よつもり
2025-12-16 21:49:31
1229文字
Public 考えたこと
 

手を出したがり足を突っ込みたがり


自分でなんでもやってみないと気がすまない性質ゆえか、なんでもかんでも手を出したり足を突っ込んだりして、時にはなにかに噛まれたり溝に足を取られて「うえ〜さいあく〜」と天を仰ぐような失敗ばかりしているが、失敗すると「じゃあこのルートはだめだな」ということが体感として腑に落ちてくるわけで、私はこの腑に落ちる感覚を求めているのかもと思ったりする。

頭ではわかっているのだ。「このまま進むとえらいことになるぞ」とか「おいそれはやめておけって」とか「ちょっとくらいブレーキの存在を思い出したって良いんじゃないか?」とか。そういう言葉は数多くよぎるのに、だめなのだ。とにかく自分でやってみて、うまくいくにしろ失敗するにしろ、その結果を自分で確認しないと気がすまない。

そのせいで心底呆れられて人に見限られることもあるし、あいつは要注意人物だというスタンプを押されて遠巻きにされることもざらだけれども、もうそれはそういうものであるから仕方ないわけで、ありがたいことに私のこの気質を大いに許容してくれる人が回りにそれなりにいて、「馬鹿だな〜」と呆れたりされながら、それでも見放すことなく置いておいてくれる。

賢い生き方ではないし、どちらかといえば馬鹿の方に属する。それでも現状こういう形であるのは仕方ないと開き直る一方で、あまり開き直りすぎても迷惑だから半分くらいは反省も必要だ。
という、駄目ではなく、けれども良いというわけではないし、しかし自責も程々にしないと鬱陶しいし、多少の割り切りは嗜み、という塩梅に自分を置いてユラユラしていられるようになったのは単純に年齢を重ねたためだと思うし、さらには年齢を重ねて体力が無くなったからだともいえる。

白か黒か、善か悪か、正しいか正しくないか、というような二項対立に自分を振り分けられるほど自分というのが単純ではないということがだんだんわかってきて、単純ではない自分を二項対立のどちらかに放り込むと出てくる矛盾の処理に自分の体力が追いつかないというのもある。

さて、体力も無いのに何でも手を出したがりの足を突っ込みたがりだが、何でもやってみて失敗を重ねるというのも、この自分というものの輪郭と限界を確かめたいからではないか? ということを思ったりする。
つまり、確かめないことには自分の限界は見えず、うまく行っているのであればそれはまだ自分の限界ではなく、失敗してばちんと痛い思いをして手を引っ込めた部分がようやく自分の限界なのだということだ。

というわけで、幼児が自分の足で立って歩いてみて壁にぶつかっておでこを赤くしたり、段差を転げて大泣きしてみたりということと本質的に同じようなことを未だにやっているのがこの私というものである。
腰は痛むし目の下は落ち窪んできたものの、いまだ赤子と変わりはないらしい。
少しは落ち着いてもよかろうと思うけれども、そう思えるまでの納得には未だたどり着いていない様子である。