「謝りに来ました」



 招待状を持ってやってきたドラゴンタイプを扱うメイドが言うには、「決してお断りになりませぬよう」とのことだった。そんなに重大なものなのだろうか、と薔薇の香りがする招待状をしげしげと眺める。ほんのわずか、その香水の匂いに混じって嗅ぎ慣れた香りを感じた。
 ──これはなんだっただろう、と思い出す間もなく、シュールリッシュに辿り着く。歩けば広いミアレの街も、慣れてしまえば元より健脚な自分にとって散歩のようなものだった。わたしはドアマンに伺いをたて、招待状を見せる。すぐにロビーへ案内され、ソファで待つよう伝えられる。相変わらずみすぼらしい格好を指差されるが、そんなことはまるで自分の耳に入らず、鼻の奥に残るわずかな香りがなんであったかを懸命に考えた。
 どうして引っかかるのか。わたしにとってそれはなんなのか。
 まもなくロビーに案内人がやってきて「こちらです」とエレベーターに乗るよう言われる。長い廊下、沈み込むような絨毯じゅうたんを歩き、大きな扉を開ければ、そこに立っていたのは招待状を持ってきたメイドと、オーナーらしき女性だった。女性はにこやかな顔をいっさい崩さず、むしろわたしに会えた途端両手を顔の前で合わせて「お待ちしておりました!」と歓迎の姿勢だ。
 彼女のことを、記憶から辿たどってみる。つい先日ユカリトーナメントという名義でキョウヤくんたちを呼び、ジガルデがその波長を嗅ぎつけここへ来ることができた。ジガルデの意思は強く、この街の秩序と安寧を守るためにキョウヤくんを試した。あのとき、わたしはただの代弁者で、四足歩行のジガルデの頭を撫でながらゆっくり後ろをついていけばいいだけだった。
 ──それなのにこの女性、ユカリさんが求めたのはジガルデとの戦いではなく、わたしとの会合だと言う。
「腑に落ちませんね」
「あら、あなたにも勝負を求めてはいけなくて?」
 あっさりとした物言いに、わたしはため息をつく。メイドの女性が神妙な顔つきでわたしを見た。見た、というより、睨んでいるという方が正しい。「頼むから逆らわず、面倒を起こすな」と言うように。
 ユカリさんに向き直る。なんとも苛烈な瞳で、熱烈な思いだと思う。彼女の手持ちであろうフェアリータイプのポケモンたちが、ユカリさんの周りで機を伺い、笑っている。主人と同じで戦うことが、相手と心を通わせることがなによりも好きなのだろう。
……わかりました。一戦だけですよ」
 そう呟いて、わたしはユカリさんと距離を取る。周囲の人間の静まり返る気配が嫌だった。品定めするような目線、かのフラダリが放つポケモンとの絆とは、その真意は、その腕は確かなものなのか。
 ──記憶を失ったわたしは、全てを失ったわたしだ。
 だから過去の断罪を受けようとも、言い逃れることのできない重みを背負おうとも、これから三千年歩むわたしが一歩ずつ、噛み締めて生きれば良い。地獄の業火の真ん中で、世界のために一度冷えた命をふたたび燃やせばいい。
 そういう、たった一つの覚悟だけで生きるわたしに対しての理解が及ばず、奇異の目で見られることには慣れてしまった。AZさんもきっとこうだったのだろう。あの孤独な老人が最後に得た五年を思うと、わたしはスタートから恵まれ過ぎている、と感謝さえある。
 ふっと笑い、わたしはボールを投げる。ユカリさんも向かい合って、メレシーを登場させた。ステルスロックの合間から、互いの瞳が交錯した。

 ──ぎりぎりの攻防だった。わたしはギャラドスをボールへと戻し、戦いをねぎらう。メガピクシーがメガ進化を解き、ユカリさんの手元へ消えていった。勝ち負けにこだわるというよりも、彼女はただ純粋に相手とのバトルそのものに触れていたいように感じた。実際、わたしへ惜しみない賞賛を浴びせかけてくる。
「素晴らしかったです、ポケモンたちはどちらでそんなにお強くなられたのですか?」
「ミアレへ着いてから自然と懐いたポケモンがほとんどですから、強く、というほどバトルをしているわけでは」
「あなたのギャラドスはとても有名ですのよ、カエンジシも。その二匹に見合うように力をつけていった他のポケモンたち、さぞ気概が違うのでしょうね」
 そう言われ、ハッと気づかされることがある。
 ギャラドスとカエンジシは、ずっと手塩にかけて育ててきたポケモンだ。記憶は失っても、そのことだけは最初からきちんと覚えていた。他のポケモンは五年前のあの日に怪我を負い、ミアレよりはるか遠いポケモンセンターに預けられたままだ。迎えに行くことを約束し、今はジガルデのために動くことにしている。ミアレの街中で、薄暗い場所ばかりを歩く自分に自然と寄り添ってきたポケモンたちを仲間にし、最後の一匹をと思っていた矢先、フラべべがそっと手元を撫でるように懐いたときは運命かと思ったものだ──AZさんのフラエッテも、こうしてそばに来たのかもしれない。
 ユカリさんの言うように、ミアレで出会ったポケモンがギャラドスとカエンジシを見て奮い立ち、自分たちも強くありたいと思って研鑽けんさんしてくれていたのだとしたら。
「トレーナー冥利に尽きますね」
 わたしがそう言うと、ユカリさんは満面の笑みをたたえ、「休憩いたしましょう」とメイドを呼んだ。
 テラスへ呼ばれ、テーブルに用意されている茶菓子とティーポッドを見つめる。白磁はくじのまったりとした胴体に光が差し、近くの物を映し出すほど磨かれていた。かつて食卓で、母が出してくれた物と同じと気づくまで、わたしはずいぶん時間が経ってしまった。それほど頭の中の濁流のような記憶は、まだはっきりと整理されていない。
 ユカリさんが向かい側に座る。丁寧な所作で紅茶を注ぐ。メイドも他の人間も、いつの間にか周りからいなくなっていた。昼の明るい日差しの中でポッポが柵に停まり、番いなのか仲睦まじくくちばしをつつき合っていた。
 ユカリさんと無言のまま紅茶をひとしきり楽しんでいると、彼女の方から先に口を開いた。
「先ほどはなぜメガ進化なさらなかったのですか?」
 紅茶の水色を瞳に映しながら聞かれ、わたしは考える。
 ──メガピクシーを見上げたとき、まだこちらには手持ちのポケモンが二体残っていた。ボールの中のギャラドスはメガ進化の光に呼応し、カタカタと体を震わせていた。戦いに対する奮起だ。わたしのメガストーンはずっとポケットの中、冷たい指輪に閉ざされ、五年前から輝きを放てないでいる。
……決して手を抜いたわけでは」
「手を抜かれていたらすぐに中断しました、わたくしそこまで勘づかない人間ではないのですよ」
 大きな瞳がまばたきをするたび、きらめいて見える。
「メガ進化は絆の証。わたしの半端な記憶では、まだギャラドスに申し訳ないのです」
「あなたはそうでも、ギャラドスはどうなのかしら?」
「わかってもらうしかないです、今はまだ」
 そのときではない。そう言おうとして躊躇ためらわれた。私の心の準備がないだけで、ポケモンたちは悪くない。彼らの思いに私が一歩を踏み出せていないのだ。
 ユカリさんがティーカップを置き、話し出す。
「あなたがかつて間違えたことを知っていて、それでもなお慕っている方がいるのはご存知かしら? あなたのその、ポケモンたちのように」
 ……キラリと光る瞳が導火線のようにも見える。わたしは今、なにと話しているのだろう。その火をつけて燃やすのは彼女の飽くなきバトルへの探究心だ。それはひいてはミアレを救う一助となる。
 だからこの質問はバトルとはあまり関係がないように思えるが。わたしは「……記憶には、おぼろげにしか」と正直に伝える。
「あなたと同じギャラドスを使い、あなたと同じ道を自分なりに歩み、人を引っ張っていく力もあります。わたくしは不本意ですが、彼の実力を認めてはおります」
「それは、どなたを」
……ご自身で見つけてくださいませ。おそらくあの方は、わたくしからヒントを与えたことを嫌がるでしょうから」
 そうだわ、これもヒントになってしまうかしら。とユカリさんは、おもむろに手元からシガレットケースを取り出した。銀の装飾がうつくしいそれは、開けるとふわりと煙の香りがして、わたしはやっと、招待状の匂いの正体に気がついた。
たしなまれますか? 久しぶりに」
 彼女はにっこり笑い、わたしに一本差し出してきた。薔薇の匂いの他に、ほのかに香ったシガーノートが過去を蘇らせる。
 ──かつてわたしの横にいた人を思い出す。少年と青年の間、あの絶妙な思春期を過ぎたあたりの青々とした感性を持った人で、わたしの言うことを水を吸うように活かしたかと思えば、新しいことを覚えてしばしばわたしを驚かせた。まだタバコは早いと言ったのに、わたしのシガーケースから一度だけ「試してみたくて……ほんまにもう吸わへんから」としばらく反省しながら、せた肺をなだめていた。わたしが怒っていないと告げ、痛い経験をしたねと言っても彼は顔を上げてくれず、どうしたら機嫌を直すか考えた結果、「もしも大人になって吸いたくなったら、わたしが最初の一本をあげましょう」と言ったあの──
 わたしはボールの中のギャラドスを見た。今は静かに休んでいる。あのころ、あの彼はコイキングから育てるんだと息巻いていたか。
「あの方、あまりよく嗜まれてはいないようで、吸う姿が似合わないのです」
 タバコや葉巻の交換は、社交界ではよくあることで、そこで交わされる瑣末さまつな会話も、ゆくゆくなにに繋がるかわからないからと、わたしも若いころから喫煙や酒に関してはある程度の知識と経験を教養とされた。決して好んで吸っていたわけではないそれを、ユカリさんからもらって火をつける。
 女性が好むタバコの香りだ。わたしが吸っていたのはもう少し香りが控えめで、香水の邪魔をしないようにできていた。決して嫌味のない風合いにできている煙がたちこめる中で、上流社会は形成されている。そこに食らいつき、死に物狂いで生きていた瑞々みずみずしさを、わたしは今の今まで忘れていた。
 どう声をかければいいのか。なんと言ってもう一度、会うことができるのか。謝って、許されるだろうか。わたしが吸った煙を吐き出し、黙ってしまったのを、ユカリさんが面白そうに笑っている。

 ゴホ……と息が咽せ、オレはタバコを灰皿に押し付けた。事務所の一室、休憩ができる場所だ。
(やっぱり慣れへん、)
 ため息をつき、いつ買ったのかわからないほど前に購入してあったタバコの本数が、一向に減らないのを眺める。
 シガーケースはジプソがくれたものだ。はくがつくからと半ば強引に持たされた。たしかに昔、フラダリさんが吸っていたのを見たときは、ガキながらに格好良さを感じたものだ。
 大人になって、会食や取引先で相手がタバコを勧めてくるときに吸うものより、あのとき一本だけかじるように吸ったタバコは上質だった。煙のいっさいが臭みのない、脆く儚い匂いなのに、強く印象に残っていた。
 ──高いタバコだよ、こんなところじゃ売ってない。
 と、どこの店でも言われ、悩みながら帰った道で、MSBCの連中とすれ違ったときに久しぶりにその匂いを感じた。つまり、ああいう人間のための物なのだ。だからオレが最初に金を貯めて買ったのが、あのタバコだった。
 本当は最初の一本をフラダリさんからもらうまで、吸わないと決めていた。けれど五年前、フラダリさんの行方がわからなくなったとき──自棄じきになって一本、二本と数を減らした。背を丸め、浮いた背骨がライトに当たって光る部屋で吸った煙は、雨が降ったような気分だったのにやっぱり上質で、肺を痛め、涙を流させた。
 思い出に浸る中もう一本とも思ったが、指が思うようにそちらへ伸びない。最初の一本をと約束してくれたことは、きっともう忘れ去られている。果たせなかった約束は、それこそ煙のように消えてしまった。生きているとわかっただけで、良かったんじゃなかったのか、カラスバ。肥大しそうな欲求を堪え、息を吸う。かすかに残る煙の匂いだけは、自分の中に取り戻せた気がした。
……嘘つきや、あの人」
 そうでも言わないと、諦められない。諦めたいのに、生きていたという事実と同じ街にいるという可能性が、やさしく自分を期待させる。
 ──部屋のドアをジプソが叩く。妙に慌ただしい音だ。騒々しさに舌打ちし、ドアへ近づく。どうやら誰かが訪ねてきたらしい。今オレはオレらしくなく鬱々とした気分でいるのに、どうしたものか。それが晴れるような出来事が降ってきたらどんなにいいか。
 オレは普段は持たないシガーケースを胸にしまい、ドアノブに手をかけた。