祈りは宿る

/ ブツメツフツマ
/ 栗院先輩と烏谷

(片思い時空)


「そういえば、先輩。知っているか?」
「何を?」
 二人しかいない部屋はがらんとしていた。
 問いも答えも、いずれも静かな、そして穏やかな声色をしている。
 手元から一度だけ視線を外し、先輩を見やる。いつもと変わらない無表情だ。視線が合う。深い青色が瞬いていて、それがいつもと変わらず、眩しかった。

 きっかけは覚えていない。
 いつからか恒例になった彼の爪の手入れは、同じようにいつからか、俺の自室で行われるようになっていた。
 空き教室だったときもあるし、食堂だったときもある。しかし共有スペースは邪魔も入るし、騒がしい日も少なくない。
 初めこそそれほど気にはならなかったものの、回数を重ねていくごとに質にもこだわりたくなってしまい、そうすると共有スペースでは物足りなくなった。
 邪魔が入らず、そして必要なものが不足なく揃っている場所といえば、やはり俺の自室しかあるまい。
 強いてそのデメリットを挙げるのであれば、いわば自分の領域に他人を招くことへの忌避感くらいなものだが――彼相手にはそんなものを抱くこともなく、ただ、ほんのわずかな得体の知れない緊張感だけが、胸の底に渦巻いているばかりだ。

 その、微かに張りつめるような、けれども暖かな糸を、俺は久しく、密やかに恋と呼んでいた。
 目の前の人間は、それを知る由もない。
 恋は秘めるほうが美しい。
 だから、結局はすべて俺の我儘だった。

 知っているか、と尋ねた問いの中身を待つように、微かに首が傾げられていた。
 それを見届けてから一度視線を落とし、彼の綺麗な人差し指をそっとなぞる。俺の赤いネイルが、彼の指に沿うのが見える。
「心中の前には、爪を切るんだそうだ」
 大人しく俺に預けていた指先がぴくりと動いた。素直なものだ。
 ふ、と小さく笑ってから、再び顔を上げた。どこか怪訝そうな眼差しとぶつかる。
 表情が変わらないとはいうが、目も仕草も雄弁で、彼は人が思うよりもずっとわかりやすい性質だった。
「心中って……物騒な話題だね。聞いたことはないけどさ」
「俺もただ聞き齧っただけだ、真偽は知らん」
「うーん。……ああ、近い話では、指切りの由来なら聞いたことがあるけど。遊女が約束をするときには、薬指を切るっていうやつ」
 彼の視線が一瞬、薬指に移った。釣られるようにして見下ろす。
「は、本当に指を切るのか? その方がずっと物騒じゃないか」
……命懸けだからじゃないかな、約束が。きっとね」
「誓いの証というわけか。それでも、納得はできんがな」
 だって、せっかくの薬指が欠けてしまったら、美しくないだろう。
 納得はいかないのに、それでも手に取ったやすりにどうしてか目を落としてしまった。これではとても指は切れないとふと思い、そも切るつもりもないのだと頭の中ですぐに首を振る。
 命懸けの恋など、見苦しいだけだ。
 指を懸けるだけの価値があるものか。
 そんな思考を払い、彼の手を取ってやすりを宛がった。綺麗なラウンド型になるよう丁寧に爪のラインをなぞっていく。
 生活の邪魔にならないように、それでも鮮やかになるように、彼の手の美しさの妨げにならないように。すらりと伸びた手に、過不足なく見合うように。
 薬指に差し掛かって、ほんの少し先程の話が過って、手が止まる。
 わずかに降りた沈黙の中で、彼の視線が俺の手先に注がれていることだけが伝わってきた。その視線は、信頼。信用、その表れであることを知っている。
 なんだかむず痒くなり、咄嗟に視線を反らした。
「ところで。お前、色はどうする?」
「色かあ。君に任せる……ああいや、待って。この間の週末、新しく買ったやつがあるよね」
「うん? ああ……これか。確かに悪くない色だとは思うが」
 並べてあるネイルカラーのうちの一本を手に取った。容器いっぱいに湛えられた鮮やかな赤。先輩はひとつ頷いて、満足そうに俺を正面から見据える。
「あは、君が言うならなおさら間違いないか。それでお願いしていい?」
「もちろんだ。……しかし飽きないな、お前も」
「なんのこと?」
「色だよ。いつもいつも、似たような赤だ」
 ずらりと並べているネイルカラーは、俺の私物でもあり、そして彼の私物でもあった。
 風合いの違ういくつもの赤は彼の目利きによるもので、俺が(真剣に選んで)揃えている他の色を、彼が選ぶことは今のところはなかった。
 その理由はとうに知っている。
「君の瞳の色がなかなか見つからないからね」
 容器の赤と俺の赤を見比べるようにして、彼は微かに目を細めた。柔らかな眼差し。彼はこんなふうにして、いつも俺の赤を探している。そのたび真正面から見据えられ、そのたびどこか、居心地が悪い。
「今度は結構、近そうだと思うんだけど。どうかな」
「どうだか……俺自身、目の色など覚えていないしな」
「自分の目の色って確認しづらいもんね。俺から見たら……うーん、例えづらいな。とにかく綺麗なんだけど」
「それは知っている」
「やっぱりね」
 蓋を開ける。特有の匂いが鼻につき、筆先に鮮やかな赤が見える。
 悪い気はしない。本当は、その指先にはお前の瞳の青こそ似合うのではないかと思っているのだけど、それはしばらく黙ったままにしておく。
 なにせ、俺と彼の指先に、似た色合いが乗っているのは、なんともいえず心地よかったからだ。
「それでさ」
「うん?」
「さっきの爪切りの話、急にどうしたの?」
 まさか蒸し返されるとは思わなかった。
 彼が言うようにそれは物騒な話題だ。それを好まないだろう彼のことだ、切り上げるだろうと思ったのだが。まさか何か心配でもさせてしまっただろうか。
 微かに視線を上げて表情を伺う。彼は色が置かれていく爪先を見つめている。なにを考えているのか、俺にはわからなかった。
 手を動かしながら、少しの間が空いた。
「いや……何。爪先というのも、それほど大切な死に化粧なのだと思ってな」
「死に化粧って……
「そうだろう。心中だ、あとには死ぬしか選択肢がない。死ぬばかりのときに爪など気にするというのは、それだけ重要だからだ。……だから……
 顔は上げなかった。ただ、うつくしい指先が俺の瞳の色に染まっていくのを、見つめていた。いや、こんなふうに見つめているから、俺の瞳の色に染まっているのかもしれない。くだらないことばかり浮かぶ。
 息を吐く。なんでもないことのように、口を開く。
「だから……爪先の化粧はそれほど大切なものなのだから、お前も、任せる相手は選べということだ」
 声は震えていなかっただろうか。俯いたこちらの表情は、きっと気取られなかったはずだ。
 こうして指先を委ねられる幸福の重大さを、いつも想っている。想えば想うほど、その大切な役目を手放したくはないと、自らの執着心をまざまざと実感してしまう。
 それが醜いように思えている。
 だって、恋は秘めたほうが美しい。
 わずかに間を置いて、彼が小さく笑った気配がした。
……あはは、なんだか君らしくない言い方だね」
……そうか?」
「うん。それに、そんなに大切ならなおさら、君以上の適任はいないだろ」
 温かな声色だった。
「君が、一番綺麗にしてくれるよ」
 筆先が微かに揺れ、歪みそうになり、どうにか悟られまいと押さえつけた。
 わかっている。
 彼の言葉が、ただ俺の腕を信用しているだけのものだということ。俺への信頼の証だということ。寄せてくれているそれらの感情は、どこまでも彼の善性に根ざすものなのだろうと。
 だが。だからこそ。彼ならばそう認めてくれるだろうと、浅ましく求めていた自分の心が満たされていくのが、いやに生々しく感じられた。
 その生々しさが嫌なはずなのに、俺の口角は自然と上がってしまうし、高鳴った心臓を押さえつけることは土台無理な話だった。
「ふ、……それはそうだ。お前の爪であれば、俺が一番美しく仕立て上げられる」
……死に化粧にはしないけどね?」
「無論だ。そう易々と死ぬな」
 上機嫌なことを隠せないまま、そのまま赤を塗り続ける。褒められて喜んでいるのだと、そんな単純なことだと思ってくれたならそれでいい。それだけのことだと勘違いしてほしい。
……俺は、死なせる為のことなど何一つしないとも」
 嘘ではなかった。それでも。
 お前がいつかいなくなっても、俺がいつかいなくなっても。その指先に赤が染みついていればいいと、そう思ってしまう。
 もしかすると心中を願う人間も、指を切る人間も、同じような心持ちなのかもしれない。傷だけが確かな証になるような恋は、そうまで縋る恋は、あまりにも必死で醜い。
 そう、どこまでも、醜い。
 醜いけれど、この祈りを抱くことだけ、この祈りを込めて色を乗せていくことだけ、どうか。許してはくれないか。
 十の指を塗り終えて、俺はそっと息を吐いた。


参考;
心中の前に爪切ることなどを君に教えし小春日の部屋(前田康子)