タロ文庫の作品置き場
2025-12-17 10:56:53
14250文字
Public 作品
 

水泳部の魔物

2024-11-29
ハロウィンの日にやり過ぎてしまうWinTeamの話。ウィンはティームに関してだけ情緒がポンコツになる、そういうスイッチを持ってる自覚がない、ある意味ティームの方がその辺は自分を分かってるんじゃないかな、という話。
ハッピーオーバーヒートハロウィン〜

 きっかけはただの日常の一コマだった。
「ウィン先輩、見て見てー」
 シャワーを浴びて髪を拭いているとドアのすぐ近くから呑気な子供の声が聞こえた。まだ下着一枚でボトムに足も通していなかったのに「これ凄いよ。今までで一番上手くいった」などとはしゃいだまま連続ノックまでしてくるものだから、ウィンは早々に諦めてドアを開いた。
 ウィンがバスルームに行く直前までのティームといえば、英語の長文問題を前につむじから黒煙をぷすぷすと立ち上らせて唸り声を響かせていたはずである。時間がかかりそうと判断したウィンが先にシャワーを済ませていた。その問題がうまく解けたのだろうか。
「何だよ、課題は終わったのか?」
 開けたドアの目と鼻の先にティームは確かにいた。ちょうど鏡台に向けていた顔をこちらに動かし、くふふと笑いながら黒髪を振る。塩素に負けないティームの髪は普段ならパサパサと目元を打つ。それも近頃は散髪に行くタイミングを逃したとかで、センター分けの前髪は乾いていても膨らむ頬の高さまで伸びていた。
 それが今、頭頂部やや後ろで括られている。
 毛束が短くてポニーテールのようには揺れず、結局ティームが自分の指で左右に弾いた。ぷるぷる動く黒い毛束はさながらうさぎの尻尾だ。
「どう?」
「おー、ちゃんと括れてるな」
 勉強していると俯く視界を邪魔するのか、しきりに左手で前髪を押さえるティームに余っている髪ゴムを渡してやったのは数日前のこと。自分でパパッと括ったのでウィンは手を出さずにいると、晒されたまぁるい額の生え際の上できゅっと雑に束ねていた。塩素や日差しに負けない健やかな髪は放射状に散り、卵形の顔と合わせて見るとパイナップルのようだった。なんとも幼ない様がウィン好みで、自然と崩れていく口元を頬杖をついて誤魔化した。
 あれはあれでとても気に入っていたのだが、当の本人は頭を撫でられるたびに上向きに散らばる毛先をふわふわと手のひらでたわます男の顔が恋人を見る目ではないことに思うところがあったようで、ウィンの見えないところで年相応の結び方を練習をしていたそうだ。
 それが今、過去最高に上手くいったと。
「ウィン先輩みたいでしょ」
 自慢げにふっくらと頬を持ち上げて、ぽってりした唇の隙間から前歯をチラ見せさせて。目を糸みたいに細めている顔は、どんな髪型をしていてもこちらの心をたまらなく擽る。ウィンも同じくらい表情を綻ばせて恋人が一生懸命作った艶やかな毛束を指先でつるりと撫でた。これはティームがウィンを世話したがる時に金髪の毛束に対してする仕草の一つだからか、ティームも満足そうに受け入れる。
「まぁ俺はそんな雪崩が起きた雪山みたいな顔で笑ったりしないけどな」
 可愛いと伝えたかったが自分みたいと言われた矢先の返答がそれではまるで自分を可愛いと思ってるようだと思い、ティームが可愛いのだと言うかわりの常套手段である揶揄いの言葉が口から出た。
 もしこの場にティーム以外の人物が居たら「鏡を見ろよ、地球温暖化を人型にしたような男が何を言っている」くらいの返しがあったろうに、残念ながらそれを向けられることが当たり前になっている青年は「嫌味かよ」と笑顔から一転、いつものジト目で睨むだけに留まった。
「おれだってな、先輩みたいにかっこいい顔の一つや二つ出来るんだよ」
「ふーん」
 ティームがウィンの姿形をどう思ってるかがポロリとしたことについては黙っておこう。
 チッと小さく舌打ちをして鏡へと向き直ったティームは、目線は変えないままにスッと口角を落とし顎を持ち上げた。そのまま黒目を左下に流しながら今度は顎を引き、ゆっくり瞬いた後、鏡の中のウィンと目を合わせる。
 黒髪で少しも隠されずに曝け出た目元は伏せられると瞼と黒目と白目のバランスが絶妙な雰囲気を醸し出し、仄かに憂いを帯びているように見える。その真意を探ろうと見つめていれば、真逆の上がった視線の直線的な強さに慄く。
 普段の快活なティームを知っている者ほど口角を上げていないティームの顔面の硬度は胸に刺さった。
 ウィンは思わず高速で瞬きをした。
 これがシャッターになって脳に念写できたら良かったのに。
 あまりにも唐突に現れたティームの色に、流石の優秀な脳みそでも対応が間に合わず、ウィンは知らずに詰めていた息を吐き出すだけだった。
「ほら、先輩の真似。似てただろ」
 瞬発力が高いウィンの口が何も言わないうちに、満足したティームがふふんと鼻を鳴らす。立てた親指と人差し指の作り出すカーブを顎につけて片頬だけニヤリとあげて眉までくいくいと上下に動かせば、世界共通のカッコつけポーズの出来上がりだ。そんな〝してやったり〟な表情や仕草の方がよっぽど自分を模倣されているとウィンは感じて、湧き上がるむず痒い気持ちを咳払いで散らした。
 俺はそんな思わせぶりじゃねぇわ。
 先輩の心、後輩知らず。普段何かとやりこめてくるウィンの大人しい様子がティームをますます勢いづかせた。
「再現度の高さには自信があるよ、おれ。パームとマナウの前で先輩のモノマネするとめちゃくちゃウケるんだよね」
「なに?! お前そんなことしてんのか?」
「今度エービーシーの前でもやってみようかな。そうだ! ハロウィンの仮装、ウィン先輩にしよっか」
「おーいー、ティーム」
 すっかり元のやんちゃな雰囲気と表情に戻った子供はキラキラと目を輝かせて実物のウィンを見上げた。仮装ってなんだ、俺はキャラクターか? それならいっそ黄色いクマの仮装をしてほしい。はちみつ色のクマ耳をつけてオーバーサイズの赤いTシャツだけを着てほしい。人前には出さないが。
 じっとりと瞼が半分ほど落ちた目で見つめ呆れた声を出しても、すっかりやる気に満ち溢れてしまった子供は止まってくれない。「その日はコーチも居ない自主練の日だから」「講義中はちゃんとネクタイする」「きちんと泳ぐ」「食べすぎないようにする」「お菓子も二つしか食べない」などとおもちゃを強請る子供の口約束のような事を次々に並べたて、最終的に「良い子でいる」「言うこときく」まで飛び出してウィンは深々とため息をついた。
 別にウィンとて大反対ではない。この子供は普段からいたずら好きのやんちゃな男ではある。こんなこと言い出しても驚くことではない。そして自分の容姿には無頓着なところもある。アスリートとして整えるところは整えているがそれだけだ。髪は伸びた分だけコンドミニアムの近所の床屋で切っていたし(今はウィンの行きつけのサロンに連れて行っている)下着や服は高校生の時に地元の市場で量り売りしていたものを着続けているし(今はウィンがショッピングモールや路面店で見繕ったり買ってあげている)スキンケアはドラッグストアのワゴンセールで適当に選んだものばかり(今はウィン以下略)
 そんな男が例え仮装とはいえ自分の見た目をこうしたいと意思表示をしてきたのは、良いことなんじゃないか。そのやる気を仮装対象が自分という面白さも旨みもないものだというだけでペチャッと潰してしまうのも違う気がした。
 それに、
「ハロウィンの日って悪霊や悪さするおばけがいっぱい来るんだよ。おれが先輩の格好してたら、どっちが本物か分かんなくなって連れてかれないよ。おれが先輩を守るからね」
 だから怖がらなくていい。
 頼もしく胸元を拳で叩く恋人の健気な意志を無碍に出来る男がいるだろうか。
 やれやれと首を小さく横に振りながらも口では笑ってやる。結局、自分はこの子のことが大好きで、可愛くて、どうしようもなくなってしまうのだ。
 版権元の許可がおりて、どれだけ嬉しいのかガッツポーズまでしているティームを見つめていれば、ぽたりと拭ききれていなかった毛先の雫がウィンのまつ毛に垂れた。ウィンは鬱陶しくタオルで拭い、ふとティームの隣に並んだ鏡像の自分を見やる。二十年以上見慣れていて特に何とも思わない。思わないが、しかし。
「じゃあ、俺はお前の仮装をしてやるよ」
「えっ!!」
「お前が俺を守ってくれるなら、俺がお前を守るのは当たり前だろ。年に一度しか来ない奴らなら二倍で惑わせておけばいい」
 ウィンはティームとは逆にサロンへ行ったばかりだった。ウィンも今の髪型が自分の中で定着しているので根元を染めて傷んだ分だけ毛先をカットしていたのだが、今回は思いの外短くなっていた。ちょうど一つに括るにも手間取っていたところである。
 徐に濡れた前髪を真ん中で分けて、手櫛でそれっぽく整えてみる。今だに下着一枚だけでティームと会話を続けていたので、バスルーム脇のクローゼットから置きっぱなしのティームの部屋着を引っ張り出して手早く身につけた。
「どうだ?」
 そして目をまんまるく見開いて固まっていたティームに腕を広げて、刮目せよと顎をしゃくる。
「どうと、申されましても」
 ティームの口から揶揄う時にしか出てこない敬語がまろび出て、思わずふはっと噴き出してしまった。
 それもそうだ。幼なげなセンター分けの髪型とファンシーな動物のプリントTシャツを着ていたとしても、声も態度も普段のままのウィンなのだ。黒い丸い目が胡乱げに眇められるのを見て、ウィンはふむと考え、そしてまだ制服のままだったティームのシャツの裾を両方の手でむぎゅりと掴んだ。
「え、なに?」
 極めて精度の高い記憶力と日々の反復学習を駆使し、簡単に脳内で思い描くことが出来る映像を表情筋と声帯へ送り込む。
 顔の中心にパーツを寄せて顎を上げ、声は同級生と喋る時よりちょっと鼻から抜いて気持ち高めに。
 腹が減り始めると無意識のうちに甘えてくるんだよな。
「〝ヒウカーオ、ヒア~〟」
「みぃー!」
 我ながら再現率は高かったとウィンが心で大きく頷いている間にオリジンは動揺で声と身体を大きく跳ね上げた。なかなか聞いたことのない鳴き声を放ち、ティームの顔がぼわりと染まる。
「ちょっ!! っっっとぉ!!」
 それはどういう反応なんだ。
 ティームの制服から手を離して表情もニュートラルに戻したウィンが見下ろす先で、黒髪の若侍は手の甲でごしりと頬を擦った。
「おれ、そんな甘ったれた声出してない! 可愛こぶりっこすんなよ。見て、鳥肌立ったじゃん」
「俺から見たお前をそのまんま再現してやったんだよ。似てたろ。なんならパームとマナウにジャッジしてもらうか」
 その時はもれなくディーンもいると思うがこの際目を瞑ってもらおう。
「だめだめだめ! 他のやつの前で絶対やるな。その人が狂っちゃうだろ。それにディーン先輩が見たら救急車で緊急搬送されちゃうよきっと」
「こら、どういう意味だ」
 ウィンは眉根を寄せて、同じく顰めっ面になっているティームの広々と晒されている額を中指の爪で弾いた。いつもより当たり判定の広いそれに、痛い! と大声を出す子供をよそにハーフパンツを脱ぎ捨て自分のスウェットを履く。上も何も着ていない状態になって、やっと本来のシャワー上がりの自分になった。
 鬱陶しい前髪をかき上げて、鏡に向かってくっきり付いた色気を全く伴わないウィンからの跡をしきりに撫でて消そうとしているティームの後ろ姿を眺める。
 髪を括っている以外は普段と変わらない。ウィンを知らない人々からしたらティームのしていることがハロウィンの仮装だとは思いもしないだろう。
 いつの間にかぼんやりとしていたのか、ティームが肩越しに振り返ってこちらを見ていた。なんだよと眉を上げて訊ねてみれば、ニンマリといたずら好きがそのまま出た笑顔を浮かべた。
「仮装のテーマがウィン先輩だなんて、先輩が一緒の時じゃないと意味ないからね。今年はもうこれで決定」
 この子供は時折こうしてウィンの奥にある柔らかいところへと一直線に手を突っ込んでくる。それが計算でもなんでもなくて、食べ物の匂いを察知するのと同じくらい鼻が利くのだ。
 課題が終わったならシャワーを浴びろと言ってもいつまでも鏡の前で髪ゴムを解こうとしないティームにウィンは密かに口元を綻ばせ、心で温まったため息をふっと吐き出した。
 
 
 
 自分はティームに甘い。そして楽しいイベントはとことん楽しみたい性質だ。
 ソンクラーンの時に大容量のタンク付き水鉄砲をティームに背負わせた男は、自分の肌に墨を入れた彫師に連絡して同じデザインのタトゥーシールを用意した。位置を決める時に使ったシートを残しておいてもらっていたのを思い出したからだ。それを知ったティームは顔を輝かせて、その勢いでフェイクピアスを買いに行かされた。似たデザインを選びながら、耳が痛い、ずっとは付けられないと口をへの字にしてぐずり始めたので無くてもいいんじゃないかと言ったところ「ピアスは先輩のアイデンティティの一つだから出来るだけ付けたい」となかなかに的を得た主張をされた。それが嬉しくて一人でも取り外せる簡易的なものを選んであげた。
 ハロウィンの前々日に、もっちりしたティームの雪肌にタトゥーシールを貼り付ける。最初はアウトラインが薄く見える程度だったものが一日経つとくっきりと墨色を浮かび上がらせた。
 ハロウィン前夜のシャワー上がりにパンツ一丁でバスルームから出てきていつまでも鏡の前でくるくる回るティームは、ウィンの目には不思議な生き物に映った。ティームなのに自分と同じ模様が入っている。
 ひとつひとつ、自分がタトゥーを入れた時の気持ちを少しだけ懐かしく思い出しながら、白い肌を湯上がりとテンションの高さでほんのり色づかせ色濃い墨色とのコントラストを見せつけてくる半裸の恋人をじっくりと眺めた。
「すごいすごい。身体の上にずっと先輩が居るみたい」
「お前なぁ……言い方ってもんがあるだろ」
「ん? なんか言った?」
 綺麗、かっこいい、と黒目をキラキラに輝かせて明日まで絶対にこの状態をキープしたいと眩しい笑顔を部屋中に振り撒くティームにウィンが敵うはずもなく。テカリ防止のベビーパウダーを全てのタトゥーにはたくだけに留めてあげた自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいになった。
 
 
 
 
 ハロウィン当日。
「うげぇえええ」
「ぎゃああああ」
「ひいいぃいっ」
 朝から経済学部棟を小さくざわめかせていたさざなみは、太陽が月と共に西へと傾く夕暮れ時には今日という日に相応しい断末魔となって水泳部の更衣室に響き渡った。
 中にはハロウィンはお菓子を交換するイベントだと思っていて買い込んだ菓子でパンパンになったビニール袋をるんるん気分で持ち込んだのに、あまりの恐ろしさに床に落としてしまった者も居た。ティームは食べ物を粗末にする音に眉を顰めたが、それがまたプールサイドに現れる彼らのよく知る悪魔に仕草がそっくりで、ますますハロウィンにぴったりの悲鳴が上がる。
 今日は朝から制服も靴もリュックも交換していたが、制服を着ている時よりも予想を上回る賑やかな反応に、仮装をした子供はこれが聞きたかったと満足げに頷くと震える同期達を置いて機嫌良く更衣室を出ていった。仮装のクオリティを上げたいとかで、身に纏っている水着もゴーグルもウィンのものである。勿論ストックしていた新品のものだがウィンとティーム以外の知るところではなく、その親密さがまた一層彼らの肌に怖気を上らせて鳥肌を立たせていた。
「ティーム、今日あのまま泳ぐ気なんだよな……
「やばい。隣で泳いでたら間違えて絶対ビビる」
「今日のタイムは無かったことにしたい」
 そのうち衝撃から脱却した何人かが細々と言葉をこぼし始めた。ざわり、ざわりと更衣室の空気が不穏に揺れる。プールサイドと更衣室を隔てる隙間、固まった後輩たちのすぐ後ろの壁にもたれ掛かって様子を見ていたウィンは、場の空気がひと段落ついたことを見越してのんびりと声をかけた。
「お前たち、突っ立ってないで早く着替えろ。それに泳いでる時に隣にいるやつに自分のタイムをコントロールされるな。集中しろ。今日はアレで特訓しとけ」
「は、はい! すみません、ウィンせんぱ……
 一応、念のため、どうなるか想像がついていたから出来るだけ平坦に声をかけた。同期の気合いの入った仮装ではなく正真正銘ご本人様の登場を声だけで察したいたいけな後輩達はもう一段階ぴゃっと宙に浮き、既に身についている条件反射の返事を口にしたまま振り返ると、今度は石のように固まってしまった。見事なまでの石化だ。
 なんでだよ。お前たち、合宿で見てるだろうが。
 あの時はピアスはしたままだったがシャワーを浴びた後は髪を括っていない。別に初めて見たわけではないだろうに、ここまで衝撃を与えてしまったのはティームの仮装の後だからか。
 強豪校の水泳部員たちは察しがいい。片や天然素材に爆盛りで装飾し、片やアイデンティティは金髪だけ残して他を全て隠してしまっている。その金髪だってセンターで分けられ、すとんと落としているだけのシンプルさ。ハロウィンって人間みたいな顔をして人間じゃない何かがウロウロする日だったっけ、と身体は動かないまま思考の深層部分でイベントの認識をアップデートした。
 ウィンはふっと小さく息をつくと、もう一度いつも以上に身体が強張っているであろう石像たちへ「着替えたらしっかり準備運動しろよ」と言い残して、今度は競技会でもないのに普段の倍は落ち着きのないプールサイドへと足を向けた。
 そちらは既にディーンが鎮座しており更衣室のようなダイレクトな断末魔は上がってはいなかったが、そのディーンに眼光鋭く睨まれてギャラリー席から退場させられない程度の音量とカメラのシャッター音が聞こえていた。目を上げれば、いつもの場所で身体をほぐしているティームがいる。音の出どころも彼のすぐ近くからで、いつもは思い思いの席に座っているギャラリー達のほとんどがみちっと一区域に集結していた。その中にはウィンと顔見知りのファンページのマスターも数人含んでおり、後でページに載せる写真の査閲についての連絡をしようとウィンは脳内のタスク表へと書き込んだ。
 上機嫌な子供の邪魔はしたくない。可愛い写真ならいくらあってもいい。でもウィンの愛情をたっぷり受けてのびのびと育つ身体はこんな時とても厄介だ。泳ぐことへの心の負荷をすくってくれる存在が、ティームをどんどん早く泳げる身体へと成長させている。美しい水着姿は水泳選手として誇りを持っていい。そして今ティームが行っている動きはウォーミングアップなのだから身体を縮こませていたらどうしようもない。分かっている。見れば分かる。
 上体を前屈させたり反らしたり、腰を捻って背筋を伸ばしたり、長い腕を上に持ち上げて脇腹を大きく晒してみたり、手をぶらつかせて腕をしならせてみたり。その全ての動きにウィンの貼り付けたタトゥーシールがぴったりと寄り添い、ティームの健全な筋肉と滑らかな肌に何とも言えない絶妙な陰影を創り上げていた。
 身体だけではない。キャップをかぶるまでは何かと目元を隠しがちな濡れた黒髪はまとめて括られていて、例の伏せ目や瞼が全部上がった時の黒目の強さがダイレクトに出てしまっている。濡れてワックスの効果が取れた黒髪がこれまた計算されたように細くひと筋だけ青年になりたての瑞々しい精悍なかんばせに垂れているものだから、普段はティームに見向きもしない勢までもセルフォンのレンズを向けている有り様だった。
 くそ、今すぐ自分の着ているベンチコートを頭からすっぽり被せてやりたい。
 でも、それでも。
 ウィンの心の天秤はまだティームの楽しそうな姿に傾いているので、ゆったりとした歩みを変えずにティームの横を通り過ぎる際に「ハロウィンだからってはしゃいで柔軟テキトーにすんなよ」と小言だけ言い置いて、ベンチに座るディーンの隣へどかりと腰を下ろした。
 自然と漏れ出る細く長いため息に、五年以上の付き合いになる親友は部員の記録表から顔も上げずにボソリと声をかけてきた。
「あっちが小鬼で、お前はメデューサか?」
「あいつが自分で言い出したんだ。可愛いだろ」
 こちらも視線は入水を開始した後輩たちの中へとやったまま、声にはたっぷりの自慢の色を含ませて答える。ふんとひとつ鼻で笑っただけのディーンはディーンで、恐らく料理部に寄ってから来たのだろう。ウィンへの第一声が小言ではなく揶揄いの言葉だったのが機嫌の良い証拠だ。大方、パームの作るハロウィンイベントのお菓子をイチャつきながら食べるついでに部室まで送り、準備の手伝いをして、水泳部への差し入れを持ってきたというところか。ディーンの隣に置かれている茶色い紙袋をチラリと見やれば、ジャックオーランタンや白いお化け、コウモリの形をしたルークチュップが大きなタッパーに入っているのが見えた。
 これは小鬼が大喜びする。喜びすぎてお菓子がなければイタズラするという選択肢は頭から無くなるな。
「いいのか?」
 姿かたちは変わってもティームの本質は色気より食い気の食欲魔人だ。小ぶりなルークチュップを摘んで目を輝かせながら口がぽかんと開いてしまう恋人を頭に描いて更に口元を緩めるウィンに、今度は緑がかった灰色の目がこちらを向いていた。
「いいだろ。コーチもいない自主練デーだ」
「そうじゃなくて、公衆の面前で晒していいのか?」
「本人がやりたいって言うんだ。止められるか? お前はパームが〝ディーン先輩のコスプレがしたいです〟ってキラキラした目でお願いしてきても断れるか?」
「は?」
「お前のコスプレって言ってもあんまり装飾がないからなぁ……あのふわっとした髪をストレートに伸ばして前髪重くして、ネクタイ抜いてボタンを一つ二つ外せば出来上がり」
 逆にディーンは髪をくしゃくしゃにして一年の時のようにネクタイ締めれば出来上がり。二人の間に身長差こそあれ、身に纏うスタイルや雰囲気に大きな差がないから自分たちほど衝撃はなさそうだ。ウィンの目から見れば、親友が恋人と並ぶ姿はまるで前世からそうと決まっていたかのように最初からぴたりと嵌まっていた。ずっと探していたと言うだけのことはある。それも最近は互いの空気が混じり合い、仕草や言動まで似てきたようにも感じる。
「制服じゃつまんないな。パームが競泳用の水着を着るとかどう?」
「死にたいのか」
「やっぱり駄目か」
「制服のボタンを外すことすらさせたくない」
 最も差が出る部活姿ならと思ったが、水泳部のモンスターの一角を務める男はあたりを焼け野原にしそうな目つきでウィンを睨め付けた。恋人の肌を何としても見せたくないと。ディーンの天秤はそちらに傾いているようだ。だからこその先程の問いかけだろうが、こちらは二人とも水泳部員だし露出がどうというのは今更すぎる。
「俺はティームが楽しければそれで良い」
……お前がそう言うなら」
 元々ディーンには興味の薄い話題である。低い声がさほど力を入れずに呟いた言葉を聞き流して、ウィンは一番手前のコースで折り返してきた翼の生えた白い背中をうっとりと眺めた。
 水を掻き出す腕の墨色も、大きく回る肩のそれも、水気を含んでしっとりと色を濃くしている。背中の翼は大鷲のように悠然と躍動し、ティームの泳ぎがいつもよりダイナミックに見えた。肌と水の抵抗を少しでも無くすために産毛すら剃るスイマーがタトゥーシールを肌に乗せて泳ぐなど、ハンデになる可能性もあったのに。今のティームはものともしない。
 他のコースの誰もまだ帰ってこないうちにティームはプール脇にあるペースクロックへと顔を向け、スタート台にいる記録係を振り返ってタイムを聞いていた。ゴーグルを付けっぱなしの顔の、唇が大きく横に広がる。
 あれ?
 あのぽってりとした唇は確かにティームのものなのに満足そうに浮かんだ笑みに小さな引っ掛かりを覚えた。画素の荒い集合写真の中で自分を見つけた時のような、曖昧な自己認識。
 ぴくりと眉を震わすウィンの耳にディーンの声がさらりと滑る。
「ウィン。あれでもか?」
「何が」
「ティームから見たお前を、ティームが晒してるぞ」
 どういう意味だ、と。親友の発したタイ語に聞き間違いがないか確認する為に振り向こうとした顔は、しかし真正面を見据えたまま動かなかった。
 いや、動かせなかった。
 ティームがプールの縁に両手をついて、浮力と腕の力でひとおもいに水から上がる。ザバリと大量の水が重力に従い流れ落ちる身体は白磁器のように湿度を含んだ艶めきを纏い、濡れた黒髪とタトゥーは黒瑪瑙の如く、傾き始めた夕日の暖光をもってしても白と黒のコントラストを強めた。ゴーグルを外し首に引っ掛けたティームがこちらへとやって来る。手の先やつま先からポタポタと雫が滴りプールサイドを濡らす。真っ直ぐこちらを見据える遮るもののない目尻のまつ毛からも、薄く開いた下唇の中心からも、ぽたりぽたりと雫が落ちて、ウィンにはその全てがなぜかはっきりと見えた。
 だからすらりと長い腕が持ち上がり手の甲を使って顎のラインを拭う様子だとか、その腕が振り下ろされて水気を鋭く切るところとか、目の前に立ちはだかった男がこちらを見下ろしながら楽しげに唇についた塩素水を赤い舌でペロリと舐め取っていく動きを、構える暇もなく差し出されるままに受け取ってしまった。
「〝鼻の下伸びてるぞ。見惚れてないでお前も泳げ〟」
 鼓膜をくすぐるような微かな笑いを含んだ低い声が紡ぎ出した色は、だがしかしその人物がすぐに浮かべた満面の笑みで霧散していった。元々長くは持たない、ただ瞬発力だけはやたらと高い擬態である。
「へっへー、なんてねー! 先輩の真似、プールでやるとますます似てるでしょ」
「ティーム」
 耳鳴りがしそうなティームの温度差に口を開いたのはディーンだった。ティームは小首を傾げ、口元に笑みを残したままディーンを見下ろす。フェイクピアスを全て外した耳たぶからも水滴が落ちた。
 ウィンは凪いだ湖の水底からぼこりと大きな気泡が湧き上がった振動を体内に感じた。ひとつ上がれば後はひっきりなしに気泡は湖面へ浮かぶと弾け、ざぶざぶと湖面を揺らす。それはウィンの口角を左右対称に綺麗に上げさせ、くっきりとした二重の眦を大きく開かせた。瞳孔が縦になりティームをとらえる。
 なるほど、これはいけない。魂が呼応する。
 親友の静かな声が少し早口になった。
「限りなく本物に近い仮装はな、揺り起こすぞ」
「へ? 何をですか?」
「〝本物〟を。まぁ、もう手遅れだろうがな」
「上等だ、ティーム」
 そのディーンの声に重ねたのは湧き上がる高揚感でぐるりと鳴った喉奥からの唸り声だった。大きな手でベンチコートのジッパーを引き下げ、ゆったりと〝本物〟が立ち上がる。
「え? え?」
 青と白のポリエステルに封印されていた墨色が肩、腕、背中と次々に現れては昼と夜の間の陽を受けて目を覚ます。ヴァルクヌートとトライバルが施された腕がティームの頭の後ろに回り、くんと結び目を引っ張った。
「うわっ!」
 いとも簡単にティームの健全な黒髪がばらりと垂れ、首から上が人間の子供へと戻る。黒い髪ゴムは主人の長い指で金髪を束ねて元の場所へ。勝ち気な眉と目尻が露わになり、そこに浮かぶ獰猛な色にティームから「げぇ!」と大変正直な鳴き声が上がった。
「お望み通り泳いでやるよ。勿論お前が付き合ってくれるんだよな」
「せ、先輩! おれはほら……皆とタイム測んなきゃ」
「大丈夫大丈夫。俺と泳ぎながら測った方がお前のタイムも縮まるだろ。俺より早く泳げたらおしまいにしてやる」
「おい嘘だろ! なんだそれ」
「言うこと聞くって約束、忘れてないよな?」
 回した腕でそのまま羽交い締めにしてティームが濡らしてきた道を戻させる。ぴゃっと逃げ出さないように首根っこを締めたが、ティームに効いたのは自業自得の口約束だった。動きが鈍くなった腕の中の黒い毛玉をもう片方の手で褒めるついでにぐしゃぐしゃに掻き回す。結い癖は跡形もなくなった。
 そしてプールサイドで測定を終えた部員たちがタトゥーまみれの身体の持ち主が二人に増えて近づいてくるのを見て固まる中、ウィンは大きな口を地獄のふたのようにぱかりと開いた。
「聞け、お前たち! 今日は料理部からハロウィンの特別な差し入れがある。俺に勝ったやつから食え。個数制限なし!」
「わぁい、って……えええぇぇえ?!」
 飴と鞭を両方いっぺんに落とされてプールサイドは野太い声で騒然となる。一方ギャラリー席は死角のベンチから〝本物〟が眷属のように同じ模様の後輩を付き従えて(実際は首根っこを掴まえて)突如現れたことに黄色く沸き上がった。
 多くのざわめきが波打つ中、すぐそばからぼそりと聞こえた「悪魔め……」という苦しげな低い声がウィンの耳には一番心地よく響いた。身体の奥底から溢れる感情のまま唇を大きく横に引けば、それを見たティームの喉仏が大きく上下してゴクリと唾を飲み込んだ。
「最近タイムが落ちてるやつも多いからな。これで少しは自己ベストの更新もできるだろ。ほら、横に並べ。俺より先に戻ってきたやつから抜けろ。負けたら列の一番後ろに並び直せ」
 ティームの首から腕を離し、顎をしゃくってテキパキと指示を出す。ゴーグルを頭にかけて軽く肩と足首を回して身体の末端まで意識のコントロール下におく。
 バタバタと第一泳者がスタート台に登るのを見やり、ウィンは部員の列に紛れ込んだ炎のタトゥーの火先が見えている腰を掴んで列の外へと引っ張り出した。
「ティーム、お前は一人で俺の隣のコースだ」
「おおおい! どれだけ泳がす気だよ」
「どれだけ泳ぐ気なんだ? エース」
 ゴーグルを目に装着してスタート台に立てば、煽られた負けず嫌いが恨みがましく細めていたジト目を勝負に挑む色に染め直して同じデザインのゴーグルでその目を覆った。
「くそ、なんでこんなことに」
「今日はハロウィンだろ。それも今は昼と夜の境界だ。ようこそ悪魔の宴へ。呼び出してくれてありがとう、ティームくん」
「呼んでないし! ウィン先輩はおれの仮装だっただろ。こうなったら一周で終わらせて、おれもいつも通りパームのお菓子を食い尽くしてやるからな」
 スタート台の上でいつまでもこちらを向いてぷっくり膨れている人間の子供に、くくっと喉奥で笑いを噛み殺す。恋人になってからというもの随分と受け身になってやんちゃな子供にイタズラされても飴を差し出していたが、つつけば暴れるティームで遊ぶのもまだまだ楽しいものだ。
 いつの間にかホイッスルを手にスタートラインへ立ったディーンがよく通るバリトンで位置につくよう号令をかけた。集中しろとティームに向かって顎をしゃくれば、小さく舌を出してから真正面を見据える。
 背中の黒い翼が早く水を従えたいとひくりと動いた。今日は誰にも負ける気がしない。
 ホイッスルの音と同時に飛び出した自分の模様が入った男を視界の隅で捉えて、ウィンも心底楽しいと笑いながら大きく羽を広げて水の中へと飛び立った。
 
 
 こうして魔力が高まるハロウィンの日に力を得た悪魔は、埒があかないとディーンが声を上げるまで誰もルークチュップに辿りつかせなかった。悪魔はもともと体力お化けでもある。ケタケタと笑い、プールサイドでアザラシのように伸びている部員たちを尻目に可愛い顔をした白いお化けのルークチュップを見せつけながら前歯でゆっくりと噛み切った。一番足元の近くにいるアザラシだけは水揚げされても活きが良く、両手で地面をベチベチ叩いて悔しそうに見上げてくる。それでも立ち上がるにはまだ時間がかかりそうだった。
 ウィンは後に、このジタバタしているティームを望遠レンズでとらえた動画をファンページから保存した。ハロウィンの日に現れた同じ模様が入った不思議な生き物として、次の年の同じ日に一人で何度も見返す為に。
 自分とかけ離れたティームらしい動きをする墨色のタトゥーが可愛くて仕方なかった。
 ファンページにはこの動画の他にもこの日のティームの写真や動画が上がっていた。ネクタイをしていない制服姿はタトゥーが隠れているが露わになった耳に沢山のフェイクピアスが付いている。水着姿はピアスはないがタトゥーが全て拝める。どちらのティームがよりイケているかという論争が、部活が終わった後から夜にかけて繰り広げられていた。
 翌朝そのログを見つけたティームも、自分が気に入った写真を保存していたのをウィンは知っている。なにせ自分達のセルフォンにはティームの仮装の全貌はほぼ残せなかったのだ。ベビーパウダーをはたいてあげた同じ指で今度は擦って揉んで揺さぶって、摩擦に弱いかりそめのタトゥーのあちこちを剥がしてしまった。ピアスも一つ一つ焦ったいくらいゆっくりと口で外してやったものだから、耳がずっとウィンの歯で噛まれているような気がしてもう何も付けたくないとむくれていた。
「気に入ってたのにさー」
 そう言って唇を突き出すティームの前に目玉焼きを二つ乗せたプレートを置いてやり、ウィンも向かい側に座りながらふんと鼻で息をついた。
 運動した翌朝の目玉焼きはいつも二つにしている。そのティームの皿に自分の皿のウィンナーを一本追加で乗せた。プールでくたくたにしただけでは満腹にならなかった体力おばけの〝延長戦〟に果敢にも立ち向かったエースへの健闘賞である。
「ハロウィンの仮装なんだから、当日以降いつまでもあんな魔物でいたら駄目だろ」
「あんなって、先輩の仮装だよ。自分で悪魔だって認めたな」
「違う。俺じゃない。お前だ、お前」
 そう、あれは確かにティームが魔物だった。自分は引き摺り出されただけ。ディーンの言ったことは正しい。
 納得いかないという顔でトーストを齧るティームにウィンナーを突き刺したフォークを差し出す。そのままゆっくり左右に振りながらティームの嚥下が終わるのを待って口先へと持っていった。
「とにかく今日は仮装の必要がない日だ。元の子供に戻って、飯を食ったら出かけよう。クラトンは流石に早いか。ハロウィン終わりの菓子のセールはやってるかもな」
「行く行く!」
 料理部のルークチュップを満足に食べられなかった食欲魔人の顔が途端に輝きに満ちて、にへらと笑いながらウィンの話題とフォークにパクリと食いついた。唇を突き出して幸せそうに咀嚼する。
 同じ魔物でもこっちの方が断然良い。
 ティームの動きに合わせて額の上で括った前髪がぴこぴこと揺れた。食べる時に邪魔だと言うのでウィンが括ったそれはこれからサロンへと切りに行く。
 根元をキュッと締めた分パイナップルのように毛先が広がっていて、なんとも幼ない様にウィンは満足げに笑いながらふわふわと手のひらでたわませた。