ri___hako
2025-12-09 00:00:37
17378文字
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嫉妬されたいロナの話


 嫉妬 | しっと | 名
 人の愛情が他に向けられるのを憎むこと。また、その気持ち。

 わかりきっていた答えを前に、はぁ、と一つため息を吐く。存外重くなってしまったそれに比例するように、また少し気分が沈む。これ以上画面を見ていたくなくて、そっと閉じた。暗くなった画面に、何とも言えない表情をした男が映る。それにもう一つ、ため息。
 一体何を調べているんだ、俺は。

 *

 発端は、とある女性が訪ねてきたことだった。
 珍しくホームページから予約を入れてきた依頼人。一体どんな人だろうかと思って待っていたら、若く真面目そうな女性が控えめなノックと共に現れた。
 ヒバナさんのような変な依頼かと思えばそうでもなく、家の近くに出る下等吸血鬼の退治依頼で。
 普通の人による、ありふれた、そしてまともな依頼。半ば吸血鬼のたまり場と化していたこの事務所でこんな依頼、果たして一体いつぶりのことだろうか。当たり前のことに感動すら覚えながら話を聞いていると、背後でガチャ、と扉の開く音がした。

「やあ、いらっしゃいませ。美しいお嬢さん」

 どうやら依頼人へ飲み物を用意していたらしい。リビングへと繋がる扉から姿を現したドラルクが、優雅な所作でカップを置く。芳しい紅茶の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
 この野郎、吸血鬼やおじさんが来ても大して何もしないくせに、美女が来ただけでこれだ。依頼人の前であるにも関わらず、むっと眉をしかめてしまう。
 正直、いい気はしない。だってそうだろう、この男、実は俺と付き合っているのだ。

 少し前、やけに真剣な表情をしたドラルクにソファに座れと言われた。いつもと違うものを感じ大人しくしたがったところ、好きだ、と。叶うならお付き合いがしたい、と、そう言われた。
 正直、驚いた。だって、そんな片鱗を一切見せてこなかったのだ。いつも通り料理をして、話して、バカなことをして俺に殺されて。毎日、そんなことを繰り返していた。なのに、好き? 俺を?
 信じられないと思った。またいつものように、俺をからかって遊んでいるだけなのではと。そんな心を読んだのか、それとも何も言わない俺に痺れを切らしたのか。ドラルクが、ソファに投げ出していた俺の手にそっと触れた。いつもよりひんやりとしている気がするそれに、びくりと肩が跳ねる。
 ゆるく握られた手。ほとんど力の入っていない、少し手を払えば簡単に離れていきそうなそれ。
 祈りのようだ、と思った。離れないでと、この手を掴んでと、願いを込めているようだと。いつも不遜な男が、おそらく初めて見せた弱み。
 だからだろうか、その少し震える手のひらを掴み返してしまったのは。

 ドラルクの態度に流されてしまったようにも思えたが、俺自身、あの時手を取ったことを後悔していなかった。
 むしろ、ちょっとした日常の中で、ああコイツ俺のこと本当に好きなんだな、と自覚するようなことが増えていって。そんな姿を見るたびに、心に暖かいものが降り積もっていく。
 例えば、ドラルクが作った料理を美味いと言った瞬間の少し綻んだ目元。ゲーム中に体を寄せてみたときの、「なに、どうしたの?」という甘い声。
 そんな些細な表情が、声が、いつの間にかたまらなく愛おしいものになっていて。その内に、もっと見たい、もっと聞きたいという欲まで生まれてきてしまう始末だ。アイツには、絶対言ってやらないけれど。

 気づけば俺は、ドラルクという存在にどんどんとのめり込んでいってしまっていった。
 仕事終わりに家に灯りが灯っていると嬉しい。おかえり、という言葉と共に出される温かなご飯を見ると顔が綻ぶ。ソファでうとうととしているとき、柔らかく髪を梳くほっそりとした指が心地良い。
 告白をしてきたのは向こうだというのに、俺の方が夢中になっている気がする。これが二百年超生きた男の包容力というやつだろうか。恐るべし、吸血鬼。

 だと、いうのに。

「お会いできて光栄ですよ、お嬢さん」
「えっ」

 ドラルクが依頼人の手を取り、そのまま流れるようにその手の甲に口づける。一歩間違えればセクハラで訴えられかねないその行動に、だが依頼人の女性はその頬を朱に染めた。
 時が止まったような、そんな気がした。

「何やっとんじゃこのクソ砂が!」

 ぎゅうと握りしめた拳を力一杯ドラルクにぶつける。ギャアと悲鳴を上げながら、いつも通り砂になるドラルク。驚いて身を引く女性にこのバカが申し訳ありませんと謝り、何すんじゃと目を三角にするドラルクをうるせえ馬鹿野郎と罵る。
 
 全くもって、いつも通りだ。いつもの、告白をされる前からの風景。
 なんだこれ。コイツ俺のこと好きなんじゃないの? 何で他の女の子にチューとかできちゃうの?
 そんなの、俺だってされたことないのに。

 わかっているのだ、この感情の正体は。情けなくも、俺は依頼人である女性に嫉妬心を抱いていた。自分よりも小さく非力な、女の子に対して。
 コイツは俺のものなのに、と。
 だが考えてほしい。これは俺が悪いのか? どう考えても、恋人の前で他人の手にチューする奴の方が悪くないか?
 今は日本で暮らしているとはいえ、ドラルクは海外で生まれ育っている。こういったことも、挨拶として当たり前のようにやってきたのだろう。
 でも、別に、やらなくたっていいと思う。ここは日本だ、わざわざ近寄って、手にチューなんて、しなくていいと思うんだ。

 そんなことを考えて、考えて、考えすぎて。そうしたら段々、腹が立ってきた。
 なんでこんなモヤモヤとしたものを抱えなければならないのか? どう考えたって、あの吸血鬼・セクハラ砂おじさんが悪いのではないか?
 ――なら、俺だって、同じことをしてもいいんじゃないか?

 *

「うーん……

 事務所のソファに腰かけ、腕を組んで低く唸る。
 うまくいかない。寄った眉間のシワに、自然とため息が出た。
 ドラルクへの苛立ちはやり返してやりたいという思いに転じ、そしていつしか、俺もドラルクに嫉妬されたいという願望へと変化していた。
 見てみたい。あのいつも余裕を崩さない男が、焦り縋りついてくるさまを。それこそ、告白をしてきたときのように。
 多分、当たり前になりすぎたのだ。俺が恋人として、側にいるということが。だから、あんなことを目の前でできてしまうんだろう。
 だったら、その当たり前をなくしてしまえばいい。俺はどこにでもいけるんだと、あの男にしめしてやればいい。
 待ってろドラ公。その余裕、俺がメッキのごとく剥がしてやるぜ!

 と、息巻いたはいいものの。

「全っ然、うまくいかねえ……

 『ドラルクに嫉妬してもらおう大作戦(仮)』は何の成果も上げられないまま、早々に暗礁に乗りあげていた。
 奴のように、他人とのスキンシップで嫉妬心を誘き出そうとしたのだが、あの男、本当に、そんな態度をおくびにも出さないのだ。
 昨日も退治人ギルドでサテツやショット相手にいつもよりスキンシップを取ってみたのだが、どうにも成果は振るわず。それどころか、いつものように俺をバカにするようなことを言ってくる始末で。おかげでギルドに滞在している時間だけで五回は奴を殺していた。

 相手が男だからダメなんだろうか。しかしだからといって、マリアやターちゃんにこんなことをするのは憚られる。マリアはともかく、ターちゃんにはセクハラ野郎の烙印を押されるだろう。考えただけで辛い。
 じゃあドラルクが面識のない人物なら、と思ったが、まずそんな存在がいない。俺の知り合いは奴とも既に顔を合わせているのだ。
 そんなの当たり前だ。だって一緒に暮らしているのだから。依頼人だってここに来るからどうしても顔を見るし、退治に着いてくるのもしょっちゅうで。
 
 ……あれ、これ、無理なんじゃないか? どう頑張ってもあの野郎にジェラシーを感じさせることなんて、出来ないんじゃ?
 いや、まだだ。まだ、何か方法があるはず!
 俺は半ばヤケになっていた。だって、ここまでやってきたんだ。何か成果がないと終わるに終われないじゃないか!
 スマホを手に、広大なインターネットの海から方法を探す。広告だらけの怪しげなサイトをいくつも開いては閉じを繰り返し。
 そうして、一つの答えへと辿り着いた。

 *

 ピコン、という軽い音と共に、スマホの画面が明るくなる。ちらりと見たそこには、想像していた通りのアイコンが浮かんでいた。自然と、頬が緩む。
 アプリを開くと、とある人物からのメッセージが映し出される。律儀な挨拶から始まる、何のとりとめもないそれ。だがその心遣いに溢れた言葉に、じわりと嬉しさが滲んだ。

「何だ若造、ニヤニヤとして気持ち悪い」
「うるせえ」

 ドラルクへの悪態もそこそこに、並べられた文字を目で追う。ひと通り読んで満足すると、そのままアプリを閉じた。ついでにスマホの画面も暗転させておく。ドラルクが同じ空間にいる中で返信まで返すのはさすがに憚られたからだ。

 奴の嫉妬心を引き出すために俺が取った手段は、いわゆるマッチングアプリというものだった。とはいえ、結婚相手が欲しいとか恋人を探したいとか、そんな真剣なものではなく。ただお友達になりましょう、くらいの軽いもの。
 それでも、初めは全く上手くいかなかった。メッセージを貰い、それに返信をする。ただそれだけだというのに、すぐにメッセージが途絶えてしまう。何がダメなのかわからないままに次が来て、またうんうん唸りながら返して、そして同じことの繰り返し。
 俺には向いてないんだ、やっぱりドラルクに嫉妬してもらうなんて無理だったんだ、と心が折れかけたところで出会ったのが、今やりとりをしている彼だった。
 紳士然とした態度に優しさの滲む言葉、そして何よりしっかりと返ってくるメッセージに、俺はめちゃくちゃに感動してしまった。返事があるって、こんなに嬉しいことなんだ。ごめんドラルク、お前からのRINEもこれからはちゃんと返すようにするからな。

 騒がしい日常の中に少しだけ流れ込む、穏やかな時間。そんな友人とのやりとりに、俺はジョンとは違うベクトルの癒しを感じ始めていた。
 新たにできた、顔も知らない友人。彼の名をヘンリーと言う。

 とは言っても、本名ではないだろう。俺だって、ロナルドという名も、当たり前だが本名で登録もしていない。このご時世、本名をインターネットに流すことのリスクは重々承知している。こういったアプリならば、余計に。向こうだって、俺が登録している名前を本名だなんて思っていないだろうし。
 話を聞く限り、ヘンリーさんは年上の男性のようだった。年齢を聞いた俺に、いい歳したおじさんだよ、と返してきたからだ。さすがに同年代ではないだろうし、彼の柔らかな物腰からも年上であることは納得できた。
 同じ年上でもドラルクとはえらい違いだな。そんなことを考えて、また笑みが浮かぶ。

「まーたニヤニヤしとる! エッチなお姉さんのことでも考えてるのか? どれだけ妄想しても現実にはならんのだから諦めろムッツリルド君」
…………
「グエーッ無言で殺すなバカ!」

 本当、なんでこんな奴を好きになったんだろう。眉を吊り上げながら再生するドラルクを見下ろす。
 お前のこと考えてたんだよなんて、口が裂けても教えてやらねえ。

 *

『近く、お会いすることは出来ないでしょうか』
「え……

 ヘンリーさんからそんなメッセージが届いたのは、それから数日後のことだった。
 会いたい。まさかそんなことを言われるなんて考えたこともなくて、素直に困惑する。彼はずっと、俺と会って話したいと思っていたのだろうか。
 ドラルクに嫉妬されたくて始めたこのアプリも、結局成果は振るわなかった。俺がスマホと向き合っている間も、奴はいつも通り家事やゲームに勤しんでいた。接触など、時たま手を繋いだり文字通り身体を寄せたりするくらいで。チューなんて、夢のまた夢の話で。俺たち本当に付き合ってるのかな、なんて少し落ち込んだりもして。

 あっ、なんかムカついてきた。
 せっかく恋人になったのに、全然いちゃいちゃできないし、バカにしてくるし、嫉妬も全然してくれない。それなのに、会ったばかりの女の子にはその唇を寄せる。
 そっちがその態度なら、俺だって見ず知らずのおじさんと会ってもいいはずだ。というか、こっちの方がよっぽど健全だろう。せいぜいが会って話すだけで、接触すらしないだろう。だから、これは決して、浮気なんかじゃない。半田やカメ谷と飯に行くのと同じようなものだ。
 そう、半ば自分に言い聞かせながら即座に返事を打つ。鉄は熱いうちに打てって言うし。それに、この決意を鈍らせたくなかった。すぐに返ってきた『楽しみにしています』という文字に、ズンと胸が重くなる。
 
 だって俺は、この人を利用しているのだ。恋人に嫉妬されたい、なんていう俺の自己中心的な思いに。今だって、ドラルクに腹が立ったから当てつけのように了承しただけで。それなのに彼は、純粋に喜んでくれている。
 俺とヘンリーさんはただの友人だ。それなのに俺は、最初からよこしまな思いを抱えながら彼と接している。
 向こうに気づかれなければ問題ない、なんて、そんな都合よく考えることは出来なかった。

「ロナルド君」
「っ、」

 考え込んでいたせいか、ドラルクが近づいていたことに気がつかなかったらしい。突然声をかけられ、驚愕に肩が揺れる。

「なんだよ、突然」

 奴の方へと振り返り、思わず一歩下がってしまった。だって、近いのだ。なんというか、いつもより一歩分、距離が縮められている気がする。射抜くような赤い瞳にギクリとする。俺が離れたからか、ドラルクの眉尻がピンと跳ねた。
 あれ、なんでコイツ、こんな機嫌悪いんだ?

……おい、ドラ公?」

 ムスリと黙り込んだままのドラルクに、つい気遣うような言葉をかけてしまう。俺は何も悪いことはしていないはずなのに。いや、しているかもしれないけれど。でも気づかれていない、はずだ。

……ロナルド君、今度デートしようか」
……え!」

 芳しくない表情から思いもよらない提案が飛び出してきて、思わず声を上げた。デート。そういえば、まだしたことない。それどころか、そんなことを言われたのも初めてだ。
嬉しさでだろうか、「す、する」と答えた声は少し上擦ってしまった。俺の態度がお気に召したのか、ドラルクの顔が少し綻ぶ。

「ふふ。じゃあそうだな、来週の土曜なんてどう?」
「え……

 だが、続けられた言葉に、俺はつい困惑を滲ませた声を零してしまった。来週の土曜。つい先ほど予定を埋めてしまった日だ。
 ドラルクとの初めてのデート。しかも、あっちから誘ってくれた。行きたくない訳がない。
 でも、そのために、ヘンリーさんとの約束を反故にするのか? 先に決めたのは、あちらとのものだというのに。
 ずっと、彼に罪悪感を抱いている。その上、ごめんなさいやっぱり無理です、と言うのか。そんなの、あんまりじゃないか。

「ど、ドラルク。ごめん、その日はちょっと……
……ふうん」

 途端に、ドラルクの機嫌が急降下する。二つの赤が俺を責めているように見えて、視線を逸らしてしまった。瞬間、後悔する。奴の表情が見えない。いまドラルクがどんな顔でこちらを見ているのか、わからなくて怖かった。

「私とのデートより、大事なんだ」
……っ」

 拗ねているような、不機嫌を隠さない声。
 そんな訳がない。ドラルクとのデートより大事なことなんて、あるはずがない。
 そう言いたかった。お前が一番だと、声を大にして宣言したかった。
 でも。

……仕方ねえだろ、先約だ。別の日にしてくれ」

 突き放すように言うと、ドラルクがそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。逸らした目をそのままに、事務所の方へと逃げ込む。バタン、という扉の音が、いやに大きく聞こえた。

「はぁ……

 どかり、とソファに座り込む。静かな空間に、重いため息が溶け込んでいく。
 ドラルクのいる居住区からは何も聞こえてこない。喚き声や地団駄のひとつでも響いてくれば、奴の心境もわかるというのに。それならば、よかったのに。
 あいつが怒っているのか、悲しんでいるのか。それとももう、俺に愛想を尽かしているのか。こんなに静かにしているなら、後者かもしれない。

「ビ……

 項垂れていた俺の手に、ひんやりとしたものが触れる。顔を上げると、いつの間にか近くまで来ていたメビヤツがこちらを見つめていた。すり、と身を寄せるようにするさまが、なんだか俺を慰めようとしてくれているように思えて、自然と顔が綻ぶ。
 帽子越しに頭を撫でると、「ビッ!」と言いながら、もっと撫でてくれと言わんばかりに頭を下げてきた。
 素直でかわいいな、メビヤツは。
 俺も、もっと素直になれたらよかったのに。

「何してんだろうな、俺は……

 ぐず、と洟をすすりながらメビヤツの頭に顔を寄せる。赤い帽子が、少しだけ色濃くなっていく。

 *

 結局ドラルクには何も言えないまま、約束の日を迎えた。
 あれからずっと、奴とはほとんど話さないままだ。いや、違う。俺が逃げているのだ。
 あんなことがあっても、ドラルクは変わらず家のことをしてくれていた。いつも通りに部屋は整頓されているし、ご飯も用意してくれている。
 その最中に、じっとこちらを見つめてくるときがある。何か言いたげな、それでいて、何かを言って欲しそうな。そんな赤い目が、時たま俺を射抜く。
 それが怖かった。もう別れよう、と言われるのではないかと思った。だから、いつも見ないふりをした。して、しまっていた。
 
 こんなのはダメだ。誠実じゃない。俺は今、ドラルクの優しさに胡座をかいている。
 もう、女の子にチューしたとか嫉妬されたいとか、言っている場合じゃないのだ。いや、チューはすんなやと思うけれども。
 でもそれで、あいつとの仲が壊れてしまうのは、嫌だ。

『今日楽しみにしていますね、ジョンさん』

 軽快な音と共に、そんなメッセージが画面に浮かぶ。今までは暖かく感じていたそれが、ズンと重くのしかかってくるような気がした。
 ジョンは、俺がこのアプリの中で使っている名前だ。今日もジョンはかわいいなと何気なくつけてしまったが、今ではジョンにも申し訳なく思う。ジョンの名前を使ってこんなことをしてしまうなんて、俺は最低だ。

 何もしないまま、出来ないままに時が過ぎ、待ち合わせの時間が迫る。
 ドラルクは今日ずっと予備室に篭っている。ゲーム配信でもしているのだろう。顔が見たい、行ってほしくないと引き留めてほしい。
 でも、そんなことを願う資格は、今の俺にはないのだ。

 事務所を出て、とぼとぼと歩く。
 待ち合わせ場所は新横浜駅だった。なんとヘンリーさんの住まいもこの辺りらしい。こんな魔境の地に。
 紳士的な人だし、きっと身なりもしっかりとしているのだろう。そんな人の隣を適当な服で歩くわけにもいかず、クローゼットの中からそこそこの服を選んで身につけた。
 
 駅から七分の距離は本当にあっという間で、気づけばもう待ち合わせ場所へと到着してしまっていた。
 何もないと言えど夜の新横浜、そこそこに人の往来がある。土曜ということもあって、その顔に笑みを浮かべ歩く人が多い。なんだか寂しいような、惨めなような、言葉にできない感情が腹の奥から滲んできた。
 もしデートをしていたら、俺も今頃あんな風に笑ってたのかな、なんて。

 ぐ、と拳を握る。もうやめよう。こんなことは、これっきりにしよう。
 嫉妬なんて、されなくたっていい。側にいてくれれば、それでいいんだ。
 それでまたあいつがあんなことをしたら、そのときは――うん、気が済むまでぶん殴ってやろう。
 嫌なことは嫌だって言えばいいんだ。意趣返しなんて柄にもないことをするから、こんな事態になったんだ。
 ヘンリーさんには悪いけど、会うのも連絡を取るのも今日までにしてもらおう。
 よし、と気合を入れたところで、後ろから軽快な靴音が聞こえてきた。迷いなくこちらに近づくそれは、おそらく。

「こんばんは、ジョンさんですか?」
「あ、はい、」

 あらかじめ伝えていた服装から当たりをつけたのだろう、ほとんど決めつけるように声をかけられる。緊張を隠せず少し震える声で返事をして、振り向いて。

「は……!?」
「どうも、ヘンリーです」

 頭が真っ白になった。
 メッセージで聞いていた通りの服装。アプリで登録されている名前。どう考えても目の前にいるのがヘンリーさんで間違いない。はず、なのだが。

「ド、ドラルク……?」

 にこり、と目の前の男が微笑む。紳士然としたそれにドキリと胸が高鳴り、いや、そうじゃなくて。

「な、なんで、お前がここに……
「なんでって、約束したじゃないですか」

 何言ってるんですか、とドラルクがからから笑う。
 そう、それはどこからどう見ても俺の恋人で。他人の空似? もしくはドッペルゲンガー? なんてありえない妄想が脳内を飛び交ってしまう。そんな訳がない、俺がドラルクを見間違えるなんて。じゃあ、ここにいるのはやはり、正真正銘ドラルクで。
 ならば、今までずっとメッセージのやり取りをしていたのも。

「なんで、こんなこと」

 俺の言葉の意味を察したのか、にこやかにしていたドラルクの顔からすうと表情が消えた。まるで人形のようなそれに、背筋にヒヤリとしたものが走る。

「君が、それを言うのか」

 地を這うほどに、低い声。
 ああ、怒っている。未だかつてないほどに。
 理由がわからないなんて言わない。アプリから俺の言動を把握していたのなら、奴が怒るのも当たり前だ。でも、少しだけほっとした。怒るということは、まだ俺への情が残っているということだ。まだ、好かれていると思っていいんだ。
 まあ、これからダメになるのかもしれないけれど。

 そんなことを考えて始めてしまうと、もう何も言えなくて。そんな俺に、ドラルクは重いため息をひとつ吐き、力なくぶら下がったままの俺の手を取った。ひんやりとした奴の手が、俺の手首を包み込む。

「行くよ」
「え……どこに」

 ぐいと手首を引いてどこかへ向かおうとするドラルクに尋ねると、奴は途端にその無表情を崩した。何言ってんだコイツ、とでもいうような赤い目が見つめてくる。

「どこって、家に決まってるでしょ。帰るんだよ」
「あ、ああ」

 力なく頷き、奴に促されるままに一歩を踏み出す。
 まあ、ここで別れ話もアレだもんな。家が一番いいか。そこまでぼんやりと考えて、そこで初めて、思考が現実味を帯びてくる。
 あれ、俺、本当にドラルクと別れるのか? あそこは俺の家だから、そうなるとドラルクが出て行くことになる。ジョンももちろん一緒に行くだろうし、死のゲームもそうなるだろう。キンデメさんはわからないけど、でも連れてきたのはドラルクだ。メビヤツは俺を慕ってくれているけれど、ドラルクの城にいたから所有者はあっちだ。
 みんないなくなるんだ。また、ひとりになる。
 温かいご飯も、居心地良い空間も。そして、ドラルクと過ごす時間も、全て。
 もう、ひとりだったときのことなんて、何も覚えていないというのに。

 徒歩七分の距離なんて本当にあっという間で、俺はついさっき出てきたビルにまた足を踏み入れる。掴まれた腕はずっとそのままで、まるで罪人にでもなったような気持ちで階段をゆっくりと上る。
 ああ、ならば、あの事務所はまさに断頭台ということだろうか。
 ドラルクは、こちらをチラリとも見ない。当然だ、怒っているのだから。きっと、もう愛想が尽きたんだ。
 じわ、と視界が歪む。今すぐここから逃げだしたかった。でも、逃げたからって何になるんだ。最後はここに戻ってこなければならないし、逃げ続けることなんてできやしない。
 事務所の扉が開く。あるはずのないギロチンが見えた気がした。

「事務所は誰か来たら事だから、とりあえずリビングにでも……

 言いながら振り向いたドラルクが目を見開く。当たり前だろう、だってもう、ずっと抑えなんて効いていなかった。頬を伝って落ちた雫が、床を汚す。

「え!? なに、なんで!?」
「ぅ……

 慌てふためくドラルクに何か言おうとしても、喉に何かが詰まったように言葉が出ない。ひ、ひ、と引きつるような呼吸を繰り返す俺の頬に、ひんやりとした何かが触れる。
 いや、何かなんて、わかりきっている。だって、目の前にいるんだから。

「ああ、ほら……

 ドラルクのほっそりとした指が目尻をなぞる。顔に熱が集まっているからか、いつもより冷たく思えるそれが、あまりにも心地良くて、離れがたくて。気づけば、ポツリと呟いていた。

「別れたくない……
「え?」

 聞こえていたのかいないのか、目を丸くしたドラルクの手が頬から離れる。ああ、もう終わりなのか。もう、終わってしまうのか。
 嫌だ、これで終わりなんて。終わりたくない、終わらせたくない。ひとりになんて、なりたくないんだ。

「わ、別れたく、ない……!」
 
 無意識のうちに呟いていた言葉を、今度はハッキリと意思を持って伝える。
 瞬きの度に溢れていく涙をそのままに、まっすぐに前を見つめる。ドラルクはそんな俺を見て、しばらく黙り込んで。

……え、はぁ!?」

 そして、とんでもなくでかい声で絶叫した。

「うるせっ」
「それがボロボロ泣いてた奴のセリフか! いや違う、別れるって何だ!?」

 ついさっきまで優しく撫でられていた手が肩を掴む。眉を吊り上げながらガクガクと揺さぶってくるドラルクに、俺は何やら自分はとんでもない勘違いをしているのでは、と顔を青くした。

「え、もしかして俺たち、付き合ってすら……
「そんっな訳ないだろこのバカルド君が!」

 ちゃんと告白したでしょうが、とうなだれるドラルクに、そう言えばそうか、と思い直す。好きです付き合ってください、という、外国暮らしをしていたとは思えないほどのストレートな告白。それなのにそんなことを思っては、流石に酷か。

「君が何を考えてどうグチャグチャと思い悩んでいるのかは知らないが、私は絶対に別れないからな!」
「お、おう……

 指先をこちらへ突きつけながら一言一言を区切るように言うドラルク。まるで宣言するかのようなそれに、俺はただただ圧倒されるほかなかった。
 でも、そうか。別れないのか。よかった。

「それにしても、何故別れるなんて言い出したんだね」
「だって、お前、怒ってるから……
「当たり前だろうが! こんなの、怒らない方がおかしいぞ!」
「あえっ」

 理由を話すと、ドラルクは目を三角にして怒鳴り出した。それはそうだ。奴の言い分は正しい。正しい、のだが。

 なんだよ、俺ばっかりが悪いっていうのかよ。
 涙はすっかり引っ込んで、代わりに段々と腹立たしさが湧き上がってきた。
 だってそうだろう。元はと言えば、この野郎が女の子の手にチューなんてかましやがったのが原因だ。それがなければ、俺だってこんなバカな真似はしなかった。
 なのに、俺だけが責められるなんて不公平だ!

「うるせえ、お前が女の子にチューなんてするから悪いんだろ!」
「ハァー!? してないがそんなこと!?」

 しただろうが、こうやって!
 俺はそう続けながら、おもむろにドラルクの手を取ると、オラっと勢いのままにその手の甲に唇をくっつけた。瞬間、奴の手だったものが指の隙間からザラザラと零れ落ちていく。うわ、口に砂ついた。

「何死んでんだよお前!」
「いや……いや! 今のはロナルド君が悪いだろ! というかチューってこれか! こんなもんただの挨拶じゃ!」
「事務所にくる奴には基本やんねえだろ!」
「ここにくる奴大体吸血鬼かおじさんだろうが! 誰がやるか!」

 私がおじさんにキスしてるとこ見たいのか君は! と言われ、思わず頭に思い浮かべてしまう。うわ、全然見たくない。
 つい、汚ねえモン想像させんな、とゲンナリしながら言うと「言ったのそっちじゃ!」と怒られた。

 怒鳴りあって疲れたのか、ぜえぜえという情けない呼吸が重なる。その、たかが数秒の間。だが、俺たちが冷静さを取り戻すには十分だった。

……とりあえず、リビングに行かないか」
「おう……

 ドラルクの言葉で、ここがまだ事務所の入り口だったことを思い出す。依頼人が来なくてよかった。人気商売の退治人、流石に泣いているところはあまり見られたくない。
 こちらに背を向けるドラルクに続こうとしたところで、トン、足に何かがぶつかった。視界をちらつく赤に、もしやと思いそちらに視線を送る。

「どうした、メビヤツ?」
「ビッ」

 そこにはやはり、思い描いた通りの人物がいた。いや、メビヤツを人って言っていいのかわからないけど。
 メビヤツは短く鳴くと、すり、と俺の足にすり寄ってきた。数日前のこともあるし、もしかしたら心配してくれているのかもしれない。なんて優しいんだ。
 今回は大丈夫だったけど、もし今後ドラルクが出ていくとなったときは、メビヤツだけは置いていってもらうようにしよう。そんなことを考えながら、メビヤツの頭を撫でる。

「ありがとうな、メビヤツ」
「ビ!」

 微笑みながら言うと、メビヤツも嬉しそうに笑みを見せた。うーん、可愛い。

「早よ来い若造!」
「うるせーな、わかってるよ」

 リビングから声が聞こえる。撫で続けていたメビヤツの頭をポンと軽く叩き、歩を進める。
 存在しない断頭台を潜り、扉の奥へと足を踏み入れる。

「やっと来たか。とりあえずここに座れ」
……

 ドラルクはリビングのソファに腰掛けていた。指差すのは、そのすぐ隣。
 我が物顔で座っているドラルク。それは俺のベッドだとか、そもそもここは俺ん家じゃとか文句をつけたくなるが、そこはぐっと堪える。
 大人しく拳ひとつ分を開けて座面に尻を預けると、瞬時にその隙間が埋められた。ぴったりとくっつけられた腿に、するりと絡みつく腕に、胸が大きな音を立てる。

「お、おい」
「何? 恋人なんだから、これくらい当然でしょ」
「うお、おお……

 強調するように告げられた恋人という言葉にたじろぐ。今までこんなこと、言われたことなかったのに。もしかしたら、別れというワードがそれなりに堪えたのかもしれない。

「とりあえず整理したいんだけど、君がマッチングアプリなんて始めたのは、私が女性の手にキスしたからでいいんだよね?」
「まあ……そうだな」

 今度は手に、をやたら強く言われる。自分の手の甲を見せつける徹底ぶりだ。頷くと、「ふむ……」となんとも言えない表情へと変化した。不機嫌そうな、だがどこか嬉しさを纏ったようなそれ。なんというか、器用な奴だ。

「その心は?」
「謎かけかよ」
「黙れさっさと答えろ」

 どっちだよ、と言いつつ、少し考える。いや、考えなくてもわかっている。ただ、改めて言葉にするのが少し面映いだけで。
 その間もじいとこちらを見つめてくるドラルクの視線が痛い。なんかちょっとずつ近づいてくるし。

……嫉妬した」
「えぇ? なんて?」
「うるせえ! 聞こえてんだろクソ砂!」

 白々しく聞き返してきた奴にとうとう耐えきれなくなり、絡められていた腕を振り払うようにしてぶん殴る。
 それに堪えた様子も怒り出す雰囲気もなく、瞬く間に元の姿を取り戻したドラルクがニヤリと笑う。

「へーぇ、嫉妬しちゃったのかあ。強い退治人様が、か弱い女性に」

 口端を上げながら含みのある声で言葉を紡ぐドラルク。腹の立つことこの上ない。もう一回くらい殺してもいいだろうか。

「それで腹が立って、浮気しようと思ったの?」
……あ?」

 そんなことを考えていたからか、拳を握ったところで飛び込んできた声に、俺は碌に反応を返すことすらできなかった。

「まあ、いいけどね? 未遂だったし。あぁ、ドラドラちゃんってば心広〜い!」

 茶化すような声でドラルクが言う。
 違う。浮気なんて、するわけがない。
 でもコイツは、俺が浮気するためにアプリを入れたと思っている。俺が、浮気をするような奴だと、そう思っているんだ。
 腹の底から熱いものが込み上げてくる。浮気? ふざけんな。そんなこと、すると思ってんのかよ、この俺が!
 先ほど砂にしたことにより離れてしまった腕を、今度はこちらから掴む。すると突然のことにびっくりしたのか、ドラルクがまた視界から消えた。

「テメー、これくらいで死ぬなや!」
「無茶言うなゴリラ! 君の力が強すぎるんだ!」

 くそ、いちいち死ぬからペースが乱れる。ずるんと復活したドラルクの腕を、今度は慎重に掴む。訝しげに眉を寄せる奴を、真っ直ぐ見つめる。

「俺は浮気なんてしない」

 キッパリと告げたそれに、ドラルクはわかりやすくたじろいだ。への字に歪んだ口から「じゃあ、なんなんだ」という言葉がこぼれ出る。
 そんなの決まってんだろ。にぶいやつ。
 今度は俺の方がニヤリと笑みを浮かべてふんぞり返り、そして。
 
 ……あれ。俺、もしかしてこれから、かなり恥ずかしいことを言わなきゃいけないんじゃないか?
 嫉妬してほしくて仲間にやたらベタベタした上にマッチングアプリを始めました、って? 言うのか、ドラルクに。え、嘘だろ?
 突然フリーズした俺に、訝しげな視線を送るドラルク。何かいい言い訳、言わなくてよくなる方法は……
 ないか。ないよな。言わなきゃいけないんだよな、これ。よし、と心の中で気合いを入れる。

「嫉妬してほしくてやりました」
「声ちっさ! なんて!?」
「うぅーっ」

 あまりの恥ずかしさに早口で言い切ると、即座にドラルクが突っ込んできた。もう一回言えってか。勘弁してくれ。耳でかいんだから聞き取れよ、これくらい!

「お前に嫉妬してほしくて、やったんだよ! 他にも色々!」
「えっ」
「それぐらいわかれよ、バカ野郎!」

 半ばヤケになりながら叫ぶと、目の前の男が目をまん丸にする。口をぽかんと開いたその姿が滑稽で、笑えるはずなのに俺は全然笑えなかった。

「え、え? そ、そうなの……?」
……
「もしかして、ショットさんとか腕の人にやたらベタベタしてたのも……

 覚えてたのか。何の反応もしなかったから、記憶にも残っていないと思っていたのに。
 頷くと、ドラルクは「うぅ」とも「ぐぅ」ともとれない声で呻き頭を抱えた。正直、失敗した作戦のことを覚えていられると恥ずかしいからやめてほしい。いや、結局全部上手くいかなかったんだけれど。
 しばらくそのまま固まっていたドラルクが、ふぅー、と大きなため息を吐いたあと、おもむろに顔を上げる。その瞳には、何かの決意が湛えられているように見えた。

……どうやら、君の目論見は全て成功していたようだよ」
「は?」

 目論見? 成功? あまり動きがよくない頭で必死に考えて考えて、あっ、と気づく。

「お前、もしかして、ずっと嫉妬してたの?」

 俺の声色に笑みが乗っていたことに気づいたのだろう、ドラルクの顔が怒りへと塗り替わる。

「ああそうさ! 嫉妬してたよ! 嫉妬して何が悪い!」
「うおっ」

 突然キレてきたドラルクに思わず仰け反る。勢いに少し驚いたけれど、そうか。こいつ、ちゃんと嫉妬してくれてたのか。その事実が、そして、俺の立てた作戦がうまくいっていたことが嬉しくて、つい頬を緩めてしまう。
 そんな緩んだ顔を見せた俺に、ドラルクは眉間のシワをより深くした。

……ちなみに半田君に同じことをしたら許さないから」
「は? なんでだよ」
「なんでもだ! ショットさん達は仲が良いからと許したが、半田君は我慢ならん!」

 鬼気迫るとはこのことか。目に角を立てて怒鳴るドラルクに少したじろぎながら、わかったよと答える。
 そもそも、もう目的は達成したのだ。あんなことをする必要も理由も、もうない。

「ちなみに」
「何回ちなむんだよ」
「うるさい若造! 黙って聞け!」

 至極真っ当な突っ込みを入れたら逆ギレされた。なんなんだよ。

「ちなみに! ……私にキスをされた女性に嫉妬したということは、もう、いいんだよね?」
「あ? なに……

 何がいいんだよ。その言葉は、声になることはなかった。
 気づけば鼻がくっつきそうなほど、奴の顔が近くにあって。柔らかいものが、ふに、と唇に触れる。
 あ、これ、ドラ公の。

「んん……っ!」

 びっくりして唇を大きく開いた瞬間、再び奴のそれが俺の口を塞ぐ。ぬるり、と舌が侵入してきて、背筋に電流のような震えが走った。
 やめろ、という言葉も、形作られないまま喉の奥へと押し込まれていく。シャツのあわいからするりと差し込まれた指が肌を撫で、また体を震わせる。
 上顎をぞろりと舐められ、んぅ、という声が鼻から抜けていく。今までに出したこともないそれが恥ずかしくてたまらなくて、顔に熱が集まっていく。
 
 ああ、ああ。頭が、ぼんやりとしていく。熱くて、くすぐったくて、そして、気持ちいい。
 じわりと涙が滲む。どんどんと意識が――
 ……いや、酸欠になってんな、これ。

「ゥオアーッ!」
「ギョワーッ!」

 肉体的にも精神的にも耐えられなくなり、悲鳴を上げながらドラルクの肩を押し引き剥がす。結構な勢いをつけてしまったが、なんとか死なずには済んだようだ。
 もし死んでいたら、口の中を大量の砂に襲われていたことだろう。つい想像をしてしまい、ゾクリと怖気が走る。よかった、本当に。そうならなくて。

「何すんだこのゴリルド君が! 急に野生に還るな!」
「還ってねえわクソバカがっ! いつまでしてんだよ普通に死ぬわ!」

 ぜえぜえと肩で息をしながら言うと、ドラルクはその表情を一変させた。困惑したような呆れたようなそれは、奴が「何言ってんだコイツ」と考えているのだということを如実に物語っていた。

「いや、鼻で息したまえよ」
「え……

 鼻で? そんなの、できるのか? チューしてるときに? されていることを受け止めるのに精一杯だったというのに。それとも、俺が変なだけなの? 普通の人は、当たり前にそれができるのか?
 ぐるぐると考えていると、ドラルクに「ロナルド君……」と呼ばれる。見ると、ドラルクが俺を見つめていた。その表情は哀れみに彩られている。珍しく嘲笑の含まないそれ。腹立つからやめろ。

「ごめんね、五歳児にはちょっと難しかったね……
「うるせーっ! 急にされたからびっくりしたんだよ!」

 いいんだよいいんだよ、と慈愛すら含む瞳でこちらを見るドラルクにその目やめろやと怒り、そもそも「もういい」って何だと詰める。突然のチューに驚き頭から吹っ飛んでしまっていたが、奴の発言がどうしても気になっていたのだ。
 俺の怒りを受けたドラルクは、少し目を見開いたのち、また、フ、と笑う。
 嘲笑とも憐憫とも違う、色を纏ったそれ。ドキリと、心臓が音を立てた。

「もういい、っていうのは」

 する、と奴が顔を寄せてくる。吐息のような声を耳元で囁かれ、ぶる、と震えた。

「キスも」

 ひんやりとした指が、俺の唇をなぞる。

「触れるのも」

 その手がそのまま、うなじをするりと撫でる。

「セックスも、もう我慢しなくていいよね? ってこと」
「セッ……!?」

 あまりにも飛躍したその発言に、それ以上の言葉を紡ぐことが出来ない。だってそうだろ、チューだって、今さっき初めてしたのだ。そんな、セックス、だなんて。
 うなじを撫でていた手が肩へと移り、トン、と押される。それだけで、呆然としていた俺の体はいとも簡単にソファベッドへと沈んだ。灯りが、奴の体に遮られる。……あれ、これまずいんじゃないか?

「ちょ、おい」
「私、すごく我慢したんだよ? 君が恋愛初心者だってわかってたから」

 ドラルクが覆い被さってくる。顔の隣に置かれた両手は、まるで俺を閉じ込めるための檻のようで。少しでも抵抗すれば逃れられるのに、少しも体が動かない。

「だから、君が誰と仲良くしようと許容してたし、ゆっくり関係を進めようと思ってた。でも、もういいよね。私、十分我慢したよね?」
「え、え……

 膝が足の間に割って入ってくる。そのままぐっと急所を押され、情けない声が口からまろび出る。ドラルクの顔がゆっくりと近づいてきて、両横に置かれていた手はいつの間にか肘へと変貌を遂げていて。
 心臓がばくばくと早鐘を打つ。顔が赤くなっていることなんて、考えなくてもわかっている。

「大丈夫、うーんと、優しくしてあげるから」

 このドラドラちゃんに任せなさい、と言う、文字通り目の前にいる男。いやいきなりベロチューかましてきた奴のことをどう信用すれば?
 それを声にするより早く、ドラルクが動く。片手でシャツのボタンを器用に外すと、そこに顔を寄せる。
 え、まさか吸血する気か?

「おいやめ……痛ッ!」

 ちく、と刺すような痛み。だがそれ以上の衝撃を与えることはなく、ドラルクは離れていく。その表情は、満足気というか、どこか恍惚さを感じさせるものだ。ふふ、と奴が笑う。
 一体何したんだと聞くと、ドラルクは言った。「所有印をつけたんだ」と。

「は? なんだ、それ」
「キスマークだよ。君が、私のものだっていう証」

 ニンマリと誇らしげに笑うドラルク。先ほどまでの危険な妖しさなど感じられない、まるで子どものような無邪気さを孕んだそれに、俺は叫び出したくなる衝動を必死に堪える。
 なんだそれ。お前、俺のこと本当に大好きだな。
 お前のものだって? そんなの、印なんてつけなくたって、ずっと前からそうだっただろ。

 可愛くて、愛おしくて、大好きでたまらなくて。
 俺は奴の特徴的な髪を撫でつけ、そのままその頭を勢いよく引き寄せた。