しお
2025-12-17 01:09:16
4113文字
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ささろ 2回目の風呂

付き合ってないのに一緒に風呂に入ったささろが、その後いろいろあって付き合ってからまた一緒に風呂に入った話

「ろしょ~!」
 入浴中のはずの簓に、名前を呼ばれる。少しエコーがかかったような響きは、おそらく浴室の中から声を張り上げているからだろう。
 テレビを見ながらスマホをいじっていた盧笙は、億劫な気持ちを押し殺して立ち上がった。テレビに映っているバラエティは、簓の登場するコーナーが終わった後も惰性でつけたままにしていただけで、スマホも特に用事や目的があった訳ではない。一方で簓の方は、何かしら盧笙の協力が欲しくて呼んでいるはずだ。
 週末の夜、飯とビールとプリンを腹に収めた後の微睡むような怠惰は心地よい。いつまでもその中で蹲っていたくなる気持ちをなんとかリビングでふるい落とし、盧笙は洗面所兼脱衣所を覗く。さらに奥にある浴室のドアは少し空いていて、簓が向こうから顔を覗かせていた。
「何や?」
「なあ盧笙、今から風呂入らへん?」
「今から?」
 盧笙は瞬いた。てっきりタオルだとか下着だとか、そういうものを持ってくるのを忘れたから取ってくれ、と言われるのだと予想していた。タオルだったら洗面所に置いてあるからすぐ出せるが、もし下着を持ってこいと言われたら少し面倒だ、簓が勝手に置いていった下着の中のどれを持って行っても、簓が余計なコメントをしてきそうで。そんな先回りの思考が、完全に無駄になった。
「せや、今から。ほらこれ! 見て!」
 目を丸くする盧笙の前に、簓が手を差し出してくる。手のひらにはとろりとした乳白色の液体が載っていて、盧笙は数か月前の出来事を思い出した。数か月前、まだ簓と付き合う前。付き合うどころか、簓が恋愛対象になりうるとすら全く考えていなかった頃、同じようにして盧笙が簓を風呂に誘ったことがあった。あの時と同じシチュエーションを、簓は逆の立場で再現しようとしている。
 思惑を察した盧笙は迷うことなく頷いた。
「わかった」
「え!」
 展開の早さに簓の方が驚いている。盧笙は平坦な声で答えた。
「断る理由もないやろ、今さら。準備してくるから身体冷やさんようにして待っとき。……ああ、せや」
 洗面所から出ようとした盧笙は足を止め、傍らの棚に手を突っ込んだ。しばらくごそごそやってから、目当てのものを取り出す。スーパーのサッカー台に備え付けてある薄いビニール袋に覆われた、何の変哲もないタオルには手書きで『ぬる』と書かれている。
「これ使うか?」
「へ? 何それ」
 簓に向けて『ぬる』を見せつけるように、袋に入ったままのタオルを掲げる。数秒の後、簓は弾かれたように笑った。
「いらんいらん! それこそ今さらや!」
 それに対する返事を、盧笙はどうしても発することができなかった。無言で頷き、取り出してきたあたりにタオルを捩じ込んで洗面所を出た。


 盧笙が浴室に足を踏み入れると、簓はシャンプーを載せた片手を掲げて湯舟に浸かっていた。自由な方の手を振り、にこやかに盧笙を迎え入れる。
「いらっしゃい~」
「『お邪魔します』て言わせろや」
「『帰って~』言うて帰られたら嫌やもん」
「帰るも何も、ここ俺んちや」
 上機嫌な簓が風呂椅子を指差す。大人しくそれに従って椅子に腰かけて、ついでにシャワーを手に取った。ハンドルを捻ると、ぬるい水が降りかかってくる。濡れたところが肌寒く感じたが、しばらく浴び続けているうちにどんどん温度が上がってくる。
 目を閉じて頭から湯を浴びていると、ざぶんと湯舟の水面が揺れる音がした。背中の方からほのかな熱を感じる。シャワーを止めて目を開くと、盧笙のすぐ後ろに簓が立っていた。
「髪、俺に洗わせてくれん?」
 許しを求める口ぶりの割に、簓の指は早くも盧笙の髪を梳いている。盧笙は、ふ、と小さく息を吐いて肩を力を抜き、簓の指を受け入れた。
「ええで」
 許可を出すとすぐ、髪に簓の指が絡みついてくる。頭を撫でるようにシャンプーを広げ、爪を立てないように気をつけながら揉みこむように泡立てていく。嬉々としてマッサージの真似事をする簓を鏡越しに見ると目が合った。いつもより緩んでいる簓の目尻が、視線がぶつかった瞬間にさらに緩むのを盧笙は目撃してしまった。
「お客さん、どないです~? 痒いところはありませんか~?」
「泡を顔に飛ばすな。目に入る」
「せやったらもうちょい顎上げて、上見て」
 言葉と一緒に、簓の手が後ろから伸びてきて、盧笙の顎の下に滑り込む。泡のついていない手の甲が顎に添えられ、持ち上げられる。されるがままに上を向くと、浴室の照明が視界に入って眩しかった。光を避けるために瞼を下ろす。
 簓は頭皮マッサージを止め、額から後ろに髪を流すように動きを変える。額の辺りを指の腹が撫でていったのは、泡を拭ってくれたのだろうか。
……なあ、簓」
「なに~?」
「生え際のあたり、ちょっと強めにやってくれへん?」
 リクエストするとすぐ、生え際に指が差し込まれる。強めに押しつけられた指の腹が、ざりざりと生え際をなぞっていくのが心地よくて、盧笙は細く息を吐いた。
「これ好きなん? 前ん時、俺にもやってくれたよな、こういうん」
「ん、ああ」
 前回を再現するように頭皮を撫でる簓の質問に、肯定のようなそうでないような、曖昧な返事で答えた。簓に対してやったのはただ髪を弄んでいただけで、髪を洗ってやろうとしたわけではないが、生え際あたりを強めに擦るのが盧笙の普段のやり方なのは合っている。半分正解、ということで済ませていいのではないかと思う。簓もそこまで追求したいわけではないようで、深くは聞かれなかった。
 盧笙の頭のてっぺんの方から、上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。簓は基本的に機嫌がいい、というよりはほぼ常に機嫌がよさそうに振舞うが、今この時は掛け値なしに上機嫌なのが目を閉じていても肌にびしばし伝わってくる。
「自分、なんでそない楽しそうなん?」
 ぐりぐりと頭をいじくられながら、上を向いているせいで狭まっている喉を押し開いて尋ねる。歌うように簓が答えた。
「前ん時と全然ちゃうな~って、噛みしめとんねん。ようここまで来たな、って」
 簓の手が額から後頭部に向かって、髪を軽く引っ張るようにぐうっと撫でつけていく。
「あん時、まるっきり脈ないのがわかってもうて結構ショックやってんで。まあ、あのお陰で腹括ったとこもあるけどな」
 それを言われると、盧笙は何も言えなくなる。あれから今日に至るまで、簓との間に起こった変化を盧笙も自分自身の体験として知っているから、スタートとゴールを見比べることはできる。その時の簓の内面は知らずとも、振り返った道のりの高低差から、簓がどれほど努力したのかは察せてしまう。
 簓の左手が髪を離れて、盧笙の喉の膨らみを撫でた。言葉として舌に載るずっと手前で蟠ってしまっている盧笙の内心を探り当てるような手つきで触れられて、無意識に喉に力が入る。僅かに上下した喉仏にはおそらくシャンプーの泡がついてしまっているだろうが、それに対する文句ですら、出てきそうにない。
「な、そろそろシャンプー流すから、もうちょっと上向いてくれへん? 後ろで支えるから、体重かけてええで」
 背中に肌が触れる。おそらく肩か、胸か、そのあたり。促されるままに喉を反らせてさらに上を向くと、盧笙の瞼に降り注いでいた照明が何者かに遮られる。
 気づくと、唇に柔らかいものが押し当てられていた。ほんの一瞬だけ触れた感覚に思わず目を開くと、上下逆さまの簓の顔がゆっくりと遠ざかっていくところだった。近すぎてぼやけていた輪郭がはっきりと像を結ぶのを見つめていたら、もう一度、喉仏を撫でられる。
「そんな顔せんとってよ、これ以上ここでは何もせんから安心し。盧笙んちの風呂狭いし、お湯の温度も熱めやし、怪我したり逆上せたりしたら危ないからな! さ、流すで!」
 そんな顔ってどんな顔や、と問い詰めるより先に、視界の中で簓がシャワーを構える。慌てて目を瞑って備えると、すぐに温かいお湯が降ってきた。髪の間を通り抜けていく水流の感触は心地いいが、顔全体に細かい水滴が飛んでくるせいで目も頬も鼻も口もびしょびしょに濡れてしまった。
 やがてキュ、という音とともにシャワーが止まる。盧笙が両手で顔を拭い、水気を払っていると、再び簓の腕がするりと首に巻きついた。喉仏のあたりを払うような動きは、おそらくさっきつけた泡を落としてくれているらしい。シャンプーをしてもらうのも悪くなかったし、礼を言おうと盧笙は口を開きかけたが、それよりも早く簓が動く。
「今度は俺んちで一緒に入ろうな。白膠木家の風呂はぬるめ、やからな!」
「いやお前それ……
 駄洒落に気を取られた隙に、頬を撫でられ、こめかみあたりに唇を押し当てられる。急に密度の上がった雰囲気にぽかんとしてしまい、意味を理解するのに時間がかかった。
……こんアホ!」
 咄嗟に風呂椅子から腰を浮かせながら振り返り、怒鳴りつける。しかし簓は既に磨りガラスの向こうへ逃げた後だった。盧笙は感情のぶつけ先を失い、大きく腕を振りながら風呂椅子に座り直す。顔を上げると、鏡の中の人物と目が合う。
 鏡の中の強面は、目を険しく吊り上げているにも関わらず、顔を赤くして口元を緩めるという複雑な表情を浮かべていた。しかも間抜けなことに、首に何やら白いものがついている。虚像を頼りに指先で首を撫でると泡がついた。どうやら簓が払ってくれたのは喉仏の上側だけで、膨らみの下の方までは届いていなかったようだ。
 指先の泡を見て、鏡の中の男はさらに口元を緩めている。そのだらしない顔をこれ以上見ていたくなくて、盧笙は鏡に向かって思い切りシャワーを浴びせた。狙い通り、虚像の輪郭は鏡の表面を伝う水流に溶けてぼやけたが、赤く色づく肌の色は、盧笙が鏡の前にいる限り消えない。
 もしも本当に眼鏡が必要になるくらいに視力が悪かったら、鏡に映った自分の顔も、さっき見上げた簓の表情も、はっきり目の当たりにせずに済んでいたのだろうかと、どうしようもないことを考えた。