Dr.ギャップ
2025-12-14 21:31:05
26113文字
Public 二次創作短歌オンリー歌会
 

2025二次創作短歌オンリー歌会(おまけ歌会)

2025年秋(冬)に開催した二次創作短歌オンリー歌会(おまけ歌会)の参加作品とコメント一覧です(敬称略)。
おまけ歌会のテーマは「三人以上の関係性を詠みこんだ短歌」でした。

企画詳細→ https://privatter.me/page/68e5378a840cc
企画用ハッシュタグ→ #二次創作短歌オンリー歌会

もういない誰かあなたをこの日まで愛し育てた人のまぼろし  るぴ

● 「あなた」の仕草から愛情を受け、素敵な人に育ったのだとを感じました。
初句と結句から、慈しみ育てた彼らがいなくとも愛情を受けた側の生き様を通して生きているのだと伝わりました。
素敵な家族の姿を拝見できました。──海月雪夜

● あなたの仕草や生き様に育ててくれた誰かが重なって見えているのかな。主体と"愛し育てた人"は似ていて、"あなた"に対する熱量が近いものだから見えたまぼろしなのかなと歌を読んで感じました。「この日まで」と言うのが特別な日で何かを成し遂げたのかなと想像しています。真摯なまなざしだと思いました。──山と森と街

● 愛情を注いだ人と注がれた人がいて、でも何らかの事情で、今ふたりは一緒にいないんだな。それを見つめる詠み手がいて、離れ離れのふたりのことを切なく感じつつ、「確かにそこには愛があったんだよ」と読み手に、そして愛情を注がれた「あなた」に伝えたいうたなんだろうな……と、思いました。
このふたりは、親子なのかな。それとも、歳の離れたきょうだい同士かな。もしくは擬似家族的な他人同士かもしれないし、師弟関係かもしれない。いずれであっても、その愛情のかけがえのなさは等しくそこに在ると思うので、今は近くにいられなくても、その関係は誰にも断ち切れないものなのだと、詠者の強い想いを感じます。──しまおかさよ

● 「私」と「あなた」、「あなたを育てた人」の三者ですね。「あなた」の中に「もういない誰か」を重ねてしまう。この「もういない誰か」は、単に親というだけではなく、教え導いてきた師のように読めます。作中主体もまた「あなた」を愛しているゆえに、誰かのまぼろしを重ねるたびに知らない面を見たような切なさを覚えるのでしょうか。この三人の関係性がすごく好きです。──サイリ

● 3人以上の部なので、「誰か」の幻は複数人いることになります。主体にとっては家族も同然であったろう人たちの、優しくあたたかい眼差しを感じながらも、もういない寂しさがより一層身に沁みる切ない短歌です。──ゆの

● 〈もういない誰か〉=〈あなたをこの日まで愛し育てた人〉と読んでいます。〈この日まで〉は「今日この日まで」という意味だろうと思ったのですが、だとすると〈誰か〉という詳細不明な人物であることが不思議で印象に残りました。もともとは面識もあったのに記憶ごと姿を消してしまったような、魔法や神隠しのような超常の力で〈もういない〉存在になってしまったのでは、という予感があります。
そうして姿の見えない人であってもなお〈まぼろし〉として〈あなた〉のなかに面影を残しているというのがまた印象深く感じました。愛し育てられた〈あなた〉がその人のことを回想しているのではなく、育てられたあなたを通じてその人が思い起こされているというのが、これら人々の関係性の広がりやつながりを感じていいなあと思います。──Dr.ギャップ

● 絶対に違うだろうなとは思いますが、西尾維新の人間シリーズの無桐伊織を育てあげた家族のことを、零崎双識が詠んだ歌なのではないかと解釈しました。人を殺したくてたまらない性質を抑え、普通の人間としての人生をあげた伊織の家族は、とても伊織のことを愛していたことでしょう。何処かその面影を、伊織を通して見ている姿が浮かびました。──雪宮斎希

★作者コメント
● Nintendo Switch用ソフト『バディミッションBOND』の主人公ルーク・ウィリアムズとその養父エドワード・ウィリアムズ、ある目的のためにルークと行動を共にする詐欺師チェズレイ・ニコルズの3人です。
孤児だったルークを引き取って育ててくれたのがエドワードです。十年前に殉職しゲーム本編の時点で故人になっていますが、ルークは「父さん」のようなヒーローを目指して父と同じ警察官の道に進み、最後までエドワードから受け継いだ志をつらぬいて戦います。
チェズレイはルークとは対照的な生い立ちの犯罪者です。実父との関係も最悪で、エドワードへの思いを心の支えとするルークにも冷淡な目を向けています。一方でルークとエドワードの関係にいくらかの羨望も感じているのではないかと思わせる部分があり、その辺りを歌にしました。
「もういない誰か/あなたをこの日まで」と二句の途中で分かれます。チェズレイはエドワードと面識はないしルークのことも利用するつもりでしかないのに「あなた」という呼びかけを使う、どこまで本心かわからない親密さの演出です。──るぴ

年末の鍋西の席空けて見る呪いのビデオにあぶらは跳ねて  スギ

● 鍋を囲んでビデオを見ているというシチュエーションから、主体たちは誰かの家に集まっている気がします。もしくは家みたいにくつろげる職場とか?
西の席を空けているのは、そちらの方にビデオを見るための機器を置いているからでしょうか。ビデオと言っているので、再生機器もレトロな分厚いテレビを想像します。また、西は日が沈んでいく方角で、年末の西の方角に呪い(のビデオ)を置くということは、来る翌年にそれを持ち越さない、今年に置いていくということなのかなとも思います。
そこに跳ねる脂。脂がはねる鍋ということは、お肉とか魚が具として入っているということでしょうか?豪勢で年末っぽいです。モニターに脂が跳ねて付くということはおそらくテーブルとの距離が近いということだと思うので、背の低い座卓やこたつが想像されて、この鍋アンド呪いのビデオ視聴の集まりがとても気さくで温かいものなのかもなと感じられます。脂が跳ねるほど勢いよく食べたり話していたり、また、「呪いのビデオ」に食べ物の脂が付着することも、なんだか呪いの禍々しさが主体たちに全く影響していないみたいで面白いです。
一首をとおして賑やかな雰囲気が伝わってきて、愉快な歌でした。──曇

● 炬燵的な四角い机と鍋を囲む3人の姿がぱっと浮かびました。いつものメンバーでいつものように飲み食いしてるわちゃわちゃした感じと、テレビを観るために空けてある西の席に呼ばれてもない幽霊?がぐわっとしそうで、でも跳ねた脂で画面内に押し返されているような!コントっぽくて面白い歌だと思いました。──山と森と街

● 呪いのビデオというパワーワードについ引きずられて「鍋というのは何の鍋ですか?」「脂という表記をわざわざするということは動物性の油ですか?なんの動物ですか?人間?」など、不穏な方向に想像力が羽ばたきました。申し訳ありません。西の席を空けているのは後からそこに来る人がいるからでしょうか、それとも西に旅立った人のために空けているのでしょうか。──るぴ

● 年末恒例の鍋、「西」とあるため、いつもは四人集まる予定だったのでしょうか?
鍋には賑やかなイメージがありますが、一人来なかった寂しさを「空けて」と跳ねた脂に感じました。
静寂の感じさせ方がとても素敵でした。──海月雪夜

● 脂の跳ねる鍋、すき焼きですかね。呪いのビデオを見ながら鍋をつついて家族で年越しする場面を思い浮かべました。毎年恒例の鍋、定位置の「西の席」にいるはずの人がいない。材料が余ったりしているかもしれません。跳ねた脂は、いない人の分の肉を焼いた脂なのではないか。そんな気がしました。鍋も席もビデオを見ているテレビも、ギュッと近い距離にあることが跳ねた脂から伝わって、余計にいない人の分の空白を強く感じました。──ゆの

● シチュエーションも一首のトーンもとても好きな手触りで、好みの短歌に出会えたな、原作はなんだろうとうきうきそわそわしています。
年末、呪いのビデオを見ながら鍋を食べている。〈年末の鍋〉という言い回しから恒例行事なのかな、〈西の席空けて〉から西以外の三方が埋まっているのかなと思い、気の置けない仲間で集まって鍋を食べているシーンを想像しました(ちなみにこたつです)。西の席を空けているのはそこに誰かが座るはずだったからではと想像する一方、〈呪いのビデオ〉と相まって降霊術めいた気配を感じてもいます。この世のものではない存在に「来てもいいよ」と呼びかけているような。
そうしたオカルティックなイメージと同時、〈脂は跳ねて〉から生活の生々しさや猥雑さを感じ、その塩梅にぐっときました。すごく好きな短歌です。──Dr.ギャップ

● 呪いのビデオから出てくる人のために西側の席を空けているのか?とも思ったんですが、ビデオ(テープ)自体に脂が跳ねているなら多分カセットデッキにはまだ入れてない。
呪いのビデオを酒のつまみにする前に、一旦鍋で腹ごなしをしようとしてる学生たちなのかな?と想像しました。──室城

★作者コメント
● 映画「貞子DX」の一条文華・前田王司・感電ロイドが仲良く鍋を囲むような状況かつ、鍋の席にこれから来るであろう貞子を詠みました。
■原作について
「貞子DX」は科学でなんでも解明できる!と豪語する主人公一条文華と、ビビりで惚れっぽく胡散臭い占い師の前田王司、文華のフォロワーでなんか王司にも懐かれている引きこもり常識人感電ロイド(HN)が、呪いのビデオの謎を解くために奔走するホラー(コメディ)映画です。
コロナ禍を経て再解釈された貞子の呪いや、なんともいえない人間関係の雰囲気などが魅力的な作品です。
■三人+貞子の関係性について
それぞれの関係性は、
・文華と王司:王司は文華のことが(呪いによる吊り橋効果もあって)恋愛的に好きですが、文華は別に吊り橋効果もないし王司の胡散臭い占い業も含めて冷静な態度を貫いています。
・文華と感電ロイド:相互フォローの馬が合う友人。理知的な二人ですが、貞子との出会いによって新しい一歩を踏み出します。
・王司と感電ロイド:王司は秒で心を開いていますが、感電ロイドはそれに若干引いています。友人、というにはまだ微妙な距離感です。
・それぞれと貞子:死のウイルスのような呪いで恐ろしいものの、とりあえず共存していく方向でいます。また呪いに罹った人間には、それぞれにとって印象深い人の形で現れます。

■歌について
三人の関係には恋と友情が混在してますが、ギスギスはしてなくて鍋と呪いのビデオウォッチパーティーをしそうな人たちなんですよね。
また映画も死から逃れる方法がわかってハッピーエンド(?)のため、この歌もわりとハッピーな内容なのですが、別にそう取られなくても全然構わないな〜とも思います。(死が日常にあり得るというのはそもそも不吉なため)
人間はビデオをじっと観ていますので、脂が跳ねるのを見ているのは西の席に座ろうとする貞子ということになります。──スギ

運命は燃え尽きるほど迷いなく落ちて輝くための重力  ゆの

● おまけ歌会のテーマを思うと、「このうたの元になった関係性のこと、もっと知りてえ〜〜〜!!!(もし既知の作品だったらアンテナの感度悪すぎて陳謝)」となりました。すきです。
燃え尽きる(-)、迷いなく(+)、落ちる(-)、輝く(+)と、気持ちいいくらいにプラスの言葉とマイナスの言葉が連なっていて、運命とか重力とか、ひとの力ではどうにもならないことに抗うように確かに懸命に生きてるうただな〜と感じました。すきです。──しまおかさよ

● どうしようもない力が自身や相手に働くことは確かに運命的だなと思いました。迷いなく落ちていくことはまっすぐで全身全霊の力を感じますし燃え尽きてしまったとしてもまばゆい、互いにとって本当で大切なものな気がします。「迷いなく」からはどことなく何度もこちらに降るような流星群を想像しました。──山と森と街

● 質量が大きければ落ちる速さもそれだけ上がるし、輝くための力も大きくなると思われるわけですが、この歌が三者以上の関係性を含んでいるのであれば、落ちてゆくのは三者以上のつながりのある誰かたちなのですよね。つながりが大きくなるほど落下の速度が上がり輝きも大きくなり、摩擦熱も増加して燃え尽きるまでの時間も短くなるのでしょうか。それはとても美しいですね、彼らの実体が消滅するわけではないとしても。──るぴ

● 流れ星をイメージしました。流れ星のような「私」と、「私」を流れ星にする重力のような「あなた」。三人以上の関係性が歌会のテーマなので、「私たち」や「あなたたち」なのかもとも思っています。
〈運命〉と〈重力〉の重ね合わせが面白くて印象的でした。確かになぁと思います。抗いがたさや〈迷いなく〉一点を目指すことになってしまう感じが、運命であり重力なんだろうなと。そしてその結果として〈落ちて〉と〈輝く〉が同時にやってくるのが厄介な〈運命〉だなと思います。
ただ、短歌全体の語調からきっぱりとした強さや潔さの印象があり、この「私(たち)」は運命を受け入れ落ちて輝く覚悟を決めているのだろう、そしてそれは悲劇ではないのだろうとも感じました。眩しいくらいの力強さを魅力に感じます。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』より、マチュ、ニャアン、シュウジの関係性を詠みました。
3人とも、自分の人生を変えてしまった「運命」の相手へ、身を滅ぼすほどの片想いをしています。その激しく危うい姿が、たとえ今をすべて壊してしまったとしても、逆らえない想いの重力に引かれ一途に燃え落ちる隕石や流星のようだと思いました。思春期の破滅的な眩しさを少しでも表現できていればいいなと思います。──ゆの

姿こそ違えどいつまでも 我が一族はお前と共にあらん  ぱるき

● 姿が違っても変わっても主体大切に思うという感情や意志を強く感じました。「姿こそ違えど」「一族」や定型とは違う破調のリズムから人間の世界線とは少し違う妖怪的な雰囲気の作品かなと想像しています。──山と森と街

● 姿が違っても側にいる、強い愛の形がとても好きです。
「お前」と呼ばれた方は長命なのでしょうか?「いつまでも」「共に」から伝わる愛の強さに胸を打たれました。──海月雪夜

● 「お前」に対して「我が一族」と言っている主体は、その一族のリーダー的な立場なのでしょう。姿が違うという「お前」に対して主体が「いつまでも」「共にあらん」と願うほどの親愛が築かれるまでに長い物語がありそうで、興味を惹かれます。──曇

● 主体は一族最後の生き残りとか、逆に姿を変えて一族と袂を分かつことになったとか、色々想像できるのが楽しいです。いずれにせよ紐帯は切れることなく、これからも共にあるという言葉は、最上の祝福だろうと思いました。──ゆの

● 王道ファンタジー!と思いました。人と妖怪の異種族間交流のような、一つの冒険の区切りにあるエピローグのような印象です。
〈姿こそ違えど〉は〈我〉と〈お前〉の姿に差がある、ひいては種族などが異なるということなのかなと思うのですが、同時に輪廻転生などで姿が変わっても〈いつまでも〉共にある、というイメージも持ちました。
セリフそのままのような言葉の並びできっちり三十一音になっている一方、語句の切れ目とリズムの切れ目がほぼ重ならず、口ごもったりつっかえたりの印象があるので、言葉とは裏腹に歯切れの悪い思いなどがあったりしたのかも……もしくは言葉が少しずつ継がれるところに〈いつまでも〉のイメージが重なっているのかな……と想像しました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 昨年に続いて「もののけ姫」の歌になります。サンを一族として受け入れ、共に生きてきたモロと山犬の兄弟。死してもなおモロは、それにサンと共に惨禍を生き抜いた山犬の兄弟は、これから先も彼女のことを想い続け共に生きていくと思います。サンもまたその想いは同じはず。──ぱるき

家族とはひとりとひとりが手を伸ばしあって見つけたとなりの光  しまおかさよ

● Chosen Familyについての歌だ!と思って、読んだ瞬間嬉しくなりました。
「ひとり」の人たちが「手を伸ば」すという、自分から離れた場所へ届こうとする動作を介して見つけるものである、ということから、きっとこの歌の「家族」とは、生まれた家や血の繋がりで定義される家族ではないのだろうなと想像します。二句「ひとりとひとり」を平仮名に開いて一音一音を表記の上で強調し、かつ字余りにして枠からはみ出ていることで、このフレーズが1+1=2人ではなく、3人以上のひとを示しているように読める気がしました。
三句・四句「手を伸ばし/あって」となっていますが、「伸ばしあって」が句を跨いでいることで伸ばした手が誰かに届いているような感じがしますし、平仮名表記の「あって」が四句頭に来て独立性も帯びていることから、もしかしたら「会う」の意味も込められているのかもと思いました。
それぞれ離れたところにいて手を伸ばしあって繋がった人たちが、「となりの光」になる。とても得難いことだなと思います。──曇

● ひとりとひとり、それぞれが手を伸ばしあって隣にいるいてくれる人を見つけるというのが暗闇の中で星を繋いだ星座も連想して美しく広がりのあるすてきな歌だなぁと思いました。その光は色んな形があるのだろうと思います。また音にして読んだ時に歌を噛み締めながら読める感じでとても好きです。──山と森と街

● この歌の中では「ひとり」と「ひとり」にフォーカスが当てられていますけれども、そこからまたそれぞれが手を伸ばし合い、「ふたり」になった「ひとり」と「ひとり」のもとにまた新しく「ひとり」がお互いを見つけてできあがったのでしょう。ひとつひとつは小さな光でも、それが引き合って生まれる大きな輝きとそこから生まれる未来にまで想像が広がりました。──るぴ

● 擬似家族のような関係でしょうか。元々家族というよりも、別々に生きていた人たちが集まったコミュニティを家族と呼んでいるような、隣人愛を感じました。──くぼたむすぶ

● 「ひとりとひとりが手を伸ばしあって」だと二人きりの世界かな?と思うのですが、伸ばしあった結果「となりの光」(三人目)を見つける。
「光」はまだ「となり」にいて、「ひとり」と換算できないような存在なのかもしれません。
一字違いの「ひとり」と「ひかり」が響き合い、「となり」も韻を踏んでいてきれいな歌だなと感じました。──スギ

● 家族とは当たり前のものではなく、血のつながりでもなく、一人一人が自分の意思と行動で選びとったもの、という自負が感じられます。「となりの光」という言葉が素敵です。家族となってお互いに隣にいる相手を照らし合っているんですね。スパイファミリーを思い浮かべました。──ゆの

● 〈ひとりとひとり〉がお互いにそう思っているんだろうな、という印象が心に残りました。お互いに手を伸ばし合って、隣にいてほしい光だと選んで決める、素敵な関係性だなと思います。「見つけて手を伸ばす」ではなく〈手を伸ばしあって見つけた〉という語順も印象的で、家族になれるような誰かを探すなかで互いを見つけて家族になることを選んだ(同意した)のかなと想像しました。
「三人以上の関係性」がテーマなので、〈ひとりとひとり〉が三人以上いるのか、〈となりの光〉が〈ひとりとひとり〉のお互いのことではなくて三人目なのかと想像しました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● きみは『羅小黒戦記2』を観たか。
劇場版一作目は、ネットの噂を頼りに吹替リリースのタイミングで観に行き、師弟のよさにまんまと狂わされた記憶がある。そのため、今作は公開初日、勤労を終えたその足で劇場に向かった。そしてまた、まんまと歴史は繰り返すのである。
今回は、前作ラストで師弟関係を結んだ無限(ムゲン)と小黒(シャオヘイ)とともに、姉弟子の鹿野(ルーイエ)が登場する。彼女が、もう、めちゃくちゃいい。強くて、やさしくて、トラウマをかかえてい(た時期もあっ)て、でもまっすぐに生きていて。私が狂うべくして狂っている最高の女なのだ。くそー。
彼らの繋がりに、血は介されない。ひとりぼっちあるいはひとりぼっちになってしまった者同士で手を取り、繋がりあう。家族ではないけれど互いを信じ、甘えを見せる。彼らのひとり残された命は、我々とは違う時を刻む。だからこそ、師や弟子といった擬似的な家族のかたちを求めるのかもしれない。でなければ寂しさに耐えられない夜もあったろう。
ひとりでは、手は繋げない。手をひらいて、差し伸べてくれる誰かが必要だ。失うことは身を切るより辛くても、それでも長い時間を支え合える"誰か"に出会えたこと、大きくなったいのち、小さいいのちによかったねと思う。
【劇場版『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』より、無限・鹿野・小黒】──しまおかさよ

アイツには見せない顔を知っているオレは恋人わたしは親友  佐倉

● 一読して可愛い歌だと思いました。
一人の人を間に挟み「恋人(親友)のオレには(わたしには)こんな顔を見せてくれる」とやり合う二人がとても可愛らしいです。
二人に想われる人の素敵さを感じました。──海月雪夜

● 「オレ」と「わたし」はどちらともが自分だけの知っている顔を誇っているように感じられる一方で、自分には見せない顔があることにも気付いているのでしょうか。ちょっとした優越感とかかすかな嫉妬心とか、掘り下げればいろんな感情が浮かび上がってきそうです。ここにいない誰かとそれぞれの関係だけでなく、ここにいる二人の関係も観察したくなります。──るぴ

● 3人の立ち位置が面白いなぁと思いました。仲間や友達のような、でも負けられない相手のような。「アイツ」に対しての2人の巨大感情たっぷりという感じでにこやかでしずかな火花を感じました。──山と森と街

● 三角関係の歌だなと思いました。真っ直ぐ読んで自分の「恋人」/「親友」が、その「親友」/「恋人」である「アイツ」には見せない顔を「オレ」/「わたし」は知っているのだと対抗意識と優越感を持っていると読むのでも楽しいですし、もしくは、「アイツ」を「オレ」/「わたし」の「恋人」/「親友」と取り、「アイツ」に対してそれぞれの形で親しい者同士だからこそ、相手が「アイツ」に見せない・見せられない顔を知ってしまうときもある、と読んでもおもしろいかなと思いました。──曇

● 「オレ」の恋人=「わたし」の親友で、お互いに「お前の知らないあいつの顔を知ってるぞ」と内心マウントを取り合っている、という風に読みました。あまりにも好きです。共通の知人、あまりにも罪すぎる。──月ノ華

● 恋人にしか見せない顔、親友にしか見せない顔色々あると思いますが、それについて恋人関係の「オレ」と親友関係の「わたし」が張り合っているように読めて面白いなと思いました。「オレ」の恋人であり「わたし」の親友はとても魅力的な人物なのでしょう。自分にだけしか見せない顔があるという二人の独占欲が良い意味で溢れていて、一体どんな原作なのかすごく気になりました。──アサコル

● 〈オレ〉と〈わたし〉は同一人物なのか? 別の人なのか? どう読めるかな、というところにワクワクしました。同一人物だとしたら人間関係の複雑さとドラマにワクワクしますし、別人だとしたら別の立場で同じ感情を抱える二人のモノローグを重ねる短歌のつくりが格好良くてぐっときます。
恋人/親友だからこそ見せてもらえる顔がある、その顔を知っていることの優越感や誇らしさと、だからこそ一方で「自分のポジションでは見ることのできない顔」があることの悔しさを感じました。そしてこの悔しさは〈オレは恋人わたしは親友〉が両方並んでいるからこそ感じたものだなと思います。──Dr.ギャップ

● 主体は二重人格なのかなと思いました。男性と女性が同居していて、スイッチしているようなイメージです。恋人で親友である相手をめぐり自分自身に嫉妬したり張り合っているようで微笑ましいですが、相手はそのことを知らないと思われるので、1人で堂々巡りしているつらさも垣間見える気がしました。──ゆの

★作者コメント
● 名探偵コナンの工藤新一、毛利蘭、鈴木園子の三人で詠みました。幼なじみ同士の三人の関係性が私はとても好きで、特に新一くんと園子ちゃんがそれぞれ蘭ちゃんのことを特別大切に思っているところがいいなと思っています。その感じを表現できたらいいなと思い、この短歌を詠みました。──佐倉

今日の日はさようならって口ずさむ ドーナツみたいにまあるくなって  くぼたむすぶ

● こどもたちが遊んでいる無邪気な場面の中に入っている「今日の日はさようなら」の歌に帰らなければいけない切なさを感じます。
主人公は楽しい今を大切にしたいと思っているのでしょうか、過去を思い出しているのでしょうか、一緒にいた子たちはどうしているのでしょうか。色々と想像する歌です。──海月雪夜

● 初句・二句の「今日の日はさようなら」は同タイトルの楽曲の歌詞の引用でしょうか?楽曲の事を知らなかったので、最初にこの短歌を読んだときはまた明日も会える「さようなら」なのかなと思ったのですが、曲と歌詞を聴いた後にこちらの短歌を改めて読むと、もしかしたらなにか節目の「さようなら」なのかもしれないと考えなおしました。しかし、あくまで「口ずさむ」「ドーナツみたいにまあるくなって」とあるので、軽やかで明るい感じがします。
「まあるくなって」と発音すると、「あ」の口の形がドーナツの穴みたいになるのが好きです。──曇

● 「今日の日はさようなら」は卒業ソングからかでしょうか。ずっと友達でいようって歌うのはちょっぴり切なくて、でも皆でまあるくドーナツみたいにくっつきあっているのはうれしくて別れを目前とした景色に胸がぎゅっとなりました。──山と森と街

● 「いつまでも絶えることなく友達でいよう」という歌いだしがどうしても浮かんでしまいました。球でなくドーナツのように、という部分で中央に穴が開いていることが不穏さというか、綺麗な球の関係になっていないのではないかな、と感じました。
でもドーナツにある生地のでっぱりや窪みも味ではあるので。──室城

● 「いつまでも絶えることなく友達でいよう」という歌い出しの曲を思い出しながら読みました。キャンプファイヤーの定番曲というイメージがあり、〈ドーナツみたいにまあるくなって〉はみんなで輪になってこの曲を口ずさんでいる様子を想像しています。
この曲は〈今日の日はさようなら〉の後に「またあう日まで」と続いて終わるのですが、同じように一時の別れといつか迎える再会を願う気持ちがこの短歌の背後にもあるのだろうと思います(曲だけでなく〈今日の日は〉の〈は〉からもその意識を感じます)。〈口ずさむ〉の儚さは一時であれ別れなければならないことのさみしさゆえなのか、あるいは再会の保証がない(確度が低い)からなのか……「私」たちは子どもではないかというイメージもあり、いっそうさみしく切なく感じました。──Dr.ギャップ

● 卒業式でしょうか。友達と輪になって、泣いたり笑ったりしている場面が思い浮かびました。「ドーナツみたいにまあるく」の語感がいいですね。童謡のようにやさしくて、思わず口ずさみたくなります。──ゆの

★作者コメント
● 『ちいかわ』のちいかわ、ハチワレ、うさぎの3人組です。島編で「今日の日はさようなら」を聴きながら3人が話すシーンにぐっときてそこから1種詠みました。性格は違ってもいつも一緒な3人が楽しく暮らしている姿が大好きです。──くぼたむすぶ

ひとりっこ3人寄れば三角形食卓囲みいつかは○に  ましも

● ひとり同士ではじめはギクシャクしていた関係も、食事を共にしていくうちに理解し合っていつしか無二の親友になる(解釈が全く違っていたらすみません)。一緒に暮らして築き上げた友情を感じるような微笑ましい歌でした。──ぱるき

● 3人寄れば……と来るとなんとなく「三人寄れば文殊の知恵」が出てきますね。いつもは1人と1人と1人な食卓も3人が集まればきっといつもより賑やかで楽しいことが起こりそうです。もしかしたらこれから人数が増えてさらに楽しい会になりそうな予感が「いつかは◯に」から受け取れてすてきな歌だと思います。──山と森と街

● 決め打ちですみません、一読して自分の大好きなアイドルユニット・C.FIRSTだ!と思ってしまいました。
食卓において「ひとりっこ」として十分に機能できている子どもは一般的に、自分のペースで食べることが許されています。急がなくとも取り分が減ったりする懸念がありません(この歌をC.FIRSTに当てはめて読むと、「一般的なひとりっこ」ではなくなってしまうのですが)。それぞれに自分なりのペースがあり、食べたいものも違う三人が集まって食卓を共にすることで理解しあっていく、角のある三角形から◯に近づいてゆくことってとても得難い。丸と食卓の取り合わせから、中華の円卓も想像されます。──サイリ

● なんと優しい情景なのでしょう。それぞれ独りでとる食事を三人で囲めば少しずつ家族になっていく、そんな情景が思い浮かびました。──くぼたむすぶ

● 一首全体から感じる温かい気配ににこにこしています。
〈3人寄れば三角形〉と〈いつかは○に〉は、どんどん人が増え多角形の頂点が増えることで丸に近づくイメージと、この三人の仲がいっそう深まって角が取れるイメージ(あるいは通知表の◎○△の△から○へ評価が上がるイメージ)があり、どちらだとしてもいっそう賑やかで楽しい食卓になるんだろうなと想像します。
〈ひとりっこ〉は、だから寂しいというものでもないと実感としては思うのですが、〈ひとり〉〈3人〉と並ぶことで寄る辺を見つけてほっとするような印象を受けました。ひとりっこという共通点をきっかけに仲良くなっていったのかなと想像します。家族構成は外見で分かるものでもなくちょっと踏み込んだ話題だなと思うのですが、食卓を囲む三人が共有するものとして、また仲良くなるきっかけとしてちょうどよく特別感と互いの親密さを感じるなと思いました。──Dr.ギャップ

● 寮での共同生活などでしょうか。三角形もいつか角が取れて丸くなるように、ひとりっ子の集まるぎこちない食卓もいつかなごやかなものになってほしい、そんな、新入生を見守る寮母さんの眼差しのように受け取りました。──ゆの

★作者コメント
● アイドルマスターSideMのC.FIRSTというユニットの歌です。
不揃いなサンカクと称されるほどにばらばらだった3人が少しずつ距離を縮めていって、「満月よりも丸くなれる」と歌う様子を句にしました。──ましも

初恋を見つめるようにして彼が 眼差まなざす海の先の東京  室城

● 主体、彼、彼の眼差しの先の人物?とレイヤーが重なるような歌で互いにうっすらと干渉し合う、誰が欠けていても今がないようなイメージが湧きました。「初恋を見つめるように」や「海」から眩しいような痛いような状態なのかなと想像します。結句の「東京」がぐっと最後に主体を現実に引っ張って向き合わせて覚悟みたいなものも感じました。──山と森と街

● 読み手が思う「初恋を見つめる」まなざしについて、信頼を感じるうただなぁと。今はもう過ぎ去ったあの日の恋心について、懐かしむような、惜しむような、今更直接手に取ることはためらわれてしまうのに捨てられない宝物のような、そういう双眸を想像しました。
あと、個人的に「海の先の東京」のフレーズがすき。東京へ地続きではない、遠い遠い土地で、さみしさを抱えながら誰かを思っている彼のことを、見つめる誰かの声が誰にも抱きしめられることなくその土地に転がっているようで……。『秒速5センチメートル』のカナエを思い出しました。──しまおかさよ

● 主体、「彼」、「海の先の東京(に残してきた誰か・何か?)」の関係が「彼」のすぐ隣にいるのであろう主体の視点から描かれていて、「彼」の「海の先の東京(に残してきた誰か・何か?)」への思いの強さにかなわない主体が切ない歌だなと思いました。
「海の向こうの」と「の」で韻が踏まれる波のようなリズムから、主体たちがいる場所と東京との間の距離の大きさが感じられますが、「初恋を見つめるように」と例えられるほどなので、「彼」の「海の向こうの東京」への眼差しはそれでも鋭く熱いものなのだと思います。
私の見間違えやコピペミスでなければ、三句の後に半角一字空けがされているかと思うのですが、これはカメラの切り替え=「彼」の視線を辿る主体のわずかな目の動き、その動きの中にある「やはり彼は海の向こうの東京を見ているんだろう」という確信と諦め、だからこその拒否感・ためらいの一瞬の間だと解釈しました。全角一字空けだとこの間がもっとたっぷりになって「彼」を見ていることから始まる歌の流れが途切れる感じがしますし、一字空けなしだと、視点がスムーズに「海の先の東京」へとたどり着いて歌の中の感情的な含みがなくなってしまようです。この半角一字空けに主体の「彼」に対するいろいろな気持ちが現れていると思いました。──曇

● 忘れられない初恋なのか現在進行形の初恋なのか、どちらだろうと想像しながら読みました。〈ように〉ということは初恋の相手が実際に東京にいるわけではないと読んだのですが、だとしたら何が東京にあるのかという部分も気になります。東京は憧れの都会というイメージが自分のなかでは強く、〈彼〉が暮らす土地にはない(と少なくとも彼は思っている)ものがある土地として置かれているのかなと思いました。だとすると〈初恋〉は現在進行中のそれでしょうか。
翻って〈彼〉を見ている「私」は東京に特別な感情を懐いているようには見えず、そうした一首全体の静かなトーンが印象的でした。ただ〈海の先〉とあることから、いつか彼が海を越えてここを出て行ってしまうかもしれないという予感を抱えているのかもしれないなと思います(外国ではなくて日本のなか、本土以外に住んでいるのではとイメージしています)。静かな印象だからこそ、その下にある感情が気になりました。──Dr.ギャップ

● 3人目の存在は「海の先」に示唆されるのみなのに、「東京」という都市のイメージが重ねられることですごい存在感を放っています。手の届かない永遠の憧れである「初恋」を見つめる「彼」を見つめる主体の視線が切ないです。こんなに近くにいるの決して交わらないことが、二人の視線で表現されていて好きな短歌です。──ゆの

★作者コメント
● アニメ映画『秒速5センチメートル』
コスモナウトより、澄田花苗

種子島に転校してきた貴樹のことを想っているがあと一歩踏み込む勇気が出ない。どこか遠くを見ているような彼のことを目で追ってしまう、ただ直接聞く勇気がないので、付き合っている相手がいるかどうかもわからない。そんな状態で海にいる貴樹くんを見たら、彼が海を見ている時に海の先を見ているように感じるのではないかな、と思い短歌にしました。
眼差すという言葉は無いのですが、まぁ無いと分かって使うなら良いかな、と。複合動詞としてそんな変じゃないし、貴樹くんが何を観ているのかは澄田にも視聴者にも明示されていないので──室城

箱庭で出会い笑って来世まで切れぬ絆を二本の蘭と  海月雪夜

● 来世までを願うような出会いがすてきだと思います。「出会い笑って来世まで」の軽くてステップを踏むようなリズムが好きです。「二本の蘭」はその絆の相手たちかなと思い、また蘭の花の並んで咲いているところや「箱庭」から学園ものの物語かなと想像しています。──山と森と街

● 「箱庭で出会って」とあるので俗世と切り離された場所で出会ったのが読み取れますが、それがどんな場所だったのか想像を掻き立てられます。「来世」とあるのでこの三人は場合によっては死ぬかもしれないことを生業としているように感じました。蘭は三人にとって大切なキーアイテムなのでしょうね。「箱庭」に飾られていた花なのか、それとも全く別の理由があるのか。色んな謎が散りばめられた面白いお歌だと思います。──アサコル

● 出会いと共に過ごす時間、そして来世への願いまでという壮大な時の流れを一首の内にまとめていて、主体たちの間にある感情の刹那的激しさと濃厚さを感じました。「箱庭」は、主体たちが何者かに庇護されつつ、外の世界から隔離される場所な気がします。そのような場所だからこそはぐくまれる絆が来世を願うほどのものになる。排他的な美しさだと思います。「二本の蘭」はその「箱庭」のシンボルなのでしょうか?──曇

● 〈箱庭〉に対して閉塞感などネガティブなモチーフという印象があるのですが、そこに〈笑って〉と続くのが印象的で、この短歌の原作ならでは、この短歌に託された関係性ならではの部分があるのだろうなと思いました。箱庭が閉鎖的な環境の謂いだとしても、箱庭にいたからこそ出会えた、そこで育めた絆があるということを寿いでいるように感じます。
〈来世まで〉が来世を含むのか含まないのかで歌の印象が変わると感じていて、来世を含まないと読むとカラッとした、けれど諦念を含む印象、来世を含むと読むと涙をこらえているような湿度と祈りの印象になるなと思いました。
〈二本の蘭〉は、そうたとえられている絆の対象がいる(植物の蘭ではない)と読んだのですが、同時に蘭のまっすぐした茎が絆の「結ぶ」と表現される糸やリボンのようなイメージと重なると思いました。二輪ではなく二本と呼ばれる蘭にたとえられているのがどんな人物なのか、とても気になっています。──Dr.ギャップ

● 寓話的な雰囲気のある歌です。主体が箱庭で出会い深い縁を結んだ「二本の蘭」は何者なのでしょうか。比喩なのか、蘭そのものなのかは分かりませんが、生命力にあふれた、強く気高い存在なのではないかと思います。──ゆの

● 蘭の花に込められた思いはなんだろうと思わず花言葉を調べてしまいました。二本ということはふたりに渡すということかな、そのふたりは特別な存在なんだろうな、ということが伝わってきました。──佐倉

★作者コメント
● 原作:日向夏『薬屋のひとりごと』(ヒーロー文庫/イマジカインフォス)
 原作四巻(アニメ第二期第二クール相当)より猫猫から小蘭と子翠へ向けたイメージで作りました。
 アニメオープニング(楽曲はMrs. GREEN APPLE「クスシキ」)の三人の場面が好きなので、そのイメージも入れてみました。──海月雪夜

世界ごと飾るパフェグラス あたしたち主役は自薦で推してくタイプ  山と森と街

● まず、冒頭の初句・二句がかっこいいです。世界に飾り付けを施すのではなく、世界の方をデコレーションの材料にしてしまうという。万能感や壮大なスケールの精神の自由さが伝わってきます。一字空けの後の主体たち自身についての言及からも、「あたしたち」が活発なひとたちであることがわかります。
上の句「飾るパフェグラス あたしたち」のa音が明るくて主体たちの自ら光っているような眩しさを表しているようです。
下の句では「自薦で」「推して」のe、「(推し)てく」「(タ)イプ」の語尾のuと、細かい韻ふみでリズムが転がっていく目まぐるしさとスピード感が主体たちのエネルギッシュさと呼応しているように感じます。
「パフェグラス」、「あたしたち」、「推してく」といった主体たちのキャラクター性をはっきり想像できるワードチョイスもいいなと思いました。自分自身を生きるという主体たちの旺盛で真っ直ぐにきらめいている意欲的な姿が見えてくるようです。
歌全体のキラキラとした雰囲気や主体たちの活発な感じ、「推」すという行為を自分自身に向けているところから、「あたしたち」はアイドルなのかなと予想しています。──曇

● ギャルだ!!!!!!!(読んだ瞬間の感想、違ったらごめんなさい)
パフェっていう豪華でトクベツで完璧なものと世界の主役たる「あたしたち」との重ね合わせがいい!──月ノ華

● ここには三人以上がいて、それぞれがみんなして自薦で主役を推しているということは推される人が三人以上いるんですよね。個人的には五人からいてほしいのですが、何人であるにせよ自分を推す人たちがそれだけいて、それぞれの世界を尊重し並べてグラスを飾れるのであれば喜ばしいな……と思いました。それはもう祝祭じゃないですか。──るぴ

● かわいさと強さの両方がある歌で好きだなと思いました。「主役は自選で推してく」ってすごいかっこいいですよね。パフェグラスでキラキラとした雰囲気があって、華やかだなと思いました。──佐倉

● 世界まるごとを盛りつけて飾るパフェグラスがあったとして、あたしたちはそのパフェの主役だと自分で自分を推薦するタイプだ、と読みました。キラキラしていて勢いがあってスケールが大きくて、いいなあ眩しいなあ嬉しいなあと思います。概念としてのギャル、という感じがします。
もう一つ印象に残ったのが、この〈あたしたち〉は主役を取り合いはしないんだなということでした。〈自薦〉とあり、それぞれがそれぞれに自分を推していくということだと思うのですが、同時に〈あたしたち〉みんなで主役をやってやろうじゃんという気配を感じて、その「それぞれかつみんな」の手触りを嬉しく思いました。
下句の口馴染みがよく、いっそうご機嫌な印象に感じます。──Dr.ギャップ

● 下の句がたくましくてかっこいいですね。自己肯定感の高さが気持ちいいです。自分自身をキラキラと輝きながらすっくと立つパフェグラスに見立てていると読んだのですが、違うかもしれません。──ゆの

● 「主役は自薦で推してくタイプ」という自信たっぷりな様子が伺える女の子の句ですね。最高です...!自分たちをパフェに例えているのも良いな、と思いました──ましも

★作者コメント
● 「あぶない刑事」テレビドラマ版

横浜港署を舞台に刑事課のタカとユージ、そしてクセのある同僚達のドタバタを描いた刑事ドラマです。
今回は1986年〜2024年の最新劇場版の中からドラマ版あぶない刑事の真山薫で詠みました。
「三人以上の関係性」のテーマで考えた時にタカとユージ、カオルとトオル4人の同僚、先輩後輩だけれど友達?家族?みたいな不思議で個人プレーと見せかけ妙にしっくりしている関係性がとっても好きです。
最初は中華料理店の円卓でイメージを広げていたのですがドラマ版の雰囲気をもっと出したいなとパフェグラスを選びました。パフェだとそれぞれ好きな果実や甘味を主役に思えるだろう所といっぱい乗っている=三人以上の部分が感じられるかなと。「推して」はちょっとドラマ版と時代としては合わないですがカオルには似合うなと選んでいます。
コメントを書きながら「三人以上の関係性」で4人を想定していたのですがパフェグラス、4人だけじゃなくて個性的でクセのある横浜港署の面々もわちゃわちゃとのっていそうだなぁとこっそり思っています。──山と森と街

グレイトネス をホークで崩す我々の居たあとの椅子、油脂である雪  曇

● 作品の世界観が強くある歌で「グレイトネス」偉大で巨大なものに対して戦いを挑む「我々」とその後進への歌かなと読みました。結句の「油脂である雪」は両方とも跡が残るようなイメージがありその痕跡も含め次へ託す想いみたいなものかなと想像しています。──山と森と街

● シーンやシチュエーションを掴み切れていないと自分に対して思う一方、どこか口馴染みがよくて読んでいるうちに染み込んでくる感じがあるような、そんな不思議な手触りの一首でした。なんにもわかっていないはずなのに、わかるなあとうっかり口からこぼれてしまいそうな。
〈グレイトネス〉は偉大さ、〈ホーク〉は〈崩す〉と合わせてフォークに似た形状の農具と取りました。概念的な(概念的に捉えるほど大きく偉大な)ものを、比較的素朴な、手仕事に紐づいた道具で〈崩す〉ということ。〈我々の居たあとの椅子〉は本物の家具ではなく比喩のイメージで、二つの世代交代というイメージをなんとなく持っています。偉大な存在の打倒、そうして打倒を果たした者たちもまた椅子を空けて去るということ。〈居たあとの椅子〉という言い回しを自分は普段しないのですが、「去った後」と比べて居場所のニュアンスが強くなるように感じました。
〈油脂である雪〉は実際の光景として想像すると嫌な感じではあるのですが、油脂と雪の音が近く言葉遊びのような印象があること、〈油脂〉を牛脂やラードで想像すると確かに雪を思わせる白さだなと思いあまり嫌さを感じませんでした(そして嫌さを感じないのが不思議でもあります)。
二つの世代交代があり、誰も座っていない椅子が残って、次の世代が繁栄するわけでもなく、重たい雪に覆われていってしまう。それを〈居たあと〉と去った人の視点で手渡されることの独特の手触り。
油脂はよく燃える燃料だなと思うと、いつかすべてを燃え上がらせるような何かが突然起こるのかもしれない、という予感もあるなあと思いました。──Dr.ギャップ

● ケーキのクリームを雪に見立てているのでしょうか。フォークで崩されたケーキの残骸が残る皿を、踏み荒らされた新雪に例えていると読みました。蹂躙はすでに終わっており、それを成した主体たちがいた痕跡だけが残っている情景は、何か後戻りできない罪を感じさせます。──ゆの

★作者コメント
● 作品:『魔法使いの約束』、キャラ:フィガロとその周辺の人物(賢者、ルチル、ミチル、レノックス、ファウスト)
偉大な存在として長年崇められ、その期待に応える努力を尽くしてきたフィガロですが、そのことに対する自負心や同時に抱える疎外感、尊大で傲慢な自意識などなど、さまざまな感情でがんじがらめになっているようです。そんなかれの名のもとに出来上がってしまった「偉大さ」をフォークでぐさぐさと崩して、みんなで食べてしまおう。食べ終わったらさっさと何処かへ、もっと素敵なものを見つけに行こう。かれらが去った後にあるのは、テーブルから離れたままの、あるいは律儀に戻されているまだかれらの気配が残る椅子と、フォークの闊達な軌跡を示す皿に残ったクリームなのです。──曇

普通じゃないたった一夜のことだけど家族のために命を懸けた  雪宮斎希

● 上の句の「普通じゃないたった一夜」がどのような夜だったのかは描かれていませんが命を懸けるほどの出来事で、それは他でもない家族のためだというのがとても切実さを感じました。しゃべり口調な歌のリズムが秘密を打ち明けられているような気持ちになります。──山と森と街

● 〈たった一夜のことだけど〉に卑下を感じて、どうして命を懸けてなお不足だったというような顔をしているのだろう、ということが気になりました。一度でも命をかけたら十分ではないのか、そう思えないような、常に命が危険にさらされるような立場に「私」や家族はいるのか、と考えます。
あるいは〈普通じゃないたった一夜〉がどうして「普通じゃない」のかというのが、〈たった一夜〉や〈命を懸けた〉の理由に繋がってくるのかなとも想像します。たとえばそれまで家族と離れて過ごしていたのが、ひょんなことからその一夜だけ邂逅して命を懸けるようになったとか……どんな家族で、どうした思いから命を懸けたのか、原作を読めばわかるのか、気になります。──Dr.ギャップ

● 何があったのかとても気になります。主体が大切な人たちのために命をかけた一夜は、これまでの人生で一番記憶に残る、価値のある夜だったと思います。──ゆの

★作者コメント
● 原作:零崎双識の人間試験
この作品は西尾維新のデビュー作、クビキリサイクルから始まる戯言シリーズから派生した人間シリーズの第一作目である小説です。

作品の舞台では、4つの世界に分かれています。そのうちの一つ、暴力の世界(いわいる裏社会)の住人であり、作中でかなり忌み嫌われる殺人鬼集団である零崎一賊が主人公となっています。零崎一賊は血縁ではなく流血で繋がる一賊、人を殺したくて殺したくてたまらなくなってしまう人間が孤独にならないための組織であり、お互いを家族と思っています。

今まで普通に生きてきた人間が〝零崎〟になるため、主人公・零崎の長兄である零崎双識はそういった人のもとに行き、零崎一賊に迎え入れます。今作ではもう一人の主人公である無桐伊織が零崎として覚醒していく中、敵に殺されかけ戦うストーリーとなっています。

双識、伊織、そして途中で合流し、のちに伊織の兄として面倒を見ることになる零崎人識のたった一夜の戦いを、伊織目線で詠みました。──雪宮斎希

(好きにする)(そこに誰がいることを名指さないだけ)(潮の涼しさ)  Dr.ギャップ

● 主体は海辺にいて、そこには自分以外の知らない誰かもぽつぽつと来ている。でもそのひとたちがそこにいることに名前を付けない。主体もかれらも好きにここで過ごす。主体と「誰」たちの間を、足を濡らす潮の涼しさが横たっている。という情景を想像しました。
二句の「そこに誰が」が重要だと思いました。「そこに誰かが」とすれば7音で定型になりますが、「そこに誰が」として字足らずになっています。この歌は同じ場所にいる他者の存在を確かに感じているが、そのひとにはっきりとした姿を求めない、何者であるかの証明を必要としない。その曖昧な状態で時と空間を共有しようという、他者と刹那的なつながり方をするということを述べていると思います。それを表現するためには、「誰か」だとその他者の存在が散漫で未熟な印象になってしまいます。なんというか、これから(主体にとって)名を持つべき未完成の存在、という感じです。一方、「誰」とするとこの文字が不定称の代名詞として提示され、「主体から見て名を持たない人物」として、一個の独立した存在としてその姿が見えてきます。漢字一文字であることで固形物的な重さと固さを帯びて輪郭がきっちりと閉じ、その匿名の状態で完成していると感じられます。
韻律の面では、ちりばめられたさ行の音のさらりとした質感と、発音した時の舌と上あごの間から空気が抜ける瞬間の風が吹いていく感覚が、潮の涼しさが横たわる、誰かがそこにいることを名指さない、でもいることは確かに感じている心地良い時間の空気を読者である私のもとにも連れてきてくれるようです。
3つのフレーズが括弧でくくられて並べられていて、歌の内容を想っている主体と、歌の情景との間に一枚幕が隔てられているような、俯瞰っぽい距離を感じました。個人的にはオープンワールドのゲーム内の景色で、主体はプレイヤーとして画面上にその景色を見ている、というシチュエーションかもと思いました。「潮」という漢字は朝しおのことを言うらしいので、ゲーム上では朝とか、もうすぐ朝になる空が白み始めた時間帯にあって、一方モニター越しにその景色を見ている主体がいる時間は真夜中とか、タイムラグがあるかもと考えるのも面白いなと思います。──曇

● ()で繋がる感情が近すぎず、離れすぎないそれぞれの感情を表しているのかなと思いました。各々が好きにしていて、でも関係性に名前をつけないで。(潮の涼しさ)が関係の風通しの良さみたいなものを感じてすてきです。──山と森と街

● 見た目がおもしろくて、初手の感想は「すごーい!」でした。きっと括弧の区切り方にも意味があるんじゃないかなと思うので、これはぜひ詠者さんの意図を伺いたいです。お願いします!
「そこ」が何を指すのかは分かりませんが、心とかなら、誰のことを想おうが好きにするぞという、主体の、不自由ながらの自由を強く感じます。内面の行く先を他人に委ねないでいる強さや潔さを感じる歌い出しも印象的で、表記の妙と合わさって、光って見えるうたでした。──しまおかさよ

● 淡々としながらもセクシーな歌だなと感じました!
三つの感覚がかっこで区切られ、明確に提示されたリズム感で読んでしまうし、この区切り方が絶対、という感じも受けます。
(好きにする)で何を、誰が、などの対象を明示せず、言い切るので強い宣言のように全体に響きます。
続く(そこに誰がいることを名指さないだけ)は、メタ的な読みですが、三人以上の関係性の部に提出されている歌なので「そこ」は歌の主体が所属する関係自体を指していそうです。関係性の内訳(構成員)は名指さない、ということは誰でも良かったり、関係は刹那的・流動的だったりするのでしょうか。
また最後の(潮の涼しさ)が一番なんだろう?と引っかかりがありました。「潮」は「朝のしお」を指すときに使う漢字なので、朝の海のイメージでしょうか。高ぶったり落ち着いたり、個人ではどうしようもない大きな流れが眼前にある。それはこの歌の主体が身を置く関係性に感じていることで、でも寒さでも厳しさでもなく「涼しさ」と形容しているから不快感は無さそうです。
ここからは完全に歌全体から感じたセクシーに引っ張られた妄想なんですけど、朝起きたらベッドのシーツが乱れていて、隣に誰かもいるから寒いほどではないけど丁度よい涼しさがあり、シーツの皺がまるで波のように見えている。シーツの皺は起きてきれいにするから、潮の満ち引きのようみたいな光景が見えました。──スギ

● それぞれのセリフ、心情を三人分。三人の句、というテーマにぴったりですね。1人目と2人目はアイドルや芸能の方のような感じがしますが、そこから急に(潮の涼しさ)とつながることでどんな3人なんだろうと想像が掻き立てられます──ましも

● 不条理な夢のような短歌ですが、最後の(潮の涼しさ)が静かでさわやかな余韻を残します。お互いの存在を感じながらも、名指さず、それぞれの道を行こうとする友情のようなものを感じました。──ゆの

★作者コメント
● アプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》より、アズール・アーシェングロット、ジェイド・リーチ、フロイド・リーチの三人のことを考えて作った短歌です。この短歌を作りはじめたとき「私」として置いていたのはフロイドだったのですが、できあがってみたら三人とも互いにそう思っていそうだなという手触りになりました。独特な形でお互いへの情を持っている三人だなと思っています。
「三人以上の関係性」というおまけ歌会のテーマを設定したときにはもう念頭に置いていた三人組でした。──Dr.ギャップ

バラバラが重なりボクらの旅路みちとなる そっか、これって“永遠”なんだ  月ノ華

● 全く違う方向だった道がひとつになったとき、そこに生まれる絆は誰にも手が出せないほど深いものになると同時にいつまでも変わらず続く。それに気づいた彼らのこれからの未来を感じる一首でした。──ぱるき

● 「バラバラが重なりボクらの旅路となる」がとってもすてきな関係性!とうれしくなりました。集まってひとつの形が浮かび上がる、どことなく光の三原色のイメージが湧いてきてその旅路はきっと明るくて。下の句の「そっか、これって“永遠”なんだ」がすごくしっくりとわかるなぁと思いました。すてきです。──山と森と街

● 辿ってきた道の違う人たちが集まり、これから長い時間を過ごすのだとしみじみと噛み締めている雰囲気を感じました。彼らのこれからを「旅路(みち)」と表現したところが好きです。──海月雪夜

● 孤高で浮世離れしているような人物である「ボク」が、ある瞬間に背後を、自らの来し方を振り返ったときに、一人で歩いてきたと思っていた「旅路(みち)」がいつの間にか誰かのそれと重なっていたことに気が付き、その風景に「”永遠”」なるもののアイデアを直観するという様子をイメージしました。「旅路」に「みち」というルビが振ってあり、人生を「道」に例えつつもそれがただ淡々と歩いていくものではなくて、遥かな時と距離を伴う、どこかを目指して進んでゆく旅なのだということが示されており、下の句で発見される「”永遠”」とも結びついてこの歌のスケールを壮大なものにしていると思いました。また、自分の進路の方向ではなく、振り返ってできた道に「”永遠”」を見出すという構図が興味深かったです。それぞれに違う人生を歩んできた「バラバラ」の「ボクら」。その道が重なっていたことに気づいたからこそ、これまで・これからの歩みに「旅」というフレームが付くのかもしれませんし、その頼もしさや喜びが、「”永遠”」という途方もないものへの確かな実感を「ボク」の中に閃かせるのかもしれないと思いました。──曇

● 並行世界や、幾つかの可能性を重ねる物語なのではないかなと邪推しました。無限に存在する可能性=永遠という考え方。──室城

● 似た者同士ではない〈ボクら〉の道行きが重なって、その旅路が「今」と「これから」になる、というイメージが浮かびました。〈永遠〉はその出会いによって生まれた旅路が長くどこまでも伸びていくイメージでもあり、「今ここ」の足元にある旅路が失われようのない思い出として〈ボク〉のなかにあるのだという予感のイメージでもあります。チームの短歌なのではないか、と感じました。
加藤千恵さんの短歌〈3人で傘もささずに歩いてる いつかばらけることを知ってる〉を思い出し、その対偶にあるような短歌だと思いました。──Dr.ギャップ

● 一緒に旅してきた仲間との絆こそが永遠、というのはホビアニっぽいまっすぐさがあって好きです。きっと旅の途中、チームワークも好みも何もかもバラバラだったのでしょうが、バラバラであることに意味があった、という気づきが結句でさらりと出てきて、力みのなさがいいにと思いました。──ゆの

★作者コメント
● 原作:Fling Posse(ヒプノシスマイク)
三人組、って聞いて真っ先に思いついたのがヒプノシスマイクで、そのなかでも真っ先に思いついたのがポッセでした。詠むに当たってポッセの曲片端から聞いたんですけどやっぱりポッセって良いですよね。
「バラバラ」は「バラの束」、「旅路」は「Stella」「Black Journey」「とりま Get on the floor」から。ポッセは最初はバラバラの集まった刹那のチームでしたけど、ストーリーを追うごとにどんどん絆が強くなっていって、最後には「永遠」ってなっているのが本当に好きです。──月ノ華

馬鹿どもめ私もそこにいただろうあの青い日々と煙草のくすぶり  アサコル

● 『呪術廻戦』の家入硝子さんから夏油さんと五条先生に向けたイメージで読ませていただきました。
現在に残された彼女の胸中に挟まれた、三人揃って過ごした日々の青春のきらめきが胸に迫ります。
同時に残された人の静かな叫びがに切なくなります。結句の煙草の煙と内心の燻りがリンクした言葉選びが特に好きです。──海月雪夜

● これは「さしす」の「し」の人、『呪術廻戦』の家入硝子さんの歌ではないでしょうか? 
「そこにいただろう」の平仮名表記が切ないです。「そこ」も「いた」も曖昧になって、主体が「そこにいた」ことの「馬鹿ども」への届かなさ、「そこにいた」けれど真横には並べなかったという彼らとの間の隔たりを思わせます。
結句は回想の風景の一部でありつつ、過去を思い出している現在の主体にもかかっていると個人的には思うのですが、平仮名に開かれている「くすぶり」に、過去を回想しつつ悔恨や悲しみに囚われているだけなわけではない、当時の自分たちや「馬鹿ども」に主体が感じる微笑ましい感情がにじんでいる気がして、彼らのことを思い出して苦笑いしている硝子さんの姿が思い浮かびます。──曇

● 初句から何処となく斜に構えているようなキャラクターの歌かなと想像しています。「青い日々」が青春を「煙草のくすぶり」から少し相手との年の離れている大人世代かなとも。感傷と苦味のような気配も感じました。──山と森と街

● なんとなくですが『呪術廻戦』の硝子さんがうかびました(呪術廻戦は未履修ですが……)。
「馬鹿どもめ」と言いつつもその言葉には愛おしさがあって、「青い」昔を懐かしみながら紫煙をくゆらしている様子があまりに癖です。こういうキャラ好きだ……。──月ノ華

● 上の句をそのまま見ると主人公はかつてそこで共にいた人々に憤っているように見えるのですが、現在の時点において本当に怒っているだけなのか、それともいとおしむ気持ちが存在するのか、もしかすると羨望や悔恨も含まれていたりするのか、いくらでも読み取れそうで一つに絞りたくありません。
ただどんな気持ちがそこにあろうと、下の句で語られた日々と今の主人公が決定的に断絶していたらいいなと思っています。これは個人的な好みの話です。──るぴ

● 〈私もそこにいただろう〉と〈私〉に言わせる状況として何があったのか、ということが気になる一首でした。まるで世界から存在を消されてしまった幽霊の〈私〉が立腹しているようなシーンを想像します。ただ〈馬鹿どもめ〉というやや大仰な物言いが逆にコミカルな印象でもあり、〈私〉と〈馬鹿ども〉の断絶の気配をさみしく感じると同時、一首全体ではどこか明るさのイメージがあるように思いました。
〈あの青い日々と煙草のくすぶり〉は大学生頃、過ぎ去った青年期を回想しているというイメージで読みました。今の大学生ではなくもう少し前の時代、煙草の似合う時代に大学生だった〈私〉と仲間たちを想像します。──Dr.ギャップ

● 呪術廻戦の硝子さん目線だと思いました。硝子さんは結局同級生の二人に一人だけ置いていかれた立場です。何もできなかった、頼りされなかった、結局、二人が決裂していく姿を眺めることしかできなかった後悔を抱えながら、煙草をくゆらせる姿が浮かびます。あの青い日々を知っているのは硝子さんしか残っていないと思うと、切なくなりました。──雪宮斎希

● 他のメンバーに忘れられている「私」はチームの一員というより、教員や指導員など上の立場のひとのような気がしました。皆で煙草を吸う青春時代、戦前の日本などが舞台なのかもしれませんね。「馬鹿どもめ」と口は悪いですが、その日々をとても大切に思っていることが伝わってきました。──ゆの

★作者コメント
● 漫画「呪術廻戦」の五条悟、家入硝子、夏油傑の三人について家入硝子目線で詠みました。呪詛師となり最終的に死んだ夏油傑、最強の呪術師として恐れられる五条悟の高専時代の同級生である家入硝子が作中「私がいたろ 何が独りだ 馬鹿野郎」と心の中で呟くシーンから着想しました。作中では回想で「もう誰も独りにさせない」と言っていた五条悟に対して言いたかった言葉と解釈できるのですが、私は亡き夏油傑に対しても言いたかったのではないかと妄想して初句を「馬鹿どもめ」とさせていただきました。この「馬鹿ども」も昔からの友人としての友愛があるからこその「馬鹿ども」と解釈いただけたら幸いです。また「そこにいただろう」の「そこ」は四句目の「青い日々」という彼ら三人の高専での青春時代のことで、その過ぎ去った日々への彼女の感情を「煙草のくすぶり」として表現しました。アニメの死滅回遊編が今からとても楽しみです。──アサコル