この世、この時代の社会人の多くは今日のような日を『花の金曜日』という。週末の休みを前に金曜の夜から羽を休めよう、そんな風潮だ。
ある者は早く仕事を切り上げある者は夜通し遊び、またある者は自宅で撮りためておいた物を見るのだろう。
忙しない現世である。適度な羽休みも必要ではあるまいか。
「人間はなんて、なんて憐れなのでしょう。限りある短き生を時間に追われて。それこそが彼らの喜怒哀楽の元なのでしょうか」
ある者はそう独り言ちる。
とあるマンションの端の一室。酒宴というほどではないがこの部屋でも酒を飲み交わす男が2人。いずれも20代で1人はこの部屋の住人、もう一人は隣部屋の住人だ。人並みに、いや並以上に飲み食いはする長身の男達である。
その部屋の主は堅実そのもので、普段の生活から無礼講な時までハメを外すことは殆ど無いに等しい。
三者から見ればこの現代にしては良い『隣人』関係と言えるだろう。--三者から見れば、である。
気がついたら互いの部屋に足を運び、気がついたら食事や休日を共に過ごし、気がついたら寝床を共にしていた。と、そのような関係であったのだから『良い』関係に間違いはない。
とはいえ当の本人達も互いを愛する者と例えるべきか、至極大切な者と例えるべきかという他者からの問いにはくぐもった声を出すだろう。(それに気づいた者は今の所はいないはずではあるが。)
双方の家でならば大抵のことは遠慮なくできるようにはなったが、くしくもここは集合住宅。建物の内外に老若男女多くの目があるわけだ。
哀しきかな、この世は忍ぶことを無意識のうちに強要しているようだ。
--けれどその現実でもそれをどこか愉しむ自分たちがいる事に彼らは気がついていた。
「昼前に越してきた者です。ただネット回線がどうにも
……俺にはよくわからなくて」
初めて言葉を交わした時、隣人はそのような事を言っていた記憶がある。
三二九九は仕事を終え食料品を買い足し帰宅したところだった。隣家の玄関先に見ず知らずの男が突っ立っている。歳は自分よりも2、3歳若いくらいだろうか。
(そういえば大家さんが言っていたな)
隣の空き部屋に1人入るから、と声をかけられたことを思い出す。同年代だから仲良くしなさいとか、助け合いなさいとかそういった訳ではないのだろうがふと気になることがあった。
その手にはパンフレットが丸めて収まっていたのだった。回線について書かれているのであろう。
運が良かったとでも言えば良いのか、三二にはコンピュータに精通していた。専門の職種に就いていたわけではないが難なくこなせる程度には使いこなせるのだった。
この世での縁というのは実に予測不可能であり、とりわけこの2人にとっては青天の霹靂であった。
「俺は貴方を、
……貴方様を知っているような気がします。うんと前から」
連絡先を交換してから一週間ほどの事だったか、唐突の出来事だった。
そう告げる烏江の目は旧友、否見ようによっては恋仲に向けられるそれだ、と。
偶然だったのか、必然だったのか。運命などという不確かなものを信じているかと訊かれれば答えはNoだが、二人共考えることは近しかったのだった。
とっぷりと日が暮れ澄み切った空には、中秋のそれには遠く及ばないが奇麗な月が出ている。
「雲が無いですね、まさに良夜」
窓枠に手をかけた三二が呟く。
「まぁ酒自体の味は変わりません
……いや、舌が馬鹿だとかではなく」
「
……意外と無粋なところがありますよね」
「なっ、貴方こそ失礼じゃないですか? はは、もう
……」
そう笑いながら軽口を叩ける相手ができるとは互いに思っていなかった。
都会というのは数多の人間を有するにもかかわらず、どこか虚しいものがある。
家族との縁を大事にする烏江のような者にとっては殊更都会での暮らしは億劫だった。
「言い方は悪いかもしれませんが、名前も知らず顔も知らない両隣が知らずのうちに死んでいることだってあるかもしれないんですよ。ここはやはり違うんです
……」
と愚痴をこぼすのも無理はないだろう。
その烏江が隣人を家に上げ酒を飲み交わすまでになるとは誰も思わなかっただろう。彼の兄弟分は口々に
「あれほど一人暮らしは嫌だと言っていたのにな、よかったじゃないか。友人ができて」
「兄者はいつでも帰って来ればいいだろ。
……とは言いたいところだが、あまり心配はなさそうだな」
と言ったものだ。
「少なくとも貴方との飲みではそうハメは外しませんので。ご安心ください」
『酒は飲んでも飲まれるな』とは言うものだが、愉悦を味わうのに嫌な思いをするのは確かに避けるべきことだろう。引っ越してきたあの日を思い出しながら釘を刺す。
「そうですね、そう思っておきます」
「悪酔いするのはまた別の、もっと余裕がある時にしましょう」
「悪酔いは前提ですか? はぁ
……どうなっても知りませんよ」
互いの酒癖は前に一度だけ曝け出した。幸か不幸かその時の記憶は互いにあり、あの時ほど顔を合わせるのに気まずかった事はない。あの様子は普段の言動からは到底予想できるものではなく、酒というものの恐ろしさを思い知ったのであった。
只、その時の雰囲気にもよるのかは定かではないがまた別の一面をも見てみたい気持ちもする。そんな怖いもの見たさのような感情が起こるのも可笑しいことではないだろう。
時刻が9時を回る頃。あたりの建物には煌々と明かりが灯り人々の帰宅を告げる。
「完全に酔いがまわる前に風呂を済ませましょうか。血圧が下がるのもよくないですから」
そう言って立ち上がろうとする三二の足がくっ、と止まった。
「おや
……どうされましたか。先に入りますか?」
烏江が裾を掴んでいるのが見え、視線を合わせるように屈む。
「
……しょに入りましょう」
「
……聞き返すのも野暮だとは思いますが、何とおっしゃいましたか?」
「風呂に、一緒に、入りましょう」
「貴方すでにだいぶ酔っているようですね」
「む
……酔ってなどいません。まだ、半分しか
……飲んでいません
……」
「酒の入った人は大抵そう言います。さて、風呂の電源、を」
呆れたものだ、と言いたげにため息を一つ零しそう告げた。しかし脚の重みはより強くなり、思わず視線を下げる。
「
…………疑いようもないシラフの状態で
……言えることだと思いますか?」
と、床を見つめたまま烏江が呟いた。
一つ二つ言葉を交わしただろうか。15分後、『お風呂が沸きました』と女声の電子音が聞こえる。
(少し強引が過ぎた)
ひとまず酒から手を引いていた烏江がそう思うのは致し方ないだろう。僅かだが酔いが覚めたのか、先刻の自分の発言を繰り返す。
……勿論声に出すことはない。うつらうつらと瞼を閉じ、恰も完全に回っているぞと示すかのように、膝を抱えてその上に頭を垂らしながら。そのような姿勢で唇だけで先の言葉を紡ぐのだった。
見られることはないだろう。そうぼんやり考える烏江の頭上、左から呼び声が聞こえる。
「--寝ますか? 沸きましたよ、タオルも用意しました。」
「っ、はい。
……あぁ驚いた」
「驚いたとは
……もう半分ほど心ここに在らずだったのでは?」
眠くなどないと言いたげに目を開くと、眉間に皺が寄りますよ、と自分のよりも大きい手が視界を遮った。
脱衣所の扉を開けたその時のことだ。突如として鼻腔に違和感を覚える。
「
……? 入浴剤でも入れましたか?」
「え? いや、入れていませんよ。まず家に置いていないので」
「あれ
……気のせい、ですか」
むせるほどの甘い匂いがしていた気がしたのだが少しも匂いを感じない。自分の鼻がおかしかったのかと思いつつ脱いだ服を籠に入れる。
どうかしたのかと言いたげな三二に何でもないですと返すが鼻の奥に残っているような、もやもやとする感覚。それを掻き消すように、すん、と肺の奥に押し込む。
「はぁ
……また何故、大の男2人で湯船に入ろうとしたのか
……。20分前の私たちは戯言を言うほど酔っていましたか?」
髪を後ろに掻き上げながら三二が口を開く。
人間だから知能が落ちたのだ、と。そのような事も瞬時に分からなくなってしまったのだ、と。自分たちは何てことを話しているのかと何度思ったことだろうか。
数えるのも馬鹿らしいと烏江は思う。
「ふふ
……酔ってるだろうと言ったのは貴方ですよ」
向かいに座る三二の腕を引き寄せ軽く指先で触る。爪を立てると皮膚の下に筋肉と骨が詰まっているのがよく分かる。
「今は貴方にも血が通っていますからね。こうして爪を立てて皮膚をえぐれば血も出るし果ては爛れるでしょう?
……まぁそんなことしませんが」
そう言って腕を肌から離し、ちゃぽんと音を立て沈める。水面下でわずかに爪の形に窪んだ場所を撫ぜる。
『前は』もっと固かったような。記憶を漁るにも遥か昔の事ではっきりと思い出すことはできなかった。
「そうですね。風呂に入れば血行も良くなりますし、のぼせることだってあります。
……まぁ、中でも怪我をした時は『人間』であると実感するときでしょうか」
照明に手を伸ばすと指の隙間に流れる血潮が見える。
「機械に血は巡っていませんからね」
「今の所は、ですけれど」
……何て話をしてるんだ、と再度顔を見合わせて笑う。
「はぁ、
……逆上せそう」
くるしい。息をする度に熱い蒸気が肺に満ちていくのが分かる。風呂釜の外はひやりと適度に冷たく、思わず手が伸びる。
「風呂場で倒れられても私は着替えさせられませんよ。タオル程度なら巻いて差し上げますが
……」
「お荷物はごめんです、出ます」
言葉を切るように返すと小さな笑い声が聞こえた。
片や笑ったな、と脱衣所の扉を押さえ、片やこちらが悪かったですからそこを退いてください、と扉を挟み奮闘すること3分が経った。童心に帰るというよりこれは退化だと互いを小突く。
「さて、飲み直しますか?」
「もう眠る用意をしても良いのですよ。
……眠たげな目をしていらしたではないですか」
「
……あと少し、飲んでからに、しましょう」
かちんと器のぶつかる音が響く。
脱衣所から漏れ出す濃霧はどこか甘く、月影の差し込む部屋へと注いでいる。
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参考:
北原白秋『「邪宗門」より濃霧』
つれづれの文車
http://www.nextftp.com/y_misa/kita/kita_j05.html
文学妄想お題ったー
https://shindanmaker.com/507315
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