katakuruten
2025-12-16 00:55:53
9025文字
Public 本編(書きかけ)
 

第一章 第一話「真白の街、始まりの街」



 カントー地方南西部、南には海を北には霊峰シロガネやまを抱く田舎町のマサラタウンは、急速な都市化の影響を受けることなくのどかな景色で人々を迎えている。
 雲一つない突き抜けるような青の快晴。まばらに点在する民家の色とりどりの屋根が太陽の光を反射する。1ばんどうろから続く道はアスファルトの舗装もされていないあぜ道で、路傍には日の恵みを受けた若草たちが青々としている。
 庭の花に水をやっていた婦人に元気よく挨拶を返してシトラールは川沿いの土道を進む。
 父親にそっくりのはねた黒髪はこれまた父が少年期に被っていた赤いキャップによく似たデザインのそれに押し込まれている。黄色を帯びた鮮やかな赤の瞳は丸く大きく、これもやはり父のそれによく似た色合いをしている。遊びたい盛りの十一歳の少年らしく、トキワの森やどうろを日夜体力の限り駆け回っているから、その肌はよく日に焼けている。
 わいわいと騒ぐ子どもたちの声にシトラールは足を止める。声を辿ってみれば、なるほど土手の下の河川敷に幾人かの子どもが集まっている。
「お前ら何やってるんだ?」
「ラル兄!」
「ポケモン、捕まえてるんだ」
 その言葉の通り、土手の下では子ども達がラッタを囲んで順番にボールを投げている。トキワシティ出身ながらマサラタウンにもよく出入りしているシトラールはその子どもらとは顔見知りだった。マサラの小さなトレーナーズスクールに通っている、確かシトラールよりは三、四歳年下のグループだ。
 子どもたちに囲まれたラッタは平然としていて、おそらくHPは満タンに近い状態だろう。自分を取り囲む子ども達のことを明らかに舐めていて攻撃する様子すらない。その様子を見てとったシトラールは土手の草むらを滑り降りて子ども達のそばに立つ。
 にやり、とシトラールは言った、
「お前ら、バカだなぁ。スクールで習ってないか、ポケモンを捕まえるときは、まず最初に体力を減らせって」
 腰のホルダーから赤と白の球体——モンスターボールを取り出して、シトラールは叫ぶ。
「ちゅちゅか、『でんこうせっか』だ!」
 投げられたボールから、青い光とともに小型のポケモンの影が飛び出す。ねずみポケモンのピカチュウだ。
 勢い付けてボールから現れたちゅちゅかはラッタに向けて、目にもとまらぬ速さで突進する。ラッタがひるんだのを見逃さず、シトラールは畳みかける。
「そんでもって、じょうたいいじょうに出来ればベスト! 『でんじは』」
 ちゅちゅかの頬の赤い電気袋が帯電し、周囲に弱い電撃が走る。弱めの電流を放電する『でんじは』は、耐性をもつものを除いて確定で相手をまひ状態にする。
 ラッタも例に漏れず、まひ状態になっているようだった。
 シトラールは構えた空のモンスターボールをラッタに投げつける。
「いけ、モンスターボール!」
 テンテンテン……カチッ!
 ラッタを吸収したモンスターボールは点滅するボタンとともに数回揺れた、そして小気味のいい電子音を鳴らす。捕獲成功だ。
 息をのんで見守っていた子ども達がわっと声を上げる。
 すごーい!
 いいなぁー。
 口々に賞賛の声が上がる。その声にシトラールは誇らしくなった。
「トキワシティのシトラール様にかかればこんなものだ」



 マサラタウンのオーキド研究所。その一室に少年は一人待機していた。
 オーキドといえば知らぬ者はいない。かの偉大なオーキド・ユキナリ博士を輩出した、栄えあるオーキドの一族に生を受けた少年の名はオーキド・ディルシード。彼のことをよく知る人々からはディルの愛称で呼ばれる。
 落栗色の髪。深碧色の瞳。父と母の色彩を半分ずつ受け継いだ容姿で、まだ幼さが残る顔立ちは両親に似て端麗だ。
 両親が癖毛なせいで、その血を引くディルの髪もひどく癖が強い。毎朝丁寧にブラシで梳いてワックスで固めてどうにか維持した髪は、それでも双子の姉のものよりは柔らかくてまだ手入れはしやすい。
 ディルは部屋に飾られた様々な賞状とトロフィーを眺める。その多くは研究結果を讃えるもので、ほとんどは曾祖父の名前が印字してあったが中には父や母の名が書いてあるものもある。
 その母は今席を外していて、父は何やら研究が忙しいらしく数日前から出張中だ。ついでに一番上の姉も母の研究の手伝いでフィールドワークに出ていて、双子の姉は相変わらず部屋に引きこもったままパソコンを触っているらしい。研究所で何人か雇っているスタッフたちもめいめいの研究や業務に忙しなくしていて、この部屋にはいない。
 壁にずらりと並んだ賞状を見上げていれば、部屋の外から足音が近づいてきた。荒々しいが、軽い足音。
「お邪魔しまーす! ってあれ、ディルだけ?」
 能天気な声とともに勢いよくドアを開けて入ってきたのは、幼馴染のシトラールだ。
 部屋の中を見回してシトラールは首をかしげる。
「遅いよ。……三十分遅刻。どこでなにしてたのさ? まさか1ばんどうろで手間取ったわけでもないでしょ?」
 ディルシードはわざと厭味ったらしくシトラールに問う。呆れきった声音だ。
「悪い! 来る途中でチビどもがラッタ捕まえようとしててさ! ろくに攻撃しかけてなかったから放っておいてもなんともないかな、とは思ったけどやっぱやせいだし怒らせたらまずいかなって。捕まえ方教えてたら時間食っちまった!」
「ほんとに君お人好しだよね。前もって早めに出発しなよ。毎回毎回面倒ごとに首つっこんでさぁ」
「んぐ、次からは気を付ける」
「そう言って何回目? 君の都合に振り回される僕の身にもなってよね」
 はぁ、とディルは溜め息をつく。どうせ言ったところで聞きやしないが、流石にこうも毎回遅刻だなんだとされるのを黙っていられる訳もない。
 流石にバツが悪いのかシトラールは沈黙した。
 後ろめたいならそれくらいのこと放っておけばいいのに、とディルは思う。だがそれができないのがシトラールという少年だということも知っている。
 ディルと同じくかつての図鑑所有者の親を持ち、その性質を存分に受け継いだ太陽のような性格。弱きを助け、悪を挫く。困っているものがいれば手を貸し、いじめられているものがいれば間に割り込んだ。向こう見ずで、無理無茶無謀はお手の物。何度も馬鹿をやらかしては両親や他の大人たちに怒られている割に無鉄砲は一切改められない。
 そんなのが幼馴染なのだから、当然ディルもそのしわ寄せを度々喰らっている。この二年ほど、三か月前までは父の伝手を辿ってカロスに留学していたから、その間は幾分か平和に過ごせていたのだが、マサラに戻ってきてからはまぁ酷い。
 お互いにトレーナー免許を得ているせいで、免許がなかったころに課せられていた行動制限はほぼほぼなくなってしまった。そのせいでシトラールの無茶は増えたし、ディルもそれに付き合わされて軽く死にかけそうになったことが何度か。
 数日後には旅の出発が予定されているが、一人で旅をさせて道中野垂れ死にしないだろうかと、他人事ながら思う。
 まぁ、どこぞで行き倒れたところでディルには関係ないことだが。
 それにしても母さんが戻ってくるのが遅い。シトラールもやってきたわけだし、そろそろ戻ってくる頃合いな気がするのだが。
 一旦、シトラールが来たことを伝えるついでに様子を見てくるかとディルシードは部屋を出ようとする。
 そのときだった。
 開け放した扉、廊下の奥からガラスが突き破られるような、耳をつんざく音が辺りに響いた。さらに続けて、女性の悲鳴。
 大音に立ち尽くしたのは一瞬。次の瞬間には、頭が理解するよりも早く身体が動き出していた。
 音のした方へディルは走る。
 他の人には「あのオーキド研究所」でも、ディルにとっては生まれてこの十年と少しを過ごし続けた生家だ。迷うわけがない。
 たいして長くはない耐火性の廊下を駆ける。行儀にうるさい父親に見つかったら絶対に怒鳴られるな、なんてことは今は言ってられない。出張であの人はいないんだから、気にしなくたっていい。
 一段飛ばしに古びた階段を降りていく。踊り場で曲がるのももどかしく思いながら一階に降りていくつかの重い扉の研究室の前を通り抜けていく。おい待て、置いていくなと喚くシトラールの声がするが多少距離が離れたところで見失うような距離でもないから無視してディルは走る。
 少し薄暗い廊下の奥、閉じられた鋼鉄製の両開きの扉が見える。オーキド研究所で一番大きくて日当たりも良い研究室に繋がる扉。暴走したポケモンの『はかいこうせん』にも耐えられるように特別な合金が使われている扉は非常に分厚く重い。まだ十一歳の少年にはあまりにも重すぎるその扉をなんとか押し開け、ディルは研究室に踏み込んだ。



 ディルの背中を追ってシトラールは部屋に飛び込んだ。
 足元には無理に割られて散乱した、強化ガラスの破片。部屋の中央では、見知った女性がうつぶせに倒れている。
「母さん!」
「ブルー博士!」
 惨状に叫べば、ブルー博士がのろのろと長いまつ毛に縁どられた瞼を持ち上げた。良かった、どうやら気は失っていないらしい。ブルー博士はシトラールたちに叫び返す。
「あんたたち、逃げなさい……!」
 どうやらブルー博士はポケモンを連れていないようだった。少女時代から一緒だというプクリンもカメックスも博士のそばにいない。その博士を置いて、逃げることなどできるわけがない。
「邪魔者か」
 破壊された窓から入り込んだのだろう、黒いローブを着た子どもが立っていた。
 背丈は恐らくシトラールやディルと変わらないだろう。発した声はハスキーで、少年というには少し高いが少女というには低い。顔はフードに隠されているうえ、だぼついたローブのせいで正確な身体つきも判断がつかない。
 つまりは、性別不明、年齢不明の謎の侵入者だ。
「ちゅちゅか、『でんこうせっか』!」
「『たたきつけろ』」
 シトラールは侵入者に向けてちゅちゅかを放つ。ボールの中から加速したちゅちゅかは先手必勝とばかりに侵入者の方へ向かって飛び出していく。しかし、その射線を塞ぐように青い蛇のようなポケモン——ハクリューが躍り出る。
 ハクリューはちゅちゅかが懐に特攻して来るのを狙って、長い尾でちゅちゅかを叩き落した。だが、ちゅちゅかの影に隠れていたもう一匹がディルの指示で畳みかける。
「フランカ、『マジカルリーフ』」
 身の丈よりも大きな青い花を抱えた妖精のようなポケモン——カロス地方に多く生息するフラベベの進化形、フラエッテだ——の周りに生じた燐光を纏う葉がハクリューを標的とする。ハクリューは自身を追跡する葉を躱そうとするが、『マジカルリーフ』は必中のわざだ。躱した葉は軌道を変えてハクリューを襲う。
「っ……! フェアリータイプか、よりにもよって」
 ドラゴンタイプのハクリューはフェアリータイプに弱い。フェアリータイプのフラエッテは天敵だろう。ディルもそれを理解しているのだろう、フランカにさらに指示を重ねる。
「『ようせいのかぜ』……!」
 室内に風が巻き起こる。きらきらとした風が渦巻いて、ハクリューに迫る。戦い慣れたハクリューなのだろう。それをハクリューは『まもる』でせき止めた。
 いとも簡単に打ち消された風に、侵入者は嘲笑う。
「風ってのはな、こうやって扱うんだよ。『たつまき』!!」
 何もない空間に、突風が巻き起こる。それはすぐにシトラールが立ってられないほどの強さとなり部屋を駆け巡る。咄嗟の判断で机に捕まって風に耐えるが、あまりにも風が強い。
 今ちゅちゅかに指示を出しても突風に巻き上げられるだけだ。何か、手段は。
 反撃の手段を探して、シトラールは部屋を見渡す。まだ動けないらしいブルー博士に物が飛んでこないようにとディルは庇っていてとてもじゃないが動けそうにない。
 どうにか地を踏みしめて体勢を崩さまいと耐えるが、非情にも暴風が強まっていく。どうにか捕まっている机を掴む指の先が何かのケースに触れた。
 見ればそれは文庫本程度のサイズの黒いケースだ。侵入者かに気がつかれないよう、片手でロックを外して見れば、中には赤い塗装の真新しい機械。言われなくてもわかった、これはポケモン図鑑だ。ぐっと、図鑑を握りしめる。
 だが、図鑑だけではこの状況はどうにもならない。風の主たるハクリューをどうにかしたいが、風の中では体勢が保てなくてまともに狙いも定められない。『たつまき』なんてびくともしないほど重いポケモンがいればよかったが、残念ながらシトラールもディルもそのようなポケモンは持っていない。ブルー博士のカメちゃんならもしかしたら耐えれてたかもしれないが……と今この場にいないポケモンのことを思い出す。
 どうにか状況を打開しようと必死でシトラールは考える。その足元に、風に巻き上げられて飛ばされていたのであろうモンスターボールが転がった。苦労して拾い上げたモンスターボールの中身を見て、シトラールは思いつく。こいつなら、もしかして。
 覚悟を決めて、手にしたポケモン図鑑を起動させる。ごめん、ブルー博士。緊急事態だから見逃して欲しい。そんなことを思いながら電源を入れれば、ローディング画面となった。早く動けとシトラールは祈って画面をタップし続ける。
 持ち主名の入力も、ロックの設定も今はいらない。ようやく起動した図鑑をモンスターボールにかざせば、そのポケモンの情報が出た。その情報を見て、確信する。やっぱり、こいつならいける。
 ボール越し、ハクリューとそのトレーナーにばれないように小声でそのポケモンに指示を伝える。無茶な指示に怯えているようだったが、頼む、とシトラールが言えばどうやら頷いてくれたらしい。
 片手で机を掴みながら図鑑を押さえ、もう片手にボールを構える。
 三、二、一。合図とともに、ボールからそのポケモンが飛び出し、机の足に蔓を巻き付けて舞い上がった。
「全身全霊『つるのムチ』——!!」
 巻き付けていない方の蔓をしならせて、そのポケモン——フシギダネはハクリューへと鞭のように叩きつける!
 不意を突かれたハクリューがひるみ、暴風が止む。四足歩行の緑の怪獣のようなフォルムをしたポケモン、フシギダネが研究所の床に着地した。
「へぇ、フシギダネか。でもレベルが低い——
「『ひのこ』」
「避けろ!」
 ローブの侵入者はしげしげとフシギダネを見つめる、否、見つめようとした。だがディルがそれを許さなかった。彼もシトラールと同じように、手にした新たなモンスターボールからほのおタイプのトカゲのようなポケモン——ヒトカゲを繰り出し、ハクリューに対峙する。
 好戦的なヒトカゲなのだろう。随分と怒っているようだった。ディルに自分に戦わせろと申し込んだのだろうか。怒り心頭、『ひのこ』を吐き出す姿は大好きな遊び場を取り上げられて不満をまき散らしている子どものようだった。
 その様子を見た侵入者は肩をすくめる。
「はぁ、めんどくさいな。二対一……博士がいるから三対一か。それじゃ分が悪い。まぁ目的は達成したし、ずらかるか」
 じゃあな。ひらりとふられた手にはシトラールが手にしているのと同じ赤色の機械。あいつ、ポケモン図鑑を奪いに来たのか!
 『たつまき』から解放されたちゅちゅかと、今しがた仲間になってくれたフシギダネに指示を出すが一歩遅い。
 侵入者はその声をともに何かを投げ捨てる。投げ捨てたものが地面に転がって破裂して、シトラールの視界を奪う。
 黒い煙が部屋に広がって、シトラールは咳き込む。目に刺されたような痛みを感じて腕で目の周りを覆うが、痛みで涙が止まらない。侵入者が『おきみやげ』にしたのは催涙効果付きの煙幕だった。
 げほごほと三人分の咳が部屋に響く。煙が晴れてシトラールの視界が戻るころには、当たり前のことだがもうそこに侵入者の姿はなかった。
「逃げられたわね、ぷりりに『うたって』もらおうと思ったのに」
 割られた窓の前で立ち尽くすシトラールに、立ち上がってケースからモンスターボールを取り出したブルー博士が声をかけた。
「母さん、大丈夫?」
「あら、これくらい平気よ。貴方たちこそ怪我はない?」
「僕は大丈夫」
「オレも全然!」
 ディルはヒトカゲをモンスターボールにしまいながらブルー博士を気遣う。ブルー博士の言葉の通り、たいした怪我はなさそうだ。誰も大怪我をしなくてよかった、とシトラールは安堵する。が、大事なことが。
「あ、そうだ。図鑑! 取り返さねぇと!」
「母さん、あいつを追いかけてくる」
 奪われた図鑑の存在を二人して思い出す。あれは、悪いやつに渡しちゃいけないものだ。ちゅちゅかとフシギダネを急いでボールにしまう。ディルがその横を通って窓を飛び越えて出て行こうとするのを、ブルー博士は首根っこを掴んで止めた。
「待ちなさい、今はいいわ。図鑑を盗られたのはアタシの不始末よ。ったく、セキュリティ強化したのに物理でぶち破ってくるなんて。『はかいこうせん』で窓ガラス割るなんて正気の沙汰じゃないわ」
 ぶつくさとブルー博士は文句を言う。どうやら、数年前に強化したセキュリティがいともたやすく抜かれてしまったことが気に食わないらしい。だが、いくら強化ガラスでも『はかいこうせん』は流石に防ぐのは無理じゃないかとシトラールは思う。もしかしたら、調べれば存在するのかもしれないけども。
 見なさい、とブルー博士は部屋を指し示した。
「あの子、『たつまき』で部屋ごと巻き込んだせいで保管してたボールが散らばったのよ」
「ああ、それで。こいつとディルのヒトカゲが」
「で、さっきの催涙煙幕でびっくりして何匹かボールから出て外に逃げちゃったみたいなのよね」
「ええ……。まずくない?」
「まずいわよ。……まぁ、個体識別用のマイクロチップを埋め込んでるから居場所自体はどうにかなるわ。ほんとに余計な『おきみやげ』をおいていってくれたわね」
 損害賠償保険っていくらまでだったかしら、とブルー博士が苦々しくぼやく。研究者業は大変そうだが、シトラールにはその辺のことはよくわからない。だが、多分。
「つまり、その逃げたポケモンを連れ戻すのが先ってことか?」
「物分かりがよくて大変うれしいわ。図鑑の方は今から追いかけても望み薄だから、とりあえずはポケモンの方ね」
 巻き込んで悪いけど、手伝ってちょうだい。あとで、アイスでもケーキでも買ってあげるわ。疲れた顔でブルー博士がそう口にするものだから、シトラールもディルも頷くしかなかった。

 

 博士の指示に従ってとっ散らかった部屋を片付ける。ディルと協力して物陰に隠れたポケモンたちを回収しボールに戻していく。真っ先に、割れたガラスは新聞と段ボールで補修済みだ。騒ぎを聞きつけて戻ってきた研究スタッフが悲鳴を上げて、ガラスの発注と工事の依頼をかけていた。
 どたばたとした物音にディルの双子の姉であるフェルが一瞬だけ様子を覗きに来たが、部屋にポケモンがいるのを見た瞬間に逃げ帰っていった。彼女はいまだにポケモンが怖いらしい。
 博士は逃げ出したポケモンの位置情報を確認するといって、パソコンを操作している。表示されているウィンドウの一つがマサラタウンのマップでいくつか赤色のグリップが点灯しているのはわかるが、それ以外の画面はシトラールには難しくて理解できない。
 一通りの操作が終わったらしい博士に、シトラールは声をかける。
「博士、これ……
 シトラールは博士に手に持った図鑑をおずおずと差し出した。緊急事態とはいえ、丁寧にしまい込まれていたものを勝手に取り出して使ってしまって、大変ばつが悪い。
「ああ、図鑑。今日渡す約束だったわね。そうねぇ、どたばたしちゃって申し訳ないけど——
 博士はそういって、シトラールの手から図鑑を受け取った。少し考える素振りを見せて、そして、シトラールとディルのことを呼ぶ。
「二人とも来なさい」
 シトラールから受け取った図鑑をもとの黒いケースに収め、そしてもう一つ同型の黒いケースを持ってくる。それを二人の前の机に並べた。
「シトラール、ディルシード。今から、貴方たちに図鑑を託すわ」
 図鑑、その言葉に緊張が走る。博士は机に置いた二つのケースのロックを外し、真っ赤な装置を二人に見せる。
「これは「ポケモン図鑑」。それも新品の「次世代型ポケモン図鑑」よ。貴方たちは新しいポケモンに出会うごとに、この図鑑にデータを記録していくことができる。オーキド研究所所長オーキドグリーンおよび副所長オーキド・ブルー、そしてトキワシティジムリーダーレッド、トキワの森の管理者代表イエロー・デ・トキワグローブの四人の同意の元、図鑑の作成と更新のための調査の任を負う「図鑑所有者」に貴方たち二人を推薦します」
 ディルが隣で小さく息を呑んだ気配がする。
 物心ついたころから、寝物語のように繰り返し聞いてきた「ポケモン図鑑」がようやく、シトラールのものとなる。
 歓喜に身体が打ち震える。高揚と興奮。初めて父のセキエイリーグ大会の映像を見た時のような、わくわくして居ても立っても居られないような、そんな喜び。
 シトラールの前に図鑑入りのケースを差し出す、かつての図鑑所有者だった博士は穏やかに微笑んでいる。
 こんな始まりになってしまったけれど、ある意味で図鑑所有者らしい始まりね。
 数々の災難と困難に直面しても、諦めないで。
 貴方たちのそばにはいつもポケモンたちと、同じ図鑑を持った仲間がいる。
 博士はそう語る。
 シトラールはどうようもない引力に引き寄せられるように、図鑑に手を伸ばす。
「貴方たちの旅路に、どうか祝福に満ち溢れたものであることを祈っているわ」
 今度こそ、シトラールは手にした図鑑を握りしめる。
 これが、始まりの街で起きた、ある少年たちの始まりの日の話。
 次世代の図鑑所有者が誕生した、その瞬間の話だ。