アンソロ題の影響もあって、最近、アラン著『幸福論』を岩波文庫版で初読しているのですが、呂岳って著者アランの考え方を地で行ってる解釈も出来るし、アランが例示として挙げている人たちの側である解釈も出来るのがメチャメチャおもしろいなーとメチャメチャ感動しておりまして。アンソロの題に改めて感じ入りますねぇ…
私の場合、呂岳の解釈や描き方が、どちらかというと達観寄り(真の理知性を有して、自分の考えで生きることにためらいがない)で、趙公明も地でそっち側をより究めている存在ではあるのですが、どちらかというと趙公明のほうが、自分の地と違う何かが起きたときに少し混乱する側になりやすいかなと。
趙公明は人間の感情の機微や道理とかもちゃんとわかるんだけど、自分のなかで起きることについて、それを人間の尺度に当てはめるという発想はない。呂岳は、自分の道理や理解を外れる出来事があることを理解しているので、超越者や自然の出来事について、理解の限界があることを理解しており、それはある意味の諦めでもある。
当方のアンソロ寄稿作での描き方は、このへんが出ているかと思います。
アランの考え方として、下記の二点が大きいかなと。
・身体は思考に忠実に働き、感情は身体や状況のその時その時の状態により都度都度生じるものでしかない。身体や感情について考えることは、真の理知性や真の思考ではない。その考えているつもりの状態は、心身をさも実際にその内容めかして追い込んでゆくものである。
・健やかな心身は、真の理知性により生じる真に健やかな思考により生じる。不幸や不健康について考えているとき、その者が幸福や健康に至ることはない。心身が病的であるとき、心身は実際に病気となる。想像上の病みで心身を実際に病む(苛む)ことと、実際の事実として体が病の状態に在ることとは別物である。想像は同じ苦痛を幾度でも生じさせることができるが、現実においてまるきり同じ条件での苦境が二度生じることは決してない。そして、苦痛にせよ事実(現実としての今)がなければ、その次の状態(すなわち、時間としての将来)も生じ得ない。お先真っ暗に見えているとき、それが現実であるならば、突然命を奪うような出来事さえなければたとえ今真っ暗に見えようとも将来は来る。
呂岳って、こういうのを、なんか達観として理解してる印象があって。それがどの程度自覚段階にあるのかとか、どこを特に表象として抱いているかで、呂岳の解釈や描き方が変わってくる印象を抱きました。
呂岳の場合、無意識に理解してるだけで、だからこそ一歩引いた悲観も出来てしまい苦しむ、という解釈もできるし、その理解が表面化している由来の諦めをはらんだ、諦観じみた達観に在るという解釈も出来るし。
私の場合、呂岳の捉え方として、彼は、自身の思考や価値観を純然一般的たる健康や幸運のために活かしているのではなく、自らがどうしたくて自らがどう在りたいかという一種の真っすぐさのために使っている、という印象がベースに有るかんじがします。
たぶん、呂岳の場合、自身が苦しんでいて悩んでいるときに、それが自分の感情によるものだと理解しているから、それを解消しようともがくことも出来る。一方で、私の場合は、呂岳は理解してなおその感情由来の苦しみを自ら助長することも出来るし自ら救うこともできるが、感情による苦しみの推移さえ、彼は自らを被検体として鑑賞し楽しむことさえできる、という印象を抱いている。私の場合、この意味で趙公明と呂岳を近い存在と捉えている気がします。そして揺らぎが生じ他方に救われるのが趙なのか呂なのかで、呂趙なのか趙呂なのかが変わってくる印象です。
呂岳は、自分の思考ですべてが変わることを理解しているから、彼は自ら不幸に陥ることもできるし、どんな状況だろうとどんな感情や価値観だろうと、それが一般論で狂っていようとひずんでいようと常に幸福であることもできる。そしてそれが趙公明の箱庭“で”ともに在ることなのか、それとも、趙公明“と”箱庭にともに在ることなのかで、趙呂か呂趙かが変わってくるのかなーと思いました。
その意味で呂岳は、アランの考え方を地で行ってる達観に近い存在としてあると同時、アランの例示するような、自らを不幸に導く者の側でもある。双方の面があるんですよね。
呂岳は、自分が自分を操作しうる絶対者であると、理解している。そして同時に、超越者としての趙公明がより上位の存在とも理解しているし、趙公明を呂岳自らの上位存在に置くことを受け止めている。大自然じみたその超越性を、呂岳は呂岳を操作しうるものに置いている。同時に、それがまるきりの超越者でない、個としての生命であることも理解するようになっていく。
趙公明との関わり方は置いておくと、呂岳は、自分(ないしは誰か)が当人の感情ゆえの不幸に身を置いているとき、それが己の感情によるものなのだと恐らく理解している。呂岳の場合、それでもなおくるしむこともできるし、その理解により、自らを救うこともできる。趙公明との関わりを加味すると、その救済を趙公明相手にはたらかせることもできる。
呂岳はすごくクレバーな人間で、だからこそ、自らがどろくさくあがくことも、達観諦観の状態に在ることも、ある程度自分の意志で選んで陥れるものであると理解している。同時に、その自分の意志を、100%自分だけで選べない面も呂岳は人間くさく有しており、在りたいほうに在れないとき、それが何故なのか理屈できちんと理解している。それゆえに当然生じる苦しみに自らで自らを置いていることを理屈で理解しているし、救うために必要なことも理性では理解しているが、理解していても思うままにそれができないという解釈も出来る。その理解にある理屈を、身を救う行動として表象化するのか、それとも自分のことさえ観察対象と捉え助長メカニズムを放って置くのか、あるいは、脱したいのに理屈で理解しているそのメカニズムから抜け出せぬ苦しみに身を置くのか。このあたりの解釈で、呂岳をどう捉えどう描くかの差異が出るのがおもしろいですよね。
おもしろいですね~~呂岳……
(251210加筆)
呂岳は、自分がどう在りどうふるまうかが自分の脳内での出来事によりかたちづくられていることをすごく理解している人間なんだろうなと思って。
だから、狂人めかして振る舞いたいときは実際に自分の脳での伝達や分泌を意図的につくってると思うんですよね。理性と理解、理屈でそうしているから、くるって見えるのにすごく常識人ぽさもある。
自分で定めた振る舞いかたに合わせて、自分の思考のモードを切り替え、感情さえ作れるし身体の反応も作れるのかなと。
自分がどう在ろうとしているかに合わせて自分の脳を洗脳できるというか、自分のコントロール下に置いてる。
そういう意味で、すごくクレバーであると同時、他者一般からのつかみにくさをもしかしたら持つのかもしれない。
呂岳がそういう人間だと理解してる存在(趙とか、そのほか一部)からは、とてもわかりやすくて、好感を持たれたりもして。
だから呂岳は、自分の脳内で起きていることに苦しんだとき、その渦中にあり続けるしかできないという解釈もできるし、理屈でそれを抜けられる、自分で自分を救えるとも解釈できる。すなわち、苦しみの原因もメカニズムも分かっているのに、だからこそ、抜けられないことが苦しめる場合もあれば、その苦しみが浅く済んで早々にケアできる場合もあって。
呂岳は、自分の脳をある程度コントロール下に置いているから、自分の在り方、それもこころだけでなく身体さえも脳の状態によるのを理解していて意図的に道化になることができる。それは、呂岳が、自分の脳をそうだましたり、自分の脳にそうさせることができるから事実として身体に起きる。振る舞いが事実として裏打ちされる。それが真実である必要はなく、呂岳が自分にそうさせている。
その意味で、やっぱ、マッドさと冷静さをすごく併せ持つんだろうな。呂岳かっこいいですね~~意図的に道化になれるキャラ好きなんだよな
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