生涯あたまのあがらぬ蜜め/三木孫
月並みな言葉で形容するなら、“同族嫌悪”。それが、僕と田村先輩との始まりだった。ある種の特別さでもって、気付けば僕は、ふところに先輩の存在の侵入を許してしまっていたのだろう。いがみ合う時間を重ねずとも、そのひとみに真に映るものを、僕は、否、誰しも知っていた。僕の目に映るものも、じゅうぶん知られていた。そんな同族と重ねる時間は、いがみ合いでも充分だった。
結局、同じ愛の注ぎかたを、そのかたちを心底知るのは、田村先輩だけだった。その事実は、確認するごとに、少しの安堵と拍子抜けと、そわり不自然な居心地の悪さとで、僕の胸にどんどんしみこんでゆく。まるで、悪趣味な毒のようだ。なんの薬にも、きっとなりやしない。何の益にも、きっとなりやしない。その毒を消し飛ばすための火薬を、僕は、あのひとの手にみているのだろう。あのひとのあいする火器に、みているのだろう。ぼくの、この二の腕ではなくて。
――僕が、先輩に向けるのと同じ感情の注ぎかたを、言い換えるなら同じあいのかたちを、先輩は知るのだろうか? せんぱいは、ぼくが先輩に向けるのと同じかたちで、ぼくをあいするだろうか? 同族でも友人と言うには当然違う。ただの先輩後輩でもきっとない。そんな不思議な距離感のなか、ぼくがせんぱいにむけるかたちを、先輩は知っているのだろうか。
陳腐なことばを、僕らが交わし合うことは恐らくない。けれど。その輪郭を指でなぞることくらい、涙以外のなにかにもゆるされたいと思ってしまう時もある。僕は泣きはしない。先輩も、泣きはしない。だから僕たちが輪郭をなぞるのは、きっと、ありふれた、陳腐ななにかによってだけなのだ。ことば以外で交わし合うそれのかたちが、重なることによってのみきっと、あいであることを僕たちは知れるのだろう。未熟? わかってる。覚悟? とうに足りてるつもりだよ。
あいがあれば、全てに足りるとおもってた。こんな不足感、抱くなんて思いもしない。ぼくにこんな毒を教えたせんぱいに、ぼくは、一生、きっとあたまが上がらないのだ。苦しくてもそれがわるくないことが、いちばん、たちの悪くてあまい蜜毒だ。田村せんぱいは、ずるいひとだ。そんなせんぱいがぼくをどんなひとみで見るのか、きっとほんとは知ってる僕も、せんぱいにすればずるいのだろう。わかってるよ。
終
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