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タロ文庫の作品置き場
2025-12-16 10:15:25
11464文字
Public
作品
ファントムはもうアリアを歌わない
2024-10-25
アーティットとサン、それぞれ初めてのハロウィンでのすったもんだ話です。
最後のアーティットのセリフは某夢の国の海の仮面舞踏会を参考にしました。
アリアはオペラなどで一人で心情を歌う楽曲のことです。
アーティットは上機嫌だった。
少年の頃からの付き合いであるタレーが面白がる空気を隠さないまま鏡越しにジロジロ見てきたとしても、少しも揺らがないほどには気分が良い。
にやける大きな目とは反対に瞼を半分落としながら睨みつけるが、口の端の緩みは目敏く見つけられているだろう。
「これが愛の成せる業かぁ。愛って凄いな。去年のお前が見たら卒倒するぞ」
「どうかな。案外納得するかもしれない」
ヒュウと口笛を吹かれ、過ぎた返答をしてしまったことを自覚する。唇をぴたりと閉じて目をタレーから鏡の中の自分に戻し、会話の終了を態度で示した。
タレーの言葉の前半を敢えて無視していたが、心の中では頷くものがあった。愛は凄い。どこからともなく無敵感が湧いてくる。去年までのアーティットなら絶対の絶対に何があってもこの場にいることは無かっただろう。普通に配れ。端的にそう言って後は現場とタレーに任せていたはずだ。永久に変わることはないと凍らせていたアーティットの価値観やスタイルをあのオレンジの太陽は事あるごとに溶かしていく。いや、アーティット自ら温まってほどけていく。
呼吸が大きく穏やかになりましたね、とは父の代から世話になっている船場の老主人の言葉で、以前よりはゆったりと暮らしていることを客観的に理解した。周りの人々もどこか余裕があるように見えるのもアーティットの気のせいではないだろう。島民ではないホテルの従業員の一人ですら、アーティットの頭上から柔らかい笑みをふふっと控えめに漏らしていた。
「写真を沢山撮ってきて欲しいと伝言を預かってますよ」
「おっけー! オレに任せとけ!」
「やめろ。要らない」
「よろしいのですか? こんなにお綺麗なのに」
その言葉にアーティットがぱっと目を上げれば、プラチナブロンドの毛先にスプレーをかけていたブライダル部門のスタイリストが慌てて口元を指で押さえた。
「申し訳ありません」
「いいですよ。人を綺麗にする仕事なのだから、癖になっていても仕方ない」
「そうそう、それも花婿っていうより略奪のヴィラン
……
」
「お前は黙ってろ」
彼女の手によって、普段は潮風に遊ばれるままに耳の上で流れていたアーティットの髪は上品に後ろへと撫で付けられ、毛先を整えられていた。露わになった顔には既にメイクが施されている。元から華やかなパーツたちがプロの手によって魅力を引き出されて、島の主は今や王室に献上されるベンジャロン焼きの食器のような高貴さを纏っていた。
完成です、という声がけとともにケープが外される。礼を言って立ち上がれば、さっと身頃を整えられた。鏡の中にはタキシードを身につけた長身の男の悠然とした全貌が映し出され、タレーがまた口笛を吹く。
タレーが用意していたのはショッピングサイトから適当に買ったシーズンもののバラエティグッズである。チープな既製品なので手足の長いアーティットには裾も袖も足りておらず、腰回りはもたついていた。だとしても首から上と風格が〝これ〟だから、誰もが気にも留めないだろう。
セットで付いてきたマントを首元で留めれば、漆黒のサテン生地でさえ上質で艶やかなドレープを作り出す。ふわりと舞った後しずかに身に寄り添う様子は、さながらアーティットの眷属のようだった。
「なぁ、本当に写真送ってあげないのか?」
弾けるぞ、アイツ。なんて言いながら面白さ半分、残り半分はそんな炭酸飲料のようなこの島のもう一つの太陽がアーティットにすげなくされてしおしおと炭酸が抜けていく姿を想像して残念がっている。既にコットンパンツからセルフォンを取り出している友人に、やめろとレンズ部分を押し返して肩をすくめた。
「どうせホテルの広報アカウントに載る。それに
……
」
アーティットはタレーのセルフォンから手を離し、代わりにもう片方の手に持っていたものを奪い取る。折角だからとフルメイクを施されたが、顔の右半分にそれを充てた。額から鼻梁を通り頬の下まで、曲線的に斜めに顔を覆うのは白くて硬質なマスカレードマスク。甘くも冷たくも見える美貌が一部無機質に隠されたことで、そこには秘密が生まれ怪しさが宿る。
「このまま帰るから、問題ない」
血色が整えられた唇をにぃと横に引く。画面上の反応なんかより直接目の前でオレンジ髪がくるくると回る様子を見た方が楽しい。今夜は簡単にドアを開けるなと言い聞かせて出てはきたが、サンは家主の帰還に易々とドアノブを回すだろう。
「あいつ、ちゃんとお菓子用意してるかな? 貰うことだけにはしゃいで、あげるって考えがなさそうだ」
サンは悪い大人だな、と言葉のわりにニヤついている友人は大人しくセルフォンを仕舞い、今度は控え室と廊下を繋ぐドアのノブをぐいと下に引き下げた。
腰を折り指先まで揃えた手を開けた廊下の方へと向けて、わざとらしいほどに恭しく。
即席執事のタレーを鼻で笑いながら、どうしても浮ついてしまう心をなんとか宥め、これだけは自前のブラックエナメルの靴で絨毯を踏み込んだ。
「皆様お集まりです。参りましょうか、ファントム
……
オブザコーアーティット」
アーティット島の怪人。
〝彼〟の誕生秘話はアーティットがサンにハロウィンイベントの話をした頃に遡る。
熱帯気候の仏教国であるタイでも他のアジア諸国と同じようにハロウィンの催しはそこかしこで行われていた。収穫を祝い死者を迎えるケルト文化の意は薄く、装飾と仮装をしてお菓子を貰ったり配ったりする、そうした娯楽性の高いイベントだった。
直後にあるロイクラトンの準備に追われつつ、国内外の観光客も受け入れるホテルとしては季節ものは軽く流せない。小さいとはいえ観光を誘致しているアーティット島のホテルでもそれは同じく、エントランスやロビー、エレベーターホールにレストランなどにはオレンジと紫が主流の装飾が施されるのである。
古びた洋館の影絵にジャック・オー・ランタンや白い布のお化けのオブジェを置いてフォトブースを設け、近くに子供用の魔女のとんがり帽子や狼男のファーフードと手袋などを置き、自由に着て撮影出来るようにしている。
そして夜には宿泊している子供と大人にお菓子を配るのだ。本来は仮装した子供が家を訪ねて菓子を貰うのだが、宿泊の部屋を回らせるわけにはいかないので夕食前の時間にエントランスに集まった客にホテル側から菓子を配っていた。
何年も行っている、グループ系列のホテルの十月の恒例行事だった。
「ハロウィン
……
」
初めてその言葉を聞いたかのようにぼんやりと呟いたサンの横顔を、アーティットは手元の資料から目を上げて見つめた。サンはシーズンイベントの話題になると口が重くなる。
「そういや近所の色んな店で衣装とか飾りは売られてたかな。シンやメクがてんこ盛りに菓子買ってきて食べきれないからって押し付けてきたりしてたけど。でもあぁいうイベントはさ、ほら」
知らないわけではない。知っているが、無意識に近い思考で線引きしてその線を越えないでいる。
借金のない幸せな人間がやることだろ。
それはサンの家庭環境が生み出した負のセオリーで、この島に住んでからもごく稀に口から溢れては「一生返せない額を借り入れて島に残った人間の言うことじゃない」と周りに突かれていた。アーティットからもいつも視線を投げるからか、サンは咄嗟に口をつぐみ代わりにへへっと薄く笑った。
「分かるよ」
一方アーティットも、こうしたイベントは自分の枠の外での出来事だと思っていた。親からは充分に良くしてもらってはいた。タイの伝統行事、地域の伝統行事、世界的に有名な行事。全てアーティットの経験や知識、そして島での円滑な人間関係を営む礎になった。それをアーティットの心がどう捉えていたかはまた別だった。
幸せな人間がやるもの。自分もどこかでそう思っていたのかもしれない。
自分が島を任されるようになって、勿論アーティットはイベントを各ホテルの支配人及び従業員に任せている。ハロウィン当日の夜にそれを遠くから見て回り、終わったらのんびりとオレンジの夕陽が溶けていった後の海の音を聴きに丘へと登って、死んだ家族も生きているかも分からない者も自分の元にはやってこない夜を静かに過ごしていた。
去年までは。だが今年はそうではない。
自分はもう幸せがなんたるか気づいたし、隣の青年も本当は分かっている。長年重たく踏み締められた心の跡は、この島で一緒に柔らかく平らにしていけばいい。
同意したアーティットに向かって微かに揺れていた黒目は伸びてきた指先に優しく頬を撫でられてふんわりと甘くたわんだ。
「仕事が終わったら一緒に見に行こう」
「うん!」
実は何する祭りなのか分かってないから調べてみる! とまで言ったサンが、それから少ししてサトーの店を経由してカボチャを買い付けるようになった。アーティットがそれを聞いたのはタレーからで、サンから直接は何も言われてないし二人で住んでいる家のキッチンはアーティットが使わない限り綺麗なままだった。そして時を同じくしてサンの白くてまろい指にはいくつも絆創膏が貼られるようになった。
ジャック・オー・ランタンでも作っているのか。
今やどこにでもオブジェとして売られているのに、ハロウィンを調べすぎて本物を作りたくなったのだろうか? そしてハロウィン当日の夜にでも被る気だろうか? 確かにカボチャは硬くて中身をくり抜くのも一苦労。ココナッツすら鉈で割れない都会の甘えん坊だから、指も悲惨な事になっているのも頷ける。島の仕事をするようになって暫く手のひらや指のたこが出来ては潰れてヒーヒー泣いていたが、最近では随分と落ち着いてきたのに何をしているんだか。
仕事としてしているのかそうでないのか、どちらにしろアーティットはいつになってもサンの珍妙な行動の理由を教えてもらえなかった。頻繁に店に出入りしているという情報を得て一度だけサトーを詰めたが涙目で「サンを信じて待ってあげてほしい」と言われて、前半部分がストッパーとなり静観の構えを取るしかなかった。
しかし相手はサンである。アーティットと会うたびに絆創膏だらけの手を後ろに回して「何でもない」と首を振るのだが、同じ家で暮らしていてそれを隠せるわけがない。隠すことが出来ないならと今度は手を繋ぐことを避けられ、挙げ句の果てに「しがみついてアーティットが痛いといけないから」と指以外は滑らかなままのはずなのにベッドでは就寝以外をしないと言い出す始末。流石にそこまで黙っていられるほど老成していなかったアーティットは「母指球と小指球でしがみつけばいい」と言い放って、サンが必死にしがみつかなくても不安にならない流れを組む為に優秀な頭をフル回転させた夜もあった。
ハロウィンの話題は時期が近づくにつれあからさまに出なくなったし、カボチャ料理がテレビに映れば咄嗟に電源を消すくらい過剰反応する。その代わりに「アーティットはパスタのペスカトーレって好き?」と訊かれた数日後に「ナポリタンって知ってる? 日本のパスタなんだけど、これが簡単
……
じゃなかった、うまいらしいんだよ。食べてみたいよな、な」とこちらが気圧されるほど前のめりに首を縦に振らされた。
こんな内緒にする気があるのかないのか分からない状態でいつまで静観すればいいのか。ある意味生殺しである。アーティットが「俺に何か言うことがあるんじゃないか」とじっとり睨め付けても腕の中で甘やかしてもサンは絶対に口を割らなかった。
サンを信じていないわけではない。悪巧みをしているとも思っていない。それでもサンが他人とは共有して自分には何も言わないことは寂しかった。もう二人でひとつになったはずなのに少し距離を取られただけで自分を置いて水平線へと沈んでいく夕日を見ていた頃のような寂寥感が胸に去来して、ままならない自分の感情にアーティットの眉間は次第に皺を深めていった。
アーティットの不穏な空気はハロウィンの前夜まで漂い続け、そこでピークを迎えた。ハロウィンに持ってこいの禍々しさがアーティットの行く先々に重く垂れ込めていて、楽しいイベントにしたいだけの島の者たちにとっては不要なオプションだった。一番の煽りを受けたのは勿論一番近くにいて元凶でもあるサンで、元々焦れば焦るほどおっちょこちょいの本領を発揮するタイプの為にそれは遺憾無くアーティストの前に飛び出してきた。
仕事帰り、家の前でサンとばったりかち合った時のことである。
夕日はとうに落ち切っていて、点々と置いている電灯の白い光の中でサンはアーティットに対して思い切り顔を顰めた。大きなバッグをアーティットから守るように身体の脇に隠して、「もう帰ってきたのかよ」と苦々しく呟いた。
それに何かを反応するより先にタレーが大声を出しながら坂を駆け上がってきた。
ホテルのハロウィンイベントでお菓子を配る当番だった従業員が体調を崩して仮装する人員が居ない、他の系列ホテルからヘルプを入れられないかと、既にセルフォンを構えて支配人の連絡先一覧を表示させているタレーの言葉にサンは更に追い討ちをかけた。
「アーティットがやればいいんじゃないか?」
仮装しなくていいからその場で動ける従業員が普通に配れ、と言おうとしていたはずがその言葉で仕事脳は凍結した。
「は? じゃあ君は誰とハロウィンを見て回るんだ?」
「え?! あ、え
……
で、でも今年は見てるだけじゃなくて参加するのもいいんじゃないかな?」
「それならサンが仮装してお菓子配ってくれてもいいぞ。ヴァンパイアの衣装、オレが用意したからさ。お前、何気にスタイルだけは良いから案外サマになるかも」
「おれはダメだよ! 何言ってんだお前! 知ってんだろ?!」
「あー、そういえばそうだった」
後ろ髪をぽりぽりと掻いてこちらを伺い見たタレーがバッと顔ごと視線を逸らす。ひくひくと口端が引き攣る癖は高校時代から変わらない、本気で焦っている時のものだ。
「タレー」
立っている足の下、地の底から出ているような声で呼び掛ければ、本人のみならずサンまでも大きく肩を揺らす。
もういい。
「俺がやる。イベントの担当者に伝えておいて。お前の用意した衣装もホテルに持って行け。足りないものはメールで送るように」
「お、おう
……
了解」
「あと客の前で顔は出さない」
「じゃあ、仮面を用意しとく。ヴァンパイアじゃなくてオペラ座の怪人だな」
「お似合いだな」
「何が?」
太い眉が顰められるのを鼻から出た乾いた笑いで制して、敢えてずっと意識の外に追いやっていたサンへと向き直る。肩にかけたバッグの持ち手をぎゅっと掴んで固まっている絆創膏まみれの指を見下ろしながら、アーティットは努めて淡々と聞こえるように口を開いた。
「サンは好きに過ごして。ハロウィンのイベントを見に来てもいいし、他のことをしていてもいい。飯も待ってなくていいからな」
「え?! 家に帰ってきて食わないのか?」
言葉の後半はわざと揺さぶった。サンは案の定、目を丸くして声が跳ねる。意地悪だろうか、多分意地悪だ。年甲斐もなく、みっともない。
「君は俺に早く帰ってきてほしくないみたいだから」
「ち、違う! さっき言ったことなら謝る。ごめん。だから夕ご飯は帰ってこいよ」
「何故?」
「なんでって
……
えぇっと」
サンを信じている。悪巧みしてるわけじゃない。答えはサンの持っているバッグからほのかに香る甘い匂いと柄の部分がはみ出している大きなミルクパン、それと袋の底の方で布地に凹凸を作っている食材と思わしきものたちで九割は分かっている。でも残り一割はきちんとサンの口から聞きたいのだ。それなのにここにきてまだ口籠るサンは明らかに追い詰められていた。
「おれに一人で飯を食えっていうのかよ」
キャンと吠えてから固く口を引き絞る。心と裏腹なことが口から出たのは彼の目がどんどんと潤んできたことから傍に佇む友人でも理解出来ただろう。大きな目でサンを見てからアーティットを見て、出方を伺っている。いや、引き際だ。分かってるなら引いたらどうだと言われているようで、アーティットはぐっと奥歯を噛み締めた後サンダルを履いた足を前へと踏み出した。
「一人が嫌ならサトーの店でも行けばいい。ハロウィンイベントで一晩中開いているから賑やかなはずだ」
すれ違いざまにサンの持っているバッグの甘い匂いが濃くなり、ココナッツだと鼻は認識した。
「それじゃあ意味ない、ってどこ行くんだよアーティット!」
目と耳は感覚を鈍らせて、来た道を引き返す。大股で歩き、後ろから誰も追ってこないことに背中がひりつくのは錯覚だと言い聞かせて、車のスタートボタンを押した。
何をしているのだろう。引き際なんて身についているはずなのに。
サンが島にやってきてからは一人で訪れることも随分減った丘の上、目の前に広がる夜の海は父のいる島も夕日から伸びるゴールデンラインの煌めきも漆黒で塗り潰されている。
今年のハロウィンは新月に近い。今夜の月も既に沈み、星の瞬きだけがぼんやりと海と空の境目あたりを見つめるアーティットの視界に光量をもたらしていた。あまりにも僅かな光だ。その光にも七夕あたりにはひっそりと願ってみたりもしたものである。
あの子が幸せに笑って暮らしていますように。
たった一度でも自分との別れを惜しんで未来を示唆してくれた者の存在は、アーティットの人生を少年期からずっと支えてくれた。
もう会えなくても幸せに笑ってくれていれば良い。嘘、一度でいい、見るだけでいいから、会いたい。
七夕の星だけではない。クリスマスの靴下の中にもロイクラトンの川に流す灯籠にもそう願い続けていた。結局その男は自分の預かり知らぬところではなく「ここに居て欲しい」というたった一言に目の前でほろりとその顔を見せてくれた。
そういえば笑っているところを最近は見ていない気がする。焦っていたり、誤魔化していたり、借金取りの頃より成果を出そうとして追い込まれている。そんな顔ばかり。
何をしてるんだ。一歩踏み込んで「楽しみにしていればいい?」とでも訊いてあげれば良かった。サンのしていたことはどう考えてもアーティットにとって悪いことではなかったのだから。
気づけば瞼を落として、自らが作り出した暗闇の中で波の音と自分の深いため息を合わせていた。
コンコンッ。
その時突然硬質な音が耳のすぐ側で響き、アーティットはハッと目を開けた。セルフォンのライトが狭い範囲を強い光で照らす白い空間の中にオレンジの髪の青年が浮かび上がっている。今思い描いていたどの顔よりもぐしゃぐしゃだった。歩いて登ってきたのだろう、汗まみれの顔は光をキラキラと反射させてサンが何度も拳で拭う仕草をする。
「良かった、寝てなかった」
分厚いガラスに阻まれて声がくぐもる。
「アーティット、ハロウィンの夜に一緒に食べられないんだったら、今から一緒に食べてほしい。おれ
……
その
……
用意したから、さ」
「サン」
手間取って迎えにくるの遅くなっちゃったけど、と語尾が萎んでいきうまく聞き取れず、また我慢も出来ず、アーティットはドアを開けて外に出た。
雨季の終わりの少し湿った空気が纏わりつく。それでも汗ばむ程度で済むはずなのに、目の前の青年は肩で大きく息をつきながら汗みずくだ。ずびっと鼻水まですすって、どれだけ動き回ったのか。汗がしみるらしくパチパチと細かく瞬きを繰り返す目元に人差し指の腹をそっと押し当て拭う。
「もう、理由を訊いてもいいか?」
温かく指を濡らす雫を優しく拭い続ければもっと瞬きが増えてしまったサンが一旦目を伏せてからこくりと頷いた。
「ハロウィンを調べてたら出てきたんだ。ハロウィンってこっちとあっちの世界が繋がって、死んだ人の魂以外にも妖精とか魔女とかもいっぱいやってくるって。それでこっちの世界が一年で一番魔力が満ちるんだって」
「う、うん」
サンの珍行動が始まったのはハロウィンの話題の後からだったのでアーティットもあらかた予想はしていたのだが、思わぬ方向からの話の切り口に咄嗟にどもってしまった。極力サンの気持ちを萎ませないように静かに見守る。
「だから、ハロウィンの日に
……
お、おまじないをかけると一番効果が高いって書いてあって」
「それで」
「それで、ハロウィン当日にかぼちゃ料理とパスタを食べると良いって」
瞬きと同じくらい口をもごつかせ始めたサンは、しきりに頬や顎の下をごしごし擦って汗を拭った。ここへやってきたばかりの時よりも火照っているのか、今は首まで薄く色づいているのが限られた光源の中でも見てとれる。
ずっとサンに言わせたがっていた残り一割は思っていたより衝撃かもしれない。アーティットは崩れ落ちないよう膝に僅かに力を入れてから、出来る限り淡々と聞こえるように口を開いた。
「良いって何に?」
「運気」
「何の?」
「れ、れんあい
……
とか、けっ
……
こん、とか」
「け」
おかげでアーティットが膝を地面につくことはなかったが、代わりに身体中が粟立った。遅れて全身の血が沸いたようにカーッと熱くなる。クーラーを効かせた車内にいたはずなのに、アーティットの肌はサンと同じくらい染まっている。
「それにアーティットの親父さんも戻ってきてるかもしれないし、誰かと食事してるとこ見せたら安心してくれるかなって」
それで。その為に。
自炊のジの字もしたことないくせに、サトーのところで教わっていたのか。ジャック・オー・ランタンよりもとんでもないものを作っていた。ただの料理じゃなかった。自分の考えが浅はかだった。
アーティットはサンダルを履いた足で一歩踏み出すとサンを腕の中に囲った。汗だくなのが嫌なのか身じろぎする身体を逆にぎゅうぎゅうに抱きしめる。
意地悪してごめん。おれも放ったらかしにしてごめん。
二人の間でしか聞こえないくらいささやかな声で言い合う。自分たちだけが知っていればいい。勇気や自信の無さから取っていた行動の数々を反省して相手に寄り添う。背中や肩を撫でられてしっかりと抱きしめ返される感触に心はじんわりとぬくもった。互いの体温と拍動が次第に馴染み、溶けて、ひとつになる。
車内灯とセルフォンのライトからの僅かな光の中で濃い陰影と細い輪郭を浮かび上がらせながら、アーティットとサンは新月に近い今日の月のように誰にも知られず暫くの間そのままひっそりと佇んでいた。
真夜中に食べたナポリタンとケーン・ブアット・ファクトーンの味をアーティットは一生忘れることはないだろう。
作り直すからと涙目になったサンを宥めて、盛り付けた形のまま固まってしまったパスタをスプーンとフォークでほぐしながら、大小さまざまな大きさの具材と絡めて口に入れる。ケチャップの甘さとパルメザンチーズのコクは冷め切っていても噛めばじゅわりと旨味が出てきた。縁がガリガリに焦げた目玉焼きの黄身の部分にはジャックオーランタンに似た目と口が海苔で付けられていて、そのギザギザなところもハロウィンのお化けならではの愛嬌に見えた。
カボチャのココナッツミルク煮はサトーの店で仕込んだものを持ち帰ってミルクパンで温め直したのだろう。カボチャの形はナポリタンの具と同じく煮崩れているものもあれば噛むのも一苦労なほど固いものもあったが、塩気を含んだ甘くて温かいスープはアーティットを満たした。
キッチンの惨状は今は見えないことにしよう。向かい合って、「本当はもっと美味いんだよ」とブツブツ言いながらケチャップにまみれた唇を尖らすサンが自分と同じものを食べているところを見ることに集中したい。
日付はハロウィン当日に変わっている。
「ちゃんと美味しい」と言うと疑わしい目でじっとりと睨みつけてきて、見せつけるように小さな口を大きく開けてナポリタンを頬張った。咀嚼する口の端をゆるゆると緩めているところを見ているとたまらなくなる。もう意地を張る必要もないので、ホテルでの代役が終わったら速やかに帰ってくるからまた一緒に食べようと伝えた。そうすればサンの口はますます緩まって、「パスタとカボチャの本来の姿を見せてやるよ」と小さく噛み砕かれたピーマンをポロリと溢しながら満面の笑みを浮かべた。
おまじないの効力はもう出始めていると思う。
アーティットは身の内を満たす幸福感を皿とボウルが空になった後もいつまでも噛み締めるのだった。
こうして脅威のV字回復を見せたアーティットは足取りも軽やかにゲストが集まるエントランスまでの廊下を歩いていく。
足の長いアーティットの歩幅に小走りで着いていきながらホテルのイベント担当者が最後にもう一度イベントの流れを説明してくれるのを小さく頷いて復唱する。ドアの前までくると、違う従業員が籠を渡してきた。中にはラベンダーやピンクのフィルムでラッピングされたホテルのマークがついたプチギフトが並べられている。ホテルのギフトショップに売っているクッキーやチョコ菓子のアソートボックスだ。販促も兼ねているのである。
「今のお前だと階段の上からばら撒きたい気分だろうけど、ちゃんと一人一人に手渡せよ」
朝一番に通常業務で合流したタレーには一目見るなり破顔された。それからずっとこの男も上機嫌である。機嫌が良すぎて軽口が止まらないのを今日何度目かのジト目を仮面越しに向けていなした。
「そんな事するか、結婚式かよ」
「ぶっ! アーティット、わかってんじゃん」
早くサンの待つ家に帰りたいからと行く手を阻む人々に菓子を渡して通してもらう。まるで結婚式の金撒きのような言い方をするタレーに呆れ返って、ケタケタ笑う声は無視することにした。ハロウィンの菓子配りも厄払いの意味があるから似たり寄ったりではある。
厄を遠ざけ、幸せを願う。その機会は一年で何度あってもいい。これからはサンと二人、周りに人々と共に祝っていきたい。
「アーティットさん、準備はいいですか?」
「はい」
「セリフも省かなくて良いんですよね?」
「大丈夫です」
タレーが一歩下がり、担当者との短いやり取りの後に目の前の扉が開く。
ハロウィンらしい音楽がかかる中、階段下のエントランスにはアーティットが想像していたより宿泊客が集まっていた。仮装した子供たち、大人たちは従業員が配った仮面をかけていたり手に持っていたり、皆一様にアーティットの登場に顔を上げていた。そしてタイのリゾートらしい和やかな空気がざわりと揺らぐ。気持ちが逸った子供がトリックオアトリートと勇敢にも声を出すがすかさず親の手に塞がれた。
アーティットはスッと鼻から吸い込んだ息を吐き出すついでに先ほど急遽用意したというセリフを口にした。
「お集まりの皆様、ようこそおいでくださいました。今日は十月三十一日、ハロウィン。昼夜の狭間、陰と陽の境が消える黄昏時。生きる者とそうでない者がひしめき合うこの場所で、自分自身を解放し、あなたの望むがままに、たった一夜限りの交流をどうぞお楽しみください」
軽く頭を下げた後、階段を降りる。
足にまとわりつかれるのが嫌でマントを捌けば、ヒィーとかキャーとか上がった悲鳴はハロウィンの夜にしては黄色がかっていた。
その後、南の小さな島のハロウィンの夜に突如現れた美しきファントムの口上がホテルの広報アカウントで過去最多のインプレッション数を叩き出したことを、本日二度目のディナーでケチャップだらけになっている口を拭ってやることに忙しいアーティットは知る由もなかった。
その皺寄せに、来年の十月三十一日の宿泊予約の問い合わせメールがロイクラトンで忙しい最中に大量に届いて「あの男は幻だから二度と現れることはない」とサイトに謎のお知らせを掲載する羽目になった。
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