台の蹴り出しは少しブレたが初速は持ち直して速かったな。前半型かと思ったけど後半も減速は少なくて、ゴール間近で一気に巻いた。あれは応援に来ていた友達の声援が聞こえたんだろ。モチベーションの保ち方が外任せになってそうだから、要観察だな」
 チューレンの下の欄に本名が載っている。墨色の黒目が一文字ずつなぞり、その後を追うように言葉を零した。
……え? 何の話?」
 暫くして訝しげな弟の声が耳に入り、ウィンは一つ瞬きをした。
「もう兄さんったら! そうじゃなくて、可愛い人はいたかって訊いたんだよ! ときめいて、目が離せないそんな運命の出会いとかさぁ」
 肘で脇腹を突いてきながらニヤニヤする弟にメガネの先輩のふやけた声が重なって、ウィンは眉間に深々と皺を寄せた。あの先輩はそれなりに人気のある甘いマスクをふわふわと崩壊させて、呼吸も動悸も跳ねさせて。遠くにやる目線にはもうしっかりと誰かを捉えていた。
 キラキラとリビングの照明の光で輝くウィウの目を見返して、その間を指で優しく弾く。
「そんなもの、あるわけないだろ」
 大袈裟に痛がる弟の声にため息混じりに被せて、ウィンは今度こそタブレットの画面を落としてローテーブルへと置いた。
「ウィン兄さんは相変わらずだなぁ」
 そして眉間を擦っている弟から教科書を取り上げて先程のタブレットの中に入っていた部員たちのデータと同じリズムでページを捲る。ところどころに拙い書き込みがあり、沢山の色のマーカーが引かれている。その文字列をなぞってから、ウィンは目を細めて静かに独りごちた。
「俺は、変わらないよ」
 心に湛えているプールの水面は、何も存在していないように凪いでいる。水飛沫が上がることなんて、水泡が湧き上がることなんて、ないのだ。