朝、鶴丸が目を覚ますと同室の光忠はもう起きていたようで、布団の上に腰を下ろしている。見たところ眼帯をしているので、顔ももう洗ってきたところなのだろうと思う。さすが、朝が早い男。
寒くなった最近はなかなか布団から身体を起こしたくないから、鶴丸はごろりと光忠の方に横向いて寝起きのぼんやりとした頭と視界で彼を眺めた。座っている光忠を右斜め後ろから眺めるかたちなので、眼帯と前髪に隠されて表情はよく見えない。でも、きっと彼のことだから朝からしゃきっと男前が決まった顔をしているに違いない。
そう考えると、いつもは光忠のことをかわいいとばかり思っているけれど、格好良いのかもしれないと鶴丸はぼんやり思った。
しばらく光忠を眺めていると、彼が手元の何かを指先で取って、その指先ですっと唇を撫でる動きをした。まるで、紅を引いているかのような。
はて、と鶴丸は不思議に思って身体を起こした。化粧をしているのだろうか?
この本丸で審神者は未だに新鮮に男の化粧をめずらしがるけれど、鶴丸は男が化粧をすることについて特になんの驚きも持っていない。実際、仲間にも化粧をしている者は複数いる。
けれど、光忠が化粧をしているとなればまた話は別だ。良いとか悪いとかではないけれど、ちょっとした驚きである。光忠と恋仲になってからそれなりに経ち、彼の舞台裏はたくさん見せてもらっていると思っていたけれど、まだ知らないことがあったとは、という感覚だ。
でも、いつも紅を引いているなら、どおりで、という納得の気持ちもある。光忠の唇はいつも美味しそうに感じるから。
「光坊、紅を引いているのかい?」
こちらに半分背を向けている光忠に声をかけたら、彼は振り返って微笑んだ。
「あ、鶴さん、おはよう。……えっと、紅、?」
光忠は鶴丸が言った言葉の一部を繰り返して首を傾げる。鶴丸はそんな光忠の唇を見つめた。つやっとしている。
「きみが化粧をしているとは知らなかったから、驚いた。いや、でも、どおりで、光坊の唇はいつも美味そうで――」
鶴丸が薬指で唇の上をなぞる動作をしながらいいかけたら、光忠がピンときた顔をした。
「あっ、紅って、口紅のこと?えっとね、僕がさっき塗ってたのは口紅ではないんだ。リップクリームだよ」
「リップクリーム?それはあの、小さい、底をくるくると回して繰り出すやつだろう?」
粟田口の短刀の子らが一期一振に持たされている、と鶴丸が言うと光忠は頷きつつ、そばにあった小さなポーチから小さな容器を取り出して見せた。
「うん、スティックタイプのものが多いけど、こういうジャータイプ――指で取って塗るタイプのものもあるんだ。最近、万屋でおすすめされたから使ってみてるんだよ」
光忠が小さな容器を開けて中身をこちらに見せた。透明のクリームが入っていて、ほんのり、優しい香りがする。
「鶴さんも塗ってみる?」
「俺が?」
「うん、寒くなってきて乾燥するからね。肌の保湿も大事だけど、唇の保湿も大事だよ」
「そうか」
鶴丸の考え方としては、身体のケアは必要最低限していればオーケー(刀剣男士というのは戦道具なのだからそれで良いと思っている)というタイプだけれど、光忠は人の子のように丁寧にプラスアルファまで身体のケアをするタイプだ。だから普段、鶴丸は肌の保湿だのなんだのと光忠に世話を焼かれていることが多い。
したがって、鶴丸は光忠が勧めるケアを受け入れることに慣れているので、彼の言う唇の保湿もなんらか大事なのだろうと思って頷いた。
「光坊が言うなら、俺も塗る」
「うん、それがいいよ。塗ってあげようか」
「ん」
鶴丸はためらいなく頷いた。甘ったれではないと自分では思ってはいるけれど、それはそうと光忠に世話を焼かれるのは好きだ。
光忠はこちらが頷くのを見て微笑むと、小さな容器からクリームを薬指――まだ朝の支度を全部は終えていないので、彼の手は素手だ――ですくうと、鶴丸の方へ手を伸ばした。
手を伸ばされた鶴丸は一瞬、目を開けておくか閉じておくかで迷った。いや、唇に触れるものが光忠の唇であるなら――つまり、口づけであるなら――当然、目は閉じておくべきだと思うけれど、指先というのはどうなのだろう。
とはいえ、目を開けたままで唇に触れられるのもなんだか落ち着かないような気がしたので、鶴丸はそっと目を閉じた。そのタイミングで光忠の指先が唇に触れて、表面をなぞる。クリームが塗られるしっとりした感触。
「……はい、おしまい」
光忠がそう言うので鶴丸は目を開けた。唇がなんだか潤っている感覚がある。
「おぉ、ありがとうな」
「……うん」
光忠はリップクリームの容器の蓋を閉めながら、なんだか微妙な顔をしている。なんだろう。
「光坊、きみ、なんで何か言いたげなんだ」
「……鶴さん、なんで塗られるときに目を閉じたの?」
「……?目を開けて唇にものを塗られるのはなんか間抜けだろう」
「いや、そうかもしれないけど……」
「なんだなんだ、言いたいことがあるならさくっと言いなさい」
鶴丸は年上然としてわざとらしく彼をたしなめるような調子で言って、腕を組んだ。
「いや、なんか……、そういう、ちょっと、えっちな感じでキスを期待してるみたいに見えてちょっと迷っちゃったっていうか……」
「はは、朝から下心が全開で元気でいいな、光坊」
「う……、いや、でも、ね?」
光忠は鶴丸の茶化しを受けて言葉に詰まり、しかし、苦し紛れという感じで続けた。
「でも、そもそも鶴さんが、僕の唇はいつも美味しそうみたいなことをさっき言ってなかった?」
鶴丸は突然話の矛先が自分に向いたので戸惑った。その発言は聞き流されたと思っていたからだ。
「いや、それは、まぁ、……言ったが」
「それって、鶴さんはいつも僕の唇を見てるってこと?」
「いや――、うーん、なんというか、……まぁ、そう、だな。なんとなくきみの唇に目が行く」
「それってさ、……えっと、……僕の自意識過剰じゃなければ、鶴さんはいつも僕にキスされたいと思ってるみたいに聞こえるんだけど、……違う?」
光忠は自信なさげなふうに言葉を選んだけれど、その実、確信のある推理を披露する探偵のように鶴丸に尋ねて、片手で鶴丸の頬を撫でた。そういうふうに優しく触れられると、鶴丸はなんだか誤魔化しが効かなくなってしまう。
「……、……、それは、……まぁ、その、違わない……、かもな、……」
鶴丸の答えを聞いて、ほら、と光忠が得意げな顔をしている。
「じゃあさっき、鶴さんが僕にリップクリームを塗られてたとき、鶴さんがキスされたそうだなって思った僕は間違ってないよ」
「おい、したいと思ったのは光坊だろう?責任転嫁じゃないか」
「えっ、じゃあ、鶴さんは僕とキスはしたくない……?」
光忠が眉を下げてちょっとしょんぼりした声音で言った。なんだか雰囲気が一回り小さくなった。
「僕は鶴さんとキスしたいよ。いつでもね。特に今の鶴さんは唇がぷるぷるしてるから余計に」
熟れたさくらんぼみたいで美味しそう、と光忠はどことなく照れた調子で言った。鶴丸はやられた、と思う。彼のこういう、結局のところ素直なところが好ましいから、なんだかんだ甘やかしてしまう。
「まったく……、きみとキスがしたくないわけないだろう。俺だっていつでもしたいさ。光坊の唇こそいつでも美味そうだしな。……それで?きみの言う俺の『熟れたさくらんぼ』をどうしてくれるんだい?きみはどうしたい?」
「……えっと、食べちゃいたい、かな」
なら、と鶴丸は言って、唇を彼に差し出すように少しだけ顎を上げた。そっと頬に手を添えられて、再び目を閉じる。
その直後に唇を唇が触れ合う。しばしの、いや、かなり大胆な抒情。朝の明るい光の中でするには、深すぎるくらいの長い口づけだった。
たっぷりと時間をかけて光忠は鶴丸の唇を食み、ゆっくりと離れた。
「っ、光坊、朝から遠慮がないな、きみ」
「だめ?でも、鶴さんはとっても美味しいから、我慢出来ないよ」
光忠は先ほどの口づけとは対照的にとても爽やかに言う。その表情は無邪気で、鶴丸はやれやれと頭を抱えた。その気にさせられるこちらの身にもなってほしい。
「さて、身支度の続きをしなくちゃね」
光忠は布団から立ち上がって、鶴丸にも支度をするように促した。しかし、鶴丸がすぐには立ち上がらなかったので、再びこちらのそばに膝をつくと視線を合わせた。
「あれ、鶴さん、えっと、もしかして……さっきのキスで腰が抜けちゃった?」
「うるさいぞ光坊、自分の口づけの技術に自信を持ちすぎだ」
光忠が少々調子に乗った言い分を述べるので、鶴丸は彼の額を指で弾いた。
「いたっ、あはは……、そうだよね」
「だが、――」
「……?」
「……その、続き、は――、期待、した。いや、この時間からそんなことはできないことは分かっているが、……」
光忠の口づけはとても扇情的だったので、この身体が反射的にいやらしいことを期待するのは仕方がないのだ、と鶴丸はすべては言わなかったものの、拗ねた調子で口をとがらせた。光忠が得心した顔をしている。
「ふふ、そっか。じゃあ、今晩、続きを――、どう?実はね、僕も本当は続きがしたくて。格好悪いと思ったから平気な顔をしてたんだけど」
「なんだ、おあいこじゃないか」
「うん、そういうこと」
光忠は悪戯っぽく笑う。そして急に艶っぽい顔をして続ける。
「だから、それまではお預け。ね?僕はできるけど、鶴さん、できる?」
自分だって先を欲しがったくせに、光忠が余裕ぶってそんなことを言うものだから、鶴丸は光忠の寝間着の胸元の合わせを引っ掴んで引き寄せた。そのまま噛みつくように口づけて、空いているほうの手で首筋をなぞり下ろし、寝間着の上からではあるものの、かなり挑発的に胸元から下腹部の際どいあたりまで撫でた。愛撫を思わせるような手つきで。
さっきは光忠がしたいように口づけられたけれど、鶴丸だってキスが下手なわけではない。さっきと違ってこちらがリードを取って、彼の口内の好きなところを散々まさぐった。好き放題して、唇を離す。
そうやって解放された彼の頬は先ほどよりも紅潮していて、あまり余裕のない顔をしていた。
「はは、良い顔だ、光坊。……さて、この先はきみの言うとおりお預けだ。まだまだ日が昇ったばかりだからな。だが光坊、良い知らせがある。きみの鶴さんは今日一日かけてたっぷり焦れることで熟れて、食べ頃になってきみを今晩待つそうだぜ」
「……そんなこと言ったら僕、期待するよ?」
「あぁ、たっぷりと期待しな。お預けをくらったあとのきみに食われるのが俺は好きなんだ。俺も期待させてもらおう。……さ、良い一日を、光坊」
鶴丸はするりと光忠の頬を撫でて、勢いよく立ち上がった。顔を洗いに行くと言って部屋を出る。
一度振り返った見た光忠は困ったようにも照れたようにも見える表情で曖昧に笑っていて、鶴さんも、良い一日を、と言った。
やっぱりかわいい男だし、唇は相変わらず美味しそうだ、と思って鶴丸は微笑むと、今度こそ部屋を出た。
今夜は夜の始まりに、光忠にリップクリームを借りて唇に引こう。
お預けのあとの最初のお口づけなのだから、つやつやの熟れた唇で迎えてやろうと思うのだ。きっと光忠はそれを良いと思って、先ほどのキスなんかよりもずっと情熱的に口づけてくれるはずだ。それを皮切りに、余すところなく頂かれたい。
鶴丸の良き一日の始まりだった。
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