Dr.ギャップ
2025-12-14 21:29:18
78117文字
Public 二次創作短歌オンリー歌会
 

2025二次創作短歌オンリー歌会(メイン歌会)

2025年秋(冬)に開催した二次創作短歌オンリー歌会(メイン歌会)の参加作品とコメント一覧です(敬称略)。

企画詳細→ https://privatter.me/page/68e5378a840cc
企画用ハッシュタグ→ #二次創作短歌オンリー歌会

「つづいてのメールは」きみも起きている27時の世界にふたり  ましも

● 「つづいてのメールは」で始まり、ラジオを聴いているようで惹かれました。
27時という起きているのが辛い時間、パーソナリティとリスナーだけが起きているように感じることを「世界にふたり」と表現しているところが好きです。
SF小説を読んでいるような、荒廃した世界に自分とラジオの先にいる声の主しかいないような壮大さも感じました。──海月雪夜

● 冒頭のセリフからは、リスナーに対して呼びかけるラジオパーソナリティを想像しました。深夜ラジオの27時はそんなに遅い時間ではないですし。ですが主人公は「世界にふたり」と考えていて、他のリスナーやスタッフの存在を意識に入れていないようです。これは主人公ひとりのためだけの発信なのか、それとも主人公がそう思っているだけなのか。
現代では昨夜のラジオ番組をあとから聴くことも、SNSなどで相手が今起きているかを確認するのも簡単ですが、27時の今きみと自分がこの世界に起きていることを確かめたい主人公の、少し古めかしい手つきに深夜の空気が染み渡るような味わいを感じました。──るぴ

● "きみ"はラジオのパーソナリティでしょうか。自分の送ったメールが読まれる時にその他大勢ではなく一人と一人の関係性を感じるというのがとてもすてきだなぁと思います。27時というのも夜よりもほんの少し夜明けに近く、夜明けにはまだかかりそうで夢や秘密をイメージしました。──山と森と街

● 原作については(今話題のあの漫画かな?)と心当たりがありましたが、私は該当作は未読なので思い当たった作品のタイトルは伏せておきます(全然見当違いだったら申し訳ないのですが、この歌の原作にも興味が湧きました。まだ始まったばかりの漫画らしいですし読んでみたいです)
深夜ラジオのリスナーとパーソナリティの関係性短歌として読みました。私事ですが、私は中高生の頃、深夜ラジオのヘビーリスナーだったので「27時の世界にふたり」という下の句になんとなく懐かしさを感じて嬉しいです。この下の句と似たような感覚を、あの頃(私は平成一桁生まれです)確かに感じていました。
「深夜ラジオ」というものに(10代の頃の思い出由来で)少し特別な思い入れのある人間として、こちらの作品、ノスタルジックないい歌だと思いました! ちょっと距離があるからこそのゆるくてあったかい、「(あなたとわたしは)離れていてもこの同じ空の下にいる」的な繋がりを感じます。自分は年々夜更かしが苦手になってきてリアルタイムではなかなか聴けなくなってしまったけど、やっぱり深夜ラジオっていいもんだな〜!の気持ちになりました!──海水

● 27時は午前3時、街は寝静まって世界にひとりきりのような錯覚が生まれる時間帯に届いたメール。「つづいてのメールは」という少し堅苦しい言い回しで途切れているのは、仕事の大量のメールにまぎれて届いた「きみ」からのメールを見つけた瞬間だからと想像します。きっと徹夜するほど忙しい中で、息継ぎのような安らぎを得られる相手、文面だったのでしょう。言葉遣いがやさしく、また主体は「ふたり」の連帯感を得ているので、上向きの気持ちで読みました。──ゆの

● おそらく生放送の深夜ラジオなのでしょう、眠れない日に聴く深夜ラジオの、パーソナリティとの距離感をとくべつに近く感じて、特有の浮つきを文体からも感じました。深夜のやけにゆっくりと時間が過ぎてゆく世界の中、ふたりきりであることに、お守りのように救われる感情が浮かび上がってきます。好きな歌です。──サイリ

● 深夜ラジオ、メールを読んでいるパーソナリティーの「きみ」とそれを聴いている主体。おそらく視聴者ひとりなんてことはないから、実際にはふたり以上だけれど、27時、寝静まった静かな世界で「きみ」の声に耳を傾ける主体にとっては、紛れもなく「世界にふたり」きりなんだよな……とエモエモな気持ちになりました。
普段の私は「24+α時」の表記をパッと理解できなくてムキー!となるんですけど、このうたは「27時」という表記だからこそ【世界の終わりのきみとわたし】感があってロマンチックだと思います!──しまおかさよ

● 深夜のもう誰もが寝ついた時間帯で起きている二人というのがとてもロマンチックだと思います。「つづいてのメールは」という言葉からラジオや動画の生配信などがイメージできて、二人の関係がなんとなく想像できるのがとてもうまいなと感じました。物理的な距離はあってもまるで互いが近くに在るような、あたたかくも柔らかなお歌だと思いました。──アサコル

● ‐ 「つづいてのニュース」ではなく「メール」という「ねじれ」が奇妙です。メールは本来、テレビやラジオとは違い、自分のタイミングで読むことができますよね。それが、この歌では、「つづいてのメールは」と、第三者から勝手に配信されていて、作中主体は、それを一方的に受け取っているかのように思えます。この「ねじれ」が、どこか足元のおぼつかない、不安定で、フィクション的な雰囲気をもたらしています。そもそも、27時に起きているということ自体が、人間という動物の習性に照らせば、異常です。午前4時のことを27時と呼んでいるのも、おかしいです。彼らの夜は、長すぎます。朝は、来るんでしょうか。部屋に朝日が差しこむころ、彼らは、一緒にいられるのでしょうか? 短いなかに、ミステリーがあります。

‐ 「メール」と「きみ」という言葉から、新海誠「ほしのこえ」を連想しました。──おかのきくと

● ラジオや配信を聞いているシーンを思い浮かべました。〈きみ〉はそのパーソナリティーと読んでいます。
ラジオにしろ配信にしろリスナーが一人ということはなかなかない(かつそうだとして「私」にそれがわかるとは限らない)のではと思うので、〈ふたり〉というのは「私」の感覚としてそうである、ということだろうと読みました。初読の時点では〈つづいてのメール〉と読み上げられたのは「私」が送ったものとは限らないのかなと思ったのですが、この〈ふたり〉の感覚は「私」のメールが読み上げられた特別感や嬉しさがあるからこそなのかもとも思います。
たくさんの、いろんなファンに応援されて活動しているのだろう〈きみ〉と、今だけはふたりきりなのだと感じられる時間の柔らかい温かさを嬉しく感じます。シーンや「私」の感情が素直にイメージできて、「私」の喜びを自分のことのように感じました。──Dr.ギャップ

● 主体がラジオを聞いている深夜の情景をイメージしながら読みました。
「きみ」は同じラジオを聞いている別のリスナーのことかな、と思います。「つづいてのメールは」の後にはきっと「きみ」の名前が読まれるのでしょう。主体は毎回のようにこのラジオを聞いていて、「きみ」もまた何度もメールを読まれるほどの常連なのかなと想像しました。
「きみ」と主体が会ったことがあるかはわかりませんが、住んでいる場所も本名もわからない、ラジオネームと時々読まれるメールだけ知っている、そんな淡いけど確かな繋がりだったらとてもロマンチックだなと思いました。
「午前三時」ではなく「27時」という表記も、今日の続きを密やかに共有しているような印象を受けて素敵だなと感じました。──古月もも

● 今のティーンはメールにReが重なっていくあの嬉しさを知らないんでしょうね(携帯メール最後の世代)てのひらサイズのウィンドウと機械があるだけで、ふたりだけの世界に行ける科学の進歩と、いつの世も変わらぬ若者の情緒の取り合わせが好きな歌です。──萩野すい

★作者コメント
● 週刊少年ジャンプにて連載中「さむわんへるつ」をモチーフにした短歌です。
主人公のミメイと海月は同じラジオを愛し、日々ハガキ職人として切磋琢磨を続けています。
27時、家族も友達もみんな寝ている真夜中に、きみだけは起きていると思える友達。
そんな2人のことを歌にしました──ましも

凍てついたジャムの小瓶を捻じあける(はるか彼方にも君はもう在る)  曇

● どういう意味が込められた歌なんだろう……!? 私には「きっとこういう感情を詠んでいるんだろうな」といったような当たりすらつけられないのですが、すごく惹かれます。わからないことをわからないまま、そのまま受け取っても美しい歌だなと思います。
(はるか彼方にも君はもう在る)という下の句には希望や安心、信頼……そんなような感情のイメージをぼんやりと感じます。「ジャムの小瓶を捻じあける」という生活のある空間から、遠い星や遠い時間に思いを馳せているような……そんなミクロからマクロへの静謐な広がりを感じます! めっちゃ好きです!──海水

● 「凍てついた」「ジャム」といった言葉から、ロシアや北欧の厳冬期を思い浮かべました。廃屋の棚に残された凍ったジャムの瓶を主体は開けようとしている、そんな情景です。どんなに力を込めても開けられないもどかしさ、憤りのようなものが「捩じあげる」という言葉に表されていると感じました。手にしているのに、決して届かない宝物のようなジャムは、ひょっとしたら主体と「君」が以前一緒に作ったものかもしれませんね。「もう在る」と物体を指すような言葉遣いが「君」の存在の遠さを表しているのかなと思いました。──ゆの

● 主体がジャムをあける空間と括弧書きの世界との取り合わせに、句同士の、+よりも×の広がりを感じておもしろいな〜となりました。
「凍てついた」ジャムは、もしかしたら使いかけの冷蔵保管していたジャムなのかな。ふつうに蓋がかたい!力一杯捻るゥ!な描写なのかもだけど……個人的には、ジャムをわざと凍らせることはあまりないと思うので、冷蔵庫で冷えたジャムの蓋のひやっと感でも読めるかなと思いました。
括弧書きの方は、音数をはみ出してでも「彼方にも」であることについて、詠者さんの解説が楽しみです!「いる」じゃなくて「在る」という言葉のチョイスにも、細部までこだわりを感じます。──しまおかさよ

● 「ジャムの小瓶」は君が残してくれたものなのかなと想像しています。ジャムの小瓶、作りたてだとしても作って保管していたとしても「凍てついた」にならないと思うので君と離れて遠くへ行ってしまった、長い年月が経ってしまったのでしょうか。甘くてキラキラとして君を唯一感じられるものだとしたら大切なもの感情だろうと想像しています。──山と森と街

● 上の句がとても好きです。「凍てついたジャムの小瓶」はもしかして「君」の心の暗喩なのかなと思ってます。下の句に「はるか彼方にも君はもう在る」とあるので「君」が複数存在しているようにも考えられて、なにかSF的なものを思わせる言葉にわくわくしました。原作はSFなのではと予想しています。──アサコル

● ‐ 「凍てついたジャムの小瓶」というミクロな視点から、下の句で「はるか彼方」に跳躍します。鮮やかに跳びますね、陸上選手でしょうか。
‐ 瓶は凍てついていて、そう簡単に開きそうにない。そうして躍起になっている間に、「君」は遠ざかってしまう。なんとも滑稽で、悲しいです。そういう悪夢を見ることがあります。
‐ 「(はるか彼方にも君はもう在る)」が内声なのもいいですね。これが字の文や台詞だったら、印象も大きくかわったろうと思います。「彼方「にも」とはどういうことでしょうか?タイムスリップものなのでしょうか? ふたりの関係性がどんなものなのか、空白があり、さまざまな想像をすることができる歌だと思いました。──おかのきくと

● パーレンで囲まれた下の句の独白(だと読んだのですが)が不思議で印象的でした。〈にも〉〈もう〉とはどういうことなのか。〈はるか彼方〉ではない「ここ」にも〈君〉が在るということなのか、またそもそも〈はるか彼方〉は空間的な隔たりなのか、時間的な隔たりなのか……「はるか彼方に君はもう在る」で定型になるところを〈にも〉にしているということは、そこに何かがあるんだろうと思うのですが……
SFやファンタジーといった背景を思い浮かべる一方で、上句のイメージから逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』を連想したりしました。寒い土地、戦渦による物資の不足、戦闘や襲撃の後の荒廃した市街で本来冷蔵庫にあるべきジャムの小瓶が寒い屋外に放り出されている、など。
〈ジャム〉から食べ物=生活のイメージを受けつつ、けれど嗜好品であることから「生きていくだけではない」を同時に連想しました。
ジャムは「私」の手元にあるけれど、小瓶のなかにあるという点では「私」から隔たれた存在で、その小瓶を捻じあけるときにはるか彼方の君という遠い存在を思い浮かべるのが、なんだかいいなあと思いました。遠いけれど遠いだけではない、凍てつきが溶け、隔たりがなくなる、というようなイメージが浮かびます。
冷たく静かな厳しい環境で生きること、けれど過酷というだけではなくそこに希望や喜びや慈しみのような温かく明るい何かがあること、その温かさや明るさが〈君〉とつながっていること。そういうイメージで読んでいます。──Dr.ギャップ

● 下の句をかっこに入れて、しかも一音多くして真ん中におかれた「も」が気になって仕方がありません。はるか彼方にもすでに在る君は、それ以外の場所にももう在るのでしょうか。たとえば話者のすぐ近くにも。
ただ君がどこであれ、この歌を詠んでいる誰かは今ジャムのふたを開けようとすることでいっぱいいっぱいで、そこに君の存在はあまり関係がないように思いました。小瓶が凍てついているのはその場所が寒いからですか、それとも何もかも凍りつくくらい長い時間が経ったからですか。──るぴ

● おそらく「君」とちかしくあった頃に閉めたままのジャムの蓋をなんとか開ける。自分は思い出もそのままだが、彼の人はもう違うのだろう。二次創作としてではなく、通常の短歌としてもとても共感できる一首。──萩野すい

● 「凍てついた」の措辞や助詞「にも」がぐっと世界観の構造を複雑にしているところが好きです!!!!──サイリ

● 全然違うかもしれませんが、冷蔵庫の奥底に眠っていたジャムの瓶を開ける様子が浮かびました。夜、冷蔵庫の明かりに照らされながらずいぶん昔の瓶を開け、どこか遠くに行ってしまったその人は新しい瓶を買って暮らしている、凍てつくほど冷蔵庫で眠らせることもない、そんな歌なのかもな、と感じました。──室城

★作者コメント
● 作品:『アイドリッシュセブン』、キャラ:和泉一織(と七瀬陸)
和泉一織さんと七瀬陸さんは同じ「アイドリッシュセブン」というアイドルグループのメンバーです。この二人はそれぞれが欠乏感として抱えていたものを相手に渡し合える関係であり、求めるひとと応えるひととしてバディになっていきます。
そんな二人ですが、陸は物事に終わりがあることをどうしようもないこととして諦観とともに受け入れており、一方の一織は愛するものの終焉を忌避して永遠を強く望み、そのためにできることは何でもするつもりであるという価値観の対比があります。この差異を背景に、この歌は一織から陸への無言の説得、祈りとして詠みました。
『アイドリッシュセブン』はアプリを起点に様々に展開されていますが、初めての方はまずテレビアニメから視聴されることをお勧めします(動画視聴が苦手でなければ!)。原作の展開をスマートかつスリリングにさばく見事な脚本構成に、カメラワークやモチーフの見せ方、登場人物の演技の付け方から間の取り方まで、物語に奥行を作る演出が素晴らしく、映像表現として優れた作品です。ちょうど12月5日(金)にアニメ第一期総集編の後編が上映スタートしました!前編が見られる場所がまだあるかはわからない……
作中世界でのコンサートを映したものとして作られた『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERIOD』もお勧めです!時々映画館で再上映されていますので機会があればぜひ。ストーリーを知らなくても大丈夫です。──曇

傷ついたひとの努力に幸運は芽吹く シロツメクサの声援  しまおかさよ

● 「幸運は芽吹く」と下の句の「シロツメクサの声援」のリンクが素敵です。
「幸運」の象徴である四葉のクローバー(シロツメクサ)が送る声援、努力は報われるという希望と、努力が報われてほしいという願いを強く感じる歌で好きです。──海月雪夜

● 言葉が素直でとても読みやすく、すっと心に入ってくる短歌でした。芽吹いたシロツメクサが声援を送っているようにも、シロツメクサの花冠で声援を送っているようにも感じます。明るくさわやかな、元気の出る短歌ですね。──ゆの

● 植物が踏まれるとその生存戦略を変えて強くなったり個体の変化があったりします。この歌からも「逆境の中の前進」のイメージが広がりました。傷ついた人の、それでも続けた努力で芽吹いた幸運。神様がくれたものと言うよりは、自分で得た、またその努力の姿に周りが掛けてくれた声援自体が幸運なのかもなと想像しています。──山と森と街

● 下の句でがっつり句をまたいでいる! 個人的に句またがりが大好きなので音の並びを見ているだけで嬉しくなってしまいます。ありがとうございます。
しかもシロツメクサ、傷ついても伸びる強い植物、四つ葉のクローバーになる植物ですから、真ん中で句が分かれてもなんということもなく立ち上がるでしょう。路傍の花のささやかな声援ながら確かな力があると信じられます。──るぴ

● シロツメクサは踏まれたり何か刺激を与えると四葉になりやすいと聞いたことがあって、それを踏まえて「傷ついたひと」「幸運は芽吹く」としたのではと読み取りました。今頑張ってる人に対して優しいエールを贈るようなお歌で爽やかでとても素敵だなと思いました。原作は学生が主人公のお話なのかなと予想しています。──アサコル

● ‐ 金言です。このまま額縁に飾りましょう。黒字のTシャツに印刷して、合宿に来ていくのもよさそうです。
‐ 「シロツメクサ」と「幸運」が直結していて、とても気持ちがいいです。でも、「シロツメクサ」は「声援」するだけなんですね。「傷ついたひとの努力に幸運は芽吹く」と強く言い切っているのに、自分は傍観者に徹しています。まるで、物語の登場人物を見て、手に汗を握っている我々のようです。──おかのきくと

● 「傷ついたひと」という、とても脆い状態にある人の努力に「幸運」がやってくるだとか、もたらされるのではなく、「芽吹く」というのが力強いです。この言葉を定型の中では句頭、かつフレーズの中では文末という配置にし、はっきりと言い切る形にしていることがその力強さを確かに表現していると思いました。「芽吹く」以前にe音がないこともこの言葉を印象付ける一因になっています。──曇

● シロツメクサ=クローバーのうち四つ葉のものは幸運のシンボルとされていますが、通常三つ葉のクローバーが四つ葉になる理由の一つとして葉についた傷があるそうです。ということを念頭に置くと、〈シロツメクサの声援〉が同じ境遇の先輩からのエールのような、〈傷ついたひと〉により近い位置からのものとして感じられてグッときました。
一方で、あまり理屈っぽく読みたくないな……という気持ちになる歌でもあり、歌から感じる優しいや感情や真っ直ぐな言葉をそのまま受け取りたいなとも思います。シロツメクサが「いつか幸運は芽吹く」と励ますと同時、「自分が幸運を運んであげる」と言っているようで力強くも感じました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 【漫画『メダリスト』より「牛川四葉」】

フィギュアスケートクラブ・名港ウィンド所属、初登場時6年生(今は中学生になったよ!)の四葉ちゃん。同じクラブの八木夕凪ちゃんとなかよしの四葉ちゃん。自分のことと同じくらい、夕凪ちゃんを始めとしたお友達のことで悔しい悲しいと涙を流せる四葉ちゃん。
四葉ちゃんは、スケートの成績よりも、その心根のやさしさを感じる描写の方が多い女の子だ。でも、競技の世界に身を置く彼女にとって、純粋に誰かの幸運を願ったり、心の底から誰かの努力にエールを贈ることは、彼女自身の強さが必要なことだと思う。やさしさだけでは、競技の世界では生きられない。自分を認め、相手を信じる力があるからこそ、自分と相手をよく切り分けて「がんばれ」が言える。その素晴らしさを少しでも短歌にできていたら、いい。
この歌は、四葉ちゃんが誰かを応援する様子でもあるし、四葉ちゃん自身への応援も込めた短歌にしたつもりだ。彼女のキャラクターとしての属性を思えば、今後の描写は少なくなるのかもしれないし、または、彼女自身の人生の中で、フィギュアスケートというひとつの物語を離れるときが来るのかもしれない。しがない読者である私は待つことしかできないけれど、四葉ちゃんと四葉ちゃんの信じる人の笑顔が見られることをいつだって待っている。──しまおかさよ

主なき静かな城の片隅で小さき子らの時は過ぎゆく  ぱるき

● 静かな城で子どもたちが遊ぶ情景もまた静かなのだろうと思わせる、静かな歌です。「小さき子ら」「片隅」などの言葉の対比として城の大きさ、空虚感が強く伝わってきました。時間に取り残された絵画のような味わいが素敵です。『ICO』というゲームを思い浮かべました。──ゆの

● 城とは詠まれているものの、日本の一般家庭の歌なんじゃないかと邪推しました。
親が帰ってくるまでの間、そう年の離れていない兄弟が穏やかに(もしかしたら喧嘩はたまにあるかもしれないけど、表面上静かに)留守番をしている様子が浮かびました。──室城

● 主のいない城は少し怖いような寂しいようなイメージがありますが「小さき子ら」となるとなんだか秘密基地のようなわちゃわちゃとした雰囲気も出てきます。暗い城の中で一部屋暖かい場所がある、いつもと違う特別感のある時間なのかなと想像しています。──山と森と街

● 歌から感じる静寂がとても美しいです。
庇護されるべき子どもが寄り添っている様子に子どもたちの幸せを願わずにいられませんでした。──海月雪夜

● ‐ 「鏡の孤城」を思い出しました。不思議な城に迷い込んだ不登校の子供たちが、心を通わせる小説なのですが……。子供の世界は、あまりに狭い。私たちにとってはどうということないことが、彼らにとっては大きな事件になったり、一生消えない傷になったりします。「静かな城」のなかで、残酷な時代が「過ぎゆく」のをじっと待つことで、はじめて救われる、生きられるひとがあるのではないかと思います。──おかのきくと

● 一読してぱっとシーンが思い浮かび、一方でシチュエーションが謎めいて感じられるという不思議な印象の歌でした。〈小さき子ら〉と〈主〉の関係は。そして「私」と彼らの関係は。
初読では〈小さき子〉らは子ども(ただし城の主の子どもとは限らない)かなと思ったのですが、〈時は過ぎゆく〉や〈城の片隅〉という言い回しから、〈子ども〉にたとえられたモノなのかなと思うようになりました。たとえばぬいぐるみや宝石など。あるいは妖精や座敷童のような、時が経っても成長しない存在かもとも思います。
〈主なき〉は単に持ち主のいない、廃墟に近い状態を表しているのかもしれませんが、〈小さき子ら〉がかつてはその主のもとで過ごしていたけれど今は違う、というイメージを受けました。さみしくはあるのですが、どこか穏やかで安らかな印象を感じます。──Dr.ギャップ

● 春望の変換の歌に思えました。いつもそこにあり文明をのみ込む緑ではなく、いつの世も守るべきであり次の文明をつくる子どもら。彼らが大きくなった時、城と主はどうなっているのでしょう──萩野すい

★作者コメント
● スタジオジブリ作品「天空の城ラピュタ」をモチーフにしました。映画ラスト、凧に乗ってラピュタから離れる際にパズーとシータが一瞬見た、庭園を歩いていくロボットに戯れるキツネリスと小鳥たち。火(武力)を永久に失い誰もいなくなった城で、彼らはこれからも変わらず静かな時間を刻んでいく……そんなイメージで詠んでいます。──ぱるき

晩秋の赤の他人と並び食うたこウインナーにも繋ぐ手はあり  山と森と街

● 「晩秋」「赤の他人」「たこウインナー」と、赤色を想像させる単語が複数用いられ、秋の朱色のイメージがすっと浮かんでいました。
読んでまず最初に、「赤の他人」とはどんな人だろうと考えました。本当になんの関係もない、偶然ベンチで隣に座っただけの他人とも読めますが、これが二次創作短歌であることと、主体がたこウインナーの姿に他者と繋がれる可能性みたいなものを見出していることから、この「赤の他人」は、主体にとってこれから関係性を築いていくべき相手なのかなと思います。例えば何がしかのプロジェクトのために召集され、見知ったばかりのチームメイトだとか。その人と外へ仕事に出ていて、近くにあった公園のベンチで昼食をとっているというシチュエーションかも。
複合動詞にも見える「並び食う」が「並びくう」ではなく、動詞それぞれが漢字表記になっていて、どちらの動詞にもフォーカスが当てられています。それによって「並ぶ」と同じ程度に「食う(主体の動作)」も存在感を得ることから、並んでいる主体と「赤の他人」は別々のものを食べているのかなという気がします。「たこウインナー」があるということは主体の昼食はお弁当、それも手作りの可能性もあると想像しました。「赤の他人」さんは菓子パンとかかもしれません。
初句~四句は句頭がa音で、結句のみ「つ」=u音になります。さらに「ウインナー」の「ナー」と最後の「あり」でa音に挟まれていて、「繋ぐ手」だけがすこし違う雰囲気を帯びるようです。「つ」=u音の少し下にもぐる感じが、自分の太ももに乗せた弁当箱のたこウインナーを俯く姿勢でじっと見つめ、感慨にふける主体の姿を思い起こさせる気がします。自分とは気質のかけはなれた傍らの人とこれからやっていけるのだろうかと少し憂いつつ、覗き込んだお弁当箱の隅で重なったたこウインナーが手をつないでいるように見えて、相手との関係構築へのインスピレーションを得る。そんな感情の動きが晩秋の地面に落ちた赤い葉が彩る景色のなかで起きている、という情景が思い浮かびました。
どんな作品とキャラクターをもとにして詠まれた歌なのか気になります。──曇

● 最初から最後までひと続きの文章になって意味によって分かれる箇所のない、句切れなしの歌として読ませていただきました。そうすると上の句がまるまる主語の「たこウインナー」にかかっていて、前置きが長々しくていいな……と思ったので。
晩秋に食べているのは紅葉狩りのお弁当のたこウインナーですかね、もしかするとバスツアーなんかの。特に誰かと連れ添ったわけでもなく行った先で隣には知らない人がいて、たこの形から手をつなぐことを連想する主人公は、もしかして手をつなぎたかったけれどつなげなかった誰かがいるんでしょうか。──るぴ

● 晩秋、「赤」の字面、タコウインナーというモチーフが、重奏的に暖色のイメージをもたらして、ウインナーたちが「繋ぐ手」のささやかなあたたかさに気づきます。──サイリ

● 愛情のうただ!!
だって、たこウインナーなんて下準備も調理もちょっとめんどくさいもの、見た目のかわいさや楽しさのために、それを喜んでくれる相手のためにしか作らないよ!!愛情の証明!!……と思うので。──しまおかさよ

● 深夜食堂の竜ちゃんの歌かなと思いました。
隙間風の入り込む食堂で真っ赤なタコウインナーを食べながら、赤の他人と話すようになっていく。だんだん周囲の常連客が赤の他人でなくなりながらも、赤いタコウインナーを注文し続けるんだろうなと。──室城

● 「晩秋の赤」から紅葉の場面が思い浮かびました。「赤の他人」と掛かった言葉遊びが楽しいです。たこウインナーという庶民的なものを並んで食べることで生まれる親しみ、連帯を感じながらも、たこウインナーでさえ持っている「繋ぐ手」を持たない自分たちの距離感を省みているようにも読めますね。片想いの相手と手を繋ぎたいけれど繋げない状況なのかな、と想像しました。──ゆの

● 「たこウインナー」といえば家族や友達など気の置けない関係の人と食べるイメージですが、「赤の他人」と食べているというちょっとした異様さがユニークでいいなと思いました。仲のいい友達のいない遠足のようでもあります。
「晩秋」そして「赤の他人」、といった冷たい印象の言葉の後に続く「たこウインナー」の気の抜けたユーモラスさも効いていて良いな〜と思います。「たこウインナーにも繋ぐ手はあり」、なんだか小さな子どもの描くクレヨン画のようなほのぼのとした情景が浮かんですごく好きな下の句です。武者小路実篤の「君は君 我は我也 されど仲よき」も思い出しました(実篤が描いた2つの野菜の絵の横に添えられた言葉です)。──海水

● 晩秋の紅葉、赤の他人、赤いタコウィンナー、「赤」という色と言葉が象徴的に使われていて情景が目に浮かびます。
たこウインナーを加熱すると腕が上がることを「繋ぐ手」と表現する視点が良いと感じました──ましも

● ‐ 「たこウインナー」を足を、「手」としてるのが面白いです。「繋ぐ手はあり」と書いてるけど、その手は本物のタコのように先天的に備わっているものではなくて、自分ではない誰か、「赤の他人」の手で、丁寧に削がれ、作られたものなんですよね。
‐ さらに、「赤の他人」という言葉がいいです。語義は違いますが、「赤」が入っていることによって、タコウインナーはきっとかわいい赤色をしているんだろうな、と分かります。詩のおもしろいところですね。「晩秋」は「ほとんど冬」として読みましたが……。寒い季節だからこそ、誰かの心の温かさがひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。さらに、食べているのが鍋やおでんだったら……と想像します。絆の例として「同じ釜の飯を食う」という表現がありますが、「ウインナー」が「タコ」であることに気付いた時、作中主体はそこに、血を超えた絆を感じたのではないでしょうか。──おかのきくと

● たこウインナーに手があるという視点がなかったので、というか、足だと思っていたので、そうか、たしかに隣の人とつなげるもんなあ、と思いました。──佐倉

● すーごく可愛くて、読みながらにこにこしてしまいました。固めの語彙と文語調で綴られる一首の〆が〈たこウインナーにも繋ぐ手はあり〉。この短歌の「私」は可愛い子ぶるつもりなどはなく素直にそう思っただけなのだろうという印象なのですが、その衒いのなさにますますきゅんとします。
〈赤の他人〉でも食事をともにする程度の関係性はあるようで、けれど下句からすると「隣り合うだけでなく手を繋ぐ関係になりたい=もう一歩近づきたい」という気持ちがあるのかなと思います。
〈晩秋〉と〈赤の他人〉が赤色のイメージでつながり、かつ〈たこウィンナー〉も同色のイメージがあるので、全体的に赤色の温かいイメージで読みました。このあとは(もしかしたら一波乱あるのかもしれませんが)、お相手と仲良くなれそうだなという予感につながります。
シーンの切り取り方が素敵で「私」が可愛くてお気に入りの一首です。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 「深夜食堂」安倍夜郎(小学館)

深夜食堂は食べたいものを言ってくれたらなんでも作るよという「めしや」を舞台にうまいめしと様々なキャラクターが織りなす人生を覗いているようなクセになる漫画です。今回は第1話から登場する鬼島組の幹部の竜ちゃんで詠みました。竜ちゃんは赤いタコさんウインナーと高校野球が好きで怪談とかの怖い話は苦手と妙に気になる人物です。
ヤクザとして生きている竜ちゃんがもし短歌を詠んだらどんな感じだろう?定型で淡々として根底に生真面目さがあって。寂しさとほんの少し人懐っこさがある短歌を詠んでくれたらうれしいなぁと思っています。(原作の竜ちゃんもドラマ版の松重豊さんの演じる竜ちゃんもどちらもいい味で好きです)──山と森と街

笑み浮かべ毒を愛でるその瞳に 気づけば我も毒に冒され  ぱるき

● 歌全体の妖艶な雰囲気がすてきです。見ていただけなのに魅入ってしまって「笑み浮かべ毒を愛でる」対象に自分もなってしまっていることがグルグルと連続していておもしろいなぁと感じました。相手にコレクションされている気分にもなります。──山と森と街

● 「薬屋のひとりごと」かなと思いました。妖艶な眼差しとその瞳に魅入られた主体の心を「毒」で表しているのが素敵ですね。──ゆの

● ツイステのヴィルとルークかな?と思いました。その瞳がヴィルで、我がルークで。
妖艶な雰囲気がすごくすごく好きです。──月ノ華

● 『薬屋のひとりごと』の猫猫と壬氏をイメージして読ませていただきました。
上の句から感じる大好きな毒に夢中になっている楽しげな様子と下の句でそんな彼女に苦笑しながらも惹かれる「我」の苦悩が対象的でした。
恋の芽生えとそれに気付かない人のピュアさがとても可愛らしいです。──海月雪夜

● ‐ ミイラ取りがミイラになる、というやつですね。「毒を愛でるその瞳に 気づけば我も毒に冒され」。なんともゴシック的、耽美的ですね。「冒され」が漢字だからでしょうか。「笑み浮かべ」「毒を愛でる」と、わざわざ動詞の反復になっています。本来なら削ってしまうところですが、作中主体は、それだけ執拗に、「瞳」をもつ誰かの一挙手一投足を観察し、耽溺しているということでしょう。──おかのきくと

● 言葉選びや対象の描写に色気のある歌でした。上の句からは、「その瞳」が「毒」に陶酔しているかのうように危うげで魅惑的な輝きを湛えているのがイメージできます。その瞳を見入るうちに、主体にも「毒」へ惹かれる気持ちが伝染してしまった。もしかしたら「その瞳」の持ち主こそが主体にとっての「毒」なのかもしれません。──曇

● こういうキャラ好きだったよなー!という気持ちが一読して湧きおこりました。怪しさをはらむ毒使いやマッドサイエンティストをイメージしています。久保帯人『BLEACH』の涅マユリのような。
〈気づけば我も毒に冒され〉は、その相手に惹かれてしまっていることを指していると読みました。相手の危険さ、その相手に惹かれることの危険さを分かっているけれど、それでも〈気づけば〉という。〈我〉は原作内の人物とも見えるし、原作の読者(≒この短歌の作者)とも見え、またそこにこの短歌の読者である自分自身の感覚も重なって、何重にも重なって見える〈我〉の感覚を面白く思いました。
「好きなものに夢中になっている君が好き」という構図が好きなのですが、その「好きなもの」に毒という危険なものが入ることで生まれる独特の味わいが楽しいです。──Dr.ギャップ

● 鬼滅の刃の童磨の歌だと想定いたしました。毒使いのしのぶ様を愛で、初撃で目に毒を食らい、最期に効いてきた毒も初撃を受けた目からでした。最期の最期に恋を知った、毒に侵されてしまった童磨の歌にふさわしいなと解釈しました。──雪宮斎希

★作者コメント
● 「毒」というキーワードでもしかしたら気づいた方もいらっしゃったかもしれませんが、「薬屋のひとりごと」から。
はじめは恐らく一使用人として見ていなかった猫猫に、はからずも(?)心惹かれていく壬氏。彼の中で次第に大きくなっていく猫猫の存在を、こちらも「毒」という言葉で表現してみました。──ぱるき

見えていた景色が違ったのでしょう 輪郭を教える雨が降る  古月もも

● 離別のイメージが浮かぶ歌で「あなたと私は同じだと思っていたけれど違った」とい事が「輪郭を教える雨」によりわかってしまう。濡れているのは私でしょうか?冷たく濡れてその寂しさではじめて相手と違ったことをわかるのはとても切ないと感じました。雨は私の流す涙なのかもと思います。──山と森と街

● 雨のほうはおそらく誰かの輪郭を教えるつもりはなくただ降っているだけなのに、主人公がそこに今まで知らなかったであろう輪郭を読み取っている風景に感じられました。雨が降っていれば主人公の視界も晴れた日とはまったく別の景色に変わるのですが、それと同時に自分ではない誰かとの視界の違いに気付き、今までと同じ自分(と誰か)ではいられなくなったと知ったかのようです。今獲得した新たな景色を、主人公がどのように受け止めたかに興味がわきます。──るぴ

● 「輪郭を教える雨」が好きです。雨の冷たさに打たれることではじめて輪郭がわかって、見えていたもののかたちが相手とは違っていたことに気づく。場面に音と温度感を与える雨の効きもかっこいいです。決別に至る二者の関係性の歌、好きです。──サイリ

● 雨によって、主体と誰かがこれまで見ていた景色が、実は異なる輪郭を持つ別物であったことが明らかになった。雨が物体に弾かれた飛沫で輪郭が浮かび上がる情景を見せるのが、冷たさや悲しさも感じさせてうまいです。何の輪郭なのかが気になります。ひょっとしたら相手の姿なのかもしれないなと思いました。ならば涙雨でしょうね。──ゆの

● ‐ 「輪郭を教える雨が降る」。声に出して読みたい。相手と「見えていた景色が違った」ということに気づく瞬間には、ひどい痛みがあります。同じ景色を見ていた、ということは、「視界」「目」という身体を共有するほどの仲だったということ。その人と引き離された瞬間に、ちょうど雨が降ってくる。思い込みという霧や雲に隠れていたその人の姿、みっともない自分の輪郭が明らかになる。哲学的で、ポエジーです。雨に輪郭を教えられる、というシチュエーションというか、言葉の取り合わせがよすぎます……。──おかのきくと

● 上の句と下の句が一字空けを挟んで口調が変わっています。そのことから、上の句は誰かから言われた言葉なのかもとまず思いました。
「輪郭を教える雨」は、それがどのくらいの強さの雨であるかで誰に誰の輪郭を教えているか変わると考えます。もしもこれが土砂降りの強い雨なら、自分自身のことはぐしょぬれになる感覚に埋もれてわからなくなりそうで、はっきりと見えるようになるのは相手の輪郭の方ではないでしょうか。強い雨にはじかれてそこだけ切り取られたように、その輪郭がはっきり見えるようになると思います。一方これが霧雨のような弱い雨だとするのなら、強く知覚できるようになるのは自分自身の事だという気がします。雨粒が肌に触れ沁みとおるような感覚が、あまり意識することのなかった、空気に割り込んで一定の体積を占領している自分自身の身体の存在や、己と外部の境界の存在を主体に突き付けると思います。
下の句の韻律は、「教える雨が降る」とループするようなリズムがありつつ、抑揚は控えめで淡々としている印象です。なので、雨は激しくない、つまり、ここでいう輪郭は雨に降られている本人のものと解釈しました。上の句を他者からの言われた言葉とする読みと合わせて、個々人に、つまり自分自身に形があるということが「見えていた景色の違い」をもたらすのであり、そのことを認識できていなかったということこそが、こうして相手から突き付けられるまで自他の違いに気づきもしなかった理由なのでしょう。この状況で現れる「輪郭」という漢字表記の迫力に圧倒されます。「郭」という字が持つ堅牢さのイメージが、「見えていた景色が違った」こと、「輪郭の違い」があるという事実の厳然として揺るがない様を象徴しているようで、雨に降られている人物が感じているであろう己の愚かさへの後悔や、その事実の不動であることに打ちのめされる感触がこちらにも伝わって来るようです。また、一人の身体のイメージを一つの城のように孤高のものとして立ち上げ、相手と自分は全く違う別々の世界の中で生きているし、生きていくという認識の世界に突入した孤独感をさらに際立たせるようです。──曇

● 「輪郭を教える雨」! ニュアンスをぼんやり感じ取って味わえる、詩的な含みがあって好きなフレーズです。
私の拙い表現で言語化するのは野暮かもしれませんが、全体の読みとしては「わからなかったことがわかった。それは雨のような切ない余韻を残す」という風に読みました。──海水

● すごく静かな印象で、詠草を読んでいてふとこの歌で立ち止まってしまう、そういう力を感じました。
「あなた」と「私」で見えていた景色が違った=手にしていた情報や価値観が違った、どちらが悪いというわけではないけれどすれ違いがあった、という風に解釈しました。また〈見えていた〉と過去形で語られていることから、そのすれ違いはやり直せないのだろう、そしてそのやり直せなさを悲しく思っているのだろう、と想像します。
〈輪郭を教える〉は私の見え方ともあなたの見え方とも違う、世界のそのままの形というイメージで、その雨が降ることで〈見えていた景色が違った〉ことに気づき、あなたとのすれ違いを受け止めることができたのかなと想像しました。雨が降って物の輪郭が浮かびあがって〈見えていた景色が違った〉だけなんだと教えてくれている。
静かな印象の歌でありつつ、〈景色が違っ/たのでしょう〉〈輪郭を教/える雨が降る〉と後半で句またがりが二つあり、そこでリズムが少しつっかえるのがすれ違いへの屈託と響きあうように感じて印象的です。
なんとなく幼馴染や相棒のすれ違い、戦記物といったイメージで読んでいます。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 漫画『ワールドトリガー』の二宮匡貴と鳩原未来のことを考えながら詠みました。──古月もも

天狼や 側に駆け寄る星ひとつ 此度はふたりで新雪を踏む  月ノ華

● 一句目の切れ字「や」がなんとも古風な雰囲気で効果的だと思いました。わざわざ「今度」ではなく「此度」という単語を選んでもいますし、主人公は古めかしい言い回しが好きだったり実際にとても長く生きている方なのでしょうか。
「此度は」と言っているのだから、以前なんらかの事情があってふたりで新雪を踏めなかったことがあり、けれど今回はどちらからか駆け寄りそしてふたりになっている。ひとつのエピソードの完結と新たな始まりを予感しました。──るぴ

● 「天狼や」と詠嘆とともに見上げる空、たったひとりでいた自分に寄り添ってくれる人が現れてくれた、その喜びが伝わってきました。そして下の句の「此度はふたりで新雪を踏む」がふたりで広い場所、新しい場所へ駆けていく姿が見えてとてもすてきです。──山と森と街

● 「天狼」はシリウスのことでしょうか。凍てつくような冬の空で、まわりを飲み込むような強さを持つ光を、ひとりにさせない星がいてくれるあたたかさ、シリウスはめちゃくちゃうれしかっただろうなぁと思います。
一足す一が二になる概念が好きすぎるので、満足感が高めの一首です。──しまおかさよ

● 天狼星はシリウスだったと思います。駆け寄る星は流れ星でしょうか?「新雪を踏む」という表現に、しんしんとした冬の冷たさと清新さがあり、一面の雪の白の中をふたりでゆくあたたかさがより感じられました。「此度は」とあるので、離れ離れになってようやく再会できたふたりなのかなと思いました。──ゆの

● 一目見てかっこいいお歌だなと思いました。天狼は星の名前でそれが連星であることを踏まえた上の句と、下の句がよく響き合っているように感じました。「此度は」とあるので、このふたりは転生を繰り返しているのかもしれません。また「新雪を踏む」がふたりで何か新しいことを始める暗喩にも読めて、物語の始まり(もしくは終わり?)を想像しました。ただ天狼は中国ではあまり良くないものとされているようなので、それを踏まえると何か新しいこととは良くないことでふたりは共犯関係なのかもしれませんね。よくないことをも分かち合える、心が深く繋がっているふたりの静かな情景が浮かびました。──アサコル

● 「天狼」という孤高の星に、「駆け寄る」小さな光が並ぶ場面が印象的でした。夜空を立体ではなく「平面」としてとらえ、星同士が歩み寄るように描く発想が新鮮で、物語の入口のように感じられます。「ふたりの星」が誰なのかはあえて言わず、読み手が自然に重ねられるところも心地よいです。

「此度はふたりで」「新雪を踏む」という言葉から、以前はひとりで越えた冬があったことが伝わり、今はその白さの上を並んで進もうとする静かな決意が響きます。「天狼」や「新雪」の硬質な音と、「駆け寄る」「ふたりで」のやわらかな響きが交わり、冷たい季節の中にあたたかな歩幅がそろっていく感じがしました。──おかのきくと

● 夜空に青白く輝く天狼星(シリウス)は全天で一番明るい星だからこそ孤高の存在のイメージがあります。側に駆け寄る星があること、孤高の存在に寄り添い歩く存在があることに心が温かくなりました。
空で始まる歌が新雪を踏むという地上の動作で終わる、この対比が好きです。──海月雪夜

● 天狼はシリウスのことで、地球からは一つの星に見えるものの実際にはシリウスAとシリウスBという二つの星であるということ、ひいては星は孤独とは限らない、ということを思いながら読みました。
〈天狼や 側に駆け寄る星ひとつ〉ではカメラが天に向いている、あるいは宇宙にあるのが、〈此度はふたりで新雪を踏む〉で地面に向いてクローズアップするのが新鮮で印象的でした。上句は比喩かもとも思いつつ、〈此度は〉とあることから生まれ変わりのイメージをどこかで感じています。以前は星(のような)存在だった二人が、今は肉体を持って地上にあり、星だった頃よりももっと近い距離で一緒に過ごせる、という。〈此度はふたりで新雪を踏む〉について、解放感や嬉しさに華やぐ気配を感じています。新雪を踏むという表現は「綺麗なものを台無しにする」という場合に使われることもあるかと思うのですが、この歌ではそういったイメージは受けず、無邪気さや喜びのイメージで受け取りました。
なお前回歌会で、つるまいかだ『メダリスト』の狼嵜光さんの短歌に狼星(天狼と同じくシリウスを指す単語)が登場していたのが印象深く、それに引っ張られて読んでいる部分もあると思います。狼嵜さんを当てはめて読むなら、〈新雪〉はスケートリンクとの対比で、競技外で会いましょうというニュアンスがあるのかなとも考えました。──Dr.ギャップ

●  初見では、ミュージカル刀剣乱舞の幕末天狼傳に対する歌なのではないかと解釈しました。この作品は新選組の池田屋付近の歴史を守ることがメインストーリーです。刀剣乱舞では沖田総司が池田屋で所持していたのは加州清光であり、もう一振りの愛刀である大和守安定は置いていかれた立場でした。それが今は肩を並べて池田屋で戦っている、ということをが「ふたりで新雪を踏む」というところに繋がっていると思いました。
 しかし、FGOの近藤さんと土方さんの新聞広告での、一人ぼっちだった土方さんのもとへ近藤さんが向かう光景を詠ったものでもあると解釈しました。好きです。──雪宮斎希

● 情景が眼前に浮かんでくる、素敵な歌だと思いました。「天狼」とはシリウスのこと。その傍に駆け寄る星、ということで、おおいぬ座とこいぬ座のことを思い浮かべました。
また、「狼」という言葉は孤高の存在、「一匹狼」を想起させます。
この歌はずっと独りであった人物に、今は慕ってくれる子供のような存在ができた、ということなのかなと思いながら読みました。「新雪」という言葉からも、その子が来てからの景色の見え方が新しくなったような新鮮さを感じます。
今まで新雪に何の感慨もなかったのが、その子がいれば特別な景色になる。冬の情景だけど、そんな温かさを感じてすごく好きだなと思いました。──古月もも

★作者コメント
● 原作:「Fate/Grand Order」土方歳三・近藤勇
10周年記念紙面ジャック企画「OVER THE SAME SKY」より、十月二十六・二十七日の北海道の新聞に載せられたふたりの描き下ろしイラストから。土方歳三終焉の地である五稜郭公園に行くふたり……というイラストなのですが、しんみりと昔を思い出す土方の一方、近藤は片手に土産トートもう片手に犬(3匹)のリードを持ち完全に観光モード、というなかなかに愉快な状況になっています。
個人的に新選組そのものや土方歳三そのものが好きで昔から関連の漫画を読むのですが、どの作品でも箱館の土方歳三は大軍の先頭で吹雪のなか足跡ひとつない雪原を歩いている様子が印象的で。FGOでも新選組サーヴァントのなかでは比較的早く召喚され、バーサーカーとして闘う姿はまさに“孤高の狼”そのもので。そこにようやく幼馴染もとい近藤さんが来て、ついに一緒に戦場ではない旅行として函館に行って、今度はふたりで足跡ひとつない新雪を踏む。そのふたりの笑顔が健やかなものであってくれ、と思いながら詠ませていただきました。──月ノ華

どこまでもあなたは過保護であっけなくそれでもわたしの全てでした  雪宮斎希

● 過保護だけどあっけないという言葉につかず離れずの関係が浮かびまして。普段は中々本音で語り合えない。それでもお互いかけがえのない存在(人)であるのが充分伝わってきました。──ぱるき

● 上の句の声に出した時の流れるようなさらっとしたリズムが三句目の「あっけなく」と重なり合って"過保護"でずっとそばにいてくれただろう相手の喪失がシンプルにでも強く響きます。結句の「全てでした」で受け入れる主体の強さも感じました。──山と森と街

● 「全て」と言っているのに、結句が六音で字足らずになっていますよね。個人的に字足らずは字余りより強く引っかかりを感じてつい反応してしまうので、この一音の不足から話者が自分で言っているほど全てではなかったのではないか、という言葉にされないメッセージを勝手に読み取りました。過保護であったこともあっけなかったことも欠点でありながらも話者には全てであり、でもそれはもう過去形で語られる終わった話になっているんですね。──るぴ

● 母親的な存在への葛藤と愛情、簡単には割り切れないけれど、根底にはたしかに情が存在することから目を逸らせないもどかしさを痛いほどに感じます。一読して思わず深く息をついてしまいました。
「あっけなく」で言葉を留め、その先の離別(あるいは死別)は読み手に委ねて「それでも」以降を言い切る潔さがかっこいいです。──サイリ

● 「過保護」と「あっけなく」は不思議な組み合わせです。主体にとって「すべて」である人物との対決の場面、相手は過保護ゆえにあっけなく倒されてしまったのではないでしょうか。だとしたら、そこにあるのは愛だろうと思います。互いに想いあいながらキッパリと決別する潔さが最後の過去形で表されていて、歌をキリッと引き締めていると感じました。──ゆの

● 「あっけなく」の意味を考えさせられる歌です。過保護である人物はそれゆえにあっけなくいなくなってしまったのか、それとも?どこか寂しさを感じます。──くぼたむすぶ

● 〈過保護であっけなく〉が印象的でした。セットで使われる印象がなかったので意外でありつつ納得感も覚えます。〈過保護〉があるとき〈あっけなく〉途切れた、という状況をイメージしています。親離れや修行の終了の訪れ、あるいは〈あなた〉が亡くなってしまったのかもと思っています。
一首全体に温かい気配を感じ、〈過保護〉も過干渉や毒親といった性質のものではなかったのかなと思います。〈わたし〉を大切にしてくれていたのだ、という形で〈わたし〉が受け取り受け入れているような。
〈過保護〉という言葉から大人と子ども、師匠と弟子、長命種と人間など、力関係に大きな差のある関係性を想像しました。──Dr.ギャップ

● 三句「あっけなく」の後に、「あなた」がいなくなってしまったことを示す言葉が省略されている気がして、それは「あなた」が死んでしまったということなのかもと思いました。「どこまでも過保護」であったが故に、自然な献身で自然に命を落としたのかもしれない、と。歌の中に平仮名のほうが多く見た目に線が少ない簡素な風景や、「あなたは過保護であっけなく」のa音で作られる飾り気のない軽やかなリズムが、「あなた」の消失のほんとうにあっけなかったことーー衝撃すら生じさせないような平坦な出来事だったことを伝えてくるようです。
一方で、少ない漢字表記である「過保護」と「全て」は際立ち、「あなた」と「わたし」が互いに抱く想いの大きさと重さがしっかりと感じられます。「過保護」はきっとティーカップに海を持ってきて注ぎ続けるようなものだったのでしょうし、「全て」とは本当に文字通りの「全て」だったのだろうと思います。──曇

● 最初に読んだ時、「過保護であっけなく」というのはどういう状態だろう、と考えを巡らせました。
自分のことをよく構うくせに、いざという時には自分を置いて先に行ってしまった。そんな人のことを主体は考えているのかな、と思いました。
「それでも」という言葉からも、主体はその相手のことを憎みたくても憎めない、複雑な感情を抱いているような気がします。
過保護なことも鬱陶しいと思いつつ、何だか嫌な気持ちはしない。自分を置いていったことも、それがその人らしさだと理解はしているのに、自分の傍にずっといてほしかった。そんな相反する感情が渦巻いているような雰囲気が伝わってきました。──古月もも

★作者コメント
● 原作:鬼滅の刃
しのぶ様からカナエさんへの歌です。首を斬れずとも、隊士として立派にやっていたしのぶ様に対してのカナエさんの遺言、
「鬼殺隊を辞めなさい」
はある種少し過保護だったような気がいたします。(妹を想う気持ちからでしょうが)

姉の仇討ちのために、姉に成り代わって生きていくしのぶ様にとって、両親を亡くしてからはカナエさんが全てだったのではないでしょうか。──雪宮斎希

愛求め嘆く幼い奇術師に現在いまが手向ける白百合の花  海月雪夜

● 上の句の漢字の続く感じが飾り立てているようで「幼い奇術師」に大人になりきれなかった大人の姿みたいなものを想像しました。(ブカブカの華やかな服やマントを着ている精神的なイメージ)手向けられる花は供物かはなむけか。幼い奇術師にとってよいものであるといいなと思っています。──山と森と街

● 白百合を手向けられる対象ならば、「幼い奇術師」は死者なのでしょうか。死後も過去に囚われて愛を求めてさまよっているなら悲しいですね。白百合の花は愛の代わりとするには潔癖すぎてぬくもりが足りない印象ですが、聖母マリアの象徴・母性愛と見れば幼子を満たせるのかもしれませんね。──ゆの

● 〈現在〉をどう解釈するか、〈白百合の花〉をどういうニュアンスで読むかという部分で迷いました。「かつて愛を求め嘆いていた頃の自分に、成長した奇術師が白百合の花を手向ける」というイメージを持ちつつ、〈現在〉を「現在の奇術師」以外とする読み方もあるはずだと思い……〈幼い〉とあることから、〈求め〉るのは親や保護者からの愛を想像しました。
〈白百合〉に〈手向ける〉の語が組み合わさることで死者への捧げ物というニュアンスを感じ、あまり明るいイメージではないのかなと思っています。華やかな花ではありますが、幼い子どもを慰めたり元気づけたりするときに選ぶ花じゃないよなとも思うので、〈愛求め嘆く〉気持ちを殺してしまう、諦めるという印象で読んでいます。
〈奇術師〉というワードとやや大仰な印象のある語彙から青山剛昌作品に登場する怪盗キッドを連想しながら読みました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 原作:アプリゲーム「18TRIP(エイティーントリップ/略称エイトリ)」
 シーズンイベント~夕班SP~『奇術に咲く弔花(ちょうか)』の木ノ内 太緒(きのうち たお)イメージで作りました。
 エイトリは近未来を舞台にしたゲームです。落ちぶれた独立観光特区を立て直すため、会社を立ち上げた幼なじみを含めた20人の個性的な観光区長たちと一緒に主人公が主任として奔走します。
 観光区長は5人ずつ4グループ(通称:朝班、昼班、夕班、夜班)に分かれ、ステージ上で歌う「おもてなしライブ」など様々な趣向で観光客をもてなします。
 太緒が所属する夕班ことEv3ns(イブンズ)は囚人から選ばれたご当地アイドルグループです。彼はこのイベントで自身の幼少期の出来事と向き合います。──海月雪夜

好きに生きて欲しいと願うまでもなくあなたを仰ぐ 花見を思う  Dr.ギャップ

● 主人公が願わなくても、あなたは好きに生きてくれる人なのでしょうか。それは心強いことかもしれませんが、あなたを見つめる主人公にとってはもしかするとさみしいことではないのか、とも感じられました。
主人公が思う花見にあなたの姿はあったのか、そもそも花見とは実際に行われたのか、主人公があってほしいと願いながら叶っていない春のできごと、幻の花見でもあり得るのではないか……とも考えてしまいました。──るぴ

● 上の句の「好きに生きて欲しいと願うまでもなく」は好きに生きて欲しいとずっといつも主体が思っているのだろうと読みました。願うような形で見上げるのは神さまとかではなくあなたで、恐らく一緒に花を見た記憶と重なっているのかな。相手への真摯な思いが伝わる歌だなと感じました。──山と森と街

● 主体は誰に対して「好きに生きて欲しい」と願っているのか?がはっきりとは明かされないまま展開しますが、どう生きてほしいかは「花見を思う」に集約されていると思います。咲き誇る生命力を仰ぎ見る主体の視線には、まぶしさと羨望があるように感じました。──ゆの

★作者コメント
● 原作は今年公開された映画『大長編 タローマン 万博大爆発』です。テレビ版の『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』も下敷きにはあるのですが、発想のもとは劇場版の「応援してはいけない応援上映」でした。
タローマンは巨人で、正義のヒーローというわけではなく、そして応援されると萎れるという特性があります。そのためいわゆる応援上映が「応援してはいけない応援上映」として開催されることになりました。そのあまりのタローマンっぷりに嬉しくなりつつ、でも逆さま言葉だとしても大好きなタローマンに「帰れ」や「くたばれ」は心苦しいものがある、タローマンが好きだ、その活躍が嬉しい、でも自分たちの応援や歓声をタローマンは好ましく思わない……そうした葛藤の自分なりの落としどころとして「タローマン、好きにしろ!」にたどり着きました。でもそんなの言うまでも言われるまでもないよねという気持ちもあり、そうしたところからこの短歌を作りました。
普段、二次創作短歌では、その世界に暮らす人々を短歌の「私」の視点に置いているのですが、この歌に関してはスクリーン越しにタローマンを見ている自分も、あの町でタローマンを見上げている誰かも、同じ気持ちだろうと思い、自分の感情ベースの短歌を持ってきました。12月24日からU-NEXTで独占先行レンタル配信スタートですが、まだまだ全国で上映中、絶対に劇場で見た方が楽しい作品です。どうぞよろしくお願いします。──Dr.ギャップ

みちばたのくず籠、しきりのないベンチ、そんなかんじになれる僕ら。(ね?)  曇

● 「そんなかんじに」で挙げられている二つがどちらも最近ないものだなぁ〜と感じる地域に住んでいます。
この二つには社会的に差し出されるささやかそうでいて結構重要な衛生、安心、福祉というイメージがあります。あるときはあって嬉しい!って強く思わないものの、なくなると街が不衛生になった生活を脅かされる人もいますよね。
「そんなかんじになれる僕ら」はお互いの存在に福祉のイメージや、安心感を抱こうとしているのでしょうか。本来個人の力で渡しあうものではないけれど、「(ね?)」と伝えていることから、二人の間でうまくいったのかもしれません。モニュメントのように派手ではなく時には見逃されてしまいそうなものだけど、具体性のある助け合いを行う関係性と思うと日常と地続きの愛という感じでぐっと来ます。──スギ

● 「みちばたのくず籠」「しきりのないベンチ」
日常にあるなんでもないものが平仮名や漢字、カタカナで表現されており、オシャレな感じがして目を惹かれました。
平仮名を多用することにより、硬そうな物体を並べているにしては、やわらかな雰囲気になっており、キャラクター性を感じます。
「くず籠」は「籠」ということですので、鉄か何かの硬い素材で出来ているものだと想像します。「しきりのないベンチ」も、似たような硬質さで、必要最低限の機能しか持たない味気のないものでしょう。
この2つは、道端にあっても用がなければ通り過ぎてしまうだけの物体ですが、必要な人の目には留まり、役に立つ存在です。
「そんなかんじになれる僕ら」が指す2人もきっとそんな感じにお互い似ていて、あまり目立たないけどさりげなく、人々を助ける役目があるのでしょう。
(ね?)という同意を求める一言から、主体が相手に対して仲間意識を持っていることが伺えます。
義務を伴う強い連帯感というよりは、気の合う友達へ軽い調子で放った一言のようです。
仲間意識はありますが、くず籠とベンチのように得意なことは違っていて、普段は別行動をしている2人なのかなと思いました。
そんなかんじである、ではなく、そんなかんじになれる、とあるので、これからコンビを組まないか? と誘っているようにも聞こえます。
もしくは、(ね?)の括弧が心の声を表現する括弧だとすると、言葉を交わさなくても心で通じ合えるほどの時間を、共に過ごした仲なのかもしれません。
「僕ら」の関係性について色々と想像できる楽しい短歌だと思いました。──リサコ

● 歌の中にあるモチーフが景色として見落とされそうな、でもどこかあっけらかんとひらけていて確証はないけれど自由で大丈夫と思えるようなイメージを連れてきてくれます。結句の(ね?)が大丈夫だよと相手(や周りへ対して)へも自分へも聞かせているよう。個人的に朝方の明るさを感じました。──山と森と街

● 最後の(ね?)の念押し、好きだ~!ってなりました。
視線の先にいる相手にも「そんなかんじ」でいてほしい「僕」の湿度が好きです!!──月ノ華

● 最後の(ね?)が素敵ですね。ここまでの流れが一気に秘め事になることで、読んでいるこちらも秘密の共有者、共犯者にされてしまう仕掛けが面白いです。「そんなかんじ」の比喩も面白くて、どんな感じか、受け取り方も人それぞれ想像の余地があって、楽しい一首でした。──ゆの

● 「しきりのないベンチ」という言葉からは、その反対である「しきりのあるベンチ」、すなわちホームレスの人などが寝転がれないように仕切りがつけられた「排除ベンチ」がまず思い浮かびます。
そして「しきりのないベンチ」を受けてから解釈すると、「みちばたのくず籠」に込められた意味も見えてきます。公共の場にあったら誰かが助かったり嬉しかったりするはずなのに、誰かの都合によって取り去られていったものたち。
下の句のゆったりした感じも深みと優しさを感じて好きです。
「社会派」などと表現したら安っぽいかもしれませんが、ファンタジーに徹するばかりでなく、私たちの生きる現実社会の問題を歌に織り込んで、その歌を「二次創作短歌オンリー歌会」というオタクが集まる場でに出詠できるというのはなんだか豊かで良いことだなと思いました。すごく好きです(特選に選べたら選びたいくらいです)
短歌の中で伝えたいメッセージを、三十一音でここまで無理なく自然に込められる技術に脱帽です。
この歌の原作、かなり気になります。解題を読むのが楽しみです。──海水

● この短歌に原作があるのが嬉しい~!と反射的に思いました。一次創作でももちろん嬉しいのですが、この短歌に原作があり、その原作からこの部分を切りとって二次創作短歌を作った方がいることが嬉しく、原作が知りたい!!になっています。
〈みちばたのくず籠〉も〈しきりのないベンチ〉も、「町を美しく、より良く」という名目で町から姿を消し、その結果、そこで暮らす人にとって不便になっていくもの──特に〈しきりのないベンチ〉はホームレス排除の象徴として受け取りました。誰もにとって過ごしやすい優しい町を成り立たせる存在として〈そんなかんじになれる僕ら〉を目指す誰かがいることを、すごい、嬉しい、と思います。またひとりではなく〈僕ら〉と仲間がいる様子であることも嬉しく心強く感じました。
〈僕ら。(ね?)〉はこの短歌の読者、あるいは原作の受け取り手への呼びかけのニュアンスかなと読みました。
やわらかい言葉遣いと力強い意志が印象的で、嬉しく明るい気持ちになりました。──Dr.ギャップ

● 「みちばたのくず籠」「しきりのないベンチ」は、「あったら嬉しいもの」「見知らぬ誰かのほんの些細な気遣いや親切」のようなものを表しているのかな、と思いつつ読みました。
「そんなかんじになれる僕ら」とはまた独特な関係性だな、と感じます。相手に全てを預けるほどの密接な関係ではないけれど、どこかで互いのことを思いやっている。そうだったら、不思議だけど何だかすごく良い関係性だなと思いました。
そんなつかず離れずな距離感なのに、最後に「ね?」と、まるで相手も自分と同じ思考であることを確信しているかのように問いかけているのもまた、面白い二人だなと思います。──古月もも

★作者コメント
● 作品:『魔法使いの約束』、キャラ:フィガロと賢者・真木晶
ある日突然異世界に召喚された真木晶は、年に一度月に襲撃される世界を救うため集められた魔法使いを導く「賢者」として、個性豊かな「賢者の魔法使い」とともに過ごすことになります。
フィガロは集められた魔法使いの中でも特に年長の人物で、長い間「神様」として崇められ、世界全体の調整役を担っています。そして晶はこの世界の存亡をかけて賢者としての役割を全うしなければならない立場にあります。そんな重大な役目を負う二人は、心からの願いからずっと締め出され孤独を抱えていたり、自分自身の心の所在を見失いそうになったりしつつ、それでも誰かの力になりたいという思いを根底に持って行動しているひとたちです。そんなふたりが、個人で背負うにはあまりにも重い、社会の根幹に関わる役割を、もっと広く他者に明け渡せる日が来るように。そして、例えば誰かが塞がった手を空にして少し身軽になれるくず籠のように、あるいは立っているのもつらいときや、居場所をなくしたときに一時の寝床になれる仕切りのないベンチのように、そんな優しいけれどそこにあるだけのささやかな存在になれるといいなと思って詠みました。
『魔法使いの約束』はアプリでストーリーを読んでいただくのがお勧めです。メインストーリー1部はレベル制限無しでいつでも読めます!
各種プラットフォームで配信されている2・5次元舞台も素晴らしいのでぜひ!
結句は、「~(ね?)」ではなく、「なれるね僕ら」とするべきだったかなと今も悩んでいます。──曇

やわらかい耳をすましてきいてみて あらしにまけない歌だよ ラララ  リサコ

● 全体にひらがなが多いのもありやさしく安心を感じる歌だなぁと感じました。嵐の中で耳を音を澄まして聞けるというのはキャラクターが安全地帯(危険でも少なくともすぐに生死を分けない)にいる状態かなとも思い、小さい子に語りかけるように"あらしにまけない歌"を一緒に歌うのがとてもやさしい主体だなと思います。"あらし"は嵐とも思いますし"よくわからないこわいもの"というイメージもあります。(何処となく夜の気配で主体が語りかけている相手は猫や犬みたいな耳のキャラクターを想像しています)──山と森と街

● ひらがな表記が効果的ですね。「やわらかい耳」に届く歌もきっとやわらかいのだろうな、と思わせられます。でもその歌は「あらしにまけない」強さを持つ応援歌なんですね。主体が歌っているのでしょうか。──ゆの

● 主体は「やわらかい耳」の持ち主に語りかけています。「耳」と「歌」以外がひらがな表記で、親しみやすく寄り添うような口調であることから、その「やわらかい耳」の持ち主は、幼い子どもなのではないでしょうか。あるいは「あらし」の恐ろしさに子どものように怯えている誰か。「ラララ」と歌っているのは主体だと解釈しました。夜、明かりを消した部屋には、嵐に窓が揺さぶられる音や、雨粒が打ち付ける音が響いている。それに怯えて蹲る「やわらかい耳」を持つその子のそばで、主体は「あらしにまけない歌」を歌って聴かせている、というシーンを想像しました。「耳」「歌」という聴覚にまつわる単語だけが漢字で表記されていることから、視覚はあまり頼りにならなくて(部屋が暗い)、音だけにフォーカスが当たるような状況なんじゃないかなと思いました。──曇

● 歌にもあるとおりやわらかい印象の短歌で、読んでいてやわらかい気持ちになりました。〈すまして〉と口語が強いのも印象的で、短歌まるごとが「あなた」への語りかけになっているのだと受け取っています。
〈やわらかい耳〉から子どもやかよわい動物など守られるべき存在をイメージしました。〈あらし〉の力に同じ力で対抗するのではなく、〈歌〉を歌ってそのやわらかさでやり過ごそうとしているのがこの「わたし」ならではの選択、あるいは「あなた」を守るためだからこその選択なのかなと感じました。子守歌のようなイメージもどこか感じています。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● スマホアプリゲーム「メギド72」のイベントストーリー、「嵐の暴魔と囚われの騒魔」をテーマに詠んだ歌です。
故郷である異世界の強い悪意により、転生した人間界でも迫害され続けた幼い少女・ジズはついに「嵐の暴魔」という怪物の姿になり、暴走してしまいます。そんなジズを救おうと、歌姫・プロメテウスが歌で呼びかけます。
「やわらかい耳」はジズの可愛らしい猫耳をイメージした言葉ですが、劇中でプロメテウスが、歌を届けるためには聴く側の心の「状態」が大切だと気づくシーンがあり、その状態のイメージも含まれます。
プロメテウスが、ソロモン(ゲームの主人公)や街の人々から感じ取った、「ドン底の最低にあってもあきらめない心」や、「人を想う気持ち」など、前向きで寛容である状態のことを「やわらかい耳」としました。
やわらかい耳があればこそ、災厄の中にいても誰かの必死な想いが届くのだと思います。
「あらしにまけない歌」は、プロメテウスからジズへ贈る歌かもしれないし、ジズ自身の心の叫びなのかもしれません。
最後の「ラララ」は、元々別の理由で思いついた表現ですが、言葉で説明するよりも歌声そのものを入れた方がプロメテウスの存在感が出ると思い、入れてみました。
その他のポイントとしては、幼い少女に語りかけている雰囲気にしたいと思い、平仮名を多く使っています。その中でも「耳」と「歌」だけは目立つよう漢字にしてあります。──リサコ

狼を凍らせる旅探求のループは巡る螺旋のごとく  アサコル

● 歌全体に張り巡らされた「凍らせる、旅、探求、ループ、巡る、螺旋」の単語の感じからDNA、コールドスリープを連想します。「狼を凍らせる」は絶滅したニホンオオカミのイメージかキャラクターのイメージか。未来を変える、悪夢を回避するための旅なのかなと想像しました。単語群そのものが一首の中でグルグルと登り上がっていくような心地もします。──山と森と街

● 「探究」ではなく「探求」なので、何かアイテムを探し求めて試行錯誤を繰り返している旅なのでしょうか。ずっと同じ場所でループしているように見えるけれども、実は螺旋のように少しずつ求めるものに向かって前進しているという、希望と不屈の精神の歌だと思いました。──ゆの

● 『グノーシア』ですね?そうですよね?違ったらすみません。

寄生生物「銀の鍵」に「情報」を満たすまで、いくつもの宇宙を横断しなくてはならない主人公とセツ。20人も乗らない小さな船では、得られる「情報」も極めて少ない。そのため、何百回もループを繰り返すことになります。その旅路を思うと、目眩を覚えます。
主人公とセツは共にループ能力を持っていますが、2人のループは同期していません。つまり、私たちの10周目で出会うセツが、100回目の手練だったり、その逆も有り得るわけです。
重なりそうで重ならない2人のループは、まさに「螺旋」。そして、「螺旋」階段のように、どこまでも伸びていきます……。──おかのきくと

● 〈狼を凍らせる旅〉は読み方が二種類あると思っており、「私が狼を凍らせるためにしている旅」か「狼である自分が凍るほど過酷な旅」か、どちらか迷いつつ後者で読んでいます。
実際の〈旅〉かもしれないし比喩としての〈旅〉かもしれないと思うのですが、いずれの場合も〈狼を凍らせる〉や〈ループは巡る〉から過酷さの印象を受けます。「ループは続く」ではなく〈巡る〉であること、また〈螺旋〉とあることから前進はしている(しうる)印象で、単に過酷で果てがないというだけではなく、いつかは終わりにたどり着けるのかもしれないという予感も受けました。
8番の短歌と同じくこの歌会で〈狼〉と見ると、つるまいかだ『メダリスト』の狼嵜光さんを思い出してしまうところがあり、〈ループ〉はスケートの技名でもあるのでそこの重ね合わせがあるのかななどとも考えました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● ゲーム「グノーシア」について詠みました。人狼ゲームにアレンジを加えたゲームなので、「狼を凍らせる」という言葉を盛り込みました。またその流れが何度もループして物語が少しずつ進んでいく様を「旅」、「探求のループは巡る」と表現しています。ちょうどアニメが放映されているので良い機会だと思い詠ませていただきました。──アサコル

私らは山の獣 手は取らず手にかけかけてかけた夜通し  スギ

● 初句・二句を「わたくしらは」「やまのけもの」の6・6と取りました。己が何たるかという表明に誇り高い主体がすっと立っている姿が見えます。
下の句の「かけかけてかけた」が印象的です。ひらがなに開かれていて、この部分から主体たち山の獣ののびのびとした自由さも野性的な姿も感じられますし、動詞が過去形であることとあわせると残酷な過去を示唆しているようにも解釈できます。音の面でも、k音のつらなりがもたらす細切れなテンポと、早口言葉のように舌がもつれそうになる感覚から、見通しが悪く足元が不安定な夜の山を駆ける「私ら」の複雑な身体さばきと跳ねる息、命を奪い合うような動作が「私ら」の間で行き交う様が思い浮かびますし、ひらがな表記がもたらす複数の意味・解釈の錯綜ともリンクしているようです。──曇

● 兵士や忍者のような戦うことを生業としているキャラクターでしょうか。「私らは山の獣」と言うのが自分・個人を消し、集団として使命感を優先する、敵を倒し誰かの手を取ることや他の道を選ぶことをしないその生き方へ圧倒されてしまうし切なさを呼び起こされました。「手にかけかけてかけた」の斬り倒し駆けていくさま、またひらがな表記で体感があやふやになる所と「夜通し」が重なるとさらに深くどん詰まりのようなその生き方を思い知らされるようです。狼などの駆けていくイメージをもっています。──山と森と街

● 手にかけるという言い回しには「自分で直接行う、世話をする」「自分の手で殺す」などの意味がありますが、彼らの自称する「けだもの」(音数から迷わず四音で読みました)を動物ではなくひどい人間と解釈するならば後者なのでしょうか。人間ではなく動物だった場合には、それは手ではなく前脚では?という疑問も生じますし。
ただ彼らが実際に何をしたのであっても、夜を徹して自らそれを行ったのはまぎれもない愛情だったのだろうなとも感じました。手を取るばかりが愛ではありませんよね。──るぴ

● 狼のような獣の群れが夜の山を集団で駆け抜けていく映像が頭に浮かびました。「手は取らず」で個々の自立が、下の句で集団としての連帯が表現されているように思いました。山の獣であることに誇りを持っている感じがします。「手にかけかけてかけた」のリズムが楽しいですね。色々な漢字が当てはまりますね。掛ける、賭ける、欠ける、駆ける等々、想像するのも面白いです。──ゆの

● 「私たちは山の獣である。(ゆえに)互いの手を取ることはなく、ともに敵を手にかけ、また手にかけ、そうして敵を討ちながら夜通し駆け抜けた」という風に読みました。〈手は取らず〉と〈手にかけ〉の対象が重なっている可能性もあるかもと思いますが、〈手にかけかけて〉を「手にかける=殺す」対象が複数だったのだと捉えたので、だとすれば別に対象がいるのではと判断しました(〈私ら〉が大集団だった可能性もありますが)。また〈手は取らず〉の相手は〈私ら〉それぞれにいたのかもしれません。
〈山の獣〉であることで誰かの手を取ることを選ばず、敵を手にかけるという選択を取ったことについて、悲しさや後悔より誇らしさや矜持があるように感じました。また〈手は取らず〉ではあるものの〈私ら〉という仲間と過酷な選択をともにしており、そこにはまた別の紐帯があるということを思いました。格好いい歌だ、と思います。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 映画「近畿地方のある場所について」の瀬野千紘と赤い服の女の関係性について詠みました。
■原作について
原作は元がカクヨム、単行本、文庫、漫画と色々あるのですが、今回は映画版の内容のみ想定して詠みました。
千紘はオカルトライターで、赤い服の女は「呪い」です。二人にはそれぞれ一人息子がいましたが、どちらもその息子を亡くしています。
赤い服の女の息子(了)も呪いとなり、それぞれを視認した人間をゆっくり追い詰め呪い殺しています。
千紘は息子を亡くして怪しげな新興宗教に加入し、そこで赤い服の女が呪いに変化したであろう原因の石に出会います。千紘は何を生贄にしてでも亡くなった息子を復活させたかった。だから一緒に仕事をしたオカルト雑誌編集長や編集者を生贄にするべく、赤い服の女や「近畿地方のある場所」の資料をちらつかせて石の元へおびき出します。
度々赤い服の女に生贄を狙われていた千紘でしたが、ビンタや車で突っ込むなどの力技で突破。無事生贄を石に捧げ、千紘は異形のものとなった息子と幸せな対面を果たすのでした。
しかし千紘自身も赤い服の女のような「呪い」に変化してしまったことが示唆されます。
■歌について
劇中の呪いの描写を見ていると、赤い服の女と息子(了)は人間の同一個体を狙いに行きますが、そこでお互いを排除しようとする争いは起きません。一方千紘が生贄としてマークしていた編集長と編集者を、千紘と赤い服の女は分け合うことはできません。
私は呪いの二人は人間の肉体だけではなく、おそらくその人をその人たらしめる魂を狙っているのだと考えました。
肉食動物は同種でも群れの違う動物には餌を分け与えることは基本ないそうです。人間なら飢えたら福祉などを通じて食事が分配されますが、もうそのような場所に千紘も赤い服の女も戻れない。
「手を取り合って」生きるのではなく、獣のように各々の息子だけを「手にかけ」て育て、各々の獲物を「手にかける」(殺す)ことを繰り返して生きていく。
それは人間からしてると「欠けて」いるようにも見えるし、いつ果てるともしれない生を「駆け」続けなければいけないとも言える。
その過程で獲物が被るとお互いが邪魔だし、かといってお互い呪いあえるような存在でもない。
それってなんだかこの世で唯一無二の関係性じゃないですか?いいよね──スギ

春のマチネ 歌う蜜蜂 ひかりの粒をまぶしたようにこんなに、こころ  山と森と街

● 「蜜蜂が飛ぶ春の昼間」を舞台になぞらえて「春のマチネ 歌う蜜蜂」と描写し、それをうけて「ひかりの粒をまぶしたようにこんなに、こころ」と述べられます。蜜蜂は花粉を運ぶ生き物なのでここではひかりの粒を主体のこころに運んできた、と読みました。眩しくやさしい春の光やそれが照らす風景があらゆる感覚を通して己の内に飛び込んできて、満たされ、広がっていく自分のこころをいっぱいに感じている、精神の解放のさなかにある主体を想像しました。
下の句のひらがなと、韻律が春のひかりが満ちる光景やそれに反応して溢れそうになるこころを表現していると思います。ひらがなの線の少なさと丸みは視覚的に光に照らされて白さを帯びる日向の様子を想起させます。また、韻律の面では初句・二句の字余り、二句以降のがすべての句が七音で構成されていることによるリズムの緩急の穏やかさと鷹揚さが、春のひかりのベールのような柔らかさとふくよかで大きい感じを表しているし、こころが満ちる感覚とも呼応していると思います。結句は「こんなに、こころ」と「こ」で韻を押していて、それが春の光景に胸がいっぱいになった主体の感慨をのびのびと晴れやかに強調しているようです。──曇

● 明るくやわらかく、光と祝福に満ちた春の空間が読んでいて心地よいです。下の句の「こんなに、こころ」の読点に、主体の抑えきれない喜びや感動が表れていて好きになってしまいました。──ゆの

● 舞台を観たときの感動を表した歌でしょうか。あふれ出しそうな感情がそのままの形で短歌になっているように感じられてとてもいいなと思います。
どう感じているのかをはっきりとは言い切らない(言い切れない)で余韻を与える感じ、言葉で表せないほどの感情で胸がいっぱいになってるのが伝わってきて、詩歌としてとても美しいなと思います。──海水

● 明るいモチーフで構成されていて、この一首の世界や温度感のようなものがすっと立ち上がるのを感じます。〈マチネ〉はコンサートや演劇などの昼公演のことと読みました。〈ひかりの粒〉以降、特に〈こんなに、こころ〉という表現にはっとしました。そうして心が明るく動くことで、心というものの形に初めて気づいたような手触りを感じます。
初め〈歌う蜜蜂〉はマチネに出ている演者やそのパフォーマンスを指しているのかなと思ったのですが、一首全体で眺めると「私」の心のふるえのイメージも重なって感じられました。〈光の粒をまぶしたように〉も同様で、ライトを浴びて明るいステージの上と、そのパフォーマンスを受け取って光りだす「私」のこころとが響き合っている様子がイメージされ、素敵な光景にうっとりしつつ、実際にそうだという共感もして、とても好きな一首です。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 黒博物館「ゴーストアンドレディ」藤田和日郎(講談社)

犯罪の証拠品などを展示した資料館「黒博物館」の展示物から物語が始まるシリーズの第2作目「ゴーストアンドレディ」で詠みました。劇場に現れるという幽霊、灰色の服の男グレイとのちにクリミアの天使と呼ばれることになるフロー(フローレンス・ナイチンゲール)の出会いから始まります。「殺してほしい」フローと「絶望の中でお前を殺す」グレイの奇妙な約束が物語の軸となります。
戦争の中を生きる物語上、作中ページ内は比較的暗さが多い中でグレイとフローの笑うコマが上下巻にあります。細かく描き込みがある他のコマを比べるととても明るく見え2人が本当にそっくりな顔で笑っているのでページを見比べてはうれしく思います。今回はそのコマのイメージで詠みました。(どちらかと言うとグレイの視点で詠んでいます)
藤田和日郎作品の中では全2巻と読みやすいと思いますので未読でしたらぜひ!(劇団四季版ゴースト&レディもぜひ!)──山と森と街

汚いも嫌いも隠す、嘘つきに優しい白い季節に生まれ  古月もも

● 「汚いも嫌いも隠す、嘘つき」はどんな嘘つきかまず考えました。人をだまして傷つけたり陥れるために嘘を用いるのではなくて、日常の中で波風をたてないため、所属しているコミュニティを円滑に回していくため、バランサーとしてときに嘘も使う人なのではという印象を持ちました。「汚いも嫌いも隠す」というのは、コミュニティ内でメンバーが抱いているそのようなネガティブな感情が表ざたにならないように全体をやんわりと抑圧してなめらかに整えているということなのかなと思います。その行動が同時に主体自身の内心と振る舞いをも抑圧しているのでしょう。そういう行いについてみんなのためだからと正当化せず、自分は嘘つきであるという認識を主体は持っています。
「優しい白い季節」はいくつか候補があると思います。白という色から直球で雪の降る冬がイメージされますし、シロツメクサが咲く春かもしれないです(エイプリルフールもあるし)。強い光は視界を白ませるので夏という可能性もあります。ただ、雪が降るような場所の冬も、辺りが白むほどの熱い夏も「優しい」季節ではないと思うので、私としては春を推したいです。先述のとおりエイプリルフールという慣習もありますし、春というのは生命が目を覚まし始め、辺りは暖かくなり、花が咲く朗らかな季節で、門出の季節という印象も強いですが、実際には気温が安定せず季節としての輪郭はいびつで、その不安定さが人を憂鬱にもさせるし、強い祝福の空気が取り残される人を見えにくくしたりもします。明るいだけでないものを抱えているのに一番表側の捉えられ方は優しい印象であるというところが、この歌の内容と一致すると思いました。だから、「優しい白い季節」に生まれたのに嘘つきになってしまったという逆説ではなく、そのような季節に生まれたことが主体を嘘つきとして宿命づけたという因果なのだろうと考えます。
歌は音数が定型ピッタリで、表記もひらがなに開くことはせず漢字表記が採用されています。そのきっちりとした歌の佇まいが、主体の「嘘つき」としての立ち回りの在り方や、自分自身の立場に感じている息苦しさを表していると思いました。初句・二句のか行の連続の角ばった響きは主体の内心の強張りのようです。それに対し四句の「優しい白い」のさらさらとして柔らかい響きが対照的なのが皮肉で、主体のことを考えると少し苦しい気持ちになります。──曇

● 「白い季節」、おそらく冬なのかな。嘘つきを是とするわけでもなく、白い雪がしんしんと積もる世界にこそやさしさを見る生きものもいるんだと、いのちの在り方を歌ったうただな、と読みました。キャラクターの誕生日は、そのパーソナルな部分と結びついた数字や季節になることが多いと思うので、詠者さんが読んだ対象も、つめたい世界に耐える人なのかもしれない。──しまおかさよ

● しんとしたやさしい気配の歌ですね。「優しい白い季節」は雪の降るころでしょうか、「雪がすべてを隠してくれるように汚いことも嫌いなことも隠すために自分は嘘をつく、そういう風にできる自分である」と読み、どことなく(そんな自分でよかった/他の人に担わせないでよかった)みたいな感情もあるのかな?と想像しました。「汚い、嫌い、嘘」とネガティブな単語が多いにも関わらず全体にやさしい手ざわりがあり読んだときに明るさを感じます。(コメントを書いていてそういう人物を隣で見ている人の視点の歌かもとも思ったりしました)──山と森と街

● 夏のまばゆい陽光も白いし全ての目をくらます強さがありますが、第一印象で受けた冬の歌として読ませていただきます。
雪が降れば何もかも白く覆われますけれども、季節が春に変われば雪は解けるし隠されたものはおのずと現れるわけですよね。そうなればもう一度雪の降る季節が来るまで見たくもないものがさらされた世界にいなければならないことを、この人は今の時点でわかっているのでしょうか。この人自身が嘘つきであればそれは生まれ月からの手痛いしっぺ返しになりますし、この人が嘘つきに優しい季節を嫌っているなら、それはささやかな救いになり得ますよね。──るぴ

● すべてを覆い隠す雪を「優しい白」と感じる主体の感性にこそ優しさと、そして哀しさがつまっているように思います。また、汚いものを雪で隠す(隠れる)ことができると思っているところに若さ、もしくは“汚れていない自分”への未練を感じます。そんな思いのすべてをしんしんと降り積もる雪が隠してしまう、静かな情景と孤独感が胸に迫る歌でした。──ゆの

● 今の時期にぴったりのお歌だと思いました。書いていないのに「白い季節」が冬であること、そして「汚いも嫌いも隠す」のが雪だと想像できるのがとてもすごいです。雪は何もかもを白く覆い隠してしまう。それは物理的な汚さ以外にも負の感情も含まれているのだと読めます。それを「嘘つきに優しい」としているのが良いなと思いました。
このお歌の主体は冬産まれですが、「汚い」「嫌い」「嘘つき」という言葉からあまり良くない環境で生まれ育ったように思えました。同時に主体自体も自身を綺麗だと思っていないような印象も受けました。だからこそ何もかもを白く隠す雪に特別な感情を持っているように感じます。雪の白さ、雪の冷たさ、そして雪の優しさを感じる素敵なお歌だと思います。──アサコル

● 嘘つきに優しいその故郷は、ずいぶん寒さが厳しいんじゃないかと思いました。
雪が汚さを隠してるという歌だと思うんですが、雪も融ければ土と混ざり、かえって汚く見えるかもしれない。
融けない雪がずっと覆い隠しているような寒さの厳しい土地で、表情も固まって嘘も見えないという風に解釈というか想像を書きながら、逆に雪が解けて汚れて見えるから元々あった汚さが分からなくなる、という捉え方もあるな、と思ってしまいました。
個人的には融けない氷のような雪の方が好き嫌いのような感情を隠すのに向いているように感じました。──室城

● 嘘や嘘つきが〈汚い〉や〈嫌い〉の対象というより、〈汚い〉や〈嫌い〉を隠すために〈嘘つき〉になっているんだろうと解釈しました。〈汚い〉は「嘘の汚い部分」かなとも思ったのですが、〈嫌い〉が「嘘の嫌いな部分」だとしっくりこないと感じたので、前述のように読んでいます。
〈嘘つきに優しい白い季節〉は冬のこと、雪がいろいろなものを覆って隠してくれるイメージで読みました。〈汚い〉〈嫌い〉という強いワードから〈嘘つき〉を挟んで〈優しい〉〈白い〉と柔らかいワードに変化していくのが印象的です。このひとは〈嘘つき〉であることに罪悪感を持っていそう(嘘は悪いことという倫理観を持っていそう)で、けれどなお嘘を選ぶ決断をしている人なんだな、そうせざるを得ない状況にあるのかなと、どこか切ない気持ちで読みました。「私」自身がそうした人物なのかもしれないし、そうした誰かを「私」が見守っている歌なのかもしれない、と思っています。
〈優しい〉とありつつどこかさみしい、切なくて暖かい印象の一首でした。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● ゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の黛冬優子さんのことを考えながら詠みました。──古月もも

天涯よ五つ重ねたトレースに焚べたこの身も星と耀く  萩野すい

● 「五」つ重ねた「輪」でオリンピックを想像しました。
「天涯」「焚べたこの身」に競技に身を捧げることの過酷さを感じ、「星と耀く」に競技中の美しさを感じました。
言葉の美しさが印象に残りました。──海月雪夜

● 五つ重ねた輪はフィギュアスケートの軌跡のことでしょうか。遠い場所へ憧れている場所へのまなざしと、重ねた努力の一瞬のきらめきを自分自身に当てはめているように思いますし、その身体にある恒星のような熱量を歌から感じました。輪、火の燃えているイメージ、星と円形の伸びやかに上昇しているイメージが浮かびます。──山と森と街

● オリンピックにすべてを捧げたスポーツ選手を思い浮かべました。「焚べた」「星」という犠牲を強調した表現に、「ヨダカの星」がどうしても頭をよぎります。輝くからには、何かしら主体としてはやり遂げた実感を得たのだろうと思いました。──ゆの

● 「五つ重ねた輪(トレース)」とは何だろうとしばらく考え込みました。重ねられた輪が「トレース」であるということから、時間や行動、あるいは輪廻転生のような生死のループを例えていると解釈しました。同時に「トレース」が「輪」であることから、そのループの一回一回は輪をなぞる(トレースする)ようなもの、つまりもと来た場所に戻る、目的地に辿り着けない、失敗や徒労なのかもしれないと思います。ここから、主体は、そのように虚しさや悔しさを伴う営みを五回繰り返している=「五つ重ねた輪(トレース)に」自分自身を投じた=「焚べた」ひとなのかもしれないと考えました。
そのような繰り返しに揉まれれば、今いる場所はその旅の始まりから見れば時間的にも距離的にも「天涯」と言えるほど遠い場所であろうし、宇宙の果てにいるような心地にもなろうなと主体に思いを馳せずにはいられません。けれど、そのような果てしない境地にたどり着いた主体は、「この身も星と耀く」と述べ、なにか報われたような感慨を抱いているように思えます。
ミステリアスで壮大で、いったい何の作品・キャラクターのことを詠んだ歌なのか、とても気になります。──曇

● 〈輪(トレース)〉をどう読めばよいだろうと悩みながら読みました。原作に登場するアイテムやシンボルなのでしょうか?
〈焚べたこの身〉は殉教のような、何か一つの対象・目的のために自分の身を捧げるイメージで読みました。〈星と耀く〉は「星として耀く」で、目的は達成できたのだろうと感じつつ、〈焚べた〉に悲劇のイメージも感じています。仏教説話の、焚火に飛び込んで月のシンボルとなった兎の話を思い出しながら読みました。
〈五つ重ねた輪〉からはオリンピックを連想したのですが、他の語彙からはあまりスポーツの印象を受けず、どちらかというとファンタジー作品かな?という印象を受けました。
〈天涯〉〈星と耀く〉と、空の広さを思わせる語句で一首が始まって終わっていることで、スケールの大きい背景を想像しました。どんな世界の物語なのか気になります。──Dr.ギャップ

● Fate/stay night[UBW]の衛宮士郎目線かなと解釈しました。「天涯」が抑止力である世界であり、「五つ重ねた輪(トレース)」が士郎のだと5枚になる熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)だと推測します。抑止力と契約し、守護者となったばかりの正義の味方を夢見て、エミヤのように擦れる前の士郎の歌だと思いました。言葉が星のようです。──雪宮斎希

★作者コメント
● 原作:メダリスト(つるまいかだ)
もはや説明不要になってしまったフィギュアスケート漫画。今回は夜鷹純をイメージしました。
フィギュアスケートのフィギュアとは図形のことで、氷上に図形を描くスポーツです。その最も基本となる図形が円です。まずは片足で綺麗な半円を、その次に真円を描くことから始まります(メダリストでも出てきましたね)。
今年はオリンピックシーズンなので、否応なしに五輪について見聞きする機会が多く、そこでの「そういや五輪マークってフィギュアスケートで描くことができるな」という思い付きから生まれました。
メダリストでオリンピックといえば夜鷹純!主要キャラのくせにいまだ演技以外の多くが謎に包まれている彼ですが、ずっと氷の上でひとり円を描き続け、そのトレース(エッジ跡)を見つめ続けていたことは確かだろうと思います。──萩野すい

ほんのりと甘い優しさ持っているきみが頬張るシュガーレイズド  くぼたむすぶ

● 「ほんのりと甘い優しさ」が"きみ"にもシュガーレイズドのドーナツにもかかっていてかわいい歌ですね。他のドーナツと比べるとふかっとしていて、粉糖もキラキラとかけてあって、主体から見る"きみ"はこんなに素敵なものなんだなとにんまりとなりました。──山と森と街

● 下の句が大好きです。七音+七音で完璧で何度でも声に出して読みたくなります。この下の句が先に生まれて、そこから歌ができたのではないかと思うほどの心地よい甘さです。そんなきみはもしかしてシュガーレイズドでできているのでしょうか。
上の句がまるまる「きみ」を装飾しているのもアイシングのように美しく、主人公がきみに向けるまなざしの柔らかさを想起させます。──るぴ

● 「ほんのりと甘い優しさ」ということは「きみ」はいつでもわかりやすく親切というわけではないのでしょう。ふとしたときやここぞというときの振る舞いだとか、普段の考え方や言葉の端々にその優しさが見えるのだと思います。その優しさに気づいている主体は、「きみ」と過ごす時間が長い人なのではないでしょうか。そして、「きみ」のことをよく見ているのだと思います。ひらがな表記の二人称から、主体から「きみ」への好ましさが感じられます。主体の視点はそんな「きみ」が食べる「シュガーレイズド」に着地します。「きみ」は頬いっぱいに詰め込むその「シュガーレイズド」で、自身の「ほんのり甘い優しさ」の土壌をもっと豊かにしているのかもしれません。
漢字表記の「頬張る」から、「きみ」が「シュガーレイズド」を食べる勢いの良さが伝わってきて、可愛いなと思いました。
「きみ」はもしかして『アイドリッシュセブン』の九条天さんでしょうか?──曇

● 「シュガーレイズド」が、「きみ」がドーナツを食べる目の前の情景と、「きみ」の優しさの比喩を兼ねていて素敵です。ほんのりとした甘さとツヤツヤとしたイメージが、「きみ」への好感度を感じさせて微笑ましいです。──ゆの

● 「きみ」が持つのは「ほんのりと甘い優しさ」。それに対して「シュガーレイズド」は、ミスドの定番として知られるほど“しっかり甘い”……というか「ゲロ甘」の類で、その落差がまず目を引きました。やさしさは控えめで上品なのに、きみが選ぶ甘さはずっと強い。そこが対比になっていると思いました。
ふつうなら「甘いものを好む優しい人」と読めそうですが、私は、外へ溢れ出た甘さ――まるで瓶の縁からこぼれた蜂蜜のような“過剰さ”を感じました。外から穏やかに見える人ほど、内には扱いきれない思いを抱えているのかもしれません。──おかのきくと

● シュガーレイズドの優しい甘みと相手の優しさを重ねるところが素敵だなと思いました。──佐倉

● シュガーレイズドドーナツと〈きみ〉の重ね合わせを思いつつ、〈君〉が〈シュガーレイズド〉から甘さを取り込んで〈ほんのりと甘い優しさ持っている〉になる、というようなイメージを持ちました。
シュガーレイズドはドーナツのなかでは比較的地味な印象があり、そうしたドーナツを選ぶ=他の人にもっと人気のドーナツを譲っている〈きみ〉の姿も想像できるなと思いました。甘さだけでなく、つつましさや素朴さのイメージでも〈きみ〉とシュガーレイズドが重なっているのかなと想像します。
〈きみ〉を眼差す「私」や、この短歌を作った作者の視線の優しさを感じて温かく柔らかい気持ちになりました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 『ちいかわ』のうさぎを詠みました。クールで我関せずに見えて意外とちいかわやハチワレのことを想っているうさぎの優しさを、ハチワレがシュガーレイズドのようなさっぱりとした優しさと評したのが好きで、そこからイメージを膨らませました。たくさん食べるうさぎが好きです。──くぼたむすぶ

一歩ずつ進んで十六光年になった 振り返れば星たち  Dr.ギャップ

● 上の句の「十六光年」は比喩としての夢やこの世の果てしなさかなと読みました。一歩ずつ一歩ずつ進んだ先、そこにたどり着くまでの出会いを思い出すときに星のように輝くものがあったのならとてもすてきです。星々、星群とかでなく「星たち」というのがやわらかな気持ちを連れてきてくれます。──山と森と街

● 十六光年は、宇宙ではほんのわずかな距離でしょうが人間には果てしない距離ですよね。そこまで一本ずつ歩いてきた、その積み重ねの自負が「振り返れば星たち」に表れていて、空間の広がりも気持ちの良い一首でした。──ゆの

★作者コメント
● アンディ・ウィアーの小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が原作です。
とにかくできるだけ前情報なしに読んでほしい作品なのでこれ以上説明することはしないのですが、今年マイベストの小説をどうにかこの歌会に持ってきたい、でも作中の展開などを明かすことでこれからこの作品を読む誰かの読書体験をほんのわずかにでも邪魔したくない……と悩みながら作りました。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』読了済みの方と未読の方、この短歌の原作が『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だと知っている方と知らない方、それぞれどんな風に読んでくださるだろう、この短歌が原作の読書体験を損なうものになっていませんようにと本当にドキドキしています。原作読了済みで突っ込んだ感想を語りたいという方がもしいらっしゃいましたら、マシュマロやDMなどクローズドなところでぜひご連絡ください。──Dr.ギャップ

傷ついたことさえ全部思い出で絆創膏にスマイルを描く  くぼたむすぶ

● すごく相手(一人とも複数人とも想像します)を感じる一首だと思いました。上の句からは書かれていないけれど背景の物語の広がりを感じ、また下の句の「絆創膏にスマイルを描く」が過去や今を肯定してさらに先に進んでいくような前を向く気持ちになりすてきな一首だと感じました。(スポーツ漫画とかが原作かなとも思いますがどうでしょうか??)──山と森と街

● あ゛!!!わかります!!これは!わかります!!!となりました。えへストレートな詠みの短歌、ありがたい……不運を不幸にしない生き方を選ぶ人だ……
絆創膏のニッコリマークには、自身への鼓舞と同時に、他人への思いやりがつまっているのだろうなと思っています。──しまおかさよ

● お歌全体がとてもポジティブで爽やかな印象を受けました。「傷ついたこと」も「思い出」に昇華できるこの主体はとても心が強いのでしょう。傷を治す為の「絆創膏」にさえ「スマイルを描く」その明るさに救われてる人もいそうです。
原作はスポーツものとかバトルものとか、なにか青春を感じさせるものではないかと予想しています。──アサコル

● 時薬は傷さえいつか癒す力がありますが、ただ経過するだけでは傷跡が残るだけ。笑顔に変えることができたならそれは主体の選択や決断によるものです。絆創膏にスマイルを描くという主体の行動から、傷をよい思い出にしてみせるという強い意志が感じられます。絆創膏という小さなカンバスに描かれる小さな笑顔に、主体の願いのささやかさと切実さが込められているように思いました。──ゆの

● 傷ついたことさえ全部いつか思い出になる/する、と自分で自分の絆創膏にスマイルマークを描いている、というシチュエーションだと読みました。強くて明るい「私」を想像して、だからこそさみしいような切ないような気持ちにもなります。そんなに一人で強くなくてもいいのに、という。
肉体の怪我というだけでなく、心の傷も重ねられているのかなと上句から思いました。このたった一つの怪我だからこそ〈思い出〉になるのだとも、傷つきが傍らにある日々(部活や職業などに紐づくものとして一定期間その可能性が続く)がその傷ごと思い出になるのだとも読めるなと思っています。「いつか思い出になる」という部分から、十代から二十代程度の「私」をイメージしました。──Dr.ギャップ

● ぱっと見た時にとても好きな歌でした。
一読では、傷ついた経験も乗り越えて前に進んで行く力強い歌のように感じますが、何回か読んでいると、「思い出にできる」と主体が自分自身に言い聞かせているようなイメージが浮かび上がってきました。
絆創膏が貼ってあるということは、まだ完全には癒えていない傷。そこにわざわざ「スマイルを描く」という行為。まだ痛むのに、「思い出になる」と自分で確かめるように、敢えて目に見える形にするためにそんなことをしているのかな、と思いました。
少し背伸びして無理をしているような、でもそれをできてしまう強さは確かにある。そんな主体を思い浮かべて愛しい気持ちが湧きました。──古月もも

★作者コメント
● アイドルマスターSideMからFRAMEの木村龍を詠みました。龍はソロ楽曲の中で「傷を知って多分良かった」と歌います。誹謗中傷を受け絶望の底にいた日々も全部受け入れて、笑顔でアイドル活動をする龍くんに元気をもらっています。──くぼたむすぶ

鬼の首斬れぬ胡蝶のさき翅仇に喰はれて静かに墜ちぬ  アサコル

● 『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶさんをイメージして読ませていただきました。
力が弱く鬼の首を斬れないながらも強い彼女の最後の戦いを思い出しました。
翅は堕ちても一矢報いる彼女の念が「ぬ」に込められているように感じました。──海月雪夜

● 「鬼滅の刃」の胡蝶しのぶさんでしょうか。蝶に見立てた表現が存在の儚さ、軽さ、美しさ、哀しさを引き立たせていると思いました。旧字体も効いていますね。戦前の幻想文学のような余韻のある一首です。──ゆの

● しのぶさんじゃないですか!!!!!!!!!!!!(鬼滅の刃の最推しはしのぶさんの人)
しっとりとした感じと漢字や難しい言い回しから来る淑やかさがあまりにもしのぶさんで好きです。というかこれしのぶさんじゃなかったらどうしよう、そうじゃなかったらごめんなさい。──月ノ華

● 物語が目の前に浮かんでくるような歌ですね。鬼(敵対)との勝負に敗れてしまった場面が第三者視点のような物語の語り手によって伝えられているように感じました。淡々としたリズムと堕ちていく様も重なり御伽草子の中に入ったみたいです。──山と森と街

● 鬼滅のしのぶさんでしょうか?詳しくないのですが……
「斬れぬ首」と「小さき翅」の対比が切なく、綺麗藤の花がしだれている様子が思い浮かびます。文語の響きが、静かな覚悟を強めています。「堕ちぬ」で、ぽつん、と終わっているところも、無情でいいです。──おかのきくと

● 一見して吾峠呼世晴『鬼滅の刃』に登場する胡蝶しのぶさんだ!!と思いました。違う可能性ももちろんあるのですが、以下の感想もこの印象に引っ張られている部分があるかと思います(また自分は『鬼滅の刃』をきちんとは知らないので細かく踏まえての感想でもありません)。
〈鬼の首斬れぬ〉が〈小さき翅〉にかかっているように見え、(それはそうでしょう)と切なくなりました。翅の薄い形状は刃を思わせもしますがその役目を果たせるものではなく、また鍛えられるものでもない、という印象があります。そうした〈斬れぬ〉からの逃れられなさが〈喰はれて〉〈墜ちぬ〉の逃れられなさに通じるようで切ないです。
〈鬼〉と〈仇〉について、別の存在なのか鬼のなかに仇がいるのかなどいろいろな解釈が成り立つと思いますが、「よりにもよって仇に」といういっそうの儚さ、無念さのイメージで読みました。徹底して無力なものとしての〈胡蝶〉の存在が印象深い一方で、〈鬼の首斬れぬ〉はその首を斬ろうとしたからこそ出てきたものだと思い、いっそうやるせない気持ちになります。──Dr.ギャップ

● 鬼滅の刃の胡蝶しのぶ様の歌だとおもって非常にテンションが上がりました。声に出した時のリズム感と良い、言葉選びと良い、件のシーンがありありと目に浮かびます。ありがとうございます。──雪宮斎希

★作者コメント
● 漫画「鬼滅の刃」の胡蝶しのぶの最期を詠みました。鬼滅の刃の無限城編第一章猗窩座再来を観たのですが、しのぶさんの繰り出す技の美しさと仇に対して怒りを爆発させる表情にこちらの感情も強くつき動かされました。原作は既に読んでいたので結末も知ってはいたんですが、そのシーンが映像になり音楽や声がついたことで臨場感が半端なくて気付けば涙が流れていました。しのぶさんの仇討ちの願い叶わず散ってしまった(実際には微妙にニュアンス違いますが)蝶のような儚さを表現できていれば幸いです。初めて文語旧かなづかいで詠んでみましたが間違いがあったらすみません。──アサコル

人喰いマンイーターは惚れた弱みというけれど独りじゃないは強さでもあり  雪宮斎希

● さいごが「強さでもあり」で結ばれているということは、今この歌の主人公がいるのは原則として独りでないことは弱さであるとみなされる場所なんでしょうか。ただ、惚れるという行為は相手から同じ気持ちが返ってくることがなくても独りでできるので、主人公は「誰かといる」状態になったわけではなく「誰かに惚れている」状態になっただけで、そういう自分以外の誰かに心を傾けた状態に移行したことが弱さとされるのであれば、主人公がそこに強さをも見出そうとする気持ちがすっと入ってきます。(ところで原作ワードかもしれない「マンイーター」を完全にスルーしていて申し訳ありません。植物しか想像できませんでした)──るぴ

● 喰われることが惚れた弱みなのではなく、「人喰い」が惚れた弱みだというのがとても怖いです。本当は食べたくないのだろうか、人喰いとは相手に乞われてすることなのだろうか、なにかロマンチックな行為として意味付けがされているのだろうか……といろいろな疑問が湧きます。「けれど」から続く下の句の内容も、それだけを読めば納得のいく内容ですが、「人喰い」と繋がっていることを踏まえるとちょっとポジティブすぎるというか、その行為と結果の捉え方が唐突な感じがして不思議だなと思います。「人喰い」ならではの価値観とか思考の流れがあるのだろうな……。でも、惚れた相手を自分の中に収めることでその人がずっとそばにいる感覚になったり、それが自分を強くしてくれるのだということはわかる気もします。
「人喰い」に「マンイーター」というルビが振ってあり、これはおそらく作品に登場する固有名詞なのでは?と思ったのですが、着想もとの作品は作者解題の時に知りたいので調べてないです。──曇

● マンイーターと人間の"食べたいけれど食べちゃだめ"の関係性でしょうか。「独りじゃないは強さでもあり」がとても好きです。「惚れた弱み」=恋人関係かなと思いつつ、下の句から何処となく相棒・バディっぽさも感じてすてきです。──山と森と街

● 詠まれた内容からして悲劇的な背景がありそうなのですが、どこかカラッとしているのが魅力的です。くだけてぞんざいな口調に主体の人柄がにじみ出ていますね。ひょうひょうと割り切っているようで、強がりを自分に言い聞かせているようでもあり。言い切らずに終わる結句にすることで、主体の煩悶や自己矛盾がじわりとにじむ後味になっていると思います。──ゆの

● 〈人喰いは惚れた弱みという〉をどう読むかについて、「惚れた弱みだと人喰いは指摘する」か「人喰いである/になったということは惚れた弱みということである」なのか、どちらだろうと読みました。前者なら〈いう〉が漢字表記になるかなと思いつつ、〈人喰い〉=〈惚れた弱み〉というのはどういうことだろうと悩む部分があり、前者かなあと思って読んでいます。
〈惚れた弱みというけれど〉と〈独りじゃないは強さでもあり〉が対比のような関係になっていると捉えました。〈惚れた〉=誰かを思うこと、独りではないことが強さになるという在り方から、素直な主人公タイプの「私」をイメージします。人喰いという過酷そうなワードから始まる短歌ではありますが、主人公の努力が報われてハッピーエンドになるタイプの作品世界なのかなという手触りを感じます。
なお自分のなかで人喰い(マンイーター)といえば西尾維新の戯言シリーズに登場する匂宮出夢なのですが、彼を思い浮かべることで〈惚れた弱み〉は人喰いが自分自身に向けた言葉で、〈独りじゃないは強さ〉は「私」が人喰いに対して感じていることという読み方もできるのかなと思うようになりました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 原作:零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係
この作品は西尾維新のデビュー作、クビキリサイクルから始まる戯言シリーズから派生した人間シリーズの完結作である小説です。

作品の舞台では、4つの世界に分かれています。そのうちの一つ、暴力の世界(いわいる裏社会。プレイヤーと呼ばれる殺し屋達がゴロゴロいる)の住人であり、作中でかなり忌み嫌われる殺人鬼集団であり、零崎一賊が主人公となっています。零崎一賊は血縁ではなく流血で繋がる一賊、人を殺したくて殺したくてたまらなくなってしまう人間が孤独にならないための組織であり、お互いを家族と思っています

本作では零崎人識と匂宮出夢という、どちらも殺しの世界に身を置く同世代の二人の話です。『人喰い(マンイーター)』は匂宮出夢の二つ名です。

ある時殺し合ったことをきっかけに、いつしか二人は友人のようでもあり家族のようでもあり、そして、恋人のような関係になりました。しかし『強い』ことがアイデンティティである匂宮出夢は『他人を好きになり、頼る弱さ』を嫌い、二人は決裂することとなります。

一方、零崎人識は後にできる妹のために火事場の馬鹿力を発揮します。独りではないからこそ強い。その対比を描きました。──雪宮斎希

分かたれる ぼくらはいつか 完ぺきに シャワートイレの「おしり」みたいに  おかのきくと

● えっシャワートイレのおしり?!って分かれてるんですか?!という驚きがまずありました。ついついTOTOのサイトにも確認しに行きつつ(分かれてました)
「分かたれる」って大きな転換点のようなのに、比喩的に出されるのがシャワートイレという世俗的なもので、かつ歌全体に使われる語彙も難しくなく、完璧の「璧」もひらがなにひらかれている。「おしり」もシャワートイレに書かれている表記通りですが、歌全体の雰囲気が幼く見えるよう調整されている印象を受けました。
「ぼくら」は今は分かたれていない。いつかは工業製品のようにきっちりと分かたれてしまうけれど、それでも同じ機械の上なのでそんなに遠くに行くようではなさそうです。「ぼくら」にそれぞれ自立心が芽生えていくことを、まだ好悪の判断もなく淡々と捉えているのかなと感じました。──スギ

● 大切な人との別れの予感をシャワートイレに例える感覚が新鮮でした。
この人との関係は水に流すようにもう戻らないのだと強く印象付けられました。
主人公がどうして離別の予感に気付いたのか、一緒にいることはできないのか、背景を知りたくなるところが好きです。──海月雪夜

● 上の句のシリアスさと下の句の「おしり」の可笑しみがいいですね。シャワートイレのマークのように分かれていく、それは噴水とかホースとか他のものでもイメージは湧きますが広くて人のたくさんいる公園のような場所でなく、個室のトイレというとても個人的な空間が歌の中に現れることで"一人きりになる寂しさ"を深めているように思いました。──山と森と街

● 別離の見立てとして「シャワートイレの『おしり』」を持ち出してくるのってちょっとすごすぎる。「おしり」ボタンのY字を描く水のアイコン。「いつか 完ぺきに」の駄目推しで、確かにそうなのかもという気すらしてくる説得力があります。別離をウォシュレットに見立てられることで、「ぼくら」の間柄にどこか生々しい生活感も含まれます。「分かたれる」のインパクトから始まるのも巧くて、噛めば噛むほど味がする歌です。──サイリ

● 「シャワートイレの『おしり』」のマークは、アルファベットの「W」みたいな形で、実は「完ぺきに」「分かたれ」ているものではないと思います。この「おしり」機能を使った時の身体感覚が、真っ二つに割られるような未来の別離の予感をもたらしたのかも?と考えました。主体はトイレで突然、上の句の内容を天啓のように得たのでしょう。「分かたれる」から始まる語順が、主体が唐突に上の句の内容を天啓のようにわかってしまったという感じがして、いいなと思います。句ごとの字空けも、流れが途切れ途切れになることでその脈絡のなさや主体の受けたショックが伝わりますし、「分かたれる」ということの視覚的な表現にもなっています。上の句の内容に対して、それを補足する下の句の比喩がユーモラスで、そのギャップが好きです。決定的な別離だけれど、それはいつかなんでもないような日常の中で起こってしまうのかもしれません。「完ぺきに」の「ぺき」が、何かがひび割れる音のように聞こえます。
別れの予感を抱きながら相手といっしょに居るという人が好きなので、どの作品のどなたについての歌なのか早く知りたいです。それから、こんなふうにいつか一緒にいられなくなるだろうと思いつつ、本当に別れが来るのもいいし、なんだかんだでずっと一緒にいられたというオチもいいと思います。──曇

● 匿名ラジオでしょうか。
いつか完ぺきに分かたれてしまうという悲しみを「シャワートイレのおしり」とキャッチーなフレーズで表現するのが面白いと感じました──ましも

● おしり!?唐突なワードチョイスにびっくりしました。なんの原作ですかね……?すごく気になる……。──月ノ華

● ユーモラスなのにいつか完璧に分かたれてしまうという悲しい未来を見ているギャップが印象的ですね。でもやっぱり最後は「おしり」のインパクトに持っていかれて、フフッと笑ってしまいます。主体も、最後は悲しみだけではなく、分かたれてしまう相手にも笑っていてほしいと思ってこその言葉選びなのかなと思いました。──ゆの

● この歌の原作はもしかして『ケツバトラー』でしょうか!? あるいは「人情(?)×下ネタ」で『銀魂』かも?とも思いました(銀魂のサブタイトルにありそうでいいなとも思ったり)。原作がすごく気になります!
トイレのことを詠んだ短歌は世の中にいろいろあると思いますが、二次創作短歌でトイレの歌は初めて見たのでなんだかいいね!と思いました。
詩的な語り口が自然体で無理がないところも好きです。
二次創作短歌としても意外なモチーフ短歌としてもすごく上手いと思います。「特選」にしたいレベルで好きです!──海水

● どんな原作!? どんなキャラ!? どんなシチュエーション!? と「!?」が乱舞する一首でした。〈シャワートイレの「おしり」〉が比喩として登場することも驚きの理由の一つでしたが、それが〈分かたれる〉あるいは〈完ぺき〉の比喩であることにも驚きと混乱を抱えています。シャワートイレってあの、ウォシュレットの、「おしり」はその名の通りお尻を洗浄してくれる機能ですよね……? あれって〈分かたれる〉や〈完ぺき〉の象徴になるようなものでしたっけ……
語句の修飾関係に複雑さを感じる部分はなく、〈ぼくら〉〈完ぺき〉など表記もひらがなに開かれていて平易な印象がある一方、文体は静かでフラットな印象があるというバランスも印象的で、原作の想像もつかなければ、原作はさておき印象に残る一首でもありました。──Dr.ギャップ

● 「シャワートイレのおしりみたいに分かたれる」なかなかエッジの効いた表現だなと思いました。すべてのものは本当は曖昧で、言葉をはじめとした記号に表されるようにはっきりと区別することは不可能なのに、でもこのぼくにとって「ぼくらが完ぺきに分かたれる」ことは確信できることだったのでしょう。目の前にあるピクトグラムの絵のように。この体験を理解と呼ぶのかもしれません。──萩野すい

★作者コメント
● 原作名「クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園」 風間トオル

 子供向けのアニメ映画は、子供への願いです。ときには、難解な風刺やテーマが横たわっていることもあります。
 クレヨンしんちゃんは、お遊戯会で見た「オトナ帝国」が忘れられず、大人になってからぼちぼちみて見ています。
 「クレヨンしんちゃん」は、他のアニメと比べて「お下品」だと言われます(確かに、のび太やサトシは自主的に臀部を露出しません)。ですが、こうも言えないでしょうか。
 「お下品」の中には、大人が子供に見せたくないもの……つまり、「現実」の残り香がある、と。

風間くんは、とても賢い子です。「お受験」のために、しんのすけたちとは、幼稚園卒業とともにお別れすることが(ほぼ)決まっています。

頭のいい風間くんは、自分のいない「かすかべ防衛隊」や、自分以外の友達が、楽しく小学校へ通っている姿を、想像できてしまいます。
でも彼は、泣いたり、駄々をこねることができません。賢い子供だから……

風間くんは、知識をひけらかしはするものの、しんちゃんや他の子どもたちを馬鹿にすることはありません。むしろ、みんなをリスペクトしています。
人ができている……育ちがいい……
お受験をして、いい学校や会社に入って……というのは、彼にとって友情とは別のところにあるもの。ノブレス・オブリージュなのです。
そんな彼が見せた、ちょっとした子どもらしさ。寂寞。それがこの映画です。

「クレヨンしんちゃん」らしく、ちょっとオゲレツな言葉を使いたくて、「おしり」をチョイス。漢字もちょっとだけ書ける『エリート』さを出したくて、「完璧」「かんぺき」ではなく、「完ぺき」としました。──おかのきくと

君もまたひとつの星だ夜の果て立ちすくむ手を振り払っても  るぴ

● 「君もまたひとつの星だ」と言い切る所に"君"や主体の意志の強さを感じます。後半の「立ちすくむ手を振り払っても」から"繋いでいた手を離しても、それでも君は星のように光りそこにいる"と読みました。憧れや愛情、寂しさや諦めみたいなものが綯い交ぜになった歌だと思いました。──山と森と街

● 「君」のことを歌っているけど、「君」のことよりも、「君」を「ひとつの星」だと言う主体の感情が濃く出ている歌だなと思いました。主体は「夜の果て」と思うような境地で「君」に手を伸ばし、そしてその手を振り払われたのかもしれないです。それでも、「君もまたひとつの星だ」と言っています。もしも表記が「一つの星だ」「立ち竦む」と漢字になっていたら、主体が君に抱いている印象として孤高なかっこよさといったものが滲んでいたのではないかと考えます。しかし、この歌はこれらが平仮名に開かれていることで、主体の「君」を慕う健気さや、縋ることしかできない無力さ、振り返ってもらえなかった寂しさが伝わってくるようです。
それと同時に、どんなに突き放しても道しるべのような「星」という灯りとして名指されてしまう、「君」が感じているかもしれない重圧や疎ましさもあるのだろうなと想像しました。
「夜の果て」はもうすぐ夜が明けるころではなく、夜の一番深いところというニュアンスで解釈したのですが、そのような世界の一番隅っこと言えそうな場所で、誰かに焦がれ続けてしまう苦しさと、どうしても誰かに望みをかけられ続けてしまう苦しさがぶつかっている、とても切ない歌だと思います。──曇

● 「君」は主体と同じ「星」の一員であることを拒否したのですね。夜明けへ向かおうとする相手に置いていかれそうになった主体の言葉と取りましたが、そうだとすると、まるで夜からは逃れられないという呪いのようにも聞こえます。星という言葉の輝きが「夜の果て」で強調されている分、不思議な感じがします。「星」とは何なのか、答え合わせが楽しみです。──ゆの

● 〈立ちすくむ手を振り払っても〉は誰の行為なのか、また振り払われた手は誰の手なのか、という部分で複数の解釈が成り立つと思っています。〈君もまたひとつの星だ〉に〈君〉の孤高さや強さを感じたので、「自分自身の立ちすくむ手を振り払っても、君は星としてある」というイメージで読んでいるのですが、自分の手を振り払うとはなかなか言わないように思うので、誰か別の手があるのかな、だとしたら「私」の手なのか第三者がいるのかどういうシーンなのだろうとあれこれ想像しています。
〈君もまたひとつの星だ〉という歌の立ち上がりが印象的でした。〈君〉自身は自分のことを星とは思わない/えないでいるけれど、「私」はそう思っているという構図だと読みました。〈もまた〉からは、〈君〉が星だと捉えている別の誰か(その人と比べて自分は星ではないと君は思っている)の存在を感じます。ほんとうは強くて輝きを持っているのにそう思えずにいる人に、君も強くて輝いているよと教えるような、強くありなさいと標を示すような「私」という印象です。
と、ここまで書いて、あるいは「私」が〈君〉を一方的に、遠いところから〈星〉=お守りのように思っているという読み方もできるかなと思いました。〈君もまたひとつの星だ〉をお守りのように抱えて、〈夜の果て立ちすくむ手を振り払っても〉私自身が進んでいく力をもらうというシーンも素敵だなと思います。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● アイドル育成ゲーム『あんさんぶるスターズ!!』の三毛縞斑(みけじま・まだら)です。
アイドルは複数人でユニットを組むのが当たり前の世界でソロユニットと称して一人で活動している変わり者です。人助けが大好き、誰に対してもうざいくらいフレンドリーでいつもご機嫌ですが、出身などのバックグラウンドがだいぶ不穏で、友人のためなら一般社会から逸脱した行動も辞さないし、周囲の人々が自分にかかわらないよう敢えて距離を置こうとしたりもします。
そんな彼にももちろんファンはいるし、また一緒に仕事をしたい業界関係者や心配している友人だって両手両足じゃ足りないくらいいることもわかってほしい、振り払われてもあきらめなかった誰かの視点での歌です。
「夜の底」と「夜の果て」のどちらにするかで迷ったのですが前者だと川端康成『雪国』の冒頭、後者だとセリーヌ『夜の果てへの旅』が連想され、じゃあ川端よりセリーヌだな……と考えてこうなりました。──るぴ

荒野から芽吹いた唄は時を超え太陽に向け今日も響いて  海月雪夜

● 読んだ時に「荒野から芽吹いた唄」には生命の力を感じ、またその唄はさらに「時を超え太陽に向け」と広がっていく所がすごく壮大で物語性を感じました。唄が単純に歌(Song)とも、もっと生き方や勇気のような事なのかもとも想像しています。──山と森と街

● 「唄」という表記から、その土地の人々の手から手へと受け渡されてきたもの、という印象を持ちました。荒地から始まった人々の営みが今日も太陽に向かって続けられている。三句、四句、結句の末尾がe音で、その韻律から、はるか昔から手渡され、そして今日も太陽にむけ響くというひたむきさ、きっと明日も、遠い未来でも響いているだろうという継承の予感を感じさせます
人々の積み重ねてきた生命の営みの歴史の重みと力強さと、日々紡がれ、それが未来にも受け渡されていくのだろうという希望が感じられる、壮大な歌だなと思いました。
『アイドリッシュセブン』の「Pieces of The World」という曲を思い出しました。──曇

● 前向きで、太陽に向かいまっすぐに伸びていく植物のように希望に満ちた歌で好きです。何となくですが、「時を超え」は遠く離れた2つの時点を指しているのかなと思いました。主体はタイムトラベラーなのでしょうか?生命の営みの壮大さを感じる歌だと思いました。──ゆの

● 空間的にも時間的にも広がりを感じる壮大な印象の歌でした。
〈荒野〉というある種の不毛の地にいる人々の暮らしを〈唄〉が支えている(精神的にというよりも具体的な環境改善の象徴である)というイメージを持ちました。〈芽吹いた〉という修辞からも、人が歌うものというよりもっと神聖なイメージを託された存在なのかなと想像します。
〈太陽〉は〈荒野〉に不毛さをもたらす一因というイメージもあるのですが、この短歌のなかでは過酷な環境という印象をあまり受けませんでした。むしろ〈唄〉を届ける対象としてある程度の親しみがある印象です。
叙事詩の幕開けのようで、続きや詳細が気になる一首でした。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 原作:連続テレビ小説「あんぱん」
 作中では作詞:やないたかし、作曲:いせたくやで登場する「手のひらを太陽に」をイメージしました。
 いせたくやさんは作品後半から登場するコミカルなキャラクターです。
 たかしさんが年をとっても彼を「たくちゃん」と呼ぶところ、番外編三話でたくやさんのスランプに効くのが「やないさんの詩」と言われていた場面が好きなので、二人が作った楽曲を選びました。──海月雪夜

見通しがきく人生をこなすより 断ち切る-子はかすがい-自由を持て  室城

● 歌の中のリズムや一字空け等の表現が面白いです。上の句の定型のリズムから下の句へと続く中で「断ち切る-子は鎹(かすがい)-自由を持て」が自分自身で確かめるよう認めるようにに言葉が繋がっていて。大切なものをしっかりと見つめる歌だと感じました。──山と森と街

● 「人生をこなす」と言っていることから、たとえ先が見通せるのだとしてもそのような人生は、主体にとっては自分自身のものというよりも他者から課されたものという感覚なのかなと思います。下の句に「断ち切る-子は鎹(かすがい)-」とあるように、主体から自分の人生を自分の手で作っていくという感覚を奪っているのは家族とのつながりなのかもしれません。下の句の語順にスローモーションのコマ送りのような強調された臨場感があり、主体はこの歌の中で今まさに「自由を持」つために戦っているところなのかもしれないと思いました。──曇

● 「子は鎹」は、子どもが夫婦の仲をつなぎとめているという意味のことばです。これをどう読むかが難しいところですが、「鎹」という語に立ち返れば、木と木をつなぐ金具のこと。子どもがいなければ崩れてしまう家庭がまず浮かびます。

作中主体が親だとは思えません。自分で産んだ子を支えにして家庭を保ちながら、それを「見通しがきく人生をこなすより 断ち切る」と言うのは、あまりに無責任です。むしろ主体は子どもなのでしょう。自分の存在によって、かろうじて夫婦関係が形を保っている親。その中で「見通しがきく人生」をあえて断ち切るというのですから、そこには歪んだ愛情があるはずです。

子どもが自分を「鎹」と呼ぶしかない家庭は、とても悲しいものです。けれど主体は、家庭が壊れる覚悟を持っても、自由を選びます。その決断は大きいけれど、彼(あるいは彼女)は、大きな翼で屋根のない空へ飛び出していくのだと思います。──おかのきくと

● 「子は鎹」ということは、主体は親の立場にあるのでしょうか。上の句からは、主体の人生が既定路線を淡々と走るだけのものになってしまっている印象を受けます。そのしがらみを断ち切って「自由を持て」と、家族に伝えている場面だと想像しました。子どもの存在が家族の絆を繋ぐから、安心して新しい道を切り開けと背中を押している父の姿のイメージです。──ゆの

● 「見通しがきく人生をこなすよりも、子は鎹という観念を断ち切って自由を手にするのだ」という風に解釈しました。〈自由を持て〉という命令形の宛先は「私」自身かなと思っていますが、別の誰かという可能性もあると考えます。
〈子は鎹〉は子どもの存在が親の関係をつなぎとめることを指す慣用句ですが、これが〈見通しがきく人生〉と並ぶのが印象的でした。親の期待に応えて鎹の役割をこなしていればその他の場面でも支援を受けられて人生に見通しがつくけれどそれよりも、ということなのかなと捉えているのですが、親に限らず他者からの期待を敏感に察して応えてしまうことで〈自由〉から離れてしまうという「私」の人物像を想像しました。
あるいは〈鎹〉が木材を固定する留め具であることを思えば、〈自由を持て〉は親に対する声かけなのかなとも思いました。家族の形を無理に維持しようとせず、自由に暮らしましょう、という。個人的には、それも一つの愛情の形だなと思います。
〈見通しがきく人生〉と〈自由〉が必ずしも重なるのではないということをすっと突きつけられた気がして、そのことも印象的でした。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 漫画『夏目アラタの結婚』(乃木坂太郎)
この漫画では様々な背景を持つ登場人物たちが「人生観バトル」とでも表現できそうな説得合戦が時折繰り広げられます。(ジャンルはミステリー・サスペンスです)
10巻、ある人物の台詞で「結婚が破談になって心底ほっとした」「結婚は地獄だとかいう奴がいるけど、何かを永遠に継続しろって契約こそが地獄」という言葉があり(作中ではもうちょっと踏みこんでて過激です)、鮮烈さにやられながらも責任感のある言葉だな、と感じました。
本当の自由さと孤独、と言うとよくある話ですが、『夏目アラタの結婚』のなかで強烈に叩き込まれたので、人生観に関する過激な漫画が読みたければお勧めです。──室城

ぐじゃぐじゃの雪をはしゃいで駆けまわるあなたの角と賢しさが好き  海水

● 脳裏にストンとその光景が浮かんできます。この歌を詠んでいる方(キャラ)とその人が好きな動物(?)との間に、とても深い絆を感じる一首でした。──ぱるき

● ぐじゃぐじゃの雪という表現が印象的で、惹かれました。雪の中を駆け回る純粋さや可愛らしさ、それと共に賢さを持つ魅力的なキャラクターなんだろうなと感じる歌でした。──くぼたむすぶ

● 上の句の子どものような"ぐじゃぐじゃ""はしゃいで"の動きのあるイメージから「あなたの角と賢さが好き」へ繋がるギャップや淡々として言い切るところがおもしろいなぁと感じました。"角"があるキャラクターなのか強さ的なものへの比喩なのか。捕まえられない掴みようのないイメージに可愛さとほんのちょっぴり諦め(惚れたが負け的)みたいなものもあり好きな歌です。神様っぽさも感じました。──山と森と街

● あなたには角があるんですね。そういう生き物なのか、肉体的に角があるわけではないけれどそういう印象のある人なのかはわかいませんが、雪の上を駆けまわるようなやんちゃな方なのに賢しさも備えていらっしゃる。この場合の「賢しさ」ははしゃいだ振る舞いに出るところなのか、それともはしゃいだ姿を見せて自己演出に余念のない頭の良さなのか。どちらかは存じ上げませんが、どちらであってもそういう方はわたしも好きかもしれません。──るぴ

● 読む人によっては「あのキャラだ!」となるのかもと思いつつ、角キャラにあまり造詣が深くないので特定のキャラクターを想定して読むことができず……でも私も雪にはしゃぐつながりでいぬっぽい人がすきなので、それと近い気持ちでこのうたを詠まれたのだろうなぁと推察します。
あと、「ぐじゃぐじゃ」の語彙にこだわりを感じます。──しまおかさよ

● 「ぐじゃぐじゃ」というオノマトペがいいなと思います。すべてに濁音がついている音の響きから溶けかけて土と混ざりほとんど泥のようになっている雪を想像します。そして、そんな歩きづらく、見た目にもきれいとは言えないだろうところを「はしゃいで駆けまわ」っている「あなた」の活発さとも結びついているようです。
溶けかけの雪の上をきっと泥を跳ねさせながら駆けまわるあなた、という生命力に満ちた様子の描写の後に述べられる「あなた」の好ましい点は「角」と「賢しさ」です。漢字の見た目と、この表記から連想するそれぞれの字の音読みがどちらも「k」音であることで引き出される硬質さは、ぐじゃぐじゃの雪の中を駆けまわれるあなたの頑丈さや強さと繋がっているように思います。「賢しさ」も、賢いという意味と同時に、精神の丈夫さや身体的な健康さの意味としてもここでは使われているのではないでしょうか。勉強が得意というような賢さよりも、身体に根差した知恵を持っている、大地と近しい「賢しさ」なのだろうなと思います。角は「あなた」の見た目の上でのチャームポイントであると同時にあなたのたくましさの象徴でもあるのでしょう。──曇

● 「角」から最初に思い浮かんだのは鬼でしたが、鹿などの動物の可能性もありますね。「あなた」は、ふだんは雪にはしゃいで駆けまわるような性格ではないのでしょうね。わざと子どものように振る舞う「賢しさ」にむしろ愛しさを感じている主体からの好感度はかなり高いように思えます。──ゆの

● 一首を読んでいったときに〈あなたの角と賢しさが好き〉が意外でおっと手が止まりました。そして〈賢しさが好き〉に大変ときめきました。
はしゃいで駆け回って雪をぐじゃぐじゃにしたのではなく、すでにぐじゃぐじゃになっている雪に(それですら)はしゃいで駆けまわるというとても無邪気な様子を想像し、そこに〈角と賢しさ〉が来るのを意外に感じました。獣人や鬼など角を持っている種族なのかな、その種族であるがゆえに賢しさをもまた持っているのかなと想像します。
〈賢しさ〉という言い回しにはやや嫌味っぽい、「賢さ」のように美質とは言い切れない含みがあると感じるのですが、そこが〈好き〉というところに、「私」があなたを愛おしく思っていること、いつくしんでいることを感じてときめきます。
そんな賢しい〈あなた〉がどうして〈ぐじゃぐじゃの雪をはしゃいで駆けまわ〉っているのか、賢しさと無邪気さは両立するということなのか、あるいはこの行為も賢しさゆえのもので無邪気なものではないのかもしれないのですが、それを見る「私」が〈はしゃいで〉という言葉を選んでいるところに、〈あなた〉への愛おしさを感じます。すごく好きな一首です。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 漫画『アキタランド・ゴシック』の主人公、アキタちゃんに寄せて詠みました。
『アキタランド・ゴシック』は雑誌『まんがタイムきららMAX』で連載されていた4コマ漫画です。いわゆる「きらら漫画」と聞いて皆さんが想像されるであろう、かわいい女の子たちがほのぼのとした日常を過ごす癒し系漫画……とはなんだかちょっと違う、いやだいぶ違う、様子がおかしいぞ……でも楽しくてフフッと笑えて、そして毎回驚かされてワクワクして、なんだかほっこり癒される。そんな漫画です。
『アキタランド・ゴシック』の主人公、アキタちゃんは頭に角のある小学生くらいの女の子です。
私はアキタちゃんって頭のいい子だなと思うんですけど、彼女の頭の良さって「お利口」ではなく「賢しい」といった感じのちょっと小生意気な頭の良さなんですね。子どもらしく思いつきや好奇心で危険なことをして大人に怒られたりしてる。アキタちゃん達があくまで子どもなところがこの作品の癒しポイントだと思ってます。
アキタちゃん好きだなあ……『アキタランド・ゴシック』最高だなあ……というデカい感情を込めたのですが、後から読み返すと気持ちに表現が追いついていない、やや独りよがりな歌になってしまったかな?とちょっと反省しています。良くも悪くも掴みどころのない歌かも、と思うので、他の方からどんな評をいただけているかドキドキ楽しみです!──海水

今きみは扉の前で語り手の語る語りの中の語りへ  るぴ

● 「語り」が繰り返されているところが好きです。何回も繰り返されているため、自分がどこにいるかわからない不思議な感覚を味わいました。
作中作を旅する物語をイメージして読ませていただきました。
繰り返す「語り」から主人公の冒険に対する不安と同時に読者として、扉の前に立つ主人公が物語世界を旅する壮大なストーリーの幕開けを感じ、これからの冒険にわくわくしました。
このストーリーを最後まで見届けたくなる、素敵な歌です。──海月雪夜

● 構造の話をしてる歌!!すごく好きです!!
語り手の語る語りの中に、さらに語りが含まれています。直感的にモキュメンタリー的な趣を感じました。

「扉の前」で「きみ」はまず「語り手の語る語り」を聴いていた。しかし「語りの中の語り"へ"」となっているということは、「きみ」が一番外側にいるようでいて「語り手の語る語りの中」に「語り」として"含まれて"いく。次元の境目が曖昧になってしまったようです。

「扉」は入れ子の外側から二番目(一番外側は「きみ」)で、かつ語りより明確に「モノ」として実在するもののような印象を受けます。「語り手の語る語り」よりさらに外側なので、その作品の表現媒体(映画、テレビ、本など)でしょうか。
少なくとも表現媒体よりさらに外側の、作品評や作者の言葉などではない気がします。

また「語り手」は扉の前にいるのか扉の向こうにいるのかこの歌ではわかりません。
しかし「扉」はあちら/こちらを分けながらも壁ほどは堅牢ではなく、開け閉めできて出入りができる装置です。
語り手は扉の前に立って「きみ」にかなり接近することもできるし、扉の材質によっては扉を閉めた向こう側で話しているのを聞かせることもできる。
時には「きみ」を扉の向こうに引っ張ることすらできるのでは?
語り手が扉の開け閉めや材質すら自由自在に変えれるような存在だからこそ、「きみ」は「語りへ」含まれたのではないでしょうか。

今回この「二次創作短歌オンリー歌会」という場に出された歌だということは、何か物語的なもの(虚構)をモチーフにしていることが確定しています。
となると扉の前にいる「きみ」も最初から虚構の存在なのかもしれません。
ちょっと違うかもしれませんが、「きみ」は短歌を鑑賞する「この私」に関してはどうやっても知覚できません。「この私」だってもし今知覚しているレイヤーより上位レイヤーがあるならばそれを知り得ないし、その可能性すら感じれない。でも「きみ」は虚構なので、この短歌の中で、あるいは原作の作品の中で語り手の語りを聴けたりその中に含まれたりすることができる。
それって何か好きな虚構があって、◯◯の世界に行ってみたいな、会ってみたいな、なんて考えたことのある人間からしたら、めっちゃ羨ましい素敵なことだよな〜と思うのです。──スギ

● 読んだ時の"語"のリフレインが面白く、次々と扉が開いていくような物語へ誘われていくような心地になりました。いつの間にか私(読んでいる人)が主人公になるようです。(違うかと思いますが引き込まれる感じが「はてしない物語」みたいでした)──山と森と街

● 「きみ」はどこかへと繋がる扉の前にいながら、そこに立ちふさがる「語り手」の「語り」の中へ、前進ではなく、形のないところへ深く深く潜りこんでいっている、そのことが「語り手の語る語りの中の語りへ」という迷路のようなフレーズで示されています。「語りの中の語り」があるということは、「語り手」の話には「きみ」でも「語り手」でもない第三の存在を含んでいる重層的なものであるということで、その入れ子のような構造がとてもミステリアスで興味を惹かれます。また、その語りの中に「きみ」をいざなう「語り手」の手腕というか、あくまで「語り手」=媒介であるような、自我の薄さというか、語りの中の語りを物語るためだけに扉の前に置かれているかのような洗練された能力がある気がして、語り手がどんな存在なのかも気になります。
「きみ」だけが平仮名に開かれていて他は漢字表記であるところが、この「扉」と「語り手」とその「語り」、その中の「語り」の重厚さを強調し、「きみ」のこの空間での頼りなさや寄る辺なさ、ちっぽけさを醸し出しています。果たして「きみ」は、扉の向こう側へ行くことができるのでしょうか……。──曇

● 「きみ」が物語の中へと引き込まれていく様子がファンタジックに描かれていて、ワクワクします。「語る」という単語を重ねることで、入れ子構造の奥へ奥へと深く誘われていく没入感が楽しく、語感のリズムも心地よくて好きです。──ゆの

● 〈語りへ〉と入っていくようなのに〈扉の前〉にいるままなのが不思議で、〈扉〉は比喩なのかなと思いつつ、だとしても何と何を隔てているのだろうということが気になりました。
繰り返される〈語り〉の響きは催眠のようで、呪文のイメージもありつつどちらかというと純粋な口上の巧みさを思いました。魔法使いというよりは落語家や弁士のイメージで、たとえば古舘春一『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』の四ッ谷先輩を連想します。
〈扉の前〉にいるはずが〈語りへ〉と吸い込まれてそのまま姿を消してしまうような、そうした怪しさ危うさの気配を感じています。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 18世紀生まれのポーランドの貴族ヤン・ポトツキによる長編小説『サラゴサ手稿〔全3巻〕』(岩波文庫)です。
スペインの山岳地帯に迷い込んだ青年と彼の出会う人々により、ヨーロッパとアメリカ大陸を舞台にした壮大な伝奇的歴史ドラマが語られます。誰かが語っている話の中の登場人物がまた別の話を始めることが多々あり本当に終わるのか心配になってきますが、最後にはちゃんと伏線が回収された結末にたどり着きます。主人公アルフォンソといっしょに、盗賊や騎士や貴族や悪魔の織りなす長い長い物語を聞きに行きましょう。「きみ」はアルフォンソでもあるし未来の読者(このテキストを読んでいるあなた)でもあります。
この小説は出版当時に原作者が何度も書き直した形跡があり、長いあいだ(200年くらい)最終バージョンが存在しなかったのですが21世紀になって完全版が発見され、日本語でも読めるようになったのがこの岩波文庫版です。付録に今誰が何の話をしているのか一目瞭然のストーリーチャートがついていて便利です。なお、完全版発見以前のバージョンも別の出版社から日本語版が出たので読み比べが可能になりました。大きく違う部分があり考察が大変捗ります。──るぴ

残映よ 光と笑顔の真ん中で空見て信じたキセキの証  月ノ華

● 夕映えの中、信じあえる誰かと一緒にいられたその瞬間の思い出の写真を見ているイメージかなと想像しました。「残映」が夕映えだけじゃなく過去の大切な思い出ごと照らすような光を感じ、笑っている自分や周りの姿が浮かんでくるようです。──山と森と街

● 「キセキ」は奇跡であり軌跡、その輝かしい名残が光となって夕暮れの空に留まっている景色が浮かびました。美しさと寂しさが同居する歌です。──ゆの

● 〈残映〉は「暮れ残った日の光。夕ばえ。」あるいは「消えていったもののなごり。」とのこと(デジタル大辞泉「残映」参照)。両方の意味で使われているのかなと読みました。夕映えを見て、かつての〈光と笑顔〉や〈キセキの証〉に思いを馳せているというシーンという解釈です。〈残映〉に対してかつての〈光〉は真昼のそれをイメージしました。
〈キセキの証〉が何かは明示されていませんが、〈笑顔〉の持ち主である人々(仲間)とのつながりのなかに、あるいは空のなかにあるものだったのかなと想像しています。〈残映よ〉〈空見て信じた〉というシチュエーションから、「私」にとって空がキーになっているのではと推測したためです。〈残映〉も〈光〉もイメージとしてだけではなく、「私」が見つめるものとして実際にそこにあると読みました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 原作:「アイカツ!×プリパラ THE MOVIE 出会いのキセキ!」
アイカツとプリパラはいいぞ委員会です← アイカツとプリパラで幼少期を過ごしてきた人間なのでこのコラボがあまりにも神すぎました。本当に最高。
ラストシーン(出会いの記憶を失ったふたりが手元に残ったパキチケとカードを見て想いを馳せるところ)のイメージで読んだのですが、主人公ふたり(真中らぁらちゃんと大空あかりちゃん)の名字(真ん中、空)とふたりの所属チーム(そらみ☆スマイルとLuminas)の名前の一部(光、笑顔、空見て)を詠み込みました。絶対に交わることのなかったはずの二作品の歴史が重なり合い、絶対に紡がれるはずのなかった物語が描かれたのが嬉しすぎてついつい……。──月ノ華

会いにきて アイスキャンデーはりついたままの舌でも言ってしまえる  サイリ

● アイスキャンデーが舌にべちゃってなってしまっている主人公が、痛い痛い!はがれる!になるでもなくそのままの状態で会いにきてなんて言ってしまえる相手が存在するのでしょうか。
言われたらすぐに来てアイスキャンデー問題を解決してくれる人なのか、来てはくれるけどそんなことで呼ぶなと言われてしまう相手なのか、そもそも来てくれるかもわからない関係なのか。どんな関係だとしても、とにかく主人公がそんなことを言える相手がいることは変わらないのがいとおしいです。──るぴ

● アイスキャンデーをくわえているちょっぴりコミカルな景の中にある発話部分と思われる「会いにきて」が切実な響きを持っていて不思議な魅力がある歌だと感じました。舌にアイスキャンデーが温度差で張り付いていたらうまくしゃべれなさそうですがこの歌はちゃんと「会いにきて」と言っている気がします。会いに来てほしいの感情が強く聞こえてくるように思いました。──山と森と街

● 初句の「会いにきて」は実際に主体が口に出して言っているのだと思います。でもそれは無意識で、一字空けの間のあとにそのことにハッとしているのではないでしょうか。その発話について「言ってしまえる」とどこか自嘲するなニュアンスで捉えていることから、何らかの事情で「会いたい」と言うのは控えるべきだと主体は考えていて、その感情を抑圧しようと思っていたのに、結局ものを食べながらうっかり言ってしまうことや、どんなに心を厳しく抑えようと思っていても、それを軽々と飛び越えて本音をこぼしてしまう、相手を求める思いの強さに自分で呆れているのかもしれません。
四句までは句頭がa音でそろえられていて、四句後半の「舌」と結句頭の「言って」はi音で韻が踏まれています。言葉を発する部位である「舌」とその行為が強調されているようで、「会いにきて」と口に出してしまったことに対する主体の自嘲が際立つようです。
「会いにきて」と「アイスキャンデー」は「あ」の音とk音で通じ合っていますが、もしかしたらこのような響きのリンクが主体の発話を誘い出してしまったのかもしれません。舌にアイスキャンデーが張り付いた状態で「会いにきて」と発話したとき、原型をとどめるのはおそらく「あい」の部分だけだろうということにときめきがあります。──曇

● 今ここにいない相手に「会いに来て」というときって、寂しさが高まっていたり、電話するにしても真剣に訴えていることが多いと思うんですが、この主体はアイスキャンデーを食べながら言える。しかもアイスが舌にはりついた状態です。しおらしい態度では全くないですね。相手に対して雑に「会いに来て」と言えるほど優位に立っている自覚があるか、そう自分を演出したいのか。「言ってしまえる」という表現から、後者ではないかと思いました。相手がどんな人か気になります。──ゆの

● モチーフが特殊なわけでも、語句の修飾が複雑なわけでもなく、するっと読めるのにシチュエーションに驚いて「んっ!?」と足が止まりました。アイスキャンディーを食べていたら舌に張りつくことがある、というのは実体験から分かるのですが、それを張りつけたまま「会いにきて」と告げる……
「私」と「あなた」がどんな関係なのか、そもそも舌にアイスキャンディーが張りついたままで発話ができるのか(〈言ってしまえる〉はあくまで判断であって実際の発話はともなっていない可能性があるのではないか)、「あなた」に告げているのか独り言なのかなど、するりと読める一方で謎は多くあると感じます。
ただそれらの答えがどうであれ、〈言ってしまえる〉の気の置けなさのようなものを眩しく感じて、いいなあと思いました。のんびりした肩肘張らない関係性と空気を思い浮かべます。──Dr.ギャップ

● 雰囲気がとても好きな歌です。
「アイスキャンデーはりついたままの舌」が何を暗喩しているのか、或いはそのものを指しているのか、ずっと悩んでいてまだ答えが出ておらず、作者様の解題が楽しみです。
ただ、そのものを指していると読むならば、アイスが張り付いた舌では上手く発音できないにも関わらず、「会いにきて」と言える=言いなれていること、そして言われた側も、その拙い発音が何を表しているのか理解できること、という双方向理解・甘えのような関係性が見て取れて、どんな関係の二人なんだ……!?とドキドキしました。──古月もも

★作者コメント
● 鹿野(リーユエ)/ 羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来
前作から大好きな作品です。あまりにも素晴らしい作品で、映画館を出る勢いのままに詠みました。アイスを齧りながら喋る仕草に幼さあるいは生活感を、アイスの冷たさがぴったり張り付いた舌が縺れる感覚に、「会いにきて」と言えるようになるまでの長い時間や鹿野が抱えたりやり過ごしたりしてきたたくさんの感情を表現できればと思い、言葉を選びました。「羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来」は絶賛上映中!よろしくお願いします!──サイリ

懐かしくて手に取った雑誌は今を 明日のサンドイッチを買おう  室城

● 「懐かしくて手に取った雑誌は今を」からは少し置いてきぼりになっているでも新しいことを知る楽しさのような気持ちと下の句は"明日食べるサンドイッチを買う"ことから前進の気持ちを感じます。下の句のあかるく上がっていくようなリズムが好きです。──山と森と街

● 上の句と下の句のあいだの全角スペースが気になって仕方がありません。
懐かしんで手にした雑誌が過去、サンドイッチは未来のため、そのあいだにある「今」についてこの人は何も語っておらず、真ん中に割り込んだ全角スペースがそうなのだろうな……と読んでいるわたしは勝手に想像しているのですが、この人が何も言わないのでそうではないかもしれないし、実際何を考えていたかはわかりません。この人は雑誌とサンドイッチを買っていったのかどうかを考えると、サンドイッチだけ買って帰ったんだったらいいなぁと思っています。──るぴ

● コンビニで以前むかし愛読していた雑誌が目に入り懐かしさから手に取ったが、その内容が語りかけているのは「今」この時に読者である世代。その雑誌がもう自分のためのものではないことを悟った主体は一抹の寂しさを振り切るように、明日の、自分のためのサンドイッチを選びにその場を離れる。というシーンを想像しました。
上の句の、「雑誌」の句跨り、言い差しの形と続く一字空けで、その雑誌を愛読していた頃からの年月の経過と、そこを通り過ぎてしまった寂しさを表していて見事だと思いました。
「明日」に意識を向ける下の句では、「雑誌」と音が対応する「サンドイッチ」の言葉選びと配置がかっこいいです。また、実際のコンビニでも、雑誌コーナーとサンドイッチが置いてある棚は離れていることが多いと思うので、主体が雑誌コーナーを去る移動をスムーズにイメージすることができ、今現在の主体とその雑誌を読んでいた頃との隔たりも感じられて、その点でもこの対比は秀逸だと思います。結句の「買おう」の音も、上の句の末尾の音がo音であったことに対して「ou」と付け足す形になっており、感傷を乗り越えようとするような主体の意識が感じられます。
シチュエーションとモチーフ、語り口の組み合わせ方で些細な日常にあるノスタルジックな瞬間を鮮やかに描いていて印象に残った歌です。──曇

● 過去を懐かしみ、現在を確かめ、明日へ進む。それを日常的な、取り立てて特別なことのない行動のみで詠んでいて、素敵だなあと思いました。──ゆの

● 「明日のサンドイッチを買おう」というシンプルで明るいフレーズになんだか惹かれました。
どんな気持ちや意味を込めたのか、作者の方のコメントが楽しみな歌です。──海水

● 不思議な手触りだな、と心に残った一首でした。一字空けの前後がどうつながっているのかが謎めいて感じられ、また字余りや句跨りを多く含むリズムが独特で印象的です(懐かしくて/手に取った雑/誌は今を/明日のサンド/イッチを買おう と読みました)。
懐かしい雑誌を見つけて手に取ったけれど、その雑誌は自分の知らない〈今〉を映していた。そこに屈託があり、一字空けの空白の間に雑誌を売り場など元の場所に戻して「私」の意識も別のもの──明日の食事のためのサンドイッチという「私」にとっての今の生活へと向いていく、というように想像しました。
一字空けの間に「私」が何を感じたのか、納得と小さな諦め、さみしさなどを想像しました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● アニメ映画『秒速5センチメートル』より遠野貴樹
私はこの映画を過去の美しい思い出を心の棚にしまい、折り合いをつけて前を向く映画だと思っています。
映画後半で大人になった遠野貴樹が、ふらっと立ち寄ったコンビニの雑誌棚に科学雑誌を見かけて、手に取り眺め、買わずに棚に戻すシーンがあります。懐かしいからつい買っちゃう、みたいなことをしないのが良いなぁと思い、そのまま切り取るように短歌にしました。──室城

森を抜け跡地へいざなう夏風が君に弾けて日輪と咲く  ゆの

● "夏風、弾けて、咲く"にとても心地よい空気を感じました。「森を抜け跡地へいざなう」の夏草や森の密集感から跡地の開放感がすてきです。跡地は秘密基地のような楽しい場所でしょうか。君とその場所にいるうれしさがあふれる歌だと思います。──山と森と街

● 何か大きな物語が終わった後、エピローグのワンシーンという印象を受けました。視覚イメージの印象が強く、〈夏風〉を追ってカメラが移動する様子、その先で〈跡地〉にいる〈君〉と〈日輪〉の白いほど強い光をイメージしました。〈日輪と〉の〈と〉はandではなくasと読みましたが、実際の日の光のイメージも重なってくるように思います。
〈跡地〉の元の姿は分かりませんが、何かの役目が終わって建物がなくなった後、開けて見通しの良い明るい土地をイメージしました。明るい結末を迎えた後の穏やかなワンシーンを想像して、晴れ晴れとした気持ちになりました。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● TYPE-MOONの伝奇ビジュアルノベルゲーム『月姫』(同人版)より、ヒロインの1人・琥珀さんを詠みました。
『月姫』は、物の壊れやすい線を見ることのできる主人公・遠野志貴が、吸血鬼と出会い非日常に巻き込まれていく物語。琥珀さんは遠野家の使用人であり、最後に解放される「琥珀ルート」のヒロインです。
いつも笑顔を絶やさない朗らかな女性ですが、実際は過酷な過去の経験により人間性を失っており、笑顔は仮面、人格は模倣に過ぎませんでした。
エピローグで、主人公はかつて滅ぼされた生まれ故郷に向かいます。そこは向日葵咲き乱れる跡地。ゲームタイトルどおりずっと月の下で進んできた物語の結末が、まぶしい光と笑顔で幕を下ろしたことに感動した当時の気持ちを、できるだけそのまま詠もうと思いました。
琥珀さんの心からの笑顔が見えるような短歌になっていたらいいなと思います。──ゆの

ばかだなあ 私を追って海の底キミのそういうところがきらい  ましも

● 初句の「ばかだなぁ」が思わず出てきちゃったと言う感じで諦めや呆れの中に許しみたいなイメージもあります。私を追ってこんな所までしょうがないやつめ、そんなことしてほしくないのに=「きらい」になっているのかな。奥にやさしさのある歌だと思いました。声にしたときのするっと読めるリズムが歌のイメージと合っていて好きです。──山と森と街

● 湿度のふたり~~~~~!!!!!良!!!!!!!!!!
「ばか」「きらい」って言いつつも「仕方ないなぁ」って感じで口角は上がってそうなの、すごく好きです(※ヘキフィルター満載でお送りしています、違ったらごめんなさい)──月ノ華

● 「きらい」と言いつつ、海の底まで自分を追ってくる「キミ」の思いと愚かさを喜んでしまう、そんな自分が一番きらいなのかなと思いました。「ばかだなあ」は自嘲もこもっているのではないでしょうか。海の底で「キミ」を抱いて泣く人魚姫を想像したら悲しくなってしまいました。ドライな語り口から、主体の愛の大きさがにじみ出ているところが好きです。──ゆの

● 〈ばかだなあ〉〈きらい〉のストレートさと、その真っ直ぐな言葉の裏にあるだろう屈託を思ってにこにこしてしまいました。そう言ってしまうなかに愛おしさの感情があるんじゃないのとどうしても思ってしまって……
自分を追ってきてくれたことは嬉しいけれど、〈キミ〉が危険を冒している以上嬉しいともありがとうとも言えない、嬉しいけれど同時に嫌いでもある、そんなふうに〈私〉の胸中を想像しました。少し拗ねているのかもしれない、とも思います。反面、〈キミ〉は〈そういうところ〉と指摘が成り立つような、これまでも同じような無茶をしてきた真っすぐした人柄なのかなと想像しました。
二人にとって幸せな結末が迎えられていると良いなあ、と思います。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 「チェンソーマン レゼ篇」です。
レゼという女の子は実のところかなり厄介で面倒であまのじゃくな性格をしているのですが、デンジのことを「ばかだなあ」と思いつつも憎めない、けどそれを素直には言わない、というところを歌にしました──ましも

薬さえ飲まされてなきゃ今ごろは彼女の気持ち知らず生きてた  佐倉

● 初めて読ませて頂いたとき、かすかな違和感を覚え、その正体に興味が湧いたので探ってみることにしました。
考えてみた結果、「薬を飲む」「気持ち」「知る」という要素を組み合わせると、「薬を飲んで彼女の気持ちを知ることができた」と、それが良いことであるという肯定的な文になるのが自然な気がするのですが、「飲まされてなきゃ」と「知らず」という2回の否定から、主体が薬を飲み、「彼女」の気持ちを知ってしまったことについて否定的な気持ちを持っており、特に、薬を「飲まされた」ことについての憤りが強いと感じました。
どんな薬か想像してみますが、気持ちに作用する薬といえば、やや安直ですが、やはり惚れ薬でしょうか。
惚れ薬を飲んだことで、それまで恋に興味のなかった主体が、誰かに恋をしたと読み取れる気がします。
主体は薬を飲まされたことと、その薬の効果があったことを冷静に理解出来ているので、もしかしたら効果自体は切れているのかもしれません。
しかし主体は、薬を飲む前と後では価値観が大きく変わり、後戻りができないと自覚している状況なのだと思います。
主体の人生を変えた「薬」とは一体何なのか。
それを飲ませた人物と、「彼女」とは一体誰なのか。
ミステリー小説を読み解くような面白さがある短歌だと思いました。──リサコ

● 「薬さえ飲まされてなきゃ」というフレーズに薬を飲まされたことへの怒りや悲しみを感じる一方、「彼女の気持ち知らず生きてた」と続くことでこの歌の主人公にとっては薬を飲むことも悪いことではなかったのではないかと想像を巡らせることができて面白い句だなと感じました──ましも

● 追い詰められている状況の中にいるのでしょうか。「飲まされてなきゃ」は自分の意志とは関係なく飲まされた状況で、でも飲まされたからこそ気づけたものがあると言うのが救いのように感じました。独白のような淡々としたリズムが歌と合っていると感じました。──山と森と街

● 『コナン』の工藤新一かな、と思いました。「彼女」は幼馴染の蘭ちゃん。新一は、薬を飲まされて「コナン」という違う人間になったことで、これまで知らなかった幼馴染の本音をたくさん知ることができました。状況はむしろ悲劇だしコミュニケーションとしてはある種のズルなので、完全に肯定することはできないけれども、そこから得られた大切なものも確かにある、という気持ちを確かめているように思いました。──ゆの

● 文章としてはするっと読める一方、この短歌の(あるいはその背後にある原作の)理屈が掴み切れていないのか、不思議な印象を受ける一首でした。〈薬さえ飲まされてなきゃ〉=薬を飲まされたことは「私」にとって不本意なことなのだろうと思うのですが、「~~の気持ちを知らずに」という言い回しは「相手の気持ちを知らなかったせいで適切に慮ることができなかった」という文脈で見かけることが多いような気がして、知ってしまったことに不本意さや後悔のようなものがあるんだな、というところに独特の手触りを感じました。他人の気持ちを相手の同意なく知ってしまうことは一種の侵害なので、「私」が不本意に感じるのもそうだろうではあるのですが。
物語の始まりという印象を受ける歌で、平凡に生きていた「私」が何らかのハプニング(その過程で薬を飲まされた)のために非日常に巻き込まれ……というシチュエーションを思い浮かべました。どんな薬を飲まされたのか、そして知ってしまった彼女の気持ちとはどんなものなのか、気になります。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 名探偵コナンの工藤新一で詠みました。薬によって身体が縮んだのは新一くんにとって最大のピンチではありますが、その姿になったから蘭ちゃんと両思いであると知れたんですよね。もし何事もなく過ごしていたら新一くんは蘭ちゃんの気持ちに気づかないままだったのかも、と考えると面白いなと思います。捻りのない歌になってしまいましたが、一番肝になる部分を、と思い詠みました。──佐倉

ブランコを天までこいでも振り切れぬ痛みを知った日 嘘をついた日  ゆの

● 二句目と四句目が字余りになっていて短歌の定型をあまり守れていないところに、まったくどうやっても振り切れていないあふれんばかりの情緒の乱れを感じました。ブランコを天に届けとばかりに漕ぐような大胆さは大人にはちょっと難しいのではないかと思い、そうするとこれはあだブランコをチェーンの悲鳴も気にすることなく思い切り漕げた子どもの頃の記憶で、その痛みはまだ残っているのでしょうか。──るぴ

● ブランコを最大値まで大きく漕ぐのはとても大変で、でもそれをしてしまうほど感情が大きく揺さぶられるようなことが起こったのでしょう。振り切れないその"痛み"や"嘘"はどんなものなのだろう、激しく静かなやりきれなさの中にどことなく主体にとってそうなるべくしてそうなった、必然のある痛みや嘘を付くことだったのかもと想像しています。──山と森と街

● どんな嘘かは分からないけれど、きっと取り返しのつかない嘘だったのでしょう。嘘をついたあの日のことを思い返しては後悔しているうただと読みました。主体が小学生くらいだとしたらブランコは身近なものだろうけど、そうでないのなら、地面(=現実)からより遠くに離れたい主体がいるのかもなと。ブランコの揺れの頂点で重力から解放されるあの一瞬の、いのちが空中に放り出される感じは、切り取り方によっては自傷行為にも近いと思って……います。──しまおかさよ

● 嘘をつき、ブランコを力一杯漕いでも振り切れない痛みを知った、その「日」が強調されています。主体は今まさに歌の内容の中にあるのではなく、そのような日を振り返っている、その日以後にいるのではないかと思いました。
嘘をついた罪悪感に戸惑ってブランコを漕ぐという行動を選んでいることから、「痛みを知った日 嘘をついた日」の主体はまだ子どもだったのでしょう。この日についた嘘は、おそらく主体にとって初めてついた嘘で、あまり凶悪なものではなく、例えば大人からすれば些細なことだと考えるようなものだったのだと思います。それでも振り落とせない痛みが当時の主体には伴いました。嘘をつく前にも、こんな痛みを知る前にも戻れない、その後の人生に影を投げかける決定的な日になってしまったのでしょう。その後の主体は今もその痛みの渦中にあるのか、もう痛みを感じなくなったのか。それとも、痛むことにも慣れてしまったでしょうか。けれど、こんな風に記念碑的に覚えているということは、今も痛みに苛まれているのでしょう。──曇

● ブランコを〈振り切れぬ〉を託すアイテムとして使うの大好きです……! ブランコ、子どもの遊具という明るく楽しくノスタルジックなイメージがある一方で「どこにも行けない乗り物」という一面があるなと思っています。
〈痛み〉や〈嘘〉を通じて幼年期の終わりを迎えた「私」をイメージしました。また文語調のやや硬い言葉遣いや〈知った〉〈ついた〉という過去形からは、すでに幼年期が遠くなっている「私」がかつてを回想しているのかなと想像しました。〈嘘をついた〉ことで〈痛みを知った〉日があった、ということだと解釈しています。
切ないノスタルジーを感じて好きな一首です。──Dr.ギャップ

★作者コメント
● 漫画『うしおととら』より、主人公・蒼月潮を詠みました。「ブランコをこいだ日」というエピソードの一場面です。
「蒼月潮は嘘がキライだ。男らしく嘘などつかないことが潮なりの誇りであり自慢らしかった。」との語りから物語は始まります。
嘘をついたことのない馬鹿正直で真っ直ぐな性格の潮は、目を怪我した少年・ミノルと、心を読む妖怪・さとりに出会い、人生で初めて嘘をつくことになります。
「父」としてミノルの目を治そうと、人間を殺し目玉を奪って回るさとりを、潮は退治しなければなりませんでした。人間と妖怪の間に横たわるどうしようもない断絶、それでも種を超えて相手の幸せを願う心に触れた潮は、優しく悲しい嘘をつきます。
『うしとら』屈指の名エピソードとして有名なのですが、残念なことにアニメ(再放送中)では省略されてしまったので、もったいないなあの気持ちで歌にしてみました。──ゆの

順光にあなた自身を描くとき色を置く手はもう震えない  サイリ

● 明るい場所にいる相手を見ること、人物を描くとなると瞳や頬の色などわかるくらいにじっと見つめることは確かに相手と自分とを比べてしまったりわかりすぎてしまうような少し怖いことかもと感じましたし主体はそれを乗り越えたり受け入れたりできたのかなと想像します。震えずに相手と向き合えることは自身とも向き合えた歌なのかな。すてきです。──山と森と街

● 「あなた」は絵描きさんでしょうか。あなたを見ている誰かは、自画像を描いている「あなた」を思っているのでしょうか。ここで言われている順光のなかで色を置いてあなた自身を描くことは、じっさいに絵を描くことではなくあなた自身を表現する(試合に出ることやなんらかのパフォーマンスをする)ことであるとも受け取れるのではないかと感じましたが、いずれにせよ個人的な好みだと、歌を詠んでいる人とあなたが会うことはないといいなと思いました。これまで会ったことがなくてもいいです。──るぴ

● 「順光にあなた自身を描く」とは、順光を浴びている構図の自画像を描くということだと解釈しました。順光は被写体に対してカメラの背後から差す光です。つまり被写体は正面から照らされ、その光に自らの姿が曝け出されます。そのような自分自身を描くことは、日の当たる場所に、素顔が隠れない状態で自分を表明する・表現するということでもあるでしょう。光を利用して自分を隠すのではなく、それに自分自身を晒す。未完成、作りかけの姿も露にする。そして自分を作り上げていくということ。かつてのあなたは、そうしようとするときに震えていた、つまり恐れや躊躇、戸惑いがあったのだと思います。けれど、今はそうではない。何も隠れない場所で自分自身を生きるーー自分を探求し、形作り、姿を現し続けるーー勇気が備わったのではないでしょうか。定型のリズムがありつつ、一つの文としてどっしりと構えている歌の佇まいも、その覚悟が決まった今の「あなた」の安定感を表していると思います。「あなた」の成長が伝わってくる良い歌だなと思いました。──曇

● 「順光に」は、「あなた」が真正面から光を受けている、ということだと読みました。何も隠すことなく、すべてをさらけ出せる勇気が震えない手に表れているように思いました。──ゆの

● 〈あなた自身を描くとき〉は「あなたが自分自身を描くとき」だと読みました。〈順光に〉はまっすぐ歪みなく自分を見据える、というイメージで、祝福のような印象も受けました。何か大きな試練を乗り越えるなどして自分の輪郭を見定められるようになった〈あなた〉を想像します。〈色を置く手〉がたとえば「迷わない」ではなく〈震えない〉とあるところに、これまでのあなたにあったのは迷いや躊躇いというよりは緊張や怯えなのではないか(それがなくなったのはあなたに自信が付いたからではないか)と推測しました。
〈描く〉は実際の絵ではなく比喩として読んでおり、たとえばアイドルのような「見せるための自分」があるひとという印象を持ちました。
鮮やかさの印象を受ける一首です。──Dr.ギャップ

● 作者の方もしくは詠み手とされたキャラクターは絵を描かれる方だと思いますが、「順光」にハッとさせられました。逆光はよく聞くけど順光は聞かない!逆光は対象の中身をちゃんと見ることができないけど、順光は違う。「もう震えない」と合わせて成長や心境の変化を端的に表しており言葉の使い方が効いているなと思いました。──萩野すい

● 「あなた自身」とあることから、詠み手の方の、「あなた」への祈りや願いのようなものが含まれた歌なのかな、と想像して読みました。
歌の内容から、今までは逆光の中に自分自身の像を見ていたと推測できます。つまり、「あなた」は自身の理想とする姿、あるべき姿を強く持っている人なのかなと思いました。しかし、その光の強さに眩んでしまい、手が震える=恐れ、畏怖のような感情に飲み込まれてしまっているのではないかと想像しました。
でも、しっかり自分からその像に光を当ててやれば、恐れることは何もないんだと、作者の方の「あなた」に向けたエールのようなイメージを抱きました。──古月もも

★作者コメント
● 花園 百々人(はなぞの ももひと)/ アイドルマスターSideM
「色が欲しい」、百々人のソロ曲「Hundreds Color」の歌詞です。
自分の「色」が分からず、生きる理由すらわからなくなっていた百々人は、プロデューサー(いわゆる「ユーザー/プレイヤー」の立ち位置です)と仲間たちと共にトップアイドルを目指す中で、世界にはたくさんの色に溢れていたことに気づきました。そして、自分の色にも少しずつ気づきはじめたところです。
百々人はプロデューサーに対して強い思いを持っているアイドルです。プロデューサーの視点から彼を詠むとき、色そのものを教えるのでも描き方(=世界の見方)を教えるのでもなく、もう大丈夫だよ、躊躇わなくていいよ、と彼の選択を肯定するような距離感となるよう意識しました。これからも百々人の見る世界が広がり続けますようにという祈りです。──サイリ

君の名を呼ぶとき滲む侮りと眩しさ「友達、なんて言うから」  スギ

● 相手の名前を呼ぶときに侮りと眩しさが心情としてあるというのが相手への二面性、大きな感情がある主体を想像させます。「友達、なんて言うから」は主体の"君は友達じゃない"に差し込むように相手が"友達だと言ってくれた"うれしさと戸惑いがあるんじゃないかなと読みました。──山と森と街

● 主体から「君」への屈折した感情。相手と主体の間の溝は大きそうですね。主体にとっては自分のコンプレックスを刺激する視界に入れたくない相手なのに、相手は友達だと言ってくる苛立ちがありつつ、「侮り」よりも後にくる「眩しさ」のほうが強い感情っぽいところがより感情を複雑にしています。友達であることを主体が受け入れられるといいですね。──ゆの

● 屈託のある人間関係、好きそうな屈託の気配を感じとりました。〈侮りと眩しさ〉が並ぶのが好きです。〈君〉に感じている相反する感情が〈君の名を呼ぶとき滲む〉んだろうと解釈しています。
高慢で性格がちょっとひねくれてるライバルキャラの「私」と、天真爛漫で素直な主人公タイプの〈君〉をイメージしました。〈友達〉という〈君〉からの言葉が〈侮り〉の理由でもあり〈眩しさ〉の理由でもあるのかなと思っているのですが、そこに〈侮りと眩しさ〉を同時に感じる「私」の感覚がとっても好きで……
〈君の名を呼ぶ〉ということはすでにそれなりに近い位置にいる関係性なのではという予感もあり、けれど〈友達〉とは少なくとも私は思っていないのだ、というところにも好みの気配を感じています。──Dr.ギャップ

● 君への感情に眩しさと並んで侮りが存在するのがとてもいいですね。君とは声に出して友達と言える関係であり、周囲からもそうみなされているけれども実際にはそう純粋に言い切れる間柄ではないと主人公だけが思っているようで。眩しさを感じる相手が自分と対等の「友達」であることに、光栄とか幸せではなく侮りをにじませるところに主人公の甘えがあるようで。──るぴ

★作者コメント
● アプリゲーム18TRIPの叢雲添と西園練牙で詠みました。
■原作について
練牙はストーリー序盤でやることが空回りし高圧的な態度を取ってしまうため中々周囲と馴染めないのですが、添は軽薄かつ優しく練牙に接することで練牙の信頼を得ます。
しかし添の友情には策略が含まれていて、本心からのものではありません。 練牙は添から向けられる友情の策略には気づいておらず、添から友達と呼ばれて素直に喜んでいます。

また練牙には現在まで失踪している友人がいます。練牙は自分の人生をその友人のために捧げており、彼が戻ってきたら今の立場から自分を消すことにも躊躇いがありません。
そんな状況も悲観的には捉えておらず、その友人のことも尊敬しています。
彼は練牙にできた初めての友達であり、添は練牙にとって2番目の友達にあたります。

一方、添は誰にとっても軽薄な態度を向け、何でも楽な方がいいという姿勢を崩さない男です。
また表向きの仕事(練牙と同業)とは別に、非合法な仕事を生業としています。
非合法な仕事では添は代替可能な存在で、その環境が彼の軽薄さにもつながっています。
何も疑わず優しい言葉を真に受ける練牙のことを、普段の添はチョロい、と評します。

しかし練牙は不器用ながらも、時間をかけて所属しているチームと確実な信頼関係を築きます。
そして自分が「失踪した友人の代替」として人生を捧げていることや、友人の帰還を今も信じていることを、チームの面々(添も含む)に打ち明けます。
代替であることは練牙にとって悲観的なものではなく、むしろ自然な在り方でした。
添は非合法な仕事で人間の悪しき部分をよく見ているので、練牙のそんな態度を(本人には伝えないものの)「奇跡」と評するのでした。

■歌について
添は練牙を基本的に侮っているが、練牙が自分には獲得しえないものを確かに持っていることも理解している。
友達、と練牙が話すときにはどうしても初めての友達もチラつく。
別に添は練牙のようになりたいわけではないですが、だからといって無視できない眩しさに目を細めることもある。
そんな練牙と添の間にある「友達」という言葉の複雑さを私が思い出せたらいいなと思って詠みました。──スギ

もう君の手を離さずにすむように夜のつづきを紡ぐダンスを  しまおかさよ

● 読んでいて思ったのがぬゆりさんの「ロウワ」でふたりが逃げ出せたif、でした。ふたりだけの世界が広がっている感じがして、すごく好きです。──月ノ華

● 「夜のつづきを紡ぐダンスを」がすてきです。手を離さずにいること、その先を紡いでいくことがダンスと重なることでキラキラとした心情を感じます。「ダンスを」と切ってあることで続きを予感させていていいなと思いました。──山と森と街

● ファンタジーの世界にいるような幻想的な雰囲気が好きです。
「つづき」がひらがなのところが童話のようなイメージを強めているように感じました。
手を離したら別れてしまいそうな儚さ、ずっと側にいたいという願いが美しいです。──海月雪夜

● 全体的に言葉選びがロマンチックで、キラキラとした夜景が見えるようです。しかしダンスを踊り続けることは夜が続くことでもあるので、それが二人のために本当に良いことなのかな?という、きらめきの裏側の不穏さのようなものが「夜のつづき」に込められているように思いました。──ゆの

● とっても好きな一首です。昼が来ると君の手を離さなければならなくなる、吸血鬼のような異形の〈君〉と、そうではない、でも〈君の手〉を離したくない「私」という構図をイメージしました。
〈君の手を離さずにすむように〉とありそれは実際そうなのだろうと思いつつ、〈君の手を離さずにすむ〉ことが嬉しくて踊っているうちに夜が続いていくような、切実さより楽しさのような印象を受けました。ダンスが手段化してないといいますか……ワルツのような、二人でペアになって手を取りながら踊るダンスをイメージしています。
盆ノ木至『吸血鬼すぐ死ぬ』を連想しながらこの短歌を読ませていただいた部分があるのですが、だとすると「君」は吸血鬼のほうが使う二人称なので、〈もう君の手を離さずにすむように夜のつづきを紡ぐ〉は、「君を昼の世界には帰さない」なんだよな……と思ってしみじみぐっときました。一方「私」が人間のほうだとしたら「君とずっとともにいられるように夜を作ってその中で暮らすよ」だなと考え、これもこれでぐっときています。──Dr.ギャップ

● 冒頭の「もう」で、最初から少なくとも一度は君の手を離したことがあると教えられます。手を離してしまったときにあなたの夜は途切れて、そのつづきをまた始めるために二人のダンスが始まるのですね。手を離したのが一度でなくて、そのたびに夜が断ち切られて君がいなくては続かなくなる、それを何度も繰り返すしこの先も繰り返す、そういう予感を隠しているという読み方もしたいな……と個人的には思っています。ふたたび手を取る喜びが何度も訪れるように。──るぴ

● 夜の間は睦まじくいれたはずなのに、夜以外の時間はそうではない。でもこれからは夜以外の時間もともに。すごくポジティブな歌のはずなのに、どこか陰る印象もあるのは「夜」という時間のせいでしょうか。夜は安寧の時間であり逃避の時間。彼らの未来が幸福なものでありますように。──萩野すい

★作者コメント
● 【『No.6再会』紫苑】──しまおかさよ

たんぽぽでよかったんだよ、オフィーリア。あなたの髪をきらめかすのは  おかのきくと

● ぱっとイメージするのはシェイクスピアの悲劇(それに合わさってジョン・エヴァレット・ミレイの絵画)ですがこの歌からはそれそのものというよりは"私が見ている手の届かないあなた"への感情を受けました。悲しみや辛さなど起こらないでないでほしいという願いのようなやさしい感情を「たんぽぽでよかったんだよ、」から感じ、じんわりとした日向のような歌だと思いました。──山と森と街

● 特別に美しい花でなくともよかった、素朴な野花でさえも特別にしてしまうあなたのままでよかったのに……という、すこしの後悔を汲んでしまうのは悲劇のオフィーリアだからでしょうか。たんぽぽの花言葉が透けるような、詠み手のまなざしを感じます。──しまおかさよ

● 作中の「オフィーリア」は何か良くないもので髪をきらめかせていたのが読み取れますが、その代わりとして「たんぽぽ」が出てくるのが微笑ましくていいなと思いました。「よかったんだよ」とあるので主体は「オフィーリア」に対して後悔しているのが切なくて好きです。主体は「オフィーリア」にどんな感情を向けているのか気になりました。恋人に向けるものなのか家族に向けるものなのか。どちらにせよあたたかな感情だったのではと予想します。だからこそ上の句の切なさや、やりきれなさが増すのかなと思ってます。──アサコル

● そのまま『ハムレット』のオフィーリアとして読みました。彼女が死に際に花冠にしていたのは「きんぽうげ、いらくさ、ひな菊、紫蘭」などらしいのですが、どれも彼女の狂気を慰めてはくれず、共に川を流されてしまいます。広い野原で太陽のようなたんぽぽを花冠にしていれば、オフィーリアは死なずに済んだかもしれない。主体は今まさにたんぽぽで花冠を作りながら、ふとそう思ったのではないでしょうか。オフィーリアへの優しい語りかけが胸に沁みる、とても好きな一首です。──ゆの

● シェイクスピアの戯曲《ハムレット》の登場人物であるオフィーリアへの「死ななくてよかった」、「幸福になってよかった」という心寄せの歌と解釈しました(原作自体は別にあるのかもしれませんが)。
オフィーリアは小川で水死する(またオフィーリアを題材にしたミレーの絵画では、川に仰向けに浮かぶオフィーリアの周りに花が浮かんでいる)のですが、〈あなたの髪をきらめかす〉は水に浮かぶ髪の様子を指しているのではと読みました。そんな風に水に飛び込んで死ななくても、たとえばたんぽぽの花かんむりで髪を飾るような穏やかな時間を過ごせばよかったのに、という。
上に書いたように〈きらめかす〉からオフィーリアの飛び込んだ水を連想した一方、オフィーリアの幸福を願う気持ちがここに込められている気がして印象的でした。《ハムレット》はきちんと触れたことがなく、この短歌をきっかけにあらすじを調べた程度なのですが、オフィーリアの死は周囲のせいで選ばされた側面があるように見え、この短歌の〈よかったんだよ〉はオフィーリア本人への声かけであると同時、彼女の暮らす世界・作品世界への異議申し立てなのではということも思いました。あなたがそうして幸福に暮らせる世界であってよかったんだ、よかったはずなのに、という。──Dr.ギャップ

● 登ったヤナギの枝が折れて死んでしまったオフィーリア。ヘンルーダを自身に贈ったオフィーリア。詠まれているのはハムレットのオフィーリアなのか、それに例えられる誰かなのかはわかりませんが、彼女が選んだのがたんぽぽのような、地に咲く身近で強い花であれば、死ななくてよかったのかもしれません。──萩野すい

★作者コメント
● 亜月ねね『みいちゃんと山田さん』
 天然な女の子『みいちゃん』と、キャバ嬢の『山田さん』のお話です。みいちゃんには、知的・あるいは発達の障害がありますが、周囲の理解や援助を受けられないまま、大人になってしまいました。
 
「タンポポ」は、「無能はタンポポでも摘んでなよ」という台詞からです。
 「仕事のできない人間は、工場で刺身に「タンポポ」を載せる仕事でもしてなよ」という意味です。みいちゃんが働き始めたラウンジの先輩から言われた言葉です。
 刺身の飾りとして添えられるのは「食用菊」で、タンポポではありません。関わりのない仕事や立場を持つ相手を「理解しようともしない」姿勢が生んだ、分断だと感じました。

みいちゃんは、これからの仕事について、「感性がすごいって言われるから、小説家か画家か映画監督になる」と言います。「ちょっと変な子だから」「そういう子は才能があるから」……。ことあるごとにそう言われて、自分の特性を透明化されてきたのでしょう。
 自分自身でも、うまく生きられない理由を、才能や感性がある分、生きづらいのだ、と解釈してきたのかもしれません。

でも、感性や才能のない発達・精神・知的障がい者なんて、たくさんいます。彼らは、生きています。笑ったり泣いたりしながら。誇りをもって、食用菊を刺身に乗せています。
もしもみいちゃんが、そのことに気付いていたら。あるいは、気づかせてくれる誰かがいたら……。適切な福祉につながり、刺身に食用菊を乗せる仕事に就けていたら……。そして、そんな自分のことや、仕事のことを愛せていたなら。
彼女は死ななくてよかったでしょう。

作品の狂言回しである『山田さん』は、ラウンジの待機時間で文学作品を読んでいます。
みいちゃんの訃報を聞いたとき、山田さんなら、ミレーの絵と、タンポポを思い浮かべるだろうな、と思いました。──おかのきくと