しお
2025-12-08 00:51:12
9458文字
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ささろ

盧笙が寝る直前までしゃべりまくる簓

 簓はとにかくよく喋る。仕事でもプライベートでも。
 いつだったか、メインのゲストで呼ばれたトークバラエティであまりにも淀みなく喋り続けるので、「プライベートになった瞬間に全く喋らなくなるんじゃないか?」などと言われていたが、むしろプライベートの方が勢いよく話すことすらある。仕事の時は大勢の人間を相手にしているから、話の内容を聴衆が理解するための間を空ける必要があるが、盧笙の家では相手が一人か二人、しかも気心の知れたチームメイトで打てば響くような反応を返してくれるとなれば、簓の舌はますますよく回る。
 恐ろしいことに、喋っている途中で急に発音がはっきりしなくなったので振り返ると、簓が寝落ちしていたことすらある。電池が切れるまで喋り続けるなんて幼児か、と思いつつ、むにゃむにゃと不明瞭な音を零し続ける簓を布団に寝かせてやった。そこまで頻度は高くないものの、丁寧に数えたら片手は埋まるくらいの回数はあったと思う。
 逆もある。簓が泊まっていく時は大抵、盧笙が眠る直前まで簓は喋り続ける。電気を落として布団を被っても、暗闇の向こうから日常会話よりは少しボリュームを落とした声で簓がずっと話しかけてくる。うるさい、黙れ、はよ寝ろ、といつも言い返すのだが、正直に言えば盧笙はそういう時の簓の声をうるさいと感じたことはなかった。ラジオをつけっぱなしで寝落ちするような心地よさがあって、どちらかというと好きだ。
 ただ、あれを気に入っているなんて簓に知られてしまったら、簓は絶対に盧笙より先に眠らなくなるような気がするから隠している。多忙な簓には睡眠時間を大切にして欲しい。それに寝落ち直前の、トークの切れ味と発音が眠気のせいで淀んだ声を聞くのも面白いと思っているから、ゼロになってしまうのも寂しい気がする。
 今日は泊まっていくつもりなんやろか。その一文で、だらっとした思考に区切りをつけて盧笙はアパートの外階段を上がり切った。一人暮らしのはずの自宅には、家主の帰宅前だというのに既に明かりが灯っている。不法侵入の容疑者は二人いるので、誰かがいるからと言ってそれが簓だとは限らない。零が一人で入り込んでいる可能性もあるが、なんとなく簓がいるような気がしていた。
 足を引きずるようにして廊下を進み、通勤鞄の中を探る。のろのろと鍵を取り出そうとしていると、目の前の玄関ドアがひとりでに開いた。隙間から、緑色の頭がにゅっと飛び出してくる。
「ばあ!」
……おああ」
 「おい」とか「おう」とか「ああ」とか言おうとした気がするが、実際に盧笙の口から零れたのは無意味な音だった。楽しそうににやけていた簓の顔に大きなクエスチョンマークが浮かぶ。
「へ、なんて?」
……何でもない。そこ退け、邪魔や」
 咳払いで誤魔化して、盧笙は簓を押しのけて玄関に入った。リビングのテレビがついているらしく、複数人の笑い声がかすかに聞こえてくる。ほのかに餃子の匂いが漂ってきて、盧笙は思わず溜息をついた。
「どないしたん? 何かあった?」
 簓はリビングに引っ込まず、靴を脱ぐことにすらたっぷり時間をかける盧笙を眺めている。かがんだ盧笙の頭に振ってきた声は気軽さを纏っているものの、その奥には気遣いがある。かけてしまった心配を振り払うように盧笙はゆるく首を振った。
「別に何もない。くたびれただけや」
「今日って何か行事とかやったっけ?」
「いや、ただ、運動部の部室の大掃除に駆り出されてな……
「大掃除? まだ六月やで」
「いろいろと事情があんねん」
 口に出してしまってから、あまり良くなかったと即座に反省する。まるで、説明するのを拒むような言い方になってしまった。これでは、言えないような何かがあったのかと余計に簓を心配させてしまうかもしれない。本当に大したことがないからそれをきちんと伝えたいのに、疲労が邪魔をして考えがまとまらない。
 靴を脱いだまま立ち竦んでしまった盧笙の背中を、簓がぐっと押した。よろめいて前に踏み出した盧笙を簓はさらにぐいぐいと押す。
「おいっ、やめろ! 自分で歩ける!」
「盧笙、飯まだやろ? 今日なぁ、ごっついええもん持ってきたんやで! とりあえず飯食おうや!」
 苦情を聞き流した簓は盧笙をリビングに押し込んだ。途端、ニラの匂いが食欲を刺激する。疲れのために意識の外に追いやられていた空腹が盧笙の中で暴れ始めた。視線がテーブルの上の、プラスチックパックに詰められた餃子に吸い寄せられる。ふらふらとテーブルに近寄ろうとした盧笙の目の前に、何かが差し出される。
「じゃじゃ~ん!」
 いかにもうまそうなチャーハン、の写真付きの袋を効果音とともに掲げ、簓は自慢げに胸を張る。
「これな、こないだ仕事でもろたんやけどめっちゃええ冷食らしいで。中華の有名店が監修したシリーズの新しいやつで、発売したばっかやのに品薄で今買おうとしても買えんねんて」
 説明されながら改めてパッケージを見ると、どことなく見覚えがあるような気がする。先週あたりにテレビで聞いたような話だと思っていると、そういえば目の前の男が、この商品を紹介する番組に出ていたことを思い出した。確かその後のクイズに正解してご褒美として食べていた。
「あれか。チャーハンは炒めた飯、イタメシ、言うてイタリア料理のクイズ出されたやつ」
「お、見てくれたん? おおきに! あの番組で食うたけど、これほんまにウマイで!」
「そういやお前、結構がっついて食うてたな」
 番組には大食漢キャラの芸人も出ていたので「お前食いすぎや」のくだりはそっちが中心だったが、カメラに映り込む度に簓の皿の中身はどんどん減っていっていた。食に無頓着になりがちな簓にしては珍しい。ということは本当においしいのだろう、とテレビを見ながら考えていたことも思い出す。
「えっ、バレてた!? SNSでも何も言われてなかったから、誰にも気づかれてへんと思ったのに!」
 大仰に恥ずかしがる素振りをする簓に笑い声を上げながら、盧笙は冷凍食品を受け取ろうと手を差し出して言った。
「それ、フライパンでもいけるやつ? レンチンよりフライパンのが雰囲気出るよなぁ」
 しかし、パッケージに印刷されたチャーハンはすい、と逃げるように遠ざかってしまった。盧笙からチャーハンを取り上げた簓はにっこりと笑ってみせる。
「俺がやったるから盧笙は座っとき。疲れとるんやろ?」
「や、お前かて仕事終わりで疲れとるのは同じやん。温めるだけやし、どっちがやっても大して手間は変わらんやろ」
「ふふん、それがなぁ、ちゃうねんな」
 簓は自慢げに胸を張った。
「これ、フライパンで炒める時にちょっとごま油加えるとさらにウマイらしいねん。開発スタッフ直々に教えてもろてん。けど入れすぎると油っぽくなってまうんやって。作る時のコツ聞いてきたから、試させてや」
 な、ええやろ、と口先だけは許可を求めながらも簓はさっさとキッチンに向かっていく。呼び止めようとして振り向き、既にコンロの上にフライパンがセットされていて、見覚えのないなんだか高価そうなごま油がその近くに置かれているのに気づく。準備万端な様子に、盧笙の状態がどうあれ簓は最初から自分で調理するつもりだったとわかり、盧笙は抵抗をやめた。
 実際、作ってくれるのは有難かった。疲労にどっぷり浸かった身体を動かすのは、フライパンで冷食を温める程度のことでも億劫に感じる。帰りにスーパーに寄って惣菜を買う気にもなれず、カップ麺の買い置きで今夜は凌ぐつもりだった。カップ麺では足りないかもしれないが、一晩寝れば多少は回復するだろうし、明日は休み。一晩くらい、多少ひもじくても我慢できる。それが想定外に真っ当な夕食にありつけそうなのは、簓のおかげでしかない。勝手知ったる他人の家とばかりに、慣れた手つきで換気扇を回しコンロの火をつける簓の背中に話しかける。
「お前、今日泊まってくつもりか?」
「そのつもりやったけど、盧笙があんまりしんどいんやったら帰るわ」
「ええで、泊まっていきや。ほな風呂沸かすな」
「そんなんせんと、座っとってええのに。五分くらいしか時間かからんで」
 それが簓の気遣いだとわかっているが、不法侵入者とはいえ一応客人である簓に調理をさせている後ろで、一人で休む気にはなれない。盧笙は、持ったままだった通勤鞄を足元に置くと、そのまま床に倒れ込みたい欲望を抑え込んで曲げた腰を伸ばした。キッチンからはじゅうじゅうと景気のよい音がし始めている。
「お前だけ働かせて休むのは据わりが悪いねん」
「お、据わりが悪いんで座りません~ってか?」
「やめえや、下らんダジャレのせいで余計に疲れたやろが」
「言うたん盧笙やん」
「俺は普通のことを言うたんや、ダジャレに仕立てあげたんはお前や」
 言葉を交わしているうち、錆びついたように動きの悪かった思考が少しずつ滑らかになっているのがわかる。空気中に漂い始めた油の匂いのおかげかもしれないな、と思いながら浴室に向かい、戻ってくると食欲をそそる香りは一層強くなっていた。さっきまで曖昧だった空腹をはっきりと感じると同時に、どうせならおいしく食べたいという欲求も沸いてくる。
 盧笙はテーブルの上に置きっぱなしにされている餃子のパックに目を付けた。触れてみると、思った通り冷めてきている。
「餃子、温めよか。こっちはレンジでええよな」
 パックを持って簓に近づくと、さっきはなかったはずのものが増えていた。チャーハンを入れるのにちょうどいい深めの皿が二枚。食器棚の中身まで把握しやがって、と呆れを感じながら盧笙は平皿を一枚取り出して餃子を並べる。
 口を動かして下らない会話をしながらお互いに手を動かして用意を進め、三分後にはほかほかと湯気の立つ温かい食卓が整った。ビールは簓の方に缶一本だけで、盧笙の方にはグラスに注がれたウーロン茶が置かれている。グラスと缶で間の抜けた音の乾杯をした後、二人していそいそとチャーハンを口に運んだ。
 ごま油の香りが口の中いっぱいに広がる。米粒は冷凍食品と思えないくらいにパラパラで、噛むとじゅわりと旨みが染み出してくるよう。食べているのに、空腹が一段階強くなる。
「ほんまや! ウマ!」
 思わず声を上げた盧笙がぱっと簓を振り返ると、簓は口から引き抜いたスプーンで次の一口を掬い上げながら僅かに眉を寄せていた。
「うーん、ごま油、ちょっと多かったかもなぁ。番組で食うた時はもっと胡椒がきいてた覚えがあったんやけど」
「そうなん? 十分めちゃくちゃウマイと思うで」
「まずいわけやないけど、うーん……
「そんなら、今度またやろうや。零もおる時にもっとウマイやつ作って食わしたったらええやん」
「そらええな!」
 盧笙の提案に、簓の渋い顔がぱっと明るくなる。ころころ変わる表情に盧笙の口が緩むと、簓の笑顔がまた少し色合いを変えた。
「盧笙もチャーハン食うて、顔色ようなってきたな!」
「せやな。飯食うたらなんか腹に力入るようなったわ。やっぱ日本人は米やな」
「チャーハンは中華やけどな!」
 顔を見合わせて笑い声を上げる。簓がビールを煽りながら、何気ない口調で話題を変えた。
「ほんで、なんで今日そないヘトヘはトになるような大掃除したん? 夏休み前の恒例行事だったりする?」
「いや、そういうんとちゃうねん。俺はよう知らんのやけど、今ってサッカーと野球の漫画が大流行りしとるらしいやん? あとバレーとバスケもなんかの理由で人気出とるって聞いたな、そういえば」
「ん、漫画? 確かにそんな話聞いたことある気もするけど、それがどないしてん?」
「その漫画が理由で、今年は運動部に入る新入生が多かったんや。せやけど去年までは文化部のが多くて運動部の部室はそこまで大きくなかったんで、一気に部員が増えた部はロッカーが足りんようになってしもうてな。六月までは出入りも激しいし様子見しとったんやけど、そろそろ新入部員が定着する時期やから、今の時点で数が足りてへん部活のために空き部屋を部室に変えることに決まって、そのためにまずは大掃除や」
 盧笙の話の間、へえ、ほお、などと相槌を打ちながら簓は缶をちまちまと傾けていた。盧笙が一呼吸ついたところで、缶を離して質問する。
「じゃあロッカーの搬入とかしたん?」
「それは業者さんに頼んだ。土日の間にやってくれることになっとる」
「ほんなら掃除だけでそんなクタクタなん? えらい大仕事やったんやなぁ」
「せやねん!」
 返事に思ったよりも力が入ってしまった。
「最初、ちょっと埃払って物動かすくらいやって言われたんや。そこまで大変やないけど、人手があった方がええから助かるて言われて、そんなん断る理由ないやん。けど蓋開けてみたらいつから放置されとんのかわからん備品やらなんやらが山積みで、それ全部運び出さなあかんってなって……。全員甘く考えとったから掃除を始めたんが夕方やったんやけど、業者さん呼んどるから今日中に終わらせなあかんから、最終的に校内にいた男の先生総出でなんとか終わらせたんや」
「そら、災難っちゅうか、なんちゅうかやな……
「せやけど俺はマシな方や、明日休みやからな。野球部とサッカー部の顧問の先生方は、業者の立ち合いせなあかんから明日も出るんやで。普段からいろいろ顧問の仕事やっとるのに文句の一つも言わんし、ほんま頭下がるわ」
 作業中、てきぱきと指示を出していた同僚の顔が浮かぶ。思い返せば盧笙がしたのは、あれをここへ、これはあそこへ、という指示を受けて物を運ぶだけの、単純な力仕事でしかなかった。それだけなのにここまで疲弊してしまっていることに、わずかに罪悪感すら芽生えてくる。
 サッカー部の顧問は、盧笙と同じく独身で一人暮らし。今頃、帰宅途中に盧笙が考えていたような侘しい食卓と向き合っているかもしれない。ひと手間かけた証拠であるごま油の香りに、簓への感謝だけではなく同僚への申し訳なさまで膨らんでいく。
「そら他の先生も偉いんやろうけど、盧笙も頑張ったんやろ? 盧笙のことやからいっちゃん重いもんとか率先して担当したんやろ」
「まあ……、それくらいしか出来へんし。俺は力もあるんやから当たり前やん」
「自分に出来ることやる、それで十分やん。わからんもんがわからんことに口出してもええことないし、口出さずに手ぇだけ動かしてくれる方が有難いこともあるやろ」
 そういえば、作業の終わりに顧問二人で揃ってわざわざお礼を言いに来てくれたのを思い出した。躑躅森先生がおらんかったら夜中までかかってましたよ、という感謝に大袈裟だと返した。今でも大袈裟だとは思うが、確かに何回か、他の先生が苦戦する大物に手を貸した覚えがある。夜中までではないにしろ、あと一時間くらいは余計にかかっていたかもしれない。
 盧笙の目の前から、空になった皿が取り上げられる。
「皿洗いも簓さんがさらさら~っとやっといたるわ。盧笙は元気が多少でも残っとるうちにしょしょ~っと風呂入ってまえ」
「しょしょ~って何やねん。シャレ考えんの諦めんなや」
「少々の手抜きは見逃してや~。あっ、早々(しょうしょう)って言えばよかったな!? ちょっとやり直してええ!?」
「あかん」
 このまま残っていると簓が皿を洗っている間もずっと話しかけられそうだ。泊まるのなら簓もこの後風呂に入るのだから、盧笙は今のうちに済ませておくのがいい。腹が満たされて身体は重いが、皿洗いをやってもらっている、と思うとなんとか立ち上がれた。
 いつもより時間をかけて、のろのろと入浴する。湯舟に浸かると手足の先から疲れがお湯の中に溶けていくような気がした。その時ようやく、夕食の間に簓が自分の話をせず、ずっと盧笙の話に合いの手を入れていただけだったことに気づいた。


「なあ、疲れとんのはわかってるんやけど、盧笙が寝るまで喋っててもええ?」
 照明を落とした寝室で、簓が恐る恐るといった声音でそう話しかけてきた時、盧笙は思わず小さく噴き出した。
「ええで。喋り足らんのやろ。飯の間、俺の話ばっか聞いてもろたもんな」
「それはええねん、俺が聞きたくて聞いたんやから。せやけど、俺にもちょーっとだけでええから喋らしてもらいたいな~って」
「やからええって言うとるやん。ちゅうか、いつもは許可なんか取らずにべらべら喋っとる癖に、今日はなんでわざわざ聞くねん」
「いや~今日は特にしんどそうやったから、黙れ言われたらさすがに黙ろかな、思て」
「普段から黙れって言われたら黙れや!」
 今度は思い切り笑い声を上げた。今夜の簓の甲斐甲斐しさはちょっと申し訳なく感じるくらいだったが、最後の最後で我慢しきれなくなったところが愉快だった。その上、簓は喋りたいのは自分の我儘だと考えているようだが、盧笙にとってはチャーハンや皿洗いと同じようなカテゴリに入る。あれもこれもしてもらって、眠る直前まで簓の話を聞いていられるなんて、とんだフルコースだ。
「好きにせえ。あ、でも、悪いけどツッコミは期待せんとってくれ。頭あんまり回ってへんねん」
 言葉尻を掻き消すように盧笙の口から欠伸が零れる。暗闇の向こうから、簓の愉快そうな笑い声が響いた。
「ええで、けどオモロすぎて寝れんくなったらすまんな!」
「えらい自信満々やな。やってみ、受けて立ったるわ」
 ひとしきり笑いあってから、簓は声を一段低くして話し始めた。抑揚はありながらも落ち着いたトーンの声は、暗闇の中でよく通った。心地よいテンポに盧笙の身体から力が抜ける。
 いつもよりも数ミリほど深く布団に沈み込んでいるような錯覚に陥り、背中の方から夢が這い上がってくる。盧笙はテレビ局の廊下にいて、ごちゃごちゃと壁際に積まれたいろいろな段ボールの中をあちこち開けて探し物をしている。これから猫の着ぐるみを着なければならないのに、どうにもそれが見つからない。出番は刻々と迫っている。焦りながら少し奥まったところにある段ボールを引きずり出して開けてみると、カビだらけの野球のグローブが五、六個詰まっていた。うわ、と思ったのとほとんど同時に、その段ボールが横から奪い去られる。振り返ると野球部の顧問が中を覗き込んでいた。うええ、卒業生の忘れもんかな、と言いながら箱を抱えてどこかへ去っていく野球部の顧問と入れ違いに、犬耳をつけた簓がこれまたどこからか現れて盧笙の手を掴む。何しとんねん、もう行くで、と手を引かれるのに抵抗し、着ぐるみが見つからないことを伝えると簓は笑って、もうバッチリ着とるやん、と言う。しかし、見下ろした自分の姿はいつもの仕事着で、どう考えても猫には見えない。戸惑っているうちに簓は、ついでにチャックのチェックしたるわ、と言って盧笙の後ろに回り込んだ。
「そんでな、しゃーないから俺が着ぐるみの背中のチャック外す手伝いしたったんやけど、オッサンがめっちゃ汗かいとってなかなか上手くいかへんくてなぁ。ようやっとチャック下ろした頃に、やーっとスタッフが来よってん。そしたらオッサン、スタッフの顔見た瞬間にガチ切れしてなぁ。『これ視界悪い言うたやろ! なんでお前どっか行っとんねん!』ってめっちゃ怒鳴るんやけど、下半身はまだ猫のままやし小脇にかわいい猫の首抱えたまんまやねん。そのせいでスタッフがニヤニヤし始めよって、それ見てさらにキレたオッサンが『手伝うてくれた人にも謝れや!』とか言い始めて俺もその場を離れられん雰囲気になってもうて、地獄か思うたわ」
 記憶と簓の話が混ざった夢を見ていた。いつの間にかしっかり閉じていた瞼はもう開かない。呼吸も深い。盧笙は、自分が眠りの際に立っていることを自覚した。意識が浜辺だとしたら、盧笙の乗った小さなボートは今まさに眠りの大海原へ漕ぎださんとしている。ゆらゆらと、時折少し陸地の方へ戻ったりしつつ、着実に広い海の方へと進んでいく。
……盧笙? もう寝た?」
 そろりと探るような声が聞こえて、盧笙は少し岸に近づく。咄嗟に返事をしようとしたが、盧笙の口からは「おう」とか「ああ」とかの音ではなく、ほう、という深い吐息だった。
「なんや、返事みたいやな」
 盧笙は返事のつもりだったが、簓はただの寝息だと判断したらしく、声を殺してくすくす笑っている。それから、簓の方から布団の下で身じろぐような音がした。最初、簓も本格的に寝る体勢に入ったのだと思ったが、すぐにかすかな衣擦れが盧笙の方へ近づいてきてくるのに気づいた。人間が二人しかいない空間で、そんなことをするのは簓しかいない。
 本当に盧笙が寝たのか、わざわざ確認する気だろうか。盧笙はまだ近づいてくる簓がわかる程度には意識が残っているが、瞼はもうしっかりと閉じているから、ほとんど寝ているようなもの。確認なんてしていないでお前もさっさと寝ろ、と脳内で簓に話しかけていると、本当に小さな囁きが聞こえてきた。
「盧笙」
 簓の声は盧笙が思っていたよりもずっと近くから零れた。もしかすると、盧笙の枕元あたりまで簓がにじり寄ってきているのかもしれない。
「ろしょう」
 吐息にほんの少し混ざった音が、盧笙の名前を紡ぐ。あまり聞いたことのない呼び方のような気がしたが、濁った盧笙の頭ではよくわからない。
「いつもより寝落ちんの早いなぁ、やっぱ疲れてたんやな。あっという間にぐっすりやん」
 簓はまたひっそりと笑ったようだった。
「せやけど、ちょっと寂しいな。もっと盧笙と話してたいし、もっと盧笙の顔見てたい。この際夢でもええ、なあ盧笙、俺の夢ん中出てきてくれへん?」
 無茶言うな、そんなら出演料請求するぞ、と思うと同時に、つい今しがた簓が出てくる夢を見ていた盧笙に不思議な優越感が生まれた。明日の朝まで覚えていたら、この話をしてやろう。昨夜お前、俺に夢に出てくれとか言うとったけど、俺はお前の夢見たで。それを教えたら簓は悔しがるだろうか。
「盧笙の夢にも、俺がおったらええのに」
 想像の答えは予想外に早く与えられた。てっきり簓は、お前ばっかりずるい、と悔しがるものと思っていたのに、どうも盧笙の夢に簓が出てきても喜ぶらしい。それならそれで今日は世話になったし、明日の朝一番に喜ばせてやるのもいいかもしれない。盧笙を揺らす眠気の波がだんだんと大きくなる中で、そんな思考が漂う。
 不意に、ツンとした匂いを感じた。ほんの僅かな、けれど確かにそこにあるのは、ニラとごま油とビールの匂いだった。簓。盧笙の頬に温かいものが触れる。柔らかくて、温かくて、少しだけ湿った気配を持つそれは、もしかしてついさっきまで簓が絶えず動かしていた、あの通りのよい声を発するための、あの。
 ぐるんと意識が急旋回する。一体今何が起こったのか、それを突き止めようと頭が動こうとしているが、一度休息モードに入りかけた脳が覚醒する気配はない。小さなボートは突然の高波に攫われて軋み始める。もう眠気に抗っていられない。
 簓が出てきた夢の中身を忘れたな、と考えた次の瞬間、盧笙の意識はぷっつりと途切れた。