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くさかべ
2025-12-15 22:24:01
20011文字
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消えゆく泡の一瞬に
ヌヴィレット様誕生日おめでとうという口実のしょたおに話。こどもの水龍とたのしく一日を過ごす公爵というだけの話です。
成人の推しが一時的にショタになる展開が大好物なのですがショタめがねを入れられなかったのが無念なのでたぶんまたいつか書きます。
大きな淡い藤色の瞳がじ、とこちらを見上げている。
シグウィンと手をつないでやってきた、彼女と同じくらいの背丈のこどもからの熱烈な視線を正面から受け止め、リオセスリはにやりと愉しげに微笑んだ。
「やあ、ヌヴィレットさんに隠し子がいたとは初耳だ」
「公爵ったら、もう」
「それ、冗談でも本来のヌヴィレットに言ったら大変なことになるだろうからやめといた方が良いと思うよ
……
」
扉を閉め、シグウィンたちの後ろに並んだ旅人が憂鬱そうなため息をつく。リオセスリははは、とそれを笑い飛ばしながらもたれかかっていた手すりから身を離し、執務室とつながっているロビーへの階段をゆったりとした足取りで下った。
リオセスリはかなり体格が良く、まとう衣服や雰囲気も意図的に威圧感のあるものに寄せている。表情を和らげたとて大抵のこどもには初見で怯えられるのだが、独特の髪や瞳やとがった耳、顔立ちまですべてヌヴィレットにそっくりの
――
旅人が『本来の』と形容したからにはおそらく本人なのだろうが
――
少年はなんの感情の動きも見せない無表情で近付いてくるリオセスリを目で追い続けていた。その彼の前で立ち止まったリオセスリは、恭しく膝をついて視線を合わせる。
「今のあんたをヌヴィレットさんと呼んでも?」
「かまわない。私がそう名乗っているということは把握している」
迂遠な言い回しにふうん? と首を傾げたリオセスリは、背後でへらりと気まずげな笑みを浮かべている旅人に説明を求める視線を投げた。
「あー
……
ちょっと、新しく見つけた秘境の攻略を手伝ってもらってて
……
」
「簡潔でわかりやすい状況説明をありがとう。看護師長の見解は?」
そうね、と頬に指を当てた看護師長が首を傾ける。
「この年頃のこどもとして判断するなら健康そのものよ。ただ、本人からの申告では記憶に混濁があるみたい」
リオセスリは幼い姿のヌヴィレットに視線を戻した。眼差しの意図を汲んだヌヴィレットが軽く頷いて口を開く。
「彼女たちと会話して整理した限りでは、およそ五百年前
……
私がフォンテーヌに来た頃からのできごとをほとんど思い出せていないようだ」
先ほどの言い回しからしておおよその察しはついたが、あらためて年数にするとかなりの期間だ。龍としてはここ最近、くらいの感覚なのかもしれないが、なかなか豪快に記憶を落っことしてきたようだなとリオセスリは小さく笑った。
「法律に関しても?」
「うむ。人間の食事作法や夜に眠るといった一般的な知識は覚えているのだが
……
」
幼くなってもそこは変わらないらしい青い触角のような、房のような何かが心なししおれている。リオセスリは思わず手を伸ばし、かつての弟たちにするようにがしがしとその頭を撫で回した。ヌヴィレットは目をまんまるにして固まっている。
「おっと失礼、紳士にすることじゃなかったな」
「いや
……
問題ない」
幼い姿とはいえ、こどもにするように触れてはいけなかったなと手を引っ込める。しかし、ヌヴィレットの今は小さな手が追いかけるように伸ばされてリオセスリの指を掴んだ。
意図が分からずぱちくりと瞬いていると、指を握った張本人もよく分かっていないのかリオセスリの動きをまねるように長い睫毛を瞬かせている。
「
……
まあいいか。記憶が戻りそうなめどは立っているのかい?」
「一時的な健忘だ。失ったわけではなく、うまく引っ張り出せないというか
……
引き出しの中にラベルを貼ってしまっていたものが、ラベルが剥がれてバラバラになっている
……
というような比喩で伝わるだろうか。何度か眠って記憶を整理できればすべてきちんと思い出す。
――
はずだ」
「からだの方は?」
「前に似たようなことが起きたときは二、三日で元に戻ったよ。念のためもう一度秘境を調べに戻るつもり」
そのときは性別が反転する秘境だったんだよね、とかなり気になる補足があったが突っ込んでいたらきりがない。旅人の隣でふわりふわりと浮いているパイモンが「まあでも」と指を顎に当てて首を捻った。
「ヌヴィレットなら自力でおとなの姿に戻れたりしないか?」
「体感だが、私のこの状態は肉体の時間が実際に巻き戻ったわけではない。本来の現在の姿から逆算して、幼体であればこのような姿だろうと演算された結果を上から被せられているようなものだ。現状でもおそらく肉体を元に戻すことはできるが、記憶に混乱がある状態では避けたい」
なるほど、と適当な相づちを打ち、リオセスリは情報を脳内で整理する。いい加減中腰の体勢もつらくなってきたので立ち上がり、お茶でも飲みながら話そうと一行をテーブルまで案内する。
それにしてもなぜヌヴィレット少年はリオセスリの手を離さないのか。がっつりと指を握られた状態のまま、リオセスリは階段を上がってソファに腰かけた。当然ながら隣はヌヴィレットで、向かいに旅人とパイモンが座る。お茶を用意しようとしたのだが、シグウィンから自分が準備するという申し出があったので任せている。なにせ片手を取られたままなので。
「問題が解決するまで約三日と見積もって、まずはその間のパレ・メルモニアをどうするかだが」
「とりあえず行きがけにクロリンデにはフォローをお願いしてきたけど
……
」
「あとはセドナさんにも相談が必要だな。ただ、事務処理の納期はまだ調整が効くだろうが審判の日付はそうそうずらせない
……
が、時期が良かったな。おそらく明日から数日はあまり予定を入れていないだろうよ」
「そうなの?」
首を傾げる旅人に、リオセスリはため息をつきながら肩をすくめた。
「別の大問題が生じているがな。明日が何の日か知ってるかい?」
明日
……
と旅人とパイモンが考え込み、ヌヴィレットはきょとんとしている。話を聞きつつティーポットにお湯を注いでいたシグウィンが「そうなのよ!」と悲鳴じみた声を上げた。
「ヌヴィレットさんのお誕生日じゃない!」
「今年も休みを取って一日メリュシー村で過ごす予定だったらしいな。今回は前後のスケジュールにも余裕をもたせていると言っていたし、誕生日休暇をちょっと延長ということにでもしてもらうか」
「ああ、だから秘境攻略も時間とってくれたんだね」
「誕生日前にわるいことしたな
……
というかしまった旅人、オイラたちお祝い用意し忘れてるぞ!?」
「おっと、問題が一つ増えたな。もう明日だぞ?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたリオセスリが煽るのに「どうするんだよ!?」と叫んだパイモンが旅人の肩を掴んでがくがくと揺さぶる。ふしぎそうな顔をしながら一連の会話を聞いていたヌヴィレットが、ちょいちょいとリオセスリの服の袖を引っ張った。
「すまない、誕生日とはどういうことだ?」
「おや、その知識は思い出せてないんだな? 簡単に言えば、そのひとが生まれてきたことを生まれた日に祝う行事だよ」
リオセスリの答えに、ヌヴィレットはまだ少々ふしぎそうではあったが、そうか、と素直に頷いて口を噤んだ。
「そういうわけであんたの眷属がお祝いの準備をして待ち構えてるんだが、どうする? 行くかい?」
「残念だけど、ウチは延期した方が良いと思うの」
ヌヴィレットが何かを答える前にシグウィンが口を挟んだ。テーブルの上にことりことりと人数分のカップを置いた彼女は、お盆を抱えたままヌヴィレットのもう一方の隣にぴょいと腰かける。
「もちろん、ヌヴィレットさんがどんな姿でも、メリュジーヌのことを覚えてなくてもウチたちはいつでも大歓迎なんだけど。ヌヴィレットさんの今の姿のことを黙っていられる子ばかりじゃないと思うの」
人の口に戸は立てられないとはいうが、人でなくとも同じことではある。メリュジーヌたちの個性も人間同様に幅広い。
「まだちょっと幼い子もいるし
……
ヌヴィレットさんの今の姿もとってもすてきだから、ついよそにしゃべっちゃう子もいると思うのよね。それはなるべく避けた方が良いんでしょう?」
「メディアに拾われるとまあ、ひと騒ぎにはなるだろうな。元のヌヴィレットさんならどうにでもするだろうが」
なんせ彼の特異な容貌そのままのこどもという存在である。ゴシップ誌が妄想を大いに膨らませて記事を量産するのは目に見えている。だが、いろいろな意味で人目を惹く最高審判官様は特ダネを求める彼らに常に身辺を嗅ぎ回られている身でもある、対処など慣れたものだろう。リオセスリが手を回してもかまわない。
「そうかもしれないけど、回避できるリスクは避けておくべきじゃない? これまでも当日にお祝いできないってことはあったし、また来年もあるもの」
「ふむ
……
ヌヴィレットさんはどうしたい?」
水を向けられたヌヴィレットは、両手で持ったティーカップの水面に視線を落として黙り込んだ。リオセスリが紅茶の香気を味わい、そろそろ底が見えるだろうかという頃にゆっくりと口を開く。
「
……
会いたいが、今の私は思い出せていないことも多い。もしそれで彼女たちを傷つけることがあったらと思うと、会うのはやはり少なくとも記憶を整理できてからにするべきだろう」
「了解。じゃ、あとはあんたにどこに隠れていてもらうかだが
……
」
「え、ここじゃないの?」
「ここだろ?」
「ここのつもりで連れて来たんだけど
……
」
「
……
あんたらはまあ、随分と気が合うみたいだな」
シグウィン、パイモン、旅人が同時に口を開いて同じ趣旨のことを述べる。リオセスリは目を細めてにこり
……
と感情を読ませない微笑を浮かべた。
リオセスリの所属は警察隊でも探偵事務所でもなく言うなれば刑務所の管理者で、メロピデ要塞は弱者を保護する駆け込み寺や聖域となる教会ではなく罪人たちが収監された砦であるのだが、なぜにわざわざそんな場所に逃げ込んでくるのか。
「まあ、人目につかないって意味ではメロピデ要塞以上の場所はそうそうないが
……
」
リオセスリがため息をついてそううそぶくのを、彼らはそうこなくっちゃとばかりににこにこと笑顔で見守っていた。
今後の動きについて一通り打ち合わせたのち、旅人とパイモンはパレ・メルモニアの支援に水の上へ、シグウィンはメリュシー村へ事情を説明するためにそれぞれ出立した。執務室に残っているのは部屋の主であるリオセスリと突然の客人である幼い姿のヌヴィレットだけだ。
「さて、今のあんたの仕事は寝て記憶を整理することかな。眠れそうかい?」
頷いたヌヴィレットはしかし、何か言いたげにリオセスリを見上げる。もともとヌヴィレットは感情の起伏こそ表に出にくいものの、意外とどう思っているかは微細な表情の変化や声音で伝わってくる。だがそれも五百年の間に獲得した形質だったようだ。いつもより頬が固く声も淡々と無機質さが強く出ており、彼との会話にはそこそこ慣れているはずのリオセスリでもいまいち今の彼の思考は掴みにくかった。
「何か問題でもあったか? ああ、悪いがベッドは俺のを使ってくれ。医務室の方が新しくてスプリングがまともなんだが、ここいらはちょっと物騒なんでな。窮屈だろうがこの部屋からは出ないでいてくれるとありがたい」
「いや、薄暗く湿っている場所は水中に環境が近くて好ましい。それに、鉄のにおいは君からする気配と似ている」
「メリュジーヌたちも似たことを言うが、俺は空が高くて日差しがあって、風が吹いてる場所の方が良いと思うがねえ
……
」
たまに上がる水の上の風景をリオセスリがしみじみと思い返していると、ふとヌヴィレットの眉毛がかすかに動いた。
「
……
君の
……
」
「うん?」
ぼそりと呟いたヌヴィレットは、どこか悔しそうに顔をしかめてうつむいた。ここまでおおよそ無表情だったことを思うとこれは内心かなり感情が波打っているのではないだろうか。
「君の名前を思い出せない」
「ああ、最近の記憶がすっぽ抜けてるんなら当然だろ。リオセスリだ」
そんなことかとリオセスリは拍子抜けして肩の力を抜いた。ぬぬ、と口を尖らせた仔龍の眉間にしわが増える。
「りお
……
りおしぇすりどの」
「ふふ、呼びにくければ公爵でいい。あんたがくれた爵位だしな」
「りおせすり殿」
意固地になっているのか、ヌヴィレットは妥協案を無視して危うい滑舌で名前を繰り返す。リオセスリは喉の奥で笑いをかみ殺しながら執務室から続く自分の寝室のドアを開けた。
「さすがにマットレスまでは厳しいが、シーツと枕くらいは新しいものに取り替えるから待っててくれ」
「そのままでかまわない」
「あんたがかまわなくてもさすがになあ
……
」
そのままでいい、と重ねて繰り返すヌヴィレットがリオセスリを追って寝室に足を踏み入れる。彼は入ってきたときの勢いのままリオセスリの背中を押し、ぐいぐいとベッドに押し込もうとしてきた。こどもとは思えない力強さにリオセスリはたたらを踏みそうになる足を踏ん張って抵抗する。
「なんだい」
「リオセスリ殿のベッドを私がひとりで占領するわけにはいかない。寝るなら一緒にだ」
「いや、俺はまだ仕事残ってるし、ふたりで寝るにはさすがに狭いし。今日はあっちのソファを使うよ」
リラの花弁から色を移したような大きな瞳がじっとりと不服そうにリオセスリを見上げる。人間の眼球の大きさは生まれたときから変わらないとシグウィンから聞いたことがあるが、ヒトのかたちをとった龍は違うのだろうか。普段よりいくぶん大きく、あどけなく見える眼差しに思わずうっと怯む。
「
……
いやほんとに、明日はもう少しちゃんとあんたに付き合うからさ。そのためにも今日のうちにいろいろと片付けておきたいんだよ」
おとなの言うことは信じないぞ、とでも言いたげな幼い瞳が
――
稚い風情はおそらく記憶の欠落のせいで、実際幼いのは見た目だけなのだが
――
リオセスリの言葉の真偽を吟味するように細められる。
「
……
労働の後はきちんと休むべきだ。君の寝る場所は空けておくからソファでなくベッドで寝るように」
なぜだかこちらが聞き分けのないこどものようにたしなめられた。このひと本当に記憶ないのか? と訝しんでいる間にヌヴィレットはぴかぴかの革靴を丁寧に脱ぎ、寝台に横になる。宣言どおり寝台の中央ではなく端に寄っていた。なんとも律儀だ。
今の彼は当然ながらいつもの法服ではなく、品の良い白いシャツとサスペンダー付きのズボンという裕福な家庭の子女のような服装をしている。そういえばこのあきらかにこども向けの、サイズがぴったりあった衣服類はいったい誰が用意したのか。気になったが、ヌヴィレットは既に目をつむって呼吸もゆったりとしたものになっている。
声をかけるに忍びなく、リオセスリは彼にそっと毛布をかけると寝室の扉を静かに閉めた。
腹のあたりがあたたかい。そして少しばかり重い。ぴったりとからだにくっつけられたぬくもりから、とく、とく、とゆっくりとした脈の気配がする。なにか生きものに寄り添われている。害意は感じられなかった。猫
――
にしては軽いので、犬でも腹に乗ってきているのだろうか。
そうだといいな、とまだ睡魔の手の内にある思考がふわふわとしたことを考える。犬なら撫でさせてくれるだろうか、とつい手が伸びた。しかし、指先が捉えたのはふわふわと整えられた飼い犬の毛並みでも野良犬のごわごわとした毛の感触でもなく、絹糸のようにさらさらと指の隙間から逃げていく髪の感触だった。
「うっわ!?」
瞬時に覚醒したリオセスリは、驚きに声を上げつつ飛び起きた。からだの上に乗る誰かを跳ね飛ばそうとして、目に留まった青い房混じりの白い頭に急ブレーキをかける。バランスを崩して彼ごとソファから滑り落ちるが、なんとかヌヴィレットを自分の下敷きにすることは避けられた。
「ベッドで寝てたはずだろあんた
……
」
「ソファで寝ている君がわるい」
先ほどの叫び声でさすがに起きたのか、不機嫌そうに鼻を鳴らしたヌヴィレットだが、リオセスリの腹の上からどく気配はない。諦めたリオセスリは天井にむかってため息をついた。ひっつき虫のように胴体に手足を回している少年のからだを支えつつ起き上がり、ソファによじのぼる。膝の上に座らせるとヌヴィレットは納得したようにひとつ頷いた。
「おはよう、ヌヴィレットさん。記憶と体調はどうだい?」
「おはよう。記憶はおおよそ二百年前までは整理できた。体調も問題ない」
「順調そうで何よりだ」
状況を聞き取りながら時計に視線をやる。水の上だと夜が明けて少し経った頃合いだろうか。看守も夜勤から日勤への引き継ぎを行う時間帯だ。
「ちょっと早いが朝飯にするか。ヌヴィレットさんは水以外にほしいものはあるかい?」
「水だけでいい。元に戻るまでは固形物の摂取は控えたい」
「確かにその方がいいかもな。あいにくメロピデ要塞の水は浄化槽を通したカルキくさいもんであんたに飲ませられるようなもんじゃないが、ちょっと前に仕入れたちゃんとした水もある。食堂に行ってくるから
――
」
あんたはここで待っていてくれと言うリオセスリと、ついていくと言い張るヌヴィレット。当然ながら一悶着である。
なんとか彼を説き伏せたリオセスリは朝から早々に疲労を感じつつ、自分の分のサービス食と水の封入された瓶を持って自室に帰った。
ソファに行儀良く座って彼の帰還を待ち構えていた少年は、口をとがらせ眉間にしわを寄せ、むっすりとして明らかにご機嫌ななめだ。昨日からご不満顔がやたらと板についている。最近のヌヴィレットも随分と表情豊かになったと思うが、それよりさらにわかりやすい。含み笑いをこぼしつつ、リオセスリは食事をテーブルの上に並べた。ティーセットをしまっている棚の奥から細身のシャンパングラスをふたつ取り出す。
持ってきた瓶には水が入っているはずだが、ワインのようにコルクで口を塞がれた上に厳重に封をされている。少々特殊な仕様だ。ナイフで封を切ってコルクを引きずり出すと、最後の方でぽんと音を立てて飛んでいった。
「おっと」
宙を舞うコルクを小さな手が掴む。テーブルの上にそれを置いたヌヴィレットは、ぱちぱちしゅわしゅわと小さな音を立てる瓶の中身を訝しげに見つめた。
「水が入っているのではなかったか?」
「正真正銘の水さ。フォンタみたいに甘味料やらが入っているわけじゃない」
リオセスリはいたずらっぽく微笑みながら水をグラスに注いだ。透明な液体の中にぷくぷくと大量の小さな泡が生まれ、水面に立ち上っては弾けて消えていく。
「炭酸水か」
「ご名答。産地まで当てられるかな?」
「それは天然水ソムリエに対する挑戦ということだろうか」
当ててみせよう、と腰を上げてグラスに手を伸ばすヌヴィレットをおっと、とリオセスリが制止する。
「食事のときはちゃんと座らないとな。それにこれは実はちょっと特別に用意したやつなんだ、乾杯くらいさせてくれ」
納得したらしいヌヴィレットがソファに腰かけ直す。少しばかりふっくらとしたかわいらしい手が足の細く背の高いシャンパングラスを持っているのはなかなかにちぐはぐな光景だが、手つきに危なげはない。
同じグラスを手にしたリオセスリは、明かりにそれをかざすように軽く持ち上げた。金環の浮かぶ薄青の瞳がやわらかく細められて淡藤の瞳をとらえる。
「それじゃ。誕生日おめでとう、ヌヴィレットさん」
言祝ぎをかろやかに乾杯に添え、リオセスリは炭酸水を飲み干す。瞠目したヌヴィレットがその喉仏の動きを呆然と眺めていた。
「飲まないのかい? 炭酸が苦手なら、普通の水も用意してあるが
……
」
「
――
いや、いただこう」
ふるりと首を振ったヌヴィレットが小さな唇を薄いグラスの口に付ける。ぱちぱちと弾けて舌や喉を刺激する水を口の中で転がし、「ウラニア湖の近くの山麓で採れる地下水だな」と呟いた。
「当たり。あんたはすぐに正解してしまうからクイズの出しがいがない」
「水に関して私を出し抜こうなどとは千年早いな」
あんたの言う千年は本当に千年なんだろうなあ、とリオセスリは唇をゆるめるようにして笑う。ヌヴィレットは何故だか悔しげに、あるいはもどかしげに眉をひそめて己の首筋に触れた。
「この水の味は好みじゃなかったか? もしくは喉に魚の骨でも刺さった?」
「
……
君に対して言うべきことがある気がしているが、ことばがうまく出てこないだけだ」
一晩で記憶を五百年分整理できなかったのが口惜しい、とヌヴィレットは忌々しげにため息をつく。
それを聞いてぱち、ぱち、とどこか幼げなしぐさで瞬いたリオセスリは、ははっと弾けるような少年じみた笑い声を上げた。
仔龍は小鳥のように少しずつグラスの水のかさを減らしていた。炭酸が飲みにくいなら他の水と取り替えようかという再度の提案もゆるく首を振って遠ざけ、細い喉を長く潤し続けている。
リオセスリがサービス食を食べ終えて食器を下げに席を外し、執務室に戻った頃にようやく水は底をついたようだ。名残惜しそうに空のグラスを見つめているのについ「おかわりがほしい子は?」と声をかけると、淡藤色の瞳がぱっと輝いた。
差し出されたグラスにふたたび炭酸水を注ぐ。一杯目より少し泡の減ったそれを、ヌヴィレットはまたちまちまと舐めるように飲んでいる。幼くなっても健在の、形容に困るあの青い房が心なしか輝いて機嫌よさそうにゆらゆらと揺れていた。好きなものはゆっくり味わうタイプなのだろうか。
「そんなに好きだったのかい、炭酸水」
口に合ったのなら次の差し入れもこの水にしようかと思考の片隅に書きつける。しかし長い睫毛を伏せたヌヴィレットは「いや、」とあまく微笑んだ。
「天然の炭酸水も嫌いではないが
――
この一本が例外だ」
リオセスリはふうん? と首を傾げつつ、まあそれならもう一本くらいは今度持っていってもいいかとあごをさすった。輸送中の破損も見込んで数本多めに手配している。紅茶に使うには当然向かない種類の水なので、ヌヴィレットが飲んでくれるならそれに越したことはない。
グラスをすっかり干した彼は、「残りの記憶を整理してくる」と告げて寝室に消えた。一晩で五百年分すべてを取り戻しきれなかったのがどうにも矜持に触れたようだ。
それなら今のうちに看守たちのようすでも見てくるか、とリオセスリが半刻ほど部屋を留守にして戻ると、ヌヴィレットはまたまたむっすりと不機嫌そうに半目で床をにらみつつソファに座り込んでいた。
「ねむれない」
「
……
まあ、そりゃ、一晩ぐっすり寝れば、なあ
……
」
リオセスリはくっ、くっ、と殺しきれなかった笑いで喉を震わせた。このあたりのつくりはヒトのこどもと変わらないのか、体力が有り余っている状態で眠れというのもこどもには酷な話だ。
「少し運動でもしたら眠くなるんじゃないか?」
普段の体力底なし沼といったようすのヌヴィレットのようすを思い出すと多少からだを動かした程度で眠くなるようにも思われなかったが、良い気分転換程度にはなるだろう。
水に触れて泳ぐのが好きないきものを、水中に沈めた外の見えない箱の中に押し込めておくのもかわいそうというものだ。リオセスリは外に泳ぎに行こうかと提案し、ヌヴィレットを持ち上げてひょいと腕に乗せた。体格相応の重みだ。抱えられたことが不満なのか、もとより吊り気味の目尻をさらに吊り上げて口を開こうとしたヌヴィレットの唇を人差し指で軽く押さえる。
淡藤色の瞳がじとりとこちらを睨む。頬に突き刺さる視線を飄々と無視してリオセスリはかつてウィンガレット号のドッグだった地下に降りていった。廃材があちらこちらに転がっていてとてもではないがぴかぴかの柔らかい革靴の足は歩かせられない。あるじを失いがらんどうの空間を今後どう活用するかは未だに決まっていないかった。そろそろ何か思いつきたいところだ。とはいえ今の目的はこの空間そのものではなく、封鎖した船の出入り口の脇に設けた人間用の避難扉だった。
床に設置した扉を開ければそこはもう華やかで豊かなフォンテーヌの海だが、そこが本来の棲み家であろう水龍と、神の目をもつ人間であればなんということはない。
ヌヴィレットはリオセスリの腕を軽く蹴って飛び出すと、綺麗な弧を描き水柱を立てて水中にその姿を消した。銀色の魚が水に飛び込むようなうつくしい軌跡だった。
それを追うようにリオセスリも水の中に飛び込んでいく。がぼんという大きな音とともに持ち込んだ空気が大量の泡となり、ぼこぼこと音を立てて水面に上がっていく。泡の群れに視界を塞がれたのでおとなしくそれがひくのを待っていると、小さな手が焦れったそうにリオセスリの指を掴んで引っ張った。
水の中において彼より速く、彼より強いいきものはない。人並み以上に体格が良い、つまりは重量がある自覚があるリオセスリという重りを引きずっているというのにその泳ぎに乱れはなかった。小さな足で一蹴りするだけでひゅうとものすごいスピードが生まれ、あっという間にパイプでできた王国から遠ざかっていく。
おそらくはかなりの水圧がかかっていると思われるのだが、ヌヴィレットが何かしているのか押しつぶされるような感覚もない。リオセスリは彼の荷物としておとなしく水流に身を委ねた。どうせ目撃者は原海アベランドくらいだ。もしかしたらお宝探しの潜水士たちがいるかもしれないが、彼らは海底ばかりを気にしているし、頭上を弾丸のようなスピードで駆けていく龍の姿を捉えることは難しいだろう。
満足したのか目的地にでもついたのか、ヌヴィレットがゆっくりと速度を落とした。周囲の植生やたまに地面から突き出ている配管から察するに、メロピデ要塞の北に針路をとったらしい。海駿が近くに巣を構えていることもあり昔から人気が少ない場所ではあるが、東側の科学院の爆発事件のせいでこの数年は特に人の姿を見かけない。
リオセスリはヌヴィレットから手を離すと、近くのパイプに寄りかかった。流されるままだったがそれなりに疲れた。
彼は慌てたようにリオセスリを振り返ったが、こちらがひらひらとゆるく手を振ると「休憩したい」という意図を理解したらしい。すい、と優雅に身を翻して水の中を踊るように泳ぎ始めた。
水面から降り注ぐ太陽の光を受けてきらめく、真珠のような銀色の髪がゆらりゆらりと水にたゆたう。ふだんは法衣の裾に紛れているうつくしい青いひれのようなものが伸びて青白く輝き水の流れに煽られて、稲妻の伝説にある天女の羽衣のようにひらひらと揺らめいている。
ためいきの出るような優美な光景だった。夢に見るようだな、と気ままに泳ぐ仔龍をぼんやり見つめていると、気がゆるんだのかリオセスリの方が眠くなってきてしまった。祝福を享けたフォンテーヌの海で神の目を持つ者は溺れないというのは分かっているが、このまま寝たらさすがにまずいだろうか。いつの間にか近寄ってきたノンビリラッコの頭を指先で撫でてやりながら、リオセスリは眠気に負けてゆっくりと瞼をおろした。
目をつむるだけのつもりが、本当に意識を失っていたらしい。
リオセスリは己の意識が沈み込み、そして浮上したことを自覚して、まだ重い瞼をゆっくりとこじ開けた。きゅきゅ、と聞き覚えのある愛らしい鳴き声が水を伝って鼓膜を震わせる。この鳴き方は確か、ノンビリラッコが仲間を呼ぶときのものだったろうか。
視界に最初に映ったのはライラックの瞳だった。縦長の瞳孔が少しばかり開いて丸みを帯びている。リオセスリが目を覚ましたことに安堵したのか、張り詰めていたそれがふっとゆるむ。
普段意図的に在庫を切らしている罪悪感が補充されてしまい、リオセスリは開いたばかりの目を伏せてその視線から逃れた。くせでため息をつくと、がぽりと大きな気泡が口からこぼれて水面に昇っていく。恩恵のおかげで溺れはしないが、一度上に上がって息を整えた方が良いだろうか。ぼんやりとそれを見送っていると、頬に細い指が添えられた。
なに、と瞬くのと口がやわらかいもので塞がれるのは同時だった。おとなのものより幾分小さな唇が器用にリオセスリのそれを覆い、こどもになっても変わらず長い舌が歯列を割ってぬるりと口腔に侵入する。ヌヴィレットはふ、とリオセスリの口に空気を吹き込んだかと思うと、軽く叱るように舌で口蓋を一撫でした。
ぱち、ぱちとゆっくり瞬くリオセスリが戸惑いを消化している間に、ヌヴィレットはふいとリオセスリから顔を離し、近くにいたノンビリラッコたちと会話するように視線を交わした。くるりと身体を回したりしっぽを振ったりと何かを訴えかける動きを見てはうんうんと頷いたり首を左右に振ったりしている。
もとより水中で人間が言葉を発するのは難しいのだが、リオセスリがさっぱり理解できないその会話に混ざれないでいるうちに、やりとりは終わってしまったらしい。ヌヴィレットと向かい合っていたノンビリラッコは縦に一回転すると、手にしていた貝殻を彼に差し出した。
微笑んでそれを受け取るヌヴィレットを見守っていると、何かもふもふしたものにきゅっと指を握られる。腕に視線を落とすと、リオセスリの指を掴んでいる二匹目のノンビリラッコがいた。
なんだい、と首を傾げると、彼はぴょっと伸び上がってリオセスリのまわりをくるくる回った。ノンビリラッコの個体の区別がつくわけではないが、なんとなく要塞の通路の窓越しによくこちらを覗きこんでいる子と似ているような気がする。
額を軽くつつくとラッコは楽しげにくるくると回る。そんなに回って目が回らないのだろうか。リオセスリの心配をよそにノンビリラッコはへっちゃらと言わんばかりにリオセスリの周囲を悠々と泳ぎ、先ほどの個体のように貝殻を差し出してきた。
おそるおそる手を伸ばして貝殻を受け取る。ノンビリラッコはご機嫌なようすで一鳴きすると、リオセスリの周囲をゆっくりと一周して仲間とともに離れていった。
帰りもヌヴィレットエンジンによる弾丸ツアーだった。急な加速や減速に振り回されたせいか内臓の位置が落ち着かないような気がする。
腹をさすりつつ、ウィンガレット号のドッグに戻ったリオセスリは濡れてすっかりと重くなったコートを絞った。びしゃりというよりもどしゃどしゃという形容がふさわしいような重い音を立てて大量の水が落ち、床を濡らしていく。絞っても絞っても水分が抜けないコートと戦っていると、その手元が急に軽くなった。シャツが肌にはりつく感覚も消えている。べしょべしょだった髪も乾いてふんわりとしたようだ。
十中八九ヌヴィレットの芸当だろうと彼を振り返ると、少年は加減を伺うように首を捻ってリオセスリを見上げている。
「これで良いだろうか」
「ばっちりだ」
褒める代わりに微笑みかけると、ヌヴィレットもほっとしたように笑みを返す。またうっかりと頭を撫で回しそうになった手はそっと引っ込めた。階段を上って執務室に戻るまでの間、何かを求めるような視線がざくざくと突き刺さった気がするが、きっと気のせいだろう。いくら背丈が小さくなっているとは言え、気安く頭を撫でるなど半ば記憶の戻っている年長者相手にすることではない。だからその物言いたげにちょっと寂しげな目をするのはやめてほしい。うっかり撫でてしまいそうだ。
なんとか誘惑に耐えきったリオセスリは執務室のソファに腰かけると、ノンビリラッコから受け取った貝殻を部屋の明かりにかざした。
広げた扇のようなオーソドックスな形状の淡い桃色の貝殻だが、光を当てると砂金でもふりまいてあるかのように小さくきらきらと輝きを放つ。岸辺ではあまりみかけたことがない種類のように思われたが、海の中で拾ったのだろうか。
「なあ通訳さん、これってどういう意味合いでくれたのか分かるかい?」
ノンビリラッコのようすからして好意的なものだろうとは思っているが、念のためにヌヴィレットに尋ねる。まだカクークのことまで思い出していないだろうが、通訳と呼ばれたことに嫌な顔もせずヌヴィレットは答えた。
「リオセスリ殿に渡された貝殻は親愛の証だろう。彼は要塞の中を見るのが好きだと言っていた。水の中にも人間がいっぱいいると」
「ああ、やっぱりいつもあそこにいる子か。あんた宛てのはまた違う意味かい?」
ヌヴィレットが手にしているのは薄く縞の入った白い貝殻だった。角の丸い三角形のそれは砂を固めたようにざりざりとした質感をしている。犬や猫の爪を削るのにちょうどよさそうだ。
「これは
……
しいて言うなら『応援』だろうか」
「応援?」
水の龍王を励ますとはまた肝の据わったノンビリラッコだ。ヌヴィレットの現状を理解してのものだろうか、とリオセスリは小首を傾げたが、何を応援されたのかまでは彼は語らなかった。
「ノンビリラッコからも誕生日プレゼントをもらえて良かったな」
「ああ、そういえばそういうことになるのか
……
」
ヌヴィレットが語らないことについて基本的に深入りをしないようにしているリオセスリは、無難と思われるコメントでお茶を濁した。それではたと気付いたらしい彼が手の中の貝殻を見下ろす。リオセスリはそのようすに微笑ましさを感じながら、机の上にたたんだハンカチを敷いて桃色の貝殻をそっと置いた。ノンビリラッコへの御礼はやはり同じものが良いだろうか。今度メリュジーヌたちにきれいな貝殻のある場所でも聞いてみよう。
さて、とリオセスリは指先で貝殻を撫でているヌヴィレットを振り返った。
「それで、多少は体力を使ったと思うんだが
……
眠くなったか?」
「
……
」
口を閉ざした仔龍は静かにふい、と視線をそらした。いたずらが発覚してこれから叱られることを理解している猫を連想させるしぐさに思わずぷっとふきだす。
無言でじっとりと睨んでくるヌヴィレットに、わるいわるいと手を振ったリオセスリは、こちらも物語に出てくる意地の悪い猫のように何かを企むにやりとした笑みを浮かべた。
「腹もくちて、からだも動かして、それでも眠れないんじゃ
……
あとは子守歌かな?」
「なるほど。では君の歌を所望する」
「いや、冗談なんだが」
大真面目に頷くヌヴィレットに、真顔に戻ったリオセスリはぼそりと呟いた。
そういえばヌヴィレットがジョークをジョークと理解して切り返してくるようになったのはここ最近のことだったか。感情表現の豊かさを取り戻したようなので勘違いしていたが、その記憶を思い出せていない今の彼は発言の意味をことばどおりに捉える可能性の方が高いだろう。
痛み始めた気のするこめかみを押さえていると、ぐいぐいと腰を押される。昨日もやったなこれ
……
と遠い目をしながら今回はおとなしく流された。もともと今日の午後はメリュシー村に招かれていて予定を空けていたので特にやるべき仕事もない。今も水の上で職員らと奮闘しているだろう旅人たちやメリュシー村の誕生日パーティーの延期対応に追われているだろうシグウィンたちのことを思えば、今の自分の最優先事項はヌヴィレットの寝かしつけだろう。ことばにするとだいぶおかしく聞こえるが事実なのだから仕方がない。
てっきりベッドサイドに座らせられるのかと思っていたのだが、ヌヴィレットはそこで留まらずリオセスリはなぜかベッドの中に押し込まれそうになった。
せめてブーツは脱がせてほしいと訴えると、ヌヴィレットは複雑なつくりのごつごつとしたブーツを仇でも睨むかのように冷たく見下ろす。そのまま手をかけてくるので慌てて制止した。細くて小さくてやわいこどもの手で尖った部品を触るなど、怪我をしかねない。そもそもヌヴィレットに靴を脱がされるとかいう倒錯的な経験をさせられるのも勘弁してほしい。
変な気分になったらどうするんだまったく、とぼやきながらブーツの留め具を外していく。リオセスリの支度が整うまでの間、ヌヴィレット少年は腕組みをして扉を塞ぐように立っていた。昨日彼の言いつけを守らなかったせいで信用がないらしい。どうしてそこまでベッドで一緒に寝ることにこだわるのかリオセスリにはどうにも理解できないが、ご所望なのなら仕方がない。おとななら、誕生日という一日限りの王冠を戴いたこどものお願いはできる限りきいてやるものだ。
これでいいかい? とリオセスリが投げやりにマットレスの上に寝転がるとようやく彼も納得したのか、のそのそとベッドに上がり込んでくる。掛け布を引き上げてふたり分のからだを包むと、秘密基地を作ってその中に隠れたときの甘酸っぱさを思い出した。
「それで、あんたはどんな子守歌を聴いていたんだ?」
「私はいつも潮の流れる音を聞いていた。君の知っている歌でかまわない」
「ああは言ったが、俺も子守歌なんて知らないからなあ
……
というかその話だと水の中で寝る方が良いんじゃないか、あんた」
「人間の寝台で寝ることにはもう慣れた」
ヌヴィレットの具体的な年齢を聞いたことはないが、確かに取り戻した記憶の範囲でもフォンテーヌを住まいとして数百年が経っているはずだ。本人がそう言うならいいか、とリオセスリはため息をつくと腕の中におさまってきた小さな背をぽんぽんと軽く叩いた。
子守歌こそ知らないが、昔の家ではよくリオセスリのベッドに忍び込んで抱きついてきたり話をねだってきた弟妹を寝かしつけたものだ。その頃のくせが出ていたことにはっとする。少しでも気がゆるむと幼くなったヌヴィレットを年下のきょうだいにするように扱おうとしていけない。
しかしそういった扱いを受けたヌヴィレットはこども扱いを不服とはせず、逆に満足そうに目を細めて背を丸めていた。猫なら喉がごろごろと鳴っていそうだ。その上、リオセスリの動きが止まったことにふしぎそうに視線を上げて無言で再開を促してくる。
とりあえず不快には思われていないようだと判断したリオセスリはまた手を動かし始めた。しかしこれでも眠れないと言われたら次はどうしようか。
つらつらと考えを巡らせているうちに普段よりあたたかい懐に眠気を誘われ、くあ、とあくびをしているとくすくすと小さなさざなみのような笑い声がした。
「君の方が疲れているな」
「あんたにとっては息をするのと変わらないかもしれないが、泳ぐってのは意外と体力を消耗するんだよ」
リオセスリは軽く口をとがらせて肩をすくめる。ふむ、と何かを考え込んだヌヴィレットは自身の手を突然ぎゅっと強く握り込んだ。そうしてゆっくりと開かれたこどものてのひらには、カメラのレンズのような、まるくて薄くて透きとおったものが載せられていた。
どうぞ、と差し出されたそれをリオセスリはそっとつまみあげた。ぱっと見たところでは透明なレインボーローズの花びらのようにも思えたが、手にしてみると意外と固い。力を入れたらそのまま割れてしまいそうな繊細なそれを光にかざすと、傾けた加減によって青みや緑を帯びた硬質な光を反射する。植物というよりも、なにか大きな魚や蛇のような生きもののうろこなのかもしれない。
正体を探りつつためつすがめつ眺めているリオセスリをヌヴィレットはしばらく見守っていたが、そのうちじれったそうに肩を揺すってそれを取り上げた。あ、とリオセスリが開けた口にひょいとそれを放り込む。
透明な何かは舌の上ですっと融けた。口の中を濡らすのは水のようだった。氷だったのかと首を傾げたが、手に持っていても融けはしなかったし、指先も口の中も冷えてはいない。淡い藤色の期待の眼差しからすると悪いものでもないのだろうが、しかし果たしてこの水を飲みこんでもよいものか。
「結局なんだい、これ」
「
……
体力の回復を増進する効能がある。水元素で構成されているので人体への毒性はない」
「さようで
……
」
若干言い淀み、回答をはぐらかされたのが気にかかるが、もとよりヌヴィレットが害になるものを飲ませてくるとも思っていない。ただ、人外の基準で判断されたものを迂闊に受け取るのはお互いにとって意図せぬ不幸な結果を招きかねない。数瞬迷った末、リオセスリは口の中の水を飲み込んだ。口内でしばらく転がしても異常が感じられなかったのもあるし、親切を目の前で吐き出すのはさすがに良心が咎めた。
こくりと上下する喉の動きにヌヴィレットも納得したのか、起き上がるのに立てていた腕を戻してリオセスリの腕を枕にまた寝転がる。ずり下がった掛け布を引き上げると、リオセスリの腕をぽんぽんと軽く叩いた。
「早く寝ると良い。睡眠中が最も効果を発揮する」
「はいはい」
ふくふくとした手がそっと顔にのばされ、かざされた手のひらに瞼をおろされる。触れ合う肌の感触ばかりは変わらないのだな、と思いながら促されるままに目を閉じた。
抱きしめて寝たはずがいつのまにか抱きしめられていた。
一眠りから目覚めたリオセスリは、背に回された腕の感触と視界に飛び込んできたおとなの男性の胸板に、あの少年はもういないのだなと胸に走るかすかな寂寥感に吐息をもらした。
「おはよう、リオセスリ殿」
耳を震わせるのも小鳥の愛らしいさえずりのようなこどもの声ではなく、穏やかに寄せる波のような落ち着いたおとなの声だ。
「おはよ、ヌヴィレットさん。その姿じゃ聞くまでもなさそうだが、記憶と体調は?」
「万全だ。迷惑をかけたようですまない」
もとどおりの成人男性の姿を取り戻したヌヴィレットは肩を落としてどことなく申し訳なさそうにしている。リオセスリはそれを笑い飛ばした。
「あんなの迷惑のうちに入らないさ。まあ、メリュジーヌたちのところには早く行ってやった方がいいと思うが」
「ああ、だがこれから訪ねるには少々遅い時間になってしまった。明日向かうとしよう」
ゆるりと長い睫毛を伏せたヌヴィレットは、手帳に予定でも書きつけるかのように宣言する。再び持ち上げられた銀色の睫毛からのぞく、雲のたなびく朝焼けのような、やわらかい紫色の瞳がひたとこちらを見据える。
「君の疲労はどうだろうか」
「ああ、小さくなってた間のことも覚えてるのか。おかげさまで、最近の悩みだった腰痛まで跡形もなく消えてるよ」
答えたとおり、一晩ぐっすりとよく寝たあとのようにすっきりとしている。手足も軽い。うっかり寝過ごしたのかとも思ったが、懐中時計を見る限り、最後に時間を確認してからまだ数時間も経っていないようだ。仮眠レベルの睡眠時間である。リオセスリは自分のからだをしげしげと見下ろした。
「こんな短時間でここまで劇的に回復するんじゃ、科学院のやつらが目の色を変えてほしがりそうだな」
「あいにく一般的に流通させるのは難しい代物だ」
「だろうな。じゃ、俺が飲んだのはただの水だったということで」
おそらく普段のヌヴィレットであればちょっと疲れたくらいの状況でリオセスリにこのような手札を見せるということはしなかっただろう。記憶の不足のせいで判断力が鈍っていたか、精神も肉体に引きずられて幼くなっていたか。
幼いヌヴィレットの気遣いに免じて知らないことにしておくと暗に示すと、しかし彼はなぜか少しばかり腑に落ちないと言いたげな、なんだか奇妙な顔をした。聞き返す代わりに首を傾げるリオセスリから目線をそらしたヌヴィレットは、薄く開いた扉の向こうに見える、執務室の机に置かれたノンビリラッコの貝殻を気に留めて目を眇めた。
「なんだい?」
「いや。
……
うむ、あれを渡すことの意味についてはまた別の機会に話そう」
知らない方が良い気がするな、それ。リオセスリは踏みかけた薄氷からそっと足を離すように目を伏せた。人間、生きていれば見ざる聞かざるが最良の方法だというシーンに何度か遭遇するが、今もそのひとつだろう。水でできたうろこのようだと思ったことと、目の前の存在の本質が水を司る龍だということもきっと結びつけてはいけない。
ヌヴィレットは既にいつもの法衣をまとっていた。そういえばぱんぱんにふくらんだ紙袋を旅人たちが置いていった気がする。ベッドサイドに置いていたはずのそれをのぞくと随分とスリムになっており、中にはたたまれたこども服がしまわれていた。なるほど、と理解したリオセスリは着替えを目撃せずに済んだことを珍しく神に感謝した。内容を水神
――
元だと彼女は強弁するだろうが
――
が知ることがあれば、さぞ嫌そうな顔になっただろう祈りだった。
寝覚めの気分転換に紅茶でも淹れようとヌヴィレットを促し、からだを起こして立ち上がる。お互いくつろいだ格好ならまだしも、法衣姿の彼の前でシャツ一枚というのも落ち着かないと、ベストだけは羽織り直す。
リオセスリにとってティータイムは支度も含めて好ましい時間だ。供する菓子を選ぶ楽しみはもちろん、無心でお湯や茶葉の準備のために手を動かしているとふしぎと気持ちが落ち着き、思考が冴えるような気がする。褒美に美味しいお茶が飲めるというのが何より良い。
背丈が変わろうと変わらず行儀良くソファに腰かけるヌヴィレットの前にソーサーをサーブし、向かいに腰かける。
カップを持ち上げると爽やかな香りがすっと鼻腔を抜けていくのにほっと息を吐いた。カップに口をつけるとお茶の温かさがさらにしみる。
「それにしても、あんたをこどもにするなんて随分と強力な秘境だったようだな」
「いや、拒むことはできたのだが
……
」
歯切れの悪いヌヴィレットのようすに眉を上げる。珍しいことに、彼はいたずらがばれたこどものようなきまりわるげな顔をして手元のティーカップに視線を落としていた。
「この秘境が演算する私の幼少期の姿とはどのようなものかと気になってしまい
……
」
「ほう、好奇心は猫どころでなく龍をも危険にさらすらしいな」
面目ない、と首をすくめて小さくなっているヌヴィレットの思わぬ落ち込みぶりに、リオセスリはなんとなぐさめたものかと頬をかいた。
「これからはそういうときはまずメリュジーヌたちの顔を思い出した方が良い。彼女たちが悲しみそうな判断はすべきでないとすぐに分かるだろうさ」
「うむ。彼女たちにも君にもわるいことをしてしまった」
「俺かい?」
突然名前を挙げられてリオセスリは目を丸くした。ヌヴィレットは人差し指でぴっと一点を指す。机の端に寄せておいた炭酸水の予備のボトルたちだ。
「私のために用意してくれたものだろう」
祝いごとの乾杯にはシャンパンやスパークリングワインが用いられることが多い。酒精よりも水を好む彼の誕生日の食卓に炭酸水を添えればその風情が味わえるのではないかと取り寄せた
……
という理由については黙っていたのだが、どうやら察されていたらしいと苦笑する。
もちろん、本命のプレゼントは別にきちんと用意している。リオセスリとどのような交流を結んでいたのか覚えていないヌヴィレットに渡しても不審がらせるだけだろうと考えてそちらは本日しまったままだ。
「なんだ、最高審判官様にはぜんぶお見通しだったか」
「本日は有給休暇を申請している」
「最高審判官様をするのはお休みの日だって? はいはい、あんたもずいぶんと柔軟になったようだ。その意気で年休消化率百パーセントを目指してくれ」
リオセスリは足を組み直し、大仰に肩をすくめて左右に首を振った。一連のおどけたしぐさをまじめに見ていたヌヴィレットの視線が、リオセスリから机の上の未開封のボトルたちにそれていく。
「せっかく君が準備してくれたのに、こどもの私に先に飲まれてしまったことが少々癪に障っている。
……
一杯いただけないだろうか」
それもあんただってのに? とささやくと、ヌヴィレットは顔をしかめた。どうやら謎の線引きがあるらしい。
「まあいいさ。一杯とは言わず残りぜんぶ飲んでくれてかまわないよ」
小さく笑ったリオセスリはすっと身を引くとボトルとグラスを取りに立ち上がった。朝と同じように細身のシャンパングラスを取り出して炭酸水を注ぐ。
「そういえばこれ常温だな」
朝開けたのはもともと冷やしていたボトルだったのだが、その一本以外は執務室に置きっぱなしのものだ。水なら冷えている方が良いだろうかと、指先に小さな氷を作ってグラスの中にいくつか落とす。せっかくなのでメリュジーヌたちのステッカーを思い浮かべて星形や音符型、ついでに小さなサメや犬を模したものもこっそりと混ぜた。
大きさの割にはうまく輪郭を捉えられた気がするなと満足したところで、炭酸水に氷を入れるのは邪道だと思うかもしれないと気が付く。こっそりとヌヴィレットのようすを伺うと、しかめ面がゆるんでむしろどこか嬉しそうだ。冷やすのは正解だったらしい。
しゅわしゅわと弾ける泡と氷が入って賑やかになったグラスを掲げて乾杯する。
ああそうだ、と思い出したリオセスリは泡立つグラス越しにヌヴィレットの端正な姿を捉えてふっと微笑んだ。
「じゃああらためて。
――
お誕生日おめでとう、ヌヴィレットさん」
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