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ひさね
2026-06-24 00:00:00
17694文字
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記憶、残滓、歪
ソウ視点。ソウ誕生日短編。
力と政治と歪な話。
カチャン。
頭蓋の硬い感触が手に伝わる。同時に瓶が砕け、黒い破片と共に赤紫の液体が、だぱりと向かいの頭に降りかかる。アルコールの痺れるような臭いが鼻を刺す。
目の前の男はバランスを取り戻そうともせずに、椅子を倒して、赤いカーペットに転がった。ばしゃり、と音が立つなり、頭から垂れ流したままの鮮やかな赤がワインの濁った赤色と混ざろうとまだら模様を作り出す。方々に散った黒いガラス片が、天井に吊り下がった電灯の光を反射して輝いた。
起き上がる気配はない。打ち所が非常に良かったらしく、アルコールが溜まった液面は赤くなり続けている。
我らがボス
――
皆がそう呼ぶからそれに倣うが
――
からは、今回は報復が目的と聞いているから、傷を失くす理由はない。左手に握って先程割れた瓶の口を相手の顔面目掛けて投げ捨てた。今度は砕ける音もなく、静かに顔の上を転がり落ちて壁にぶつかった。
「おー、派手にやってんな。兄弟」
コツコツと軽快な足音と共に場違いなほど軽い声が飛び込む。
振り返れば、声の主が人懐っこい笑みで腕を広げて向かってくるのが見えたので、一歩脇に逸れる。肩でも組もうとしたのであろう彼は前によろめいて、首の後ろで縛った紺色の髪がこちらに流れた。つんのめった勢いを殺しきれずそのまま重力に従って下がった額を机にぶつけていた。鈍い音に合わせて、ぎゃあっと喧しい声を上げたかと思えば、次の瞬間には黙り込む。
数秒、微動だにもしない。一つに縛っている割に毛先が良く跳ねた後頭部を眺めていれば、彼は徐に頭を上げ、痛みを誤魔化すように首を左右に振った。そして何も無かったと言いたげな無言で体制を直し、先程まで実に建設的な交渉の場であった執務机に躊躇いなく手をつき、ぐるりと身体ごと振り返った。
そうしておれの顔を見るなり、彼は頬を膨らませる。
「つれないな。相変わらず! 数時間振りの再会にもう少し浸ったって良いだろ?」
「カニス。残党は」
聞き飽きた軽口も無視して名前を呼ぶと、彼は右目だけを覆う長い前髪を直しながら、反面、野晒しでやけに鮮やかな桃色の左目で緩やかに弧を描く。
「もう終わった。逃げた下っ端は雑に追わせてるけど、まあすぐ見つかるだろ。その報告聞いたら帰る感じ」
「はあ。じゃあ先に戻る」
「え、ソウと一緒に帰って来いって親父に言われたから無理」
よいしょ、と執務机の天板に乗り上げたカニスに眉をひそめる。軽いばかりの振る舞いに、ではない。本当に気軽に口にされた「親父」という単語に、幾分か悩まされるのだ。
彼の言うそれは比喩ではない。正真正銘の、血の繋がった父親であり
――
。
「ボスが? なんで態々」
正真正銘、我らがボスだ。
従って、今、目の前足をぶらつかせ始めたカニスはボスの実の息子であった。
厄介な事この上ない。腕を組めば、カニスは、おれの怪訝な態度ごとつまみ上げるように見上げて、ケラケラと笑った。
「さあ、理由なんてどうでもいいだろ? まあ、強いて言うんなら、今回のは結構大きい報復だったし、後の事も色々ある訳だ。他に言い出した奴がいないか調べる、とかな。その面で言えば兄弟にしかできないやり方もあるし?」
舌が良く回る。舌打ちを漏らすと、カニスは大袈裟に肩をすくめて、ゆらゆらと体を横に揺らして鼻歌を歌い出す。無邪気な子供みたいに、剽軽な振る舞いは普段と何ら変わりがない。全く不気味なほどに。
彼より後ろ、その奥に目を落とす。
黒く酸化していくであろう液面がカーペットに染み込みながら広がっている。鉄の臭いは徐々に強まっている。カニスの背後、そして執務机の奥では、一つの椅子と一人の人間が倒れたままだ。どれもが進行形だ。
ここには暴力の残滓が未だ色濃く残っている。何時もよりは清潔な方だとしても、残り滓の大本が変わる訳もない。
倒れた人間の顔を見る。見知った顔だ。元はこの疑似家族の一員だった。多少の関わりもあった。おれも、カニスも。
つまりカニスも同様に、そして恐らくカニスの方が、そこに転がった彼の背丈も口振りも身振り手振りも良く知っているだろうに。彼奴は一瞥もしないで、鼻歌を続けている。薄情な、とは、躊躇いなく殺したおれが思う事ではないのだろうが。
それでも、よく馴染んだ暴力の片手間に考える程度には、顔見知りである事実も無視できなかった。
抗争と鉄臭さこそが理性的なこの世界では、躊躇いは死に他ならない。が、躊躇いに満たないような、上げた腕を振り降ろした後に初めて袖口の小さな解れに気が付いて一瞥するような、微かな引っ掛かり程度はある。
反面、おれの前にいるカニスはゆらゆら揺れて、背後の人物へ振り返る気配もなければ、おれに仔細を聞く事もない。
揺れに合わせて彼の長い前髪の隙間から、ちらりと黒い眼帯が垣間見える。
随分、厳重に隠していると思った。それはそうだ。眼帯の奥には、因果も何もない、下らない曰くやイカサマじみた何かがあるから。
そして、今回の出来事の発端でもあるから。
鼻で笑いたくなる出鱈目ではなく、れっきとした事実として、そこに在る。
これを事実として知っている者は極少数だ。ボスが直々に秘密を守る誠実な人間で、裏切るはずがない忠実な人間だと認めた者だけが知っている。この疑似家族に入るための大前提とぴったり重なる条件の筈だが、片手で数えられる程の腹心にしか共有しない徹底振りだった。
しかし、根も葉もない噂話として知っている奴はごまんといた。数ばかり多い鉄砲玉でも耳朶を掠める程度には聞いているだろう。誰が誰に抱き込まれているかなんて知れたものではない。
単純明快な理性があるくせに一枚岩ではないこの組織の中で、カニスの采配は常に的確だった。経験の浅い若輩者だと言うのに、今日も正にその手腕を奮ったばかりで、本拠地が手薄なときに乗り込んで、手打に壊滅を齎し今に至る。
突然の、全く偶然の事故も、不意打ちも、唐突で内密な裏切りすら、まるではじめから知っていたとでも言うように、彼奴はいつも通り軽薄に笑いながら、実に丁寧に尻尾から頭まで晒して丸裸にしてしまう。
的確どころの話ではなかった。こんなに分かりやすくては公然の秘密になるのも無理はない。
噂を真に受けて出鱈目な力に胡座をかいていると揶揄する輩も、カニスを目の当たりにすれば、気が付いたときには従順になっている。それが表面だけのポーズだろうが、躾けられて骨身に染みていようが、どちらでも大した差はない。全ては彼奴の手の中にあり、処遇は簡単に決められる。元よりそれだけの権力と力を持っている。
カニスの後ろで何かが光って目につく。視線をそちらにずらせば、グラスが転がっていた。倒れた男の足元で、同じように口をこちらに向けて動かない。
ああ、そうだ。あそこで転がっている奴も後から従順になった口だった。
そして、有り体に言えば舐めていた方だった。
おれがドアを蹴破った時ですら、酒のグラスを傾けながら、視線をすいすいと縦横無尽に泳がせて、何を血迷ったのか抵抗するでもなく、ぺちゃくちゃと喋っていた。何処で何を知ったのか、彼奴の眼帯ごと中身を抉り出せば大した事ないだの、ついでにかなりの金になるだの、全く煩かった。
早口で、吃っていて、やけに恭しく、機嫌でも取るように青白い顔でこちらを見上げていた。グラスの中身も僅かに揺れていた。どうやら、おれに腹の中身を打ち明けていたらしい。何を思ってかは知らないが。
あれは、おれには到底出来そうにない芸当をしようとしていた。真似をしようとも思わないぐらいに成功する見込みはなかった。あるいは、同じぐらい出鱈目な何かを押し付けられたこの身に、あれは許されていない発想でもあった、とも言えた。
しかし、この世界において言葉は言語ではない。抗争と陰謀がめぐる世界では、暴力と、それを上から潰す実力こそが言語だった。呪いだか、祝福だか、出鱈目なインチキができたとして、賢く使えなければ、恣意的で理性的な暴力を前に歯が立たないのであれば、中身を抉り出されて淘汰される。犬死だ。虚仮威しだ。
正に歪で腥い世界の只中だと言うのに、あれは実現できやしない夢を語るのに夢中で、おれが瓶を掴むのにすら気が付かなかった。
そんな体たらくで、彼奴の立場、功績、影響を、よもや彼奴自身に押し付けられた特別な何かに還元しようとは、短絡的で盲目も甚だしい。表面の、軽薄な素振りしか見えていないのが丸分かりだった。それでいて、おれには尻尾を振るのはどういう了見だろう。下らない話だった。
蘇った硬い感触を振り落とそうと無造作に手を振るうと、カニスはくく、と喉を鳴らした。
「あれと何か話でもしたのか? 若旦那は目が良いだけだからって」
漸く言及したかと思えば、カニスは背後を親指で指し示すばかりで、一瞥もくれてやらない。元身内に容赦がない。
だからこそ、と考える。
「第一原則を忘れた馬鹿の話なんか無駄に長かったし、何も覚えてない」
「はは! 辛辣だな」
「実際馬鹿だろ。裏切ったらこうなんだから」
裏切り者には死を。
疑似家族なら誰もが知る、極単純な不文律がある。徹底されたルールだ。どいつもこいつも、この原則が生きている所を散々見ているだろうに、何故か反故にする輩は絶えない。
「あれとつるむメリットはゼロ未満。利権だの権力だの金だの求めたってこのオチじゃあな。分かるだろ、それぐらい」
吐き捨てれば、カニスはわざとらしく大きく頷いた。満足気に目を細めて、おれを見上げる。
「それって、つまり! 俺といた方が良いってことか?」
カニスは両頬に手を添えて、きゃあっと喧しく騒ぐ。
「耳が悪いのは確かだな」
間髪入れずにその声を切って捨てても、なおも変わらない姦しく揶揄う笑声に顰め面で溜め息を吐いても、カニスは笑っている。寛大にも。
おれもこの世界では上下関係が徹底されなくてはならない事は人並みに理解している。
それでも、おれよりずっと立場が上のカニスにこんな不躾をしても許されるのは、一重に身内だからだ。疑似家族の一員だからだ。此奴は分かりやすく身内贔屓をする質だ。舐められても、真っ向から反発されても、身内の一員でさえあれば笑って許容する。軽口を叩く。まるで対等だと言う顔をする。あり得ない贔屓だった。
それでいて、第一原則に誰よりも従順だ。
裏切り者には死を。
こんな極単純な第一原則を、誰に対しても、例えば、あり得ない程に贔屓していた元身内だったとしても、一度裏切ったのであれば、容赦なく突きつけるのがカニスだった。そこには容赦はないから殲滅する。飄軽で、薄情で、冷酷だ。始めからずっと上から見下ろしている。
身内でなくなったものには、どこまでも非情になれる奴だ。
今日のような事例がある度、やはり彼こそがボスの実の息子に他ならず、順当な後継者なのだと、つくづく理解させられる。
呪いとか、祝福とか、出鱈目な力とか、血縁とか、下らない。力ではなく、資質の話だ。力は資質を作らない。作るとしたら、傷を消すという出鱈目を持ったおれは、こんな所で生き延びてはいられない筈だった。
結局、カニスには資質がある。ボスとて認めているから隣に置いている。
多数決の原理ではきっと負けであろうと、おれにはそうとしか思えなかった。
「次の仕事か。
……
面倒だな」
良い加減、カニスの笑い声を止めてやろうと、先の話題に戻れば、カニスはぶらつかせていた足を組んで宣った。
「まあまあ。ここで何言ったって親父しか知らないんだし、せっかくだからゆっくり話そうぜ。いつ話せなくなるかも知れないし?」
予言じみた言葉に、ぴくりと眉を上げれば、カニスは瞼の合間から桃色の瞳を覗かせた。
「選ばれて特別な者同士、さ。仲良くやろうぜ」
特別、とわざわざ緩慢に強調して、カニスは悪戯に口の端を持ち上げる。そこだけは軽々に空気でも撫でるような語調ではなかった。
おれのような人間を総括する言葉。
それを強調する裏に、どんな意味が込められていたかは知らないでもなかった。おれに生まれついて回る力を指す言葉でもあり、少し考えれば反語でもあるから。おれが常々思う事でもあったから。
主語をおれから、彼奴に変えても成立するのだろう。酷いぐらい、ぴたりと嵌まるのだろう。
彼奴は部外者でないから、知ったかぶるなと悪態も吐けない。
それでも、踵でカーペットを蹴り潰す。特別という単語自体が、喉の奥を逆撫でしてくるようだった。
おれを見たカニスの、くつくつと喉の奥から押し出した笑い声がやけに耳の奥に貼り付いて、靴底を一際強く擦り付けた。
***
眩しすぎる、目の奥が酷く痛むような光が、我が国自慢の純白の城壁に照り返されて一層眩しく、忌々しい。一刻も早く、日当たりが最高の政治の舞台兼観光スポットから逃れたくて、早足になる。
目的地まで歩きながら、昔のどうしようもない記憶を一人で見返していた。歩いている間、暇をしているから思い出すのだろうか。
今日も例にもれず、彼奴の顔を思い出す。
あの時は、絨毯を蹴って終いだった。逃げ出した残党の報告が入ってきたから。迅速な処理で随分優秀な事だ。
あの時に限らず、大概彼奴の話はいつも突然に終わる。急に普通に戻って、普通に次の仕事に取り掛かる。彼奴も至って平板に先の処理に取り掛かっていた。
ただ、少し。おれの生まれつきの何かが当時とは正反対の名前で呼ばれるようになってから振り返ってみれば。
いつもいつも印象に残らないほど乾いた笑みを浮かべる彼奴が、特別、と毎度緩慢に強調しながら上げる耳に笑い声にどれだけの意味を含ませていたか。
今は知らない。
***
我が国には教会の本部がある。各地に点在する教会全体としての運営目標や方針を決めたり、実務面の裁定、つまり予算の管理、分配をしている。
全体方針とはいえ強制力は殆どない。従わないから裁判だって理屈は罷り通らない程度に、信仰の解釈は今や自由になっているから。
ただし、実務となると話は一転する。
先立つものに関しては誰も逆らえないし、逆らわない。理念やら信心やらを前面に出したとて、各地で渡り合うために必要なものは必要だ。多少税金への配慮があるとはいえ、備えがいつ尽きるかも分からない地区もあるのが現実である。例えば、隣の遺址の国の、スラムとの境目にある混沌としたあそこだとか。献金や予算の分配は諸々の配慮のもと行われる。
要は、内政の場だ。原則、管理者しか立ち入れない場だ。
教会本部は、我が国の城からそう遠くはない。外観は周りの民家と変わりがないが、白い壁だけは先程通り抜けてきた城壁と遜色ない。腹立たしい程輝いている。
鍵の掛かっていない扉を開けて、無難で地味な柄のカーペットを横断した先、左手にある階段を登り切った二階にはこの会の代表が用意した、各教会の管理者や限られた訪問者のための応接間のような部屋
――
要は、会長の部屋だ。
黒い扉を開ける。
室内の照明は太陽がある内は窓から入る光だけで済ませていて、堂々とカーテンが開け放たれていた。ちらちらと埃が光って漂っている中、奥にはクラシックな執務机がある。
逆光の中、書類が山積みで、その陰でぎいぎいと椅子が回っている。くるりくるりと回る一瞬、おれの方へ向いたその時、長い金髪が少し空気を含んで広がった。その人の頭の天辺は背もたれよりずっと低い位置にある。よく回る椅子の上で、つまらなさそうに膝を折り曲げて、片手に書類の一枚を持っていた。
ほんの一瞬、彼女の目線が微かに上がった。
おれは応接用のソファの脇を抜けて、机の前へ行く。
「あ、ソウじゃん! お疲れー。王様元気そうだった?」
「
……
ええ、まあ。相変わらず粘り強かったです」
執務机には不相応な幼い声が上がる。椅子を回していた張本人は膝を伸ばして、ぴたりと止まって、おれを見上げた。同時に、持っていた紙は机の上に投げられた。
子どものような体格と身長。でも髪から覗く耳は長く、尖っている。
彼女こそが我らが会長だ。
そして、人間ではない。精霊の類だと聞いている。
人間のための宗教でありながら、その組織のトップは人間ではない。市井では、何なら当然のように、真っ当に教会に所属したような聖職者ですら知らない事実だった。
教会という組織も、言外できない何かが織り込まれている。
頭の後ろを掻いて、息を一つ吐いた。それから、早速本題を、と会長に一つ、前段を軽く尋ねる。
「ルミナさんは、最近は陛下と話していないんですか。会長とも久しいからどうぞよろしく、と仰っていたので」
「ああ、そうね〜。あんまり話すと、それはそれで政教分離とかですっぱ抜かれたら面倒らしいし、しばらく控えたいって言われたの。まったく人間って面倒ね!」
薄い金色の目を瞬かせて、良く通る声で椅子にふんぞり返る彼女に、はあ、とおれは曖昧な返事を返すしかない。
よいしょ、と癖になっているのか、また膝を折り畳む仕草はいよいよ子供にしか見えないが、おれより、それどころか今生きている如何なる人間より、はるかに古い存在だ。国王に向けて、不満を気安く交えた応答ができるのは彼女ぐらいだろう。
全く外交向きのひとだ。
現に、教会で国家との外交を続けているのはこのひとだった。いくつもの時代を跨いで、今ですら全ての教会の管理者として君臨している。ただし、この事実が露呈すると、進歩性がないとか、保守が過ぎるとか、今後の世渡りに面倒な評価を貼られるから、会長の名前だけは定期的に変える程度の操作はしている。
まあ、当の本人はその名前を覚えていないから、おれを含め、対面できる立場の面子は本名で呼んでいるけれど。
面倒な秘密が絡む割に危なっかしい。でもこのひとは元より無関係でごさい、という顔をして、いつも無邪気で、それでいて口は良く回る。
多分おれは、このひとが苦手だ。
微かな気まずさを誤魔化すように首の後ろを押さえると、会長は頬杖をついて喋りかけて来た。
「で、王様とは、また、こっちにおいでよーとかそういう話をした感じ?」
また、と強調して机を指で叩く。
話しぶりを変えずに、ぬるりと本題に入られては、ここに来るまでに回顧していた、かつての知り合いが過る。緩急の激しさが、過去に良く被る。
会長の言葉は間違いないので、すんなり頷く他なく、いつものように勿体ぶった前置きで言葉をせき止める気もなくなって、すらすらと一足飛びに結論が口から出た。
「そうですね。一旦教会と話し合う、で今回も逃げてきましたが」
「成る程。ずっと同じ話してて飽きないのね、王様ってやつは。祝福とかを人材資源としてなんとかーって回りくどい処遇とか転籍とかの話、またしばらく続きそうで嫌だ嫌だ」
彼女は心底面倒くさそうに眉を寄せて、腕を組む。きいっと椅子が甲高く軋んだ。
「教会としては、本人の意思に反してまで引き渡す気はないって言っているんだけど」
「その本人の意思がどうにかならないかを交渉されていますね」
「えー面倒! こっちの秘密の目的知ってるなら尚更分かるでしょ、言いたい事!」
いーっと想像上の陛下に威嚇している会長に、はは、と息を漏らすように曖昧に笑うしかない。我が国王陛下がここに見えたなら、何を宣うだろう。
先程まで極個人的な会話をしていた人の顔が浮かんで、苦笑が深くなる。
陛下とはこの頃、毎日とは言わないが、それなりの頻度と熱量で、わざわざ教会を通して、おれとの内密な会話を繰り返している。
埃の一つもないような部屋を一室丸ごと使って、それでいて陛下が連れる人は精々二、三人程度だから、誰も座らない椅子の背もたれの艶がやたら目立って、却って閑散さを引き立てていた。反面、陛下の話し振りはいつも随分と熱心で、しつこいぐらいに、過剰な言葉で遠回しに個人的な提案だと念を押してから仰る。
国家の下で働く気はないか、と。
既に聞き飽きてしまった文言におれは曖昧に微笑む。そんな茶番を繰り返している。
陛下は随分と、おれを御膝元に置きたいらしい。そうしたい理由は分からないでもないが。
でも目の前のこのひとは、きっと分からない。心底から理解していない。
だからこんな外交を続けられるのだと確信している。
現に彼女は、今直ぐにも陛下に直訴せんばかりの勢いで、腕を上げたり下ろしたりと忙しない。本当に子供の駄々と遜色ない。実際城が近所にあって、立ち上がってしまえば、彼女なら本当に実現できてしまう権力すらあるが、そこには目を瞑っておきたい。
咳払いをすれば、会長はぴたりと止まった。その一瞬を逃さずにつらつらと言葉を並べ立てる。説明、は端から諦めているから、おれと会長の間にある机や空間に、形のない言葉を詰め込む。無意味と知りながら。
「寧ろ知っているからこそ、じゃないですか。国としては、教会には随分特殊な人間が、しかも宗教と全く無関係に集まるから尚更、直接触れたいんでしょう。教会は決して反社会的な組織ではないですから、接触しても本当の致命傷には至りませんし」
教会の特殊性は宗教だけではない。決して信仰と神話だけでできた訳ではない。
そこはとても良く理解している会長は眉を顰めた。口を真っ直ぐに結びすぎて、唇を噛みかけている。
「ここには本当に、特殊な人がいますよね。会長みたいに人間ではないひと、魔力が一つの器官に固まった人」
左手でひとつ、ふたつ、と指で数えながら、「何より」と強調する。
「皆が過剰に有難がる、あるいは恐れる所の祝福とか呪いとか呼ばれるものを持っている人間がいる。正に、おれのことですね」
三本目の指、薬指を立てて、わざとらしく目を細めてみせれば、会長は腕を組んで、それでも顎で続きを促す。
「おれ一人取って見ても、傷を、致命傷でさえなければ、傷の大小を問わず全てなかったことにできる。最大限人を死なないようにできる。医療も理論も一足飛びに。因果関係を遡ってしまうような力は、色々と使えますよ。良い方向にも、悪い方向にも」
全ては使い方次第だ。今ではすっかり聖職者然とした、おれの特性も例外ではない。
見方を変えれば実に単純だ。死なないようにできるという事は、最後の加減さえ間違えなければ、何をしても殺さずに済むのだ。尋問に使えれば大層便利だろう。暴力が言語の世界でも相応しい使い方はいくらでもあったし、いくらでも使ってきた。今ですら、そちらの方が親しみ深い、と言ってしまっては不適格だろうが。
要するに、法外な何かだから特殊な存在に括られている。何にでも使える、強大な何かに他ならない。
「つまり、国家はそういう存在を反乱因子とみなしたって、抑止力や国力として使おうとしたって良い。治安を大義名分にできる程度の妥当性はある。そして、そんな数少ない特殊な存在が複数人も、ここにいる。宗教でカバーできる話ではない、政治の管轄に十分なり得る」
立てた指を戻した左手を、執務机に静かに置く。体重を少しだけ掛ける。
「それに」
一瞬、逡巡して言葉を切る。この先は推測が織り交じった、やや下世話な話が続く。
が、まあ良いか、と口を開いた。どうせ会長しか聞いてはいないのだ。詰め込むだけ詰め込もうとしている今、止める理由もない。
「うまく行けば、そういう抑止力として公に予算も回せますからね。宗教の話をしていないと示せれば、ルミナさんとの話し合いも今よりずっとやりやすくなりますし。であれば、国が無視する理由があると思いますか?」
「
……
経験上、放っておいてはくれないわね。ずっと何かしらの話はある。今だって正にそう! ソウが聖職者辞めるって知った途端、またしつこくなっちゃって!」
「分かりやすいですよね。次の就職先にって事らしいですよ」
「次、ねえ
……
」
机から手を離し、姿勢を正す。
会長はもごもご呟いたかと思えば、わっと叫んで思い切り机に、広げていた書類の上に躊躇いなく突っ伏した。ごつ、と鈍い音が響いても、林立した書類の山も、こちらに向けられたつむじもぴくりともしない。それから、長く空気が抜ける音が、目の前のひとから聞こえてくると、いよいよ滑稽だ。
無造作に黒い机に広がった細い金髪は、奥の窓から差す太陽を照り返して、きらきらと輝いていた。
不意に眩しさを錯覚して瞼を降ろす。こちらも一息入れるが、言葉を吐き出すの舌は乾いていない。
「そう、次ですよ。おれは、いや、おれの鯱張った呼び名の力は、いよいよ世間向けの聖なる建前と文脈を失う」
言葉の選ばなさが、どんどん昔に戻って来ている自覚はあったが、止められない。寧ろ半分は止める気がない。語れば語るほど、言葉が足りなくて溢れてくる。宛ら飢餓だ。腹の底から飢餓感擬きに突き動かされて、語り尽くせない所まで語り尽くさなくては気が済まなかった。
「大体、始めから、世間に向けた説明に教義や神話を織り込んでも、おれがそこから離れれば意味を成さないのは分かっていたでしょう。
……
離れる可能性も予期していた筈だ。昔は分かりやすい方だったでしょうし」
「んー、まあねえ。昔は顰め面で、喋ってくれなくて、神様の話をすると黙ってるのにトゲトゲしてたし。想定してないって言ったら、嘘かもしれないわ」
「なら、分かりますか。おれの言いたい事」
会長は顔を上げた。割れた前髪から見える額は赤くなっている。
丸く開かれた瞳を、外の白い壁を光で染めたような薄い金色を見下ろす。
揺らぎもせず真っ直ぐなそれに、腹の奥から込み上げるものがある。純真と称する、忌々しい無知をそこに見る。細めた視界で見据える。
頭の裏では錯覚だと分かっている。長い事、教会を存続させた会長が後ろ暗い現実を知らない筈はない。歴史上戦争も抗争もあった。教会を保ったのは間違いなく彼女だ。
それでも余りにも真っ直ぐで、透き通った瞳に彼女が存在していたはずの長い時間を感じられないものだから、傷が皆無だから、純真、つまりは無知だとおれは評価してしまう。
だから上から潰したくなる。首を潰したくなる。おれの歪んだ認識で解釈した現実を見せたくなる。
でもおれの悪癖という自覚もあるから、手を出さないだけの社会性もあるから、言葉を吐き出す。
「結局、厄介な火種に過ぎない。
……
特別が過ぎるから」
特別、とおれが口にすると、耳の奥で彼奴の緩慢な強調が蘇る。
彼奴も大概特別だった。
しかし、彼奴が含ませた意味と、おれが感じる所は、本当に同じだったのだろうか。
今更、考える。昔は同じだろうと疑わなかった部分はあった。が、今のおれの立場を語る内、見えてくるものがあった。
おれと彼奴は確かに特別に一絡げにされたが、性質は全く違った。器官が特別と性質が特別では意味も扱いも違う。器官を取り除けば無効化できる力と、何をしても除けない力では、どうしたって。事実、彼奴はおれより軽んじられていただろう。加えて、生まれも血縁も明確な彼奴と、根無し草のおれでは比較すべくもなかったのではないのか。血縁という得体の知れないものの中に、おれの知らない文脈があったのではないか。
きっと彼奴とおれは違っていた。その上で、彼奴が強調する裏に何があったのだろうか。今更知る事はできない。
後悔はないが引っかかり程度はある。
しかし、丸っきり違う訳でもない。何せ、一般人面はできない特別ではあったから。
「大体、全部産まれたときからあっただけだ」
これだけは確かに彼奴と同じだと思いたい。
「なまじ使えるだけに厄介ですね。国のように利用するでもないなら尚更、損まである」
言葉を落とせば、会長の不満を表すようにまた椅子が軋む。ぱちりと両目を瞬かせて、それから、静かな溜め息が流れた。
はあっと息を吐ききって、会長は机に身を乗り出して、人差し指を前に突き出す。
「教会の目的、言ってみて」
「どっちのですか?」
「明らかじゃない方! 分かってて聞いてるでしょ?」
頬を膨らませる会長に肩を竦めた後、答え慣れた回答を答える。
「祝福や呪いを始めとした特殊性故に、差別された者達の保護、ですか?」
「その通り! そして、これは今も一番の目的! 厄介とかじゃないとか、損とか得とかじゃないの。分かる?」
「
……
ここに来たときに言われた事と同じだという事は覚えています」
「なら結構。保護対象だから保護してる。使えるものは全部使ってね。それだけ!」
五、六年前と同じようなウィンクをして、会長はからりと笑った。
こういう所が、と目を伏せる。何を言っても聞かないし、理解しない。純真な面をして、確信に満ち満ちているから、苦手だ。
同時に眩しさを覚えて仕方がない。
「だっていうのに、王様はさあ! いや、声掛けが駄目っていう訳じゃないけど。
……
そもそもそういう取り決めをしたのはこっちだけれど。でもこれ必要だった?」
おれが思う矢先にころころと調子が変わるひとでもある。会長はすっかり元の調子で、早口に喚いている。自問自答染みた問いに口を出す。
「必要ではあるんじゃないんですか。育ちが悪い訳ですし」
「そういう事言わない」
「じゃあ開いて言いましょうか。おれは所謂、裏社会で育った割に鉄砲玉でもなし、そのくせ報復もなし。監視対象兼情報源にはなるでしょう」
「
……
それはそうだけど」
つらつらと事実を述べれば、会長は今度はのけぞって、背もたれに体を預ける。それからまだ赤い額を擦って、はあ、と一際大きなため息を吐いた。
それから人差し指で、顔の横に垂れた金色の髪を一巻き、二巻きしながら彼女は続ける。
「てか、ソウの監視って言っても、別に今でも十分間に合ってないの? 今の事は適宜報告してるし何ならそっちがこっちに私服で見に来てるでしょ。マフィアとか、あと力に関する情報も今だって、不定期とはいえ、別に分かっている事は出し惜しみとかしてないし。あくまで目的は保護! 独占じゃない」
「まあ、そうですけど」
「それに! 祝福とか呪いとか呼ぶ力だって、あっちが直接管理しなくても依頼の度にこっちが直接派遣しているでしょ! ボランティアとして! タダで!」
次第に熱が入る会長はわしわしと髪を掻き乱しながら、とんでもないけれど確かな事実を平然と、軽い愚痴でも吐き出すように吐くから、一転言葉に詰まる。表でヘマをしないから長くここに座っているとは理解している。けれど、関係者として冷や汗の一つぐらいは流れる。
首にやっていた手を下ろして、一呼吸置いて、つい言葉を選びだしていた。
「
……
それ、表で言うと大問題ですよ。表向きは政教分離なので。今の所は宗教団体にしか見えないですから、国が秘密で何かを依頼しているだけできな臭い」
「でもねえ、実際。本当に! 優遇云々とか関係ない、シンプルな人材派遣の依頼なのに? 国だって使うでしょう、業者を! 建物建てる時とか!
……
って、依頼が来るときは大体普通の時じゃないし、単なる人材派遣なのに秘密にしているから裏の報酬関係で炙られてお互いに立場が悪くなるって事ね、把握」
良く回る口と同様に頭も良く回って、ちゃんとごもっともな結論を会長は導きながら、それでもきいきい喚いて髪を横に思い切り引っ張って首を振る。窓から差した光を浴びて輝く細い金色を遠い目で眺める。
「もう、お互いのリスクを持ち出さないでよね! いざとなった時のリスクカットもできるんだって考えざるを得ないんだから、尚更交渉進まなくなるんだって!」
「事実リスクカットの手段でしょうしね」
「許せねえ。全てが」
「口悪くなってきてますよ」
「今は子どもいないからセーフだわ。セーフ!」
言い訳をしつつも、一拍置くだけでこほん、と咳払いで一つで切り替えて、会長はちりちりに散らした髪に手櫛を通す。
「それに、結局取り決めのせいで、ソウは板挟みの二者択一でしょ。教会は合わない。でも教会を抜けたら国に行くしかない」
「
……
まあ、それは」
本当に二択なのだろうか。
兄弟、と懐っこく呼ぶ声とガラスが割れる幻聴が聞こえて、ゆっくりと首を降る。
今や何の意味もない左手を握ったり開いたりして、衝撃なんか何もない事を確認している。それでも感覚として、あの頃の暴力の残滓を思い出す。今だけでも、ここに来るまでの道だけではない。不意に思い出すようなありふれた記憶だった。目に痛い朝日が直撃する度、教会で思ってもいない弁舌を奮う度、思考と言葉の隙間に浮かび上がってくる。
でもいつも自分の身体の感覚ばかりで、肝心の被害者の呻きや藻掻き、苦悶の筈の表情がまるっきり浮かばないのだから笑えてくる。
笑ってしまったが最後、戻れなくなりそうだから、ふっと変な深呼吸の振りで誤魔化している。
「
……
おれの過去の事を帳消しにしているので。そういう報酬、もといあなた方の取引の結果だから当然ですね」
引っかかった痰を吐くように、引っかかった呼気が言葉に混じった。
あの頃の暴力の残滓は今も影に組み込まれている。
「子どもの、しかも苛烈で特別な事情の下にあった子どもだから、諸々の発言と責任の有無から却下して、おれの所業はなかったことになった。
……
当時は推定でも十三歳だから、そんな理屈は通る訳がないのに」
「そうね。あの時も色々とお話したわ、王様と。身寄りがない事、メンタルケアや教育、と前犯罪行為の更生? そんな建前で入れたわね、ソウの場合」
「そんな建前もありましたね。今思い出しました」
「絶対嘘」
「どちらでも良いじゃないですか。どのみち、事実がないから罰もない。代わりに、おれは政治的理由がなくては成り立たない所にずっと居なくてはならない」
唾を嚥下する音がした。どちらがそうしたかは曖昧だったしどうでも良かった。
おれの血腥い過去は現在の歪な立場に繋がっている。それでも、子どもがした事では土台済まされない過去への処遇は存在しない。大人の事情に政治的な理由と思惑で、表に出ないように押し込められている。
それでちゃんと全てがなくなる訳ではないのに。
視界を細くする。笑っているのか、睨んでいるのか、どちらでも良かった。どちらも間違いではないから。
ふとした時の幻聴と幻覚と、それらへの無関心が裏付けるように、至極真っ当な因果関係の下、過去は逃れられない事実として確かに鎮座している。
会長はするりと髪から指を抜いて、それからまっすぐとおれを見上げた。薄い金色の瞳は細められも広げられもしない。
「恨んでる? 結局、二択を迫っているのはこっちだから」
真面目な顔。真面目な口調。はしゃいだ早口も鳴りを潜めている。黙って瞳を見返すと、彼女はゆっくり一回瞬きをしてから続けた。
「私はね。こんな事、馬鹿馬鹿しいと思っているわ。貴方の言う通り、人間が祝福とか呪いとか呼ぶものはただの力で、生まれついた時の結果でしかないのに」
彼女は珍しく静かに声も落として、それからゆるりと瞳を細める。
「そんなつまらないもので、裏表と利用と誰かの何かを気にしないと上手くやれない人間の事」
彼女は馬鹿馬鹿しい、と繰り返しながら、それでも慈しむように囁いた。
あらゆる事を許して、飲み込んでしまいそうな、とろけた眼差し。
そこに光の粒を幻視した。眩い程、辺りを白く明るくするような、明らかな錯覚をいつもいつも覚えさせるこのひとが、おれは、本当に。
忌々しい。
クラシカルな執務机越しにおれが見つめる事になったそれには、教会ではない所でも、痛い程覚えがあった。昔も、似た眼差しを向けられていたかもしれない。デジャヴは記憶を辿ればはっきりした輪郭を持って、特定の人物に収束していく。
どうしていつも、長の冠を被る者の眼差しは似通っているのだろう。確かにある記憶の中、冷酷であるべき人も、同じものを向けてきた。
記憶のフィルターがかかりそうで、だから、一回僅かに視線を外して、息を吐く。粟立つ何かを、右腕を擦って誤魔化しながら、呟く。
「力をつまらないで済ませるのは、精霊らしいですね」
素直な感想で、皮肉はない、と言えば半分は嘘になる。
我ながら嫌らしい捨て台詞に、会長はむうっと頬を膨らませて、そして先程までの光の粒も霧散していった。
「絶対逆だから。人間の方が利用したがりすぎ! ポテンシャルとか可能性とか色々分からない事言って!」
やいのやいのといつも通りまくし立てる彼女に、少し顎を引いて、密かにずらした視線を戻す。
「建前になってる更生だって人間専用の概念過ぎて手に負えないわよ。変化とか、成長とか、よく分かんない! 何で変わる事を前提にするの? それを建前とか言い訳に使っても良いの? あとただただ単純に子どもだから問答無用で預かるじゃ駄目な訳?」
「最後のは誘拐と変わりないですね、それ」
「それは!
……
そうかも!」
また言い出した滅茶苦茶に釘を刺せば、会長はくしゃっと相好を崩して、その割にそっと指を添えて恥じらうようだった。
毒気のない顔だ。逆光なのに影が見えないような錯覚を覚えたものだから。
「別に、今更恨まないです。ただ憎いなあって。それだけ」
答えを一つ、呟いた。会長に向けて、というよりは、その手前、書類の山が林立するその合間に。
「平穏に過ごせるなら、それで十分です」
胸の内、足元に存在するものは今更どうにもならない。結局子どもの頃と同じものを同じだけ憎んでいて、感情は恨む事と限りなく近い形をしているけれど。目に映るものの殆どが嫌いなままだけれど。
それでも、ここで初めて少しずつ見えるようになっていくものが増えた。今まで何が見えていなかったか、何を見なかったか、ほんの少しだけ受容している、つもりだった。
脳裏にちかちかと粒みたいに小さな光が瞬いている。
腕を組み直して、会長を見下ろせば、彼女は目をしばたたかせた。
困惑している会長の表情を初めて見たような気がして、だからおれがさっき何を感じていたか、教えたって良かった。
「
……
笑ってる」
「まあ、昔よりは取り繕えるようになったので」
「そうじゃなくって! 分かってて言ってるでしょ!」
けれど、シュールなぐらい真面目に喚いて、きゃあきゃあ会長は食い下がるから、揶揄うように小さくを肩を竦めるだけにする。
やっぱりちょっとは、はしゃいでいる方が良い。勘の鋭さだけで全てを当てられては二番煎じでつまらない。
これ以上、おれの中に居着いたものを、おれ自身の無自覚の産物から拾わせないようにと、話を切り上げる。
「では、今日陛下と何を話したかの概要はお伝えしたので戻ります」
「ちょっと待ちなさいってば! もうちょっと詳しく!」
「いつもと変わりなかったので、これ以上話してもつまらないですよ。きっと」
「つまらないとかはどうでも良いけど
……
でもいつも同じって言われると、それはそうで
……
あーもう! 話す理由がなくなっちゃった!」
「じゃあ、丁度良いですね。おれは牧師としての仕事もまだあるので。ルミナさんは会長としての予定があるでしょうし」
先の予定の面談でも理由をつければ良いのに、勝手に語るに落ちた会長は頭を抱えている。
何とか引き留めたがる唸り声に踵を返し、出口のドアノブに手をかけた時、多分今日は喋り過ぎたのだろう。仕事以外で広長舌をふるう事などなかったからか、それとも長話など言い訳で、金色の星がまだ脳裏にあるからか、かつての暴力の残滓への馴染み深さを改めて認識したからか。
あるいは、今、ここで、会長の希うような唸り声に後ろ髪を引かれたからか。
頭が余分に回って、ふと、いつか聞こうと考えていた事を思い出した。いつか聞かなければならない事でもあった。
動機は曖昧なまま、ただ今、ここで聞いてみたい気持ちだけは確かで、ゆっくりと振り返る。
「本当に良いんですか。不信心で、厄介極まりない人間がここに残るなんて」
前々から良く聞かされていた事ではあったけれど、自分から確かめたのはきっと初めてだった。
妙に鋭い会長には、おれの言い回しが伝わったようで、はっと目を丸くして、それから崩れそうなほどやわく微笑んだ。
「勿論。私も神様はいないって思っているのに、ずっとここに居るわ。これからも変えるつもりはないし。だって本当に、いないんだもの!」
光を湛えるようで、眩しくて、子を見つめるようで。
「でも愛すべき、愛に纏わる概念なんでしょう。なら、肯定も否定も、何も悪い事なんか無いわ」
全く、忌々しい。
こうやってまた問題塗れの台詞を軽快に飛ばす。
この組織、教会という集団の長が神の不在を唱える事に、異端染みた解釈に、呆れれば良いのか、安堵すれば良いのか、感情は曖昧にぼかしたまま息を深く吐いた。
会長としての自覚がないようで、あるようで、秘密と暴露の合間をふらふらしながら、ずっと会長自身は自分の意志に留まっている。
でも、だからこそ、教会は当初の目的を未だに果たせているのだろう。
長がそれを忘れずに、誰より徹底しなければ、第一原則を忘れた馬鹿が現れる。
結局、何処も同じなのだろう。おれの数少ない選択肢では尚更。
だったら、おれが一番得する方を選んでも良いのかもしれない。おれが選びたいものを選べる方を。
だから、おれの選択はマシな方なんだろう。
喉の奥から湧いてきた誰かのための建前を整えたがる言葉と笑声を、唾と一緒に腹の底に捨て去った。
「なら、良かったです」
それだけ返して、おれは部屋を出た。外では穏やかな日差しがまた目に痛いのだろう、と思い返して、深く息を吐く。
足元に組み込まれたものが蠢いて、平穏な世界の中での生活には未だに慣れそうにない。もう、ずっと慣れないのかもしれない。光の中には適正はない、とも思う。でも、それでも、と逆接を繰り返すのは、きっと。
階段を降りようと、ちょっと目を伏せた隙に、黄金の星が閃いた。はっと辺りを見渡す。当然だが、閑静で薄暗い踊り場があるだけだった。
胸を軽く押さえる。鼓動している。
ああ、もう手遅れだ。単純な話だ。投げ出された平穏な生活の中で、あんなものを見出して、目に映るもの全てが大半嫌いなものばかりな気性の割に、あれを受け入れられた。受け入れてしまったので、今度は欲しくなった。だから選び取りたい。
根っこが全く不適格だ。言語は、説教という名目で訓練を積んでも、未だに昔の残滓が漂って歪だ。
それでも、事実を粉々に磨り潰した影を晒しながら、日の下で生きていきたいのなら、痛みは付き物だろう。
外への扉を押せば、真向いの白い壁に光が反射して、眩しさに眇める。しかし、日はやや傾いて白い壁の上に、建物の影が良く伸びて重なっていた。
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