プロローグ HELLO, WORLD!!
ハッキングは、海に潜る感覚に似ている。
外の光を遮断した、薄暗い部屋。24インチが生み出す自分だけの深海。ディスプレイの碧い光は閉じた部屋の唯一の光源だ。
電子の海は、普通の人が思うよりずっとずっと深く、光の届かないところまで広がっている。普通の方法ではたどり着けないようなその場所はダークウェブと呼ばれていて、それは一般に普及している検索エンジンより広大で、そして欲と闇に塗れた情報のたまり場となっている。
一か月と少し前にトキワシティが襲撃された。その事件について、ダークウェブでは様々な情報が活発に飛び交っている。憶測から実際の映像まで。虚実が入り混じってこんがらがった情報の塊ができあふぁっている。
これは最近悪いうわさを聞く新生ロケット団とかいう組織じゃないか? 違う、かつて存在した実験組織の仕業だ。いやいや、アカデミアを追放された研究者によるテロだ。
いまいち真実味に欠ける情報が氾濫する中、詳細な裏取りまで徹底的になされた情報も転がっているのは、同業者による暇つぶしだろうか。
この仮想の海はワナビー(もどき)からデミゴッド(ばけもの)まで多種多様な人間が泳ぎ回っていて、いつだって刺激的な遊び場(プレイルーム)を居着いたハッカーたちに提供している。
そのハッカーの一人が、この部屋の主であるフェンネルだ。
ディスプレイの碧光とよく似た輝きの瞳。肩に少しかかる程度の栗色の髪。父親譲りの癖の強い髪は、フェンネルをよく悩ませていて、今はサイドで雑に縛られている。
ここ数年はほとんど部屋に引きこもりきりで、日光にほとんど当たらない肌は不健康なほどに真っ白だった。
いつもどおり無機質な液晶画面の前に座ったフェンネルは慣れた手つきでコードを打ち込む。かたかたと、青白い手がキーボードの上を踊る。ほどなくしてあらかじめ用意されたいくつかの認証はすべてが解除されて、フェンネルはダークウェブ上のプライベートなチャットルームへと潜った。
ジャッカ
ハロー、アルミラ
参加者は二人きりのチャットルーム。ルーム名はうさぎ小屋
——ジャッカロープとアルミラージという空想上のうさぎの名前を関するハッカー二人のための駄弁り部屋だ。
サーバーへの接続の通知が入ったのだろう。フェンネルがログインしてまもなく、ジャッカからメッセージが送られてきた。いつだって彼女は(顔も声も知らないが、フェンネルはジャッカを女性だと思っている。コードの組み立て方が、なんとなく女性的なのだ。)
ジャッカ
そういえば
アルミラ
?
ジャッカ
電脳幽霊の噂、知ってる?
アルミラ
最近よく聞く。でもどうせプログラムのバグでしょ。そうじゃなきゃ、汎用AIの失敗作を誰かが放流したとかじゃない?なんにせよ、仮想空間の幽霊とか、SFすぎるんじゃないの
ジャッカ
アルミラは面白がりそうな話だと思ったんだけど、結構辛口なんだね
■
見覚えのない名前のファイル。ダークウェブに接続したときに仕込まれた? 圧縮保存されているから、このまま開かずにデータごと消去してしまうのが安全だ。この手のファイルは、開いてしまえば取り返しのつかないウイルスをまき散らす。
脳は警告を鳴らしている。だけど、電子の海で鍛えられたプライドと好奇心は目の前に現れた不可解な0と1の塊を無視できないでいた。
「やってやろうじゃないの」
キーボードを操作して、ファイルを解凍。そして、展開をする。それと同時に、ファイル情報の解析を行っていく。だけど。
「お、女の子?」
液晶画面に映し出されるコードの列。それだけならば見慣れた光景だ。だけども、最前面に構築された”それ”は明らかに異質なものだった。
「ハローハロー。君がアルミラ
――オーキド・フェンネルだよね?」
画面の中で、鮮やかな蜜柑色の髪の少女
――例えばVRゲームで見かけるようなアバターと表現するのが一番近い
――が笑っていた。
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