村椿と玉揺さん

呼び方。

 各地で雪も降り始めた季節、村椿はほろりと白い息を吐きながらモールの広場に立っていた。
 今日は休日で、村椿には約束があった。待ち合わせ場所には来たばかりで、コートの内側には暖房の温もりが残っている。待ち合わせ相手の玉揺は寒い場所が苦手なようで、村椿は彼を待たせるのが忍びなくて早めに来ることが常であった。仕事柄、早め早めに行動するのもある。
 ぼうっと眺める雑踏。舐め犬と呼ばれる長い舌を持つ四つ足の生き物を散歩させている住人などを視界に入れていると、その影からふっと見えた姿。
「京さん!」
 あちらも村椿の姿をみつけたのだろう、玉揺が手を振って駆け寄って来てくれるのに笑いかけ、村椿も彼のもとへと歩を進めた。
「すみません、待たせちゃいました……?」
「いいえ、ほんとうにいま来たところです」
「よかった。へへ、なんだか久しぶりですね」
 にこにこと花が飛ぶように笑う玉揺の言う通り、村椿が彼に会うのは少し久しぶりだった。仕事で遠方に行っていたのだ。村椿はそういうことが珍しくはないのだが、玉揺と連絡は取り合っていて、帰ってきたら食事に行こうと約束しての今日である。
「こちらでは風邪など流行っていたようですが、燕臣くんは大丈夫でしたか?」
「元気いっぱいです」
 鍛えているんで、と続ける玉揺はどこか得意そうだ。村椿は一見小柄な玉揺が露わにすればがっちりとした体をしているのを知っている。恐らく、彼がその気にならなければ押し倒そうとしても揺らぐことはないだろう。男として羨ましいことである。
「よかった。では、店のほう行きましょうか。ああ、その前に」
「なんですか?」
 きょとんと色素の薄い目を丸くさせる玉揺の頬に片手をあて、村椿はその唇を親指でなぞる。
「京、です」
 きゅむ、と結ばれた玉揺の唇。弱ったように下がった眉と、揺れる目に困らせているなあ、と思いつつも村椿は「ん?」と首を傾げるだけで言葉を撤回しない。
 村椿は玉揺に名前をそのまま呼んでもらうための挑戦中だった。挑戦中とはいえ、既に何度か呼んでもらってる。いまのようなふたりきりのときは呼んでもらいやすいのだが、今回は会うのに間が空いたからか、それこそ久しぶりのさん付けであった。
 じいっと見つめる村椿の観念したように玉揺が口を開く。
……京」
「はい。京ですよ、燕臣くん」
「んん……京って名前呼び、結構拘りますよね……
 頬を柔く撫でてから離した手を視線で追いかけながら、玉揺がぽつりと言う。村椿は目をまたたかせて、そうかな? と己を振り返った。そういえば、そうかもしれない。
「学生時代は専ら村椿と呼ばれていたからかな」
「そうなんですか?」
「終わりが母音の二文字ですしね。多少呼び難かったのもあるかもしれませんが、多分、村椿っていえばぼくのことって分かりやすかったからだと思います」
「確かにあまり聞かない名字かも……そういえばそっか、京にも学生時代ってあるんですよね」
 ゆったりと歩きだしながら、思わず村椿は声を上げて笑ってしまう。
「え、あ……京さ、っけ、京はなんだか最初からいまのままっていう感じがして……!」
 わたわたと手を上げたり下ろしたりする玉揺の頭に手を置いて、村椿はその艶やかな黒髪を手櫛で梳くように撫でる。慌てていた表情をほわりと柔らかくさせる玉揺に可愛らしいなあ、と村椿の胸が暖かくなる。
「ふふ。ぼくも燕臣くんと同じように大学へ行って、勉強していましたよ」
「そうなんですけど…………京もサークル活動してたんですか?」
 村椿は弓道サークルに所属している玉揺にご利益のある神社の御守を渡したことを思い出しながら、視線を一度宙へ向けた。
「ぼくは史学部にいましたよ」
「へえ! それでいまのお仕事に進んだり?」
「そうです、そうです。高校の頃から語学に興味があったんですが、文化のほうにも興味が広がって」
「やっぱり京ってしっかりしてたんですね……
 猫であればぴ、と耳を向けていたであろう様子で頷く玉揺に、そんな大層なものではないと村椿は首を振った。楽しいこともあったが、苦い経験もあった。
 それからも村椿は思い出として、玉揺は直近のこととして大学での出来事を話し合う。村椿にとってはもう懐かしさもあるが、現在進行形で大学生の玉揺から話を聞くと随分と新鮮だ。にこにこと楽しそうに、時には難しげな表情で語る玉揺を見ていると、先輩や周囲の年上はきっと彼を可愛がっているだろうなと村椿は思う。村椿もその一人だ。素直で真面目、時折見せる警戒する猫のような態度につい構いたくなるのだ。懐いてくれれば、というと失礼だが、仲良くなりたいと思う。それこそ呼び捨てで名前を呼んでほしいくらい。
 いいや。
……ねえ、燕臣くん」
「なんですか?」
 そろそろお店に着く、とご機嫌な顔の玉揺が、そのままの表情で見上げてくる。
「今度は敬語なしで話してみませんか?」
 ぱっちりと見開かれた目に薄っすら開いた口。その口に指を差し入れてみたいなと思いつつ、村椿は「どうでしょう?」と混乱しているようで目をぐるぐるさせる玉揺に問いかける。
……そ、その」
「はい」
 その、と繰り返す玉揺は猫であったら尻尾がぼわぼわに膨らんでいたことだろう。
 どうかしら。だめかしら。
 思いつつも残念閔子騫、時間切れ。店に着いてしまった。
「ふふ。よければ帰るまでにご意見お聞かせください」
 ぎこちなく頷く玉揺はどんな返事をしてくれるだろう。
 名前を呼んで、さんは付けないで。
 今度は素のままに話してほしい。
 自分は随分と我儘な年上だなあ、と考えながら、村椿は店のドアを開けて玉揺へ「どうぞ」と促した。
 どうぞ、どうぞ。
 ──どうか。