ドアを開けたらびしょ濡れのシスネが立っていたものだから、驚いて咥えていた煙草を落としそうになった。急に降ってきたの、と呟くシスネに、なら電話しろよ、と呆れ顔を作って窘めながら、急いで部屋へと招き入れる。雨に打たれた体は僅かに震えていて、とても寒そうだった。
仕事終わりにそのままやって来たのだろう。シスネはいつもの制服姿だったが、上着を脱いでそれを両腕に抱えていた。水分を含んだ白いシャツが肌に張り付き、華奢な体のラインを浮き彫りにさせている。こんな格好で町中を歩いてきたのかと思うと、俺は心中穏やかではいられず、シスネの腕の中で奇妙に蠢く物体が何なのか、すぐには気付くことが出来なかった。
「おまえ、何持ってんだ?」
怪訝に訊ねると、返事の代わりに「にゃー」というか細い声が返ってくる。そして丸められた黒い上着の隙間から、同じように黒くて小さな毛玉が顔を出した。
「……猫?」
「帰り道で捨てられてたの」
「で……、拾ってきた、と」
小さく頷くシスネに、俺は隠すことなく嫌そうな顔を見せてやる。だがそんな俺の反応など意に介さず、シスネはにゃあにゃあと喚く子猫の顔を覗き込み、柔らかく微笑んでいた。自分には久しく向けられた記憶のない表情で、少し面白くない。
「俺は飼わないぞ、と」
「別に頼んでないわ」
面倒事は御免だと、先手を打ったつもりだったが、あっさりと返されて妙な虚しさが残る。
「……こいつ、どうすんだよ」
「タオルで拭いて」
「俺が?」
「それと餌も買ってきたから。あげて」
「俺が?」
「シャワー浴びてくるわ」
俺の問いかけを全て綺麗に無視すると、シスネは餌の入った袋と子猫を押し付け、さっさとバスルームへ消えた。あまりに一方的なやり取りに呆然としながら、掌の中で震える毛玉に視線を落とす。黄色くて丸い瞳が、睨むように縋るように俺を見つめていた。
やがて灰が落ちそうな煙草に気付き、慌ててシンクへ投げ捨てる。一度溜息を吐いてから、結局俺は指示に従い、この小さくてか弱い生き物のためにタオルを探した。
逃げ回る猫を押さえつけ、苦労しながら拭き上げる。小さな体は驚くほど軽く、骨張っていて、酷く頼りない。
「おまえガリガリだな」
ぼやくと、子猫はぴくりと耳を動かした。だがすぐに身を縮め、俺の手の中でじっとしている。暴れる元気もないのか、それとも諦めたのか。
ふと、出会った頃のシスネを思い出した。平然と振る舞いながら、どこかで息を殺しているような、そんな印象の女だった。声をかけても反応が薄く、近付けば距離を取る。警戒心の塊。
「はいはい、終わりっと」
タオルを丸め、ようやく解放してやる。湿った毛並みが少しふわりと膨らみ、猫はぱちぱちと瞬きをした。
「おまえ、あいつより素直じゃねぇか」
苦笑しながら皿を出し、餌と水を入れてやる。だが子猫はじっとこちらを見つめるばかりで、皿には近寄らない。仕方なく掌に餌を乗せて差し出すと、猫は一瞬身を引いた。だがすぐにひくひくと鼻を動かし、恐る恐る舌を伸ばして食べ始める。
時折警戒の視線を寄越しながら、最後まで食べ終えたのを見届けて、何故か胸が落ち着いた。その後、そいつは部屋の隅で丸まり、すぐに眠りにつく。
ソファに座って眺めていると、バスタオル一枚を纏ったシスネが濡れた髪のまま部屋に入ってきた。猫を見て安心したように微笑み、俺の前に歩み寄る。すらりとしたその脚に思わず視線を奪われていると、シスネはとんでもないことを言い放った。
「私、明日から遠征なの。帰るまであの子の面倒見てて」
「おいおい、さっき頼んでないって言ったじゃねーかよ」
「飼ってとは頼んでない。帰って来たらちゃんと飼い主は探すわ」
「ふん。やなこった、と」
「……おねがい」
きっぱり断ると、急に甘えた声を出すのだからタチが悪い。その猫のような目に見つめられれば、どんな男もたちまち言いなりになるとでも思っているかのようだ。実際、いつだって俺に拒否権はない。
「……二、三日だけだ」
「充分よ。ありがとう」
「その代わり、たっぷり礼はしてもらうからな」
不貞腐れたまま言うと、シスネはくすりと笑い、突然俺の膝の上に乗り上げた。濡れた髪の先が頬に触れ、ひんやりとした感触が肌を撫でる。
「もちろん」
囁くようにそう言って、何の躊躇いもなく唇を重ねてきた。指先が肩に添えられ、体重が僅かにかかる。タオル越しに押し付けられた生々しい肌の感触と、ふわりと触れた甘い息に、俺は思わず喉を鳴らした。
「……ったく、端からそうやって誤魔化す気だったろ」
結局、俺に勝ち目はない。唇が離れると、シスネは満足げに微笑んだ。その顔がやけに幼く見えて、胸の奥が少し疼く。憎まれ口は喉の奥で溶けてしまった。
「……早く乾かせよ。風邪引いちまう」
「待ってて」
くすくすと笑いながら去る背中を見送り、俺は子猫に近寄った。
「おまえも、タチが悪いのに拾われちまったな」
小さな毛玉は、ピクリと耳を動かしただけで、気持ち良さそうに眠り続けている。どこかシスネと重なるその姿に、俺は小さく鼻を鳴らした。
──まったく、世話の焼けるやつばっかだな、と。
文句を言いながらも、俺は子猫の背をそっと撫でた。
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