ついさっきまで、スレインと面会をしていたはずだ。だというのに、気がついたら一面真っ白な壁に囲まれた部屋にいた。座っていたはずの椅子も、一向に駒の進まないチェス盤を置いていた机もない。なにもない空間に、スレインと伊奈帆と、たった二人がまるで瞬間移動させられたようだった。
隣にはぽかんとした――いつも無表情か思い詰めるような顔しかしないので新鮮だ――スレインが、伊奈帆と同じように地べたに座り込んでいた。おそらく状況は同じらしい。何らかのアルドノアを用いた攻撃の可能性もなくはないが、それならもうとっくに死んでいてもおかしくないだろう。
アナリティカルエンジンを久々に起動させようかと逡巡する。目で見る限り、人間二人以外この部屋には何もない。勿論、ドアらしきものも隙間もない。肉眼では完全な密室だが、アナリティカルエンジンならあるいは。
左目に意識を傾けようとしたその瞬間、どこかでチリチリと電子部品が駆動するような音がした。左目はまだ沈黙している。音の正体を探ろうと視線を上げた先で、異変はすぐに見つかった。
目の前の真っ白だった壁に日本語の文字が浮かび上がっていた。
『嘔吐しないと出られない部屋』。
壁の上の方に書かれた、意味不明な文字。いや、書かれている内容は分かるが、理解ができない。二人を閉じ込めた犯人がいるとして、その動機も手段も不明だ。けれど瞬間的に、スレインのことを考えた。まだろくに会話もできていないけれど、これだけ通っていればある程度予想はできる。アナリティカルエンジンの起動もこの状況に関してあれこれ考えるのもすべて放棄して、すぐ近くでおそらく同じ文字を読んだであろうスレインの方へと振り返る。彼がしでかすバカなことを止めたかった。
「スレイン!」
細い指が、なんの躊躇いもなくその口へ入っていく。そんな乱暴に突っ込んだら、彼のボロボロに荒れた爪の先で口の中を傷つけてしまう、いや、それよりも。
ごぎゅ、とその喉が嫌な音を立て、丸まった背中がひくりと震えた。思わず触れた水色の薄い布は背骨でごつごつと波打って歪だ。
舌の付け根のあたりをおさえて、意図して咽頭反射を引き起こしている。今回はうまく吐けなかったらしいが、間違いなく苦痛によって、その目には薄い水の膜が張っている。けれどそれだけ。屈辱に歪むことも後悔を滲ませることもなく、スレインはただその行為を継続する。
体の反射も伊奈帆の制止も無視して、彼は指をいっそう喉奥へと咥え込んだ。今度こそごぼっと水っぽい音と共に、薄黄色の液体が指の間から溢れ出た。苦しげに呻く声と、びちゃっと液体が落ちる音が混じり合う。何をしてやることもできなくて漫然と見る伊奈帆の前で、昨夜も今朝もほとんど食べていないらしいそれは、さらさらと落ちて床を汚していった。
何度かげほげほとひどく咳き込んで、痩せたせいでいっそう大きく伊奈帆見える目が伊奈帆を睨みつけた。背中に触れていた手を振り払われる。肩で息をしたまま、スレインはなにも言わない。
ピロリン、というわざとらしいほどに安っぽいチャイム音と共に、文字が浮かんでいた壁にドアが出現した。超常現象、アルドノア、白昼夢。夢だとしたらリアリティがありすぎる悪夢だけれど。
スレインを責めるのは違う。分かっている。実際、彼の行動によってこの密室から出られるのは間違いない。
「出ようか、スレイン。立てる?」
「……」
伸ばした手は振り払われた。けれど一緒に帰ってくれるらしい。今はまだそれで十分だ。
扉を開けた先は、いつも通りの無機質で眩しい面会室だった。
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断章で仲良くなった後に同じ空間に閉じ込められて、「今度は僕がやる」って譲らないけどうまく吐けない伊奈帆の口に指突っ込んであげるスレインの話も書きたいです……嘔吐介助って愛でェ……
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