ナガレ
2025-12-11 20:39:52
4445文字
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タイトルが思い浮かばない鉢竹話

気圧に負けた三郎と鉢竹。最後までタイトルは思い浮かびませんでした。

——あ、返すの忘れてた。

竹谷は文机の上に置きっぱなしにしていた手拭いの存在に気がついた。これは先週か先々週に不破から借りたもので、汚れてしまったから洗濯をして返すとその場で返さず持ち帰ったものだ。綺麗に洗ってそれが乾いてきっちり畳んだところまでは良かったが、その後すっかり忘れていた。少々遅くなってしまったが今から返しに行こう。
この手拭いは同室の鉢屋とお揃いのはずだ。とある休日に「雷蔵と揃いの物を買いに行くから付き合え」と、こちらの予定なんてお構いなしに日がな一日買い物に付き合わされたから知っている。確か駄賃は団子一皿だった。
お揃いが見当たらないことに鉢屋が気づいたら、きっと面倒くさいことになる。絶対になる。そしてとばっちりを食らう筆頭は間違いなく自分であると断言出来る。ここは一刻も早く返しに行くのが正解だ。再び忘れてしまう前に行こう。
畳んだ手拭いを手にすると、竹谷は不破達の部屋を訪ねた。

「雷蔵、いるか?」
「いるよー。何か用事?」

部屋の戸を少し開けて顔を出し、声を掛ける。部屋に居た不破は立ち上がって戸の前まできてくれた。

「用事ってほどじゃないんだけど、これ返す。遅くなってすまない。あの時は助かった。ありがとな!」
「どういたしまして。返すのなんて別にいつでもよかったのに」

世辞でも何でもなく、不破は本当に心の底から返すのはいつでもよかったと言っている。そっちは良くてもこっちは良くないお前の知らないところで色々とあるんだよ——と言ってやりたい気持ちも小指の爪くらいはあるが、言ったら言ったで鉢屋が不破からのお小言を受けることになる。そして自分は八つ当たりというか、とばっちりを食らう。どう足掻いたって避けられない運命だ。ならば何が上策か。……何も言わないことである。
確かに返したからと竹谷が自室に戻ろうとすると、今度はどことなく困った様子の不破の方から声を掛けられた。

「ハチさ、この後何か予定ある?」
「特に無いけど……
​「無いなら“あれ”の面倒見てくれないか。そろそろ図書委員会の方に顔を出したくて」​

そう言うと、不破は室内の“あれ”に視線を向けた。“あれ”こと、こちら側に背を向けて床の上で丸まっている不破の同室・鉢屋三郎と思わしき塊。今日は本格的に参ってるみたいと続けた不破に竹谷は納得した。梅雨時期ほどではないが、今日の不破の髪は一段と膨らんでいる。仮に擬音をつけるなら、ぼふん! だ。
一方で、常に量も形も不破とうり二つになるよう整えているはずの三郎の髢は、ここから見る限りいつもと同じ。不破曰く本格的に参っている今の鉢屋には、模する気力も整える気力も無いのだろう。
夜更け過ぎからしとしとと降り続ける雨。鉢屋が参っている原因はおそらくこれだ。程度の差はあれ、鉢屋は天候が悪いと気力を失う。どうやら今日はかなりきつい様子である。顔を見なくても雰囲気だけで分かる。変装しているから本当の顔色は分からないけれど、良くないことだけは確かだ。
この天候は野外活動には不向きだから、今日の委員会活動はもう終わった。生物達もおとなしく小屋や籠の中にいる。自分も暇しているから任されたと、竹谷は二つ返事で引き受けた。

「それじゃよろしくね。三郎、ハチが来たから僕は図書委員会に行ってくる。わがまま言い過ぎてハチ困らせないように」

竹谷は図書室に向かう不破を見送り、廊下を曲って姿が見えなくなったところで部屋の中に入った。鉢屋は不破が出て行く時も顔を上げなかったし、竹谷が近づいてもぴくりとも動かなかった。自分が不破から借りた揃いの手拭いを返しに来たことも分かっていないと思う。さすがに不破が図書委員会の活動に行ったことは理解していると思うけど。

「さぶろー、生きてるかー?」
……死んでる」

近距離で問われてようやくのそりと顔を上げた今の鉢屋は、彼が猫可愛りしている後輩達には絶対に見せられない姿だ。不機嫌極まりないと言わんばかりの声色は低音で地を這い、視線はそれだけで敵の一人や二人射殺せそうである。事情を知らなければ思わず悲鳴を上げそうになる鉢屋の態度だが、長い付き合いの竹谷はこの鉢屋にも慣れている。こういう時は下手に刺激しない方が良いから、つかず離れずの距離で放っておくのが一番。竹谷は板壁に背を預けて座り込んだ。
無言の空間に屋根を打つ雨の音だけが響く。何か暇つぶしになるものを取りに行こうかとも思ったが、わずかな時間とはいえ鉢屋を一人にしておくのも悪い。それにこの音は嫌いじゃない。竹谷が目を閉じて耳を澄ませていると、もぞりと鉢屋の身動ぐ気配がした。何か要望でもあるのだろうか。三郎どうした? と声を掛けるよりも先に、生気の乏しい鉢屋が這い寄ってきた。鉢屋は竹谷の横まで辿り着くと、再び背中を丸めて寝転がった。足先に背中が触れるか触れないかの距離。どうやら今日はこの距離が良いらしい。
竹谷は手を伸ばして、鉢屋の髢をわしゃわしゃと軽くかき混ぜるように撫でた。鉢屋から抗議の声は上がらない。これは相当参っている。

……早く楽になるといいな」
「本当にな……

恵みの雨も今の鉢屋にはただただ恨めしいだけだった。朝から下降曲線を描き続けた気力グラフは今がどん底で、この世のすべてが敵である。ピークが過ぎれば多少は楽になると思いたい。朝も昼もろくに食べていないから、夕飯はきちんと食べたかった。こう見えても育ち盛りの食べ盛りなので。
気力も体力も欠けたこんな状態じゃ、何をしようにも集中出来ないし満足に動けない。火器を用いた実技の授業が雨天中止で座学に振り替わり、本当に助かった。もしこの状態で実技の授業を受けていたら、間違いなく怪我をしていたし、その前に集中力不足で実技担当教師の雷が落ちていた。
何とかすべての授業をこなして残りわずかな気力で学級委員長委員会に向かったものの、部屋に入る前に同じ委員会の尾浜に「後輩泣かせるつもりか」と門前払いを食らって追い返されてしまった。部屋の中にいるであろう可愛い後輩達の顔をちらと見ることすら許されなかった。鉢屋の気力はそこで完全に尽き、こうなると思ったよと後を追ってきた不破に回収されて自室に連れてこられ、不貞腐れて今に至る。
ここまで気力をごっそり持っていかれる日は滅多にないが、天気が悪くなるたびにこんな目に遭うのではこの先やっていられない。そういえば、こういった症状を緩和できる薬草があると聞いたことがある。何かの折に保健室で相談してみようか。

「その時は付き添ってやるからな」

勝手に思考を読んで参加してきた竹谷に、鉢屋の面の下の眉間の皺が深くなった。保健室への付き添いなんて、下級生や小さな子どもでもあるまいし不要だ。断固拒否する。ぐるりと体を反転させると、鉢屋は竹谷に視線で抗議した。

「えー、でもいた方がいいと思う。対処法とかこうすると楽になるとか教えてもらいたいし」
……お前にそこまで世話になるつもりはない」
「俺だってたまには頼られたいんだよ」

竹谷には事あるごとに鉢屋を頼っているという自覚がある。だから、こういう一人ではどうにもならない時くらいは頼ってもらいたいのだ。実習や忍務ならともかく、日常生活で自分が助けになれる場面は少ない。でも、少しくらいは頼られたい。一方通行は嫌だ。

……それともやっぱり俺じゃだめ?」

しゅんとしょげて肩を落とす竹谷に鉢屋は言葉が詰まった。竹谷が誰と比べて駄目だと思うのか、鉢屋には察しがついている。……不破だ。鉢屋にしてみたら、同じ土俵で競おうとする方が間違っているというのに。
鉢屋にとって二人はまったく異なる立ち位置の存在で、当然そこに優劣はない。鉢屋は竹谷に不破であることなんて求めていないし、不破に竹谷であることも求めない。こっちの手には雷蔵、こっちの手には八左ヱ門。お前は私の幸せを奪う気か。鉢屋はただでさえ鈍く痛む頭がさらに痛くなってきた。
今だってそうだ。何かしてもらいたいわけじゃない。ここに居てくれるだけで十分だった。居てくれるだけで快方に向かう気がするというのに。しかし鉢屋はそれをどうやって竹谷に伝えたらいいのか分からない。口は達者なはずなのに、己に潜む何かがいつも邪魔をする。

——お前は案外口下手だねぇ。その変なプライドのせいかな。

呆れと苦笑の合の子みたいな顔した不破が、鉢屋の脳裏を通り過ぎた。そんなことを言われても分からないものは分からないし、出来ないものは出来ない。しかし今ここで行動を起こさなければ、竹谷は「やっぱり雷蔵の方がいいよな。戻ってこれないか聞いてくる」と言って部屋から出て行ってしまう。それだけは避けたかった。そんなことになろうものなら、ようやくどん底横ばいから上向きかけた気力の曲線が、再び下方トレンドに向かってしまう。

……少し寝る。無理矢理にでも寝て起きれば、多少はマシになってるだろ。雷蔵を呼びに行く必要はない。一刻経ったらお前が起こしておくれ」

鉢屋は竹谷に再び背を向け、目を閉じた。これで少なくとも一刻後に起こすまでは帰らないはず。目が覚めても狸寝入りをして起きなければいい。無理に起こすことはしないで、きっと寝かせたままにしてくれる。置いて出て行くこともしないだろう。適当な時間になったら、今起きたと言って目を覚ませばいい。

「わかった。おやすみ」
「あぁ」

眠る邪魔をしてはいけないと竹谷は気配を消そうとしたが、消しかけてやめた。寝ると言って背を向けたはずの鉢屋が何か考え事をしている。一刻後に起こすこと以外にも何か頼みたいことがあるのだろうか。竹谷は鉢屋の背中に声を掛けた。

「まだ何かあるのか?」

竹谷の声掛けに、今度は鉢屋が顔だけを向けた。その表情まだ険しいが、部屋に来た時に比べればましになったと思う。あとこれは憶測だが、面の下の素顔も多少は血色が良くなったと思う。

「三郎?」
……こういうことは、」

何か自分に出来ることがあるなら遠慮なく言ってほしい。そんな竹谷の心を知ってか知らずか、鉢屋の口が小さく動く。しかしあまりにも声が小さすぎて聞き取れず、動きも小さくて読み取ることもできなかった。ごめん聞こえないと言って鉢屋を覗き込む竹谷に、鉢屋は少し体を浮かせて顔を寄せた。突然のゼロ距離に竹谷の目が見開いた。
触れたのは口の端。目測を誤ってしまったが、まぁいい。これでも十分伝わるはずだ。
私がこういうことをするのはお前とだけで、

「雷蔵とはしない」
「っ!」

言葉を失った竹谷が我に返って喚く前に、さっさと意識を飛ばしてしまおう。寝たと分かれば奴もさすがに騒ぐまい。鉢屋は三たび背を向けて目を閉じた。彼は今頃首まで赤くなっているのだろうけど、それをじっくり観察出来ないのが残念だった。


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