暦の上では春になったとはいえ夜分・明け方はまだ肌が粟立つ。頭まで被さった掛布の重さが、透けて見える灯りと包む空気の温さが何とも言えず心地好い。ヒトの形をして居るからこその物質ある生活はなかなかに面白く、時に自由と融通の効かぬ煩わしさに悶えながら平凡と形容できる生活を送って居るのである。
此の時分、まだカンテラ若しくは蝋燭の灯りが要る程度には土間作りの厨も厠へ繋がる廊下にも闇は色濃い。丑満時はとっくに過ぎたのを短針が指し示している。
「……おい、あんよが家出してるぜ」
男はそう言って蒲団の端からはみ出た私の素足を愛撫した。意地の悪い言い回しとは裏腹に、童を見やるかのような薄い柔らかな笑みで見下ろしてくるのは毎度の事である。今の私は柔らかな甲羅を持った亀に過ぎず、宛てなく四肢を彷徨わせることも億劫で微々たる蠢きも其れこそ緩慢なものであった。
殻の隙間から火鉢に手を翳す男のその様をちらりと目の端で捉える。血色の悪い骨張った手。元来私達には必要のなかった靴を愛した職人の手だ。革を鞣し、布を裁ち、ぴんと紐を張り、針を突き刺し、縫い付ける。触ると分かるのだが指先は固く所々マメが出来て居り、物臭が歪に伸びた爪先に現れている。私は所謂観察眼などという代物は持っていなかった筈なのだが……。
「火鉢も暖かいぞ。……なんだまだおねむか? ま、月はまだ暮れていないしな。手だけでも出してみたら如何だ」
灰の中でちろちろと燃えるのも今の眼には眩しく、掛布に包まりたくなるのも不思議ではないだろう。其れに、手を翳す程の寒さも感じはしない。
「厭、寝る……どうしてそう、稚児に使うみたいな言葉を」
「そりゃあお前、小鳥ちゃんだからさ」
間髪入れずに言葉が返ってくる。(はて眼に問題があるのではないか? 脳味噌に欠陥があるのではないか?)要らぬ戯言が脳裏を過るのである。
「オレはそんな可愛らしいものじゃないですがね」
火鉢の所為だろう、じっとりと熱を孕んだ頸を少し許り傾ける。良くも悪くも胸中を見透かされるのは正直不愉快ではあるが、今この日この時となっては思いを巡らすことも無駄であると解りきっている。故に言葉なく。
「そうか? 稚児……、あっしに付き合ってくれる愛らしい少年だろうに、そう言っても好いだろう」
目元が下がり、口角が上がり、私のその意図を汲み取って呉れる。頭を抱き込みとんとんと、調子のいい具合に回した手で肩口を叩いて呉れるのだ。口には出さぬ応酬である。私は命を断たれてからと謂うもの、この男ほど柔らかく然して真綿のように肌触りが善いだけで無い笑みを浮かべるものを知らない。
「何時離れるやも分からない鳥より、手懐けた悪戯な猫の方が良いんじゃないですか? 」
「……まぁアレもそろそろ一端の大人よ。奔放に見えて並の自立もしているさ。何せ最近は滅多に帰ってきやしない、……何でも良い拠り所を見つけたとか、如何とか」
親不孝ものだろ。そう続ける口元には愛憎篭った笑みではなく、唯純粋に子の成長を喜ぶ親の其れが浮かぶのであった。
障子に嵌め込んだ磨り硝子の向こうで白い焔がちらついた気がした。丁度、虎三時。向かい店の閂のかちゃりと謂う音が瞼を再び重くさせた。
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