タロ文庫の作品置き場
2025-12-12 13:59:54
12422文字
Public 作品
 

所有者モノポリー

2021-03-24
ウィンの嫉妬シリーズ第二弾。ウィンvs新入生
ウィン四年生、ティーム二年生の付き合い始めくらいの話。

 先輩、と真剣な呟きが鼓膜を揺さぶり、その思ったより近い位置からの呼びかけに顔を上げる。人の気配に頬の皮膚がヒリついて隣に目をやれば真っ黒い瞳が見つめていた。
 灼けつくような西日を図書館の摺られている遮光ガラスが和らげて、オレンジ色の光がその黒目を艶やかに輝かせている。
 二、三度瞬きをして距離感の不自然さに顎と肩を引くと、そのオニキスのような黒目による眼差しは少し伏せられて睫毛の長さを強調する。こちらが引いた分だけ手が机について身体を伸び上がらせた。
 やばいと思った瞬間、ティームの視界は真っ白に遮られて唇には乾いてかさついた紙が押しつけられる感触がした。
「ん!」
 くしゃりと音を立ててひしゃげた紙を顔に纏ったままティームは制服の襟首を強く後ろに引っ張られ、上半身がぐらりと大きく倒れそうになる。咄嗟に椅子の背と机に手をついて支え腹筋に力を入れた。
 視界がひらけて半ばパニックになりながら息を吐くと、聞き慣れた声の聞き慣れない硬質な口調がつむじの延長線あたりから聞こえてきた。
「所有者不許可だ。やめろ」
「ウ、ウィン先輩?!」
 ティームが見上げる先で口調と同じくらい硬い表情のウィンがティームの隣に座っている人物を見下ろしていた。手に持っていた白い紙を引き上げて、相手の出方をじっと見つめている。ウィンに見下ろされている彼は元から大きい目を更に見開いて細かく黒目を動かしていた。薄く開いたピンクの唇が少し震えていて、不安げなその表情にティームは咄嗟に椅子の背についているウィンの腕を掴んだ。ウィンの目が彼からティームに移る。ティームが眉根を寄せて見返すとウィンはゆっくり瞬きをして鼻で大きくため息をついた。
 そのまま何も言わずにくるりと背を向けて、長い足を最大に活かし図書館の出入り口へと向かっていった。
 ティームは常ならぬウィンの雰囲気に胸がざわりと騒ぎ、隣の人物に声をかける。
「ちょっと今日はごめん! 続きはメールして!」
「あ、先輩」
 赤いリュックを掴むと呼び止める声を振り切って閉まったばかりの自動ドアへと足早にかけた。
 廊下に出ると金髪のすらりとした姿がすぐに目に入りティームは一旦ほっと息をつく。声をかけようと一歩踏み出すと、ウィンは手に持っていた紙束の一番外側をべりっと手荒く引き剥がして近くのゴミ箱へと投げ捨てた。
 大きくはないが尖った音を立てるゴミ箱に、ティームはウィンの苛立ちを感じて動揺した。
「先輩それレポートだよね? 今日提出って言ってなかったっけ?」
 他に言わなきゃいけないことがあると頭の片隅でわかっていたのに口から出たのは別の心配事だった。昨夜遅くまで最終チェックをしていたのをティームはウィンのベッドの中から眺めていたので知っている。
 ウィンはティームをチラリと見た後に残りの紙束を丸めて肩をぽんぽんと叩いた。
「あいつ、リップでもつけてるのか? べったりついちまって印刷し直しだ」
「え?」
 質問内容とは異なった答えにティームがウィンに近づく。ウィンの声が小さいわけではないのに何か聞き間違いを起こしそうで、はっきり表情と声がわかるところに行きたかった。そんなティームを見返すウィンは厳しい顔のままだ。
「提出する前に本を返却しにきて正解だった。これで時間切れくらってもこのレポートはA +より価値がある」
「なに言って」
「紙一重であいつがお前にキスするのを防げた」
 ティームは思わず絶句してしまった。
 やっぱりあれはキスだったのかという気持ちとそんなはずないという否定がせめぎ合って口から何も出せなかった。何よりウィンが先程相手に向けた硬質さとは別の苛立ちがこもった目を向けてきて、ティームの足は動かなくなった。部活で檄を飛ばされることは良くあったし部屋の中で小言を言われることもしょっちゅうだったが、これは今までのどれとも違う。
 黙ったまま微妙な距離にいるティームにウィンが低い声を出す。
「お前も、俺の大事なものを雑に扱うな」
 そのままティームの反応も見ずに再び背を向けると西日に照らされていた金髪のすらりとした身体は、コントラストで出来た濃い影の向こうにある階段を静かに降りていってしまった。
 ティームは唇に残るカサついた紙の感触を指で探り、口の中の溜まっていく苦い唾液を拭うようにゴシリと手の甲を当てた。
「なんだよ、それ」
 
 
 
 痛いくらいの暑さの中ソンクランを含めて長いピットタームヤイが終わり、ティームは無事に二年生へと進級した。
 水泳部ではプルックが卒業しディーンやウィンらが役職から退きティームの一年上の学年が各役職を引き継いだ。今は彼らは新体制のサポートに入っている。ティームは相変わらず平部員で、エースで、大学の記録を更新し続けていた。
 絶えず出される課題と結果を残さなければならない水泳の記録も、この一年がむしゃらにこなしたおかげでなんとか自分のペースを掴めるようになっていて、ティームは平穏に新学期をスタート出来た。
 ように言えたのは水の中とウィンの部屋でだけで、陸の上ではティームは入学当時パームと共に騒がれたようにまた少し注目を浴びている。
 この大学は他の大学に比べて、新入生を歓迎する行事であるラップノーンが平和だった。それでも環境の変化や先輩に囲まれた緊張で体調不良を起こす生徒も居て、ちょうどティームの目の前で一人の男子生徒が貧血を起こしてしまった。ティームはただ彼を保健室に運んだだけ。本人はそう思ってその日を終えたが、翌日キュートボーイのページにアップされたティームが彼を倒れた状態から抱き起こし横抱きにして運ぶ連続写真をもって、ティームと彼の名前が連なったハッシュタグはあっという間にページを賑やかせた。ティームがキュートボーイの常連なだけならここまで急上昇しない。相手が今年の経済学部いち可愛い新入生だったのがいけなかった。パームとはまた少し違ったタイプの愛らしい顔立ちと、幼さがそこかしこに残る背格好が入学当初から話題になっていた生徒だった。
 更に彼は学籍番号がティームと一緒だった。
 これはもう運命の出会いだとキュートボーイの住民たちは新たなカップルの誕生に胸をときめかせていた。
 運命かどうかはティームの知ったところではなかったが、同じ学籍番号の先輩後輩の交流会で改めて会話をした彼とは共通点も多く、ティームはすぐに連絡先を交換して「何かあったら頼れ」と彼の肩に手を回してすっぽり収めるとポンポンと腕を叩いた。
 地方出身で単身バンコクへ上京してきたこと、食べることが好き、苦いものが苦手、ホラー映画が好き、そして不眠に悩まされていること。ラップノーンの時に倒れたのもあまり眠れていなかったからだと聞いて、ティームは放っておけなかった。
「先輩と話していると落ち着きます」と言うので夜に十分ほど話をすることがあった。彼自身がティームに対して丁寧に話すのでティームも自然と凪いだ声になる。低く弾力性のある声質は電話口では心地いいのか、たわいの無い話が良い入眠剤のなるようだった。
 その電話はウィンの部屋にいる時にかかってくることもあり、ティームは一旦廊下に出てその時ばかりは手短に切り上げていた。
 ウィンにはラップノーンで介抱した時から話をしてある。同じ学籍番号のピーノーンだから何かと目をかけていることも、入眠の手助けをしていることも。電話を切って部屋に戻るとウィンは必ずティームの顔を見つめていたがティームが「おれもこうやってウィン先輩に助けられてたから」と言うと何か言いかけていた口はぴたりと閉じられていった。
 
 
 
 ティームは放課後から今までずっと残っている紙の乾いた感触を唇に指をつけて追いかけた。ウィンの言葉がリフレインを続けて頭から離れない。
 ウィンの大事なものを雑に扱った。
 この場合、自意識が照れて邪魔をするのをなんとか宥めて考えるとウィンの大事なものというのはきっとティームの事で間違いない。ティームがティームを雑に扱っていた事をウィンは怒っている。ティーム自身は自分を粗末にした覚えはない。
 普段はリラックスして一日の疲れを癒せるウィンのベッドに座っていても、思考が低空でぐるぐる回っていて落ち着かなかった。
 ガチャリとバスルームの扉が開く音に、ソワソワしていたティームはハッと顔を上げた。
「なんでそんな端っこに座ってんだ? いつも大の字で寝てるくせに」
「あー、うん」
 髪をタオルで拭きながら黒いスウェットパンツを緩く腰で穿いているウィンが、いつも通りベッドの縁に座った。
 いつも通りなのは動作だけでその表情はティームを揶揄う柔らかさはなくムスッと眉を顰めている。ウィンが帰宅するのを待ってこの部屋に入った時からどことなくいつもと纏っている空気が違ったまま、それがまたティームがのびのびと身体を伸ばせない要因にしていた。
 二人とも頭にあるのは放課後の図書館でのこと。
 先に口を開いたのはウィンだった。
「前にもああいうことされたのか?」
 ティームはすぐに首を横に振った。SNSでどんな思わせぶりに画像にコメントをつけられても実際に彼との間にそんな雰囲気を感じたことはない。少なくともティームには。
「何か言われたか?」
「いや何も。普通に履修科目の相談を受けてただけ」
「直前の行動は?」
 淡々とした感情が読みづらい尋問のようなそれにティームは顎を引いてボソボソと返す。やましい事は何もないから結局は素直にありのままを答えるしかないのだが、ウィンがティームを怒るトリガーを探しているような気がして答え方に躊躇いが出てしまう。
 直前というのは、あのキスされそうになる前だろう。ティームはその後のウィンで頭がいっぱいになっていたので、うーんと記憶を探る。
 先輩、と声をかけられる前。
「鼻についてたまつ毛を取ってあげた」
 抜けたまつ毛も真っ黒で長いなと思って指についたそれをふっと息を吹いてどこかに飛ばしただけ。
 ティームにとっては〝だけ〟なのだ。
 ウィンは小さく息を吐くと低くひとりごちた。
「いけると思ったのか、あの野郎
「え?」
 ウィンはガシガシと乱暴に水分を拭き取ったタオルをポールハンガーに放り投げティームの隣に座り直すと、長い腕をベッドの上について上体をティームへと寄せた。ふわっとシャワー上がりのウィンの匂いがしてティームはゆっくり吸い込む。首から上をウィンに向けると唇が軽く触れた。それはキスとも呼べないくらいの触れ合いと温度で、目の焦点が合うほどに顔が離れるとティームは眉を寄せた。
 前触れの雰囲気も何の感情もなくただただくっついてきた唇に、押し付けられた紙の感触をまた思い出す。
 ティームが無意識に近い形でウィンの唇に目線を落としたのが分かったのか、離れたばかりの顔が半ば押し付けられるように戻ってきて再び唇が重なった。今度は粘膜を擦り合わせるように何度も食まれる。紙の乾いた感触はみるみるウィンの熱の湿り気に上書きされて、ティームは目元が火照ってくるのを感じた。シーツに置いていた手をゆるりと上げてウィンの裸の肩口を掴むと、ウィンの手もティームの胸元にぺたりと這わされそのまま後ろに倒れ込むまで押された。ベッドを横切るように膝から上が倒されウィンが横から覗き込むように重なる。
 チュッと微かな音を立ててウィンの顔が離れる。腕で上体を支えて見下ろしてくるウィンは逆光で表情の影が濃い。そのせいか目だけが多めの水分に照明のオレンジ色の灯りを反射させていていた。何かを始める雰囲気ではない中でティームはふっと温められた息を吐き出した。
「なに簡単にキスさせてんだ。少しは抵抗しろ」
「なんだよ。先輩が勝手にしてきたんだろ」
 ティーム以上に眉間に皺を寄せたウィンにティームは真意が見えず、近くにある剥き出しの肩を指先で押した。
「これだとあいつにもすぐされそうだな」
 ため息混じりに吐き出された低い呟きにティームはキスでの火照りとは別の感情でカッと目元が熱くなる。
「っ! そんなわけあるか」
「じゃあ防げたのか? あの時、俺の出したレポート用紙分しかお前とあいつの間に隙間がなかったのに?」
……防げなくても、ただの事故だろ。先輩とは違う」
 誰がただの後輩と話していて突然キスされると思うんだ。そんな不測の事態に備えていちいち身構えてないといけないなんて理不尽すぎる。それにそんな一方的な接触をティームはキスとは認めない。
 ウィンとは言葉がなかったとしても目線や指先や呼吸の音でキスの始まりを知ることができる。先程のにはどれも含まれていなくて、唐突に仕掛けられたことにティームは小さなささくれを無理矢理引っ張って抜いた時のようなチリッとした痛みに見舞われた。それでもウィンとだから、あれは紛れもなくキスなのだ。
 彼とウィンは違う。
 ティームは唇を固く閉じてウィンを見据えた。ウィンはウィンで眉尻を釣り上げて、一旦目を瞑って外に出す感情を選ぶようにゆっくり瞬いてから口を開いた。
「その事故すら嫌だから起こすなって言ってるんだ。どこに自分の恋人が誰かにキスされて、事故なら仕方ないで引き下がれるんだよ」
「こいび、と
 ウィンの口から出た単語が未だに慣れず黒目がウロウロと動いてしまう。それを見てウィンはまた機嫌を一段階下げたようで、声の温度も室温のように下がった。
「自覚ないだろ。自分が誰の何かって」
「そんな事ない」
 ベッドに倒れた時に散らばった黒髪をウィンの指がティームの顔を横で整える。そのままこめかみから頬のラインを指先で辿られ、親指で唇を押された。
「じゃあ訂正する。自覚が足りない」
 上唇だけ摘まれてタイ文字の一番目の子音のような形にされてパチンと放された。ティームはモゴモゴと口を動かして元の位置に唇を戻す。身体半分乗り上げられていてもいつもみたいに膝で蹴り上げて退かせないのは、ウィンの目も声もまだ硬いからだ。
 ティーム、と自分を呼ぶ音にレポート用紙が投げ捨てられたゴミ箱の尖った音が重なる。
「お前、あいつへの世話の焼き方を俺がお前にしたみたいにしてたよな」
「だって、おれはそれで凄く助けられた」
「助けられただけか? 違うだろ」
 いつもはお互いシャワーを浴びた後にゲームをしたり映画を見たりして音が溢れている部屋は、空調の低い作動音とウィンの低い冷えた声で満ちている。上から降ってくるそれらにティームの呼吸は揺れ始めた。
 ウィンには助けられた、だけじゃない。
「それだけじゃないだろ。あいつだって期待する」
 ウィンは一方的にティームを助けたわけじゃなく、ティームを求めていた。ウィンが求めていることがティームにも分かっていた。震えを一緒に止めてくれた足を自らウィンに踏み出して、与えることを始めた。
 だから今ここに居る。
 彼はそれを期待してしまったというのか。
「お前はあいつから惚れられたかったのか?」
「そんなんじゃない。おれはただ
 ティームの瞬きが増えたのを見てウィンは上体を起こしてティームの腕を引っ張った。起き上がってもお互い見合ったまま、ウィンが続ける。
「お前が後輩の面倒を見る事を否定してるわけじゃない。ただあいつがあんな事してきた以上もう俺と同じ事はするな。俺はお前にだからしたんだ」
「ウィン先輩」
「自覚、増やせ。誰かにキスされそうになった事を事故で済ますな」
 淡々と聞こえていたウィンの声が少しだけ和らいだ気がしてティームは小さく頷いた。ウィンの指先が伸びてきて、また唇をさらりと撫でられる。やたら触れるそれは第三者から守れて良かったと言われているようで、気付いた瞬間に胸が切なくなった。
 ごめんと謝るのもありがとうとお礼を言うのも合ってるようで違う気がして、ティームがウィンにかける言葉を探していた矢先にサイドテーブルで充電しているティームのセルフォンが着信を知らせて震えた。テーブルとの接面がカタカタと音を立てる。
 ティームは腕を伸ばしてケーブルから抜くと画面に映る相手の名前と顔写真に、あっと声を出して思わずウィンを見てしまった。
 ウィンは画面を見ずとも誰からの着信かわかり、少しだけ戻っていた眉の角度がまた機嫌と共に傾いている。
 手の中で震え続けるセルフォンを持って立ち上がろうとすると、ウィンに手首を掴まれ元通りベッドの端に座らされる。ウィンはそのティームを後ろから抱き込むようにぴったりと背中にくっついた。長い腕が腰に巻き付き、鼻先がTシャツの襟にあたる。後ろから手元を覗き込まれた。
「先輩、ちょっと」
「ここで出ろよ。あいつが何言ってくるか聞きたい」
「おい! あっ」
 身を捩ってる隙に前にまわったウィンの指が通話アイコンをタップした。ついでにスピーカーにされてしまい、ティームはあたふたとマイクに口を近づけた。
「もしもし」
『ティーム先輩夜分にすみません。今、少し話しても大丈夫ですか?』
 スピーカーから彼の少し幼い声が部屋に響いた。向こうからの音は彼の声のみで、部屋にいるようだった。ウィンが何か言い出さないか気を取られながらもティームは努めていつも通りに話し始めた。
「少しだけなら大丈夫」
……ありがとうございます。図書館でのこと、すみませんでした』
「あぁ、うん」
『先輩にとっては突然のことで驚かれましたよね』
「まぁ
『ごめんなさい』
「いいって、そんな、うわっ?!」
 シャワー後のウィンの体温が服越しにじわじわと冷えた身体に馴染むのが彼と話す先輩としての自分との間に温度差を生み、落ち着かずに言葉少なになってしまう。
 彼の沈んでいる声からの謝罪にティームは軽く答えると後ろからウィンが首の付け根に歯を立てた。ぬるくて硬い歯に小さく皮膚を引っ張られてビクッと身体が跳ねる。
「良くないだろ」
 ボソリと呟かれた声が首筋を上がって響く。スピーカーが拾わないことを祈りながらティームは肩を揺らしウィンの顔を離れさせたが、すぐに首のくびれに頭をピタリとつけられた。半乾きの髪がひんやりと、ウィンの体温はじんわりと、どちらも皮膚にまとわりつく。
 ティームはセルフォンをぎゅっと握り直して、唇をひと舐めした。
『先輩? どうかされましたか』
「大丈夫」
『それで、あのボクにとっては突然じゃないんです。ずっと前からティーム先輩のこと、好きでした』
 前に回されているウィンの両腕に力が入り、腰を掴まれる。
 後輩からの告白を聞きながらふわっと浮上しそうになる動揺を力一杯ウィンの手元に引き戻されているようで、そちらに胸がいっぱいになって何も言えなくなる。
 どこにも行かせない、お前の居場所はここだと。
 嬉しいと思ってしまった。
 後輩が、そこに居るのに。自分に対して精一杯の何かを伝えたくて電話をかけてきたのに。
 告白が過去形であることにウィンも気付いているはずだが腕の力は弱まらない。
 黙ったままでいるティームに彼は一つ息を吐いて、ポツポツと話し始める。
『オープンキャンパスで水泳部に遊びにいったんです。その時ちょうど的当てに先輩が座っていてひとつも当たらなかったボクに先輩は笑ってた。頑張れって言いながらも最後は落ちずに済んだありがとうって。入学してから同じ学籍番号だってわかって嬉しかったです』
「そっ、」
 そんな前から知られていたとは思わず開いた口は、ウィンの手がTシャツの裾から入り込んできたことですぐに閉じられた。足が反射的に床を叩き、ティームはセルフォンを持っていない手でTシャツの上からウィンの腕を掴む。
 流石に直接肌に触られながら他人と話すのは、どうかしてる。
 立ち上がって防ごうとするも、もう一方の自由にさせているウィンの右手がハーフパンツの穿き口から侵入し直接腰骨を掴んでティームの身体を引き留める。
 セルフォンを持つ手を思い切り身体から離して、マイクに入らないように小さく、だが強めにウィンに怒鳴る。
「何してんだよ! 手、どけて!」
 ふざけんな、と強い拘束にまだ動かしやすい肩と足をバタつかせるもウィンは先程よりも大きく口を開けてガブリとティームの肩を噛んだ。
「っ!」
 覚え始めた甘い痛みに咄嗟に手で口を押さえ、ティームは身を固くした。その隙にウィンの大きな掌が胸の中心にひたりとつけられ、下の手も臍下の真ん中にするすると移動した。
 バクバクとし始める鼓動はダイレクトにウィンに伝わってしまっている。胸に置かれている掌がじわりと力を入れた。
「そんな前から目をつけてやがって」
 噛んだ跡に唇をつけたままウィンの低い声が身体に響く。普段の揶揄いが鳴りを潜め、忌々しそうに呟くウィンにティームは首を回した。おろした金髪が顔にかかっていて大半は隠れているがチラリと見える片方の目が思ったよりふざけてるわけでも不貞腐れてるわけでもなく、ティームは戸惑って顔を伏せた。
「自覚しろ。誰の何なのか」
「なんで今」
「ちょうどいいだろ」
 潜める事で声の震えが増す。セルフォンを持つ腕をゆるゆると口元に戻した。
『好きなものも多くて苦手なものも一緒で、そのひとつひとつが嬉しかった。不眠のことを真剣に聞いてくれて、夜に電話もしてくれて。これはもう運命なんじゃないかって』
 ウィンがうなじから耳に後ろに唇押し付ける。吐かれる息にくすぐられて背骨に甘く痺れが流れた。自然と竦む肩に合わせて持ち上がる鎖骨を人差し指がなぞっていく。
 偶然が重なって共通点も多い出会いを運命と言うなら、生まれも育ちも嗜好の共通点も少なくただ同じ部活に入部してそれこそ縁がある恋人たちの親友同士なだけだった自分たちの出会いは何と呼ぶのだろう。
 ウィンと出会ってなかったら彼との出会いは運命だったのだろうか。それはない。ウィンが居なければ後輩の世話をここまでしない。
 ウィンの手がゆっくりと少しずつ位置を変えティームの肌を滑っていく。腹にあてられた手は小指と薬指に力を入れられ、際どい皮膚が引っ張られる。ティームははぁと短く息を吐いてやり過ごした。
 彼の話をちゃんと聞いてあげたい気持ちに、自分のウィンへの思考が身体に灯っていく熱と共に被さっていく。
『キュートボーイのページで騒がれた時もボクはこのまま本当にカップルになれたらいいのにって思ってました』
 スピーカーから聞こえる声にティームが目を見開くのとウィンがティームの首を強く吸ったのが同時だった。
 ぢゅっという吸啜音が近くて思わずセルフォンのマイクを指で押さえた。彼にはきっとガサガサした雑音がいってしまっている。ティームが動揺したと思っている。動揺はしている。ウィンの思った以上に強い吸い付きは、髪でも服でも隠れない晒されっぱなしのところだ。ティームからもかろうじて見える位置。こんなところ最初の夜ですらつけられなかった。
「せんぱいっ」
 息だけで呼びかける自分の切羽詰まった声とスピーカーからの弱々しい自分を呼ぶ先輩という声が重なる。
『でもだからって突然キスしようとしたのはダメですね。本当にすみませんでした』
「二度としないって、約束しろ」
 なんとか平静を保って絞り出した言葉は随分厳しくなってしまったが、ウィンが褒めるように親指で肌を擦り上げたのでティームはほっと息をついた。彼がはいとはっきり言った声がする。それから大きく深呼吸をする音がして鼻を啜っていた。
 言いたいことはまだあった。泣いてるかもしれない彼に、自分たちは他にも築ける関係があるだろうと、学籍番号の絆だって立派な関係のひとつだと、何かあったら助けるからと伝えたかった。でもそれを今言ったところで気休めの慰めだと思われるだろうし、背中から全身に行き渡るぬくもりに万が一にも誤解されるのが何より嫌だった。
 今言わなくても態度で見せていけばいい。彼が要らないと言うならそれでもいい。
『ティーム先輩、最後にひとついいですか?』
 しばらくして聞こえた彼の声はもう弱くなかった。
先輩は誰かに所有されてるんですか』
 その問いにウィンがピタリと動きを止める。
 誰かが誰なのか、付き合ってるとか恋人がいるのかではなくあの時ウィンが言った言葉で尋ねてきた彼は分かっているはずだ。だが、言わないのは彼のなけなしの意地だろうか。こういう機微に敏いウィンはじっとティームを伺っている。ティームはセルフォンを持っていない手でウィンの腕を撫でた。
「所有されてるし、おれもしてる」
 腕を撫で上げて胸に置かれた指に指を絡める。Tシャツが捲れて冷えた部屋の空気が火照った身体に心地よく当たった。
『そうですか』
 彼が少し笑った気がした。ウィンの気配でも察したかと一瞬ヒヤリとしたが、そうじゃないらしい。あまりにもティームがきっぱり言いすぎて笑ってしまったようだ。
 ウィンの指の股にぎゅっと挟まれた指先を親指で擦られる。首にある顔はこれ以上くっつかないくらい擦り寄られ、ウィンの重みで身体が前屈みになるのを足で踏ん張って押し返す。
 彼が電話を切る時に、また明日と言いそうになってティームはやめた。その代わり、おやすみと言うと彼はまた小さく笑っておやすみなさいと返してくれた。
 ウィンはそれを聞き終わると、ティームを拘束する腕の力を緩めた。ハーフパンツから出ていこうとする腕をティームは逆に掴み、振り向きざまにウィンを押し倒した。
 先程とは真逆に、ベッドに倒れたウィンにティームが跨るように真上から見下ろした。通話が切れたセルフォンはウィンの斜め上のシーツに投げ出されている。
 ウィンの目には照明が入り込み表面がオレンジに染まっている。ティームの煽られて赤くなっている顰めっ面を見返して、口が横に広がっていった。
「先輩、悪趣味すぎる」
「ちゃんと言えたし、自覚増えたろ」
 なぁ俺の所有者、と動く唇にティームは噛み付くようにキスをした。電話をしている間に後で言おうと思っていた文句は多すぎて逆に何一つ出せなかった。
 ウィンの指が後頭部の髪に潜り込み頭の形に沿って鷲掴みにして引き寄せた。歯を立てていた舌先がずるりと潜り込んできて深く絡まる。押し付けられた唇は感触がなくて境目がわからない。Tシャツを引っ張り上げられ剥き出しになった背中を強く擦られる。
 普段より乱暴な弄りに、ティームもウィンの肩のタトゥーに爪を立て心で舌打ちをした。
 ティームの為じゃなくその向こう側にいる誰かに対して思い知らせるようにウィンが自分の身体を触った。それがダイレクトに相手に伝わっていなくてもされてみて死ぬほど悔しかったし、ほんの少し、認めたくはないが嬉しかった。両極端の感情を芽生えさせられて、自覚したのはウィンとのそういう時間に互い以外を介入させたくないという独占欲だった。
 なるほど、ウィンはもうずっと前からこういう気持ちも抱えていたのか。
 ティームの自発的行動を尊重しながらティームの自覚を求めた。ティームが追いついた今、ウィンの独占欲は露わになってティームに向けられる。
 貪っていた唇を離されて身体をベッドに引き倒される。ガタンと硬い音がしてティームのセルフォンが床に落ちた。ティームの伸ばした手は黒い翼にまわり、ウィンの手はティームのあちこちを弄って、お互いに所有の証を残していく。
 特に唇は齧られねぶられ吸いつかれ、ぷっくりと熟れていった。
「しつ、こいも、そんなに噛むなら、取って持ってけよ」
「お前のだからいいんだろ」
「せんぱいの、でしょ」
「お前のだから、俺のなんだ」
 謎かけのような言い方でうっとりと扇情的に笑うウィンに、普段よりもまわらない頭は考えるのをやめた。ただなんとなく言ってることはわかる気がして、自分とウィンの間は共通点や運命的な同調よりもこのなんとなくの共感で良い気がした。
 
 
 
 先輩、と柔らかく呼びかけられて隣に並んで座っている彼を振り返ると机に両腕をついて少し呆れたように笑っていた。ティームがあまりにも机に置いたタブレットを凝視し続けていて彼の話を聞いてないことが明らかだったので、言葉に出さずに指摘する。ティームはわざとらしく咳払いをして居住まいを正した。
「そんなにそのお店が気に入ったなら、そのお店にしますか?」
「いやどうだろう? 四年の先輩はあまりムーガタ好きじゃないって言ってたし、普通に鍋にしよう」
「わかりました」
 ティームがタブレットの画面を動かし、もう一つ候補に挙げていた店のサイトを開く。ティームの上二つ、つまり三年生と四年生の同じ学籍番号の先輩を交えて不定期に交流会を開いている。周りの同学年の友人に比べたら回数は少なかったが、彼が加わった今年はすでに去年ティームが参加した回数を超えて開催されていた。
 手早くメンバーに連絡を取り店に予約をしている彼を横目で確認しながら、ティームはもう一度候補から外したムーガタの店のサイトを見た。
 ウィンが好きそうな店の雰囲気とメニューだ。
「あ、ティーム先輩、お迎えが来ましたよ」
「え」
 滞りなく会の開催準備を進めた彼が人差し指で図書館の出入り口を指す。金髪のすらりとした長身がゆったり歩いてくるのが見えた。その顔は相変わらず少し厳つい表情を張り付けているが、彼がワイをすると小さく頷いて眉を上げて応えた。
「じゃあ行くな」
「はい、アドバイスありがとうございました」
 ティームは赤いリュックを掴むと席を立つ。立ち上がったティームを見るとウィンはそれ以上は近づいて来ずティームを待った。
 ティームに対してもワイをするにこやかな彼に、ティームはあっと呟いて自分の鼻頭を人差し指でとんと叩いた。
「お前、まつ毛ついてるぞ」
 彼がパチクリと瞬きをして自分の手で鼻を擦った。その幼い仕草にティームは笑って、踵を返しウィンの元に走り寄る。
 ウィンが待ち構えていたようにふわりと脇を開けて腕を上げ、そのスペースにティームを迎え入れると黒髪をぐしゃぐしゃに混ぜ込んだ。
 西日の照りつける廊下に出て、彼のタブレットから転送しておいた店のサイトをセルフォンで見せながら、ティームがウィンに期待の眼差しを向けた。
「先輩、今日の夜ご飯さ、ムーガタにしない?」