後悔は先に立たず、時間が巻き戻ることもない。盧笙はそれを噛みしめながら、右の手のひらに視線を落とした。手のひらの中心には、ドロリとした白っぽい液体が溜まっている。
「はあ……」
重い溜息が零れるが、盧笙自身も本当はここまで落ち込むような事態でないのは理解している。ただ、髪を洗い終わった後にもう一度シャンプーを手に取ってしまった、というだけのこと。常ならばもったいないな、と思いながらそのまま流すか、流すのが忍びなく感じる時は無駄にもう一度髪を洗ってみたりして済ませるところだ。
今日に限って引っかかるのは、こういうミスをやりそうだ、という予感があったからだった。日中から、今日はどことなく上の空というか、ぼうっとしている自覚があった。何かでかいことをやらかすかも、という危機感があって、ぼんやりしているながらに気をつけて一日を過ごし、大きなミスをせずに乗り切ったと思っていたのに、最後の最後で気を抜いた。あとちょっとだったのに、と思うと妙に悔しい。だが、出してしまったシャンプーを戻す術はない。
「……あ」
そこではたと気づく。そういえば、この家にはまだ洗髪していない頭がもう一つあった。あの緑頭にこの手のひらのシャンプーを使わせれば、無駄にならない。思いついた次の瞬間には、盧笙は簓の名前を呼んでいた。
「簓ぁー!」
風呂場からリビングまで届くように声を張り上げる。数十秒後、脱衣所のドアが開く音がして、摺りガラスの向こうに緑頭の人影が浮かぶ。
「何? 盧笙。忘れもんでもした?」
「お前、今から風呂入らへんか?」
「へ? 今から……って、どゆこと?」
摺りガラス越しでも間抜けな顔をしているのがわかるくらい、簓の声はクエスチョンマークに塗れている。手っ取り早く状況を伝えようと、盧笙は浴室のドアを少し開けた。細い隙間から、「うお!?」という短い叫びとともに簓が後ずさったのが見えたが、気にせず右手を隙間から突き出す。
「髪洗った後で、もっかいシャンプー出してもうてん」
「おお……? そ、そうなんや?」
簓はちらっと差し出された盧笙の手を見たが、すぐに顔を逸らした。落ち着きのない様子であちこちに視線をうろつかせている。簓の反応を、盧笙は話の意図がまだ伝わっていないからだと理解し、付け加えた。
「せやから簓、今から風呂入ってこれ使うてくれ」
そう告げると、明後日の方に顔を向けていた簓が勢いよく振り向いた。
「今ってそういうこと!? ほんまの今!?」
「せや。今。すぐ」
「けど、ろ、盧笙が入っとるのに……?」
「男同士なんやから別にええやろ。一緒に銭湯行ったこともあるやん。まあ狭いは狭いやろうけど、お前がシャンプーしとる間に湯船で温まったら俺はすぐに上がるから、ちょっとの間だけ我慢してくれれば」
そこまで口にしてから、盧笙は自分の感覚だけでものを言ってしまっていることに気づいた。
最後に簓と一緒に銭湯に行ったのは、まだコンビを組んでいた頃だ。あれから時間がかなり経っている。今の簓は他人と風呂に入ることなんて嫌かもしれない。そう考えると、簓の態度がどことなくぎこちないことの説明がついたような気になり、盧笙は己のデリカシーのなさを反省した。
「すまん、急に変なこと言って悪かったな。嫌なんやったらええで。もったいない言うても、たかだかシャンプー一回分やしな」
「え! いや! 嫌やない!」
盧笙が手を引っ込めてドアを閉めようとすると、簓が急に飛びついてきた。簓の勢いのせいでドアの隙間が少し広くなる。すぐに「あっ!」と小さく声を上げた簓は、慌ててドアを元の位置まで戻した。妙にバタつく簓の行動に盧笙は首を傾げながら、難解な返事の真意を改めて聞いた。
「嫌なんか、嫌やないんか、どっちや」
「嫌やない! 今すぐ入ります! 入らさしてください!」
いつの間にか立場が逆転している。最初は盧笙が簓に頼んでいたはずなのに、今は簓の方が土下座でもしかねない勢いで頼み込むような形になっている。そもそも自分が提案したことなのに、何故か許可を出す立場になったことに戸惑いつつ、盧笙は頷いた。
「ほな着替え取って来いや。その間にリンスやらなんやら済ませとくわ」
「はいっ!!」
簓はキレのいい返事をすると、バタバタと慌てながらリビングの方へ戻っていった。
片手の塞がったままの盧笙が、風呂椅子の上で四苦八苦しつつどうにかこうにか背中以外を洗い終える頃、浴室のドアが再び開いた。ひやりとした空気が流れ込んでくる。
「お邪魔します~……」
「邪魔すんねやったら帰って……って、何や。けったいなもんつけとんな」
お約束を口にしながら鏡を見ると、そろそろと浴室に侵入してきた簓は腰にタオルを巻いていた。一見すると温泉ロケのようにも見えるが、どこのご家庭にでもあるようなタオルは幅が狭く本当に重要な部分しか隠せていない。その上ペラペラで、もしこれでテレビカメラの前に出ようものなら放送事故必至だ。
それを見て、盧笙は胸の中でやっぱり、と呟いた。こんなに心許ない、見方によってはない方がマシとも思えるようなガードをする程度には、簓は他人と一緒に風呂に入るのに抵抗があるのだろう。きっぱり拒絶するほどではないけれど、ちょっと隠したい、程度の。
ほんの些細な罪悪感がちくりと胸を刺す。せめて早めに一人にしてやろうと、盧笙は振り返らずにシャワーヘッドを後ろに差し出した。
「ほれ、持て」
「はい」
妙に従順な態度で簓がシャワーヘッドを受け取る。
「お湯出したるから自分で髪濡らし」
「ん」
水量を調整しながらハンドルを捻る。シャワーの先からボタボタと塊になって落ちるお湯の中に簓が頭を突っ込んで髪を濡らすのを見届けて栓を閉め、盧笙は立ち上がった。成人男性二人が直立すると、いよいよ浴室は狭苦しくなった。
自分の意思で振り返った盧笙でさえそう感じるのだから、いきなり視界の一部を盧笙の身体で遮られた簓は余計に強く圧迫感があるに違いない。簓が半歩ほど後ずさったのはおそらく無意識なのだろうが、それがまるで小動物の怯える様のようにも見えて、盧笙はさっさと済ませてやろうと右手を簓の頭に押しつけた。
「うおっ!?」
非難めいた声を無視して、そのまま簓の頭をぐしゃぐしゃと掻きまわす。緑の髪になすりつけたシャンプーを泡立たせるのが目的だったが、撫ぜる度に緑のグラデーションの色合いがころころと変わるのに気づいてしまうと、それを眺めるのが楽しくなってきた。根元の色が見たくて、頭皮に近いところに指を差し込んでめくるように掻き上げる。
「っ、」
小さく息を呑む音がした。めくり上げた前髪の下から現れた、いつもにこやかに伏せられている簓の目が、力を籠めて閉じられているように見えて、盧笙はぱっと手を離した。解放された簓が安堵したように一息ついたのが、浴室の壁に跳ね返って盧笙に届く。
「何やねんいきなり! びっくりするやろ!」
次の瞬間に響いた簓の声は普段通りだった。それでも盧笙の手の下で見せた、簓の縮こまるような素振りの残像は消えない。やっぱり、どこかしらちょっと嫌、なのだろう。
やらかした、という後悔と思わず零れそうになる謝罪の言葉を飲み込んで、盧笙は何も気づかなかった振りで風呂椅子に腰かける。
「シャンプーつけたっただけやん」
「だけで済まんやろ! 最後犬みたいにわしゃわしゃ撫でとったやんけ!」
「うるさっ、風呂で声張るなや」
わんっ、と簓が犬の鳴き真似をしたので、顔を顰めて片手で耳を塞ぐ振りをした。右手には簓の髪から拾ってきたシャンプーの泡がついているので使えない。その左手もすぐに耳から外し、後ろに向かって突き出すと、盧笙が何かを言う前にシャワーヘッドが返却される。
「黙ってそこで髪洗いながら順番待っとけ。俺は背中だけ洗ったら、ここどくから」
盧笙はぴしゃりと言い放ち、右手に残ったシャンプーを完全に洗い流してから背中と左腕を洗った。その間、背後からずっと話しかけてくる簓の相手はしてやりつつ、鏡の方には視線をやらないよう、手元に集中するようにした。
身体から泡をすっかり洗い流し、風呂椅子もシャワーでお湯を浴びせてから場所を譲ると、ちょっと見ない間に頭を泡だらけにした簓が盧笙の空けた場所に座った。
風呂椅子に腰を落ち着けると、簓はどことなく気が抜けたようだった。シャワーのお湯を自分の頭にかけている間にも何事か喋り、「口ん中に泡入った!」と騒ぐ姿には、さっきまでの居心地悪そうな気配はない。今なら大丈夫かと、少し気になっていたことを口に出した。
「腰に巻いてるそれ、うちにあったタオルやんな? お前、わざわざタオルとか持ってきてへんもんな」
「ああ、これなぁ。すまん、洗面所の棚んとこから勝手に借りてもうた! 洗って返すわ」
「いやいらん。返さんでええからお前んち持って帰れ」
「え、なんで?」
「一度でも男の股間に巻かれたタオルで顔拭きたないねん」
盧笙の答えに、簓は楽しそうに笑い声を上げた。
「確かに! それは俺も嫌やわ!」
「せやろ、だから持ってけ。邪魔なんやったらお前んちで捨ててええけど、少なくともうちからは持って帰れ」
「え~、でもなぁ」
首を傾けて振り返った簓の顔がにやけている。
「そしたら盧笙が二回目のシャンプー出してまう度にタオル一枚ずつ持って帰ることになるやん? 盧笙んちのタオルがなくなってまうんやない?」
盧笙は無言でお湯をすくい、わざとばしゃりと音が立つように簓の背中にかけた。けらけらと簓が笑う。
「そない頻繁にやらかさんわ。しかも毎回入ってくる気なんかお前は」
「頻繁やなくても、たまにはやってまうやろ? ほんでそういう時に俺がおったらまた一緒に入ればええやん。一回やってもうたんやし、二回も三回も変わらんやろ」
なぁ、なぁなぁ、と絡んでくる簓の背中にもう一度お湯を浴びせてから、盧笙は立ち上がった。簓がぴたりと口を噤む。
「持って帰らへんのやったら、名前でも書いとくか。他のと混ざらんようにするんやったら、うちに置いといたってもええで」
それだけ言い捨てて、簓の返事を待たずに盧笙は浴室を出た。結局、簓にとって他人と風呂に入ることが嫌だったのかそうでもないのか、よくわからないと思いながら。
簓の風呂は長かった。盧笙が浴室にいる間にトリートメントまで済んでいたはずなのに、なかなか上がってこない。サッカーの国際戦を見ながらちびちび飲み始めた缶ビールは、中身が半分くらいにまで減っている。まさか湯舟で逆上せているのでは、と盧笙が浴室の気配を窺おうとした時、いつもより血色のいい簓がようやく風呂から出てきた。
「簓、大丈夫か? 顔赤いけど、逆上せてへん?」
心配の中に、普段しないことをさせてしまったからかもしれない、というひとかけらの罪悪感がある。けれど簓はいつもと変わらない表情で首を振った。その拍子に、まだ水をたっぷり含んでいた髪から細かい水滴が飛ぶ。
「髪、まだ濡れとるやん。ちゃんと乾かせよ」
「ああ、すまん。ドライヤーこれからやねん。今はちょっと、物取りに来ただけで」
「物?」
「何でもないから気にせんとって」
「ふぅん」
そう言いながら簓は、自分の荷物に手を突っ込んでごそごそやり始めた。何となく盧笙は簓の手元を視線で追ったが、簓が目当てのものを探している間に、テレビからわっと歓声が上がる。急いで振り返ると、ゴールポストに弾かれたボールをディフェンダーがフィールドの外へ蹴りだすところだった。どうやらかなり惜しいシュートがあったようだ。見逃した、と思う間もなく、リプレイが始まる。ゴール前に飛び込んでくるフォワードが足を振りかぶり、思い切り放ったシュートがキーパーの横を綺麗にすり抜け、ゴールポストに当たる。
「うおっ、惜しい!」
結果を知ってからリプレイを見ているのに、思わず拳を握ってしまうくらい熱い場面だった。もう一度スローでシュートのシーンが再生されるが、ゴールポストにぶつかった途端にリプレイが途切れ、画面がピッチに切り替わる。既に試合はリスタートしていて、フィールド中盤でパスが交わされている。落ち着いているように見えるが、どちらのチームも虎視眈々と攻め入る隙を窺っているのがわかった。
一気に試合が動く直前の緊迫感に、目が離せなくなる。横でごそごそやっている簓の存在が、一瞬で意識の外に飛んでいく。いつの間にかいなくなっていたのにも気づかなかった。
それから両チームに一度ずつ得点のチャンスがあったが、どちらも守備側のファインプレーによって防がれ、試合は膠着状態に陥った。盧笙も握りしめていた拳を開き、数分ぶりにビールに手を伸ばす。少しぬるくなったビールを一口喉に流した時、簓が再び姿を現した。今度はきちんと髪を乾かしているが、代わりに白い布を手に持っている。
「何や、それ?」
「じゃじゃ~ん!」
盧笙が缶ビール片手に問うと、簓は自分の口で効果音をつけながら自慢げに白い布を開いた。それは何の変哲もない、一般家庭に何枚でもありそうな安っぽいタオルだったが、片面にでかでかと『ぬるでささら』と書かれている。
「……何や、それ」
タオルになぜ簓の名前が書いてあるのかも、なぜそれを掲げる簓が妙に満足そうなのかもよくわからず、全く同じ問いをもう一度繰り返す。すると簓は小さく鼻を鳴らして、胸を張って説明し始めた。
「これはさっき、風呂ん中で俺が腰に巻いてたタオルや。名前書いたらここに置いとかしてくれるって言うから書いたんやで!」
どや、とは口にしないが、簓の顔からは『どや』が溢れている。布に書いたせいでかなりガタついている『ぬるでささら』を呆れながら眺めていると、簓の左手にタオルと一緒にマジックが握られていることに気づいた。
「もしかしてさっきなんか取りに来たの、そのマジックか?」
「ピンポンピンポーン! いつファンに声かけられてもええようにマジック持ち歩いとるからな!」
「ファンへのサイン用のマジックで変なもん書くなや」
その瞬間、鋭いホイッスルの音がリビングの空気を切り裂いた。盧笙は慌ててテレビに視線を戻す。ゴールの目の前で、選手が一人倒れている。どうやら交錯があったらしい。メディカルスタッフが駆け寄り、倒れた選手と言葉を交わしている。足を慎重に曲げ伸ばししているが、どうやら怪我はしなかったらしい。メディカルスタッフに向けて力強く頷いた選手は、自力で立ち上がった。
「なあ、名前書いたらこれ、置いといてええって言うたよな?」
どうやらさっきの交錯はファウルになったようだ。ゴール正面、絶好の位置でのフリーキック。試合も終盤に差し掛かったタイミングで、どちらのチームにとってもここが正念場。思わず固唾を飲む。
「なあ、盧笙ー」
空気を読まない声に、名前を呼ばれる。とにかく画面に集中したい一心で、盧笙はよく考えずに返事をした。
「ああ、わかったわかった。置いといてやるからちょっと静かにせえ」
キッカーはさっき倒された選手。相対する三人の壁の真ん中には、さっきキッカーを倒した選手。バチバチと意地がぶつかる音さえ聞こえてきそうな展開に息を呑む。自分が口にしたことも、簓の言うことも、理解できてはいるのだが次の瞬間には頭からするすると滑り落ちてしまう。
「おおきに! ほな、これ洗濯機に入れとくな!」
「おう」
盧笙はテレビに釘付けになりながら、機械的に返事をする。キッカーがボールを蹴る。壁に当たって跳ねたボールの着地点をめがけて、何人もの選手が殺到する。どっちだ。どっちがこのボールに追いついて、どっちがこの試合を制するのか。握りしめたままのビールの缶がどんどんぬるくなっていくのがわかるが、もう口に運ぶ余裕もない。簓の掲げたタオルのことなんて、もう覚えているはずもなかった。
結局、盧笙がどさくさ紛れに言質を取られたことに気づいたのは、洗濯機から出てきた『ぬるでささら』のタオルを見て首を傾げた、その二十秒後のことだった。
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