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織音
2025-12-07 22:57:17
4325文字
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潮騒の隙間
『錆び付いた光に手向けた、白』
リーに置いて逝かれた指揮官が波間で一人、リーを弔うの話。流血、破損表現あり。
いつの間にか開け放たれていた車両の窓から、潮風が吹き込んだ。
それに次いで潮騒が鼓膜を揺らして、僕は静かに目を開く。どうやら眠っている間に目的地に到着していたらしい。着いたのなら起こしてくれれば良かったのに、と既に誰も座っていない運転席を眺めながら思う。数十分前までは話好きの構造体がその席で絶え間ない雨のような独り言やほとんど一方的な会話を続けていたはずだったが。
「
……
ありがたい、けどね」
――
人払いか、或いはただ散策に行っただけか。まあ、こんな砂浜に誰かがいるとは思えないし、大方散策に行ったのだろうが
……
どちらにせよ今日の日付とこの場所で目的を察して気を遣ってくれたのだろう。そうでなければこんな時期に海に行きたいなど、グレイレイヴン隊の指揮官が言うはずがないのだ。
「後で感謝しないと」
ようやく開け放った車両のドアの向こうから、一層強い潮風が吹き込んだ。
快晴の砂浜は数年前に存在していたはずの凄惨な戦闘の痕跡すら残っていない。きっと全て波に押し流されてしまったのだろう。平穏そのものの砂浜は一年前と全く同じように青の表面が波打ち、寄せては帰っていくだけ。まるで世界から隔絶されてしまったように潮風に錆び付いて、時が止まったみたいだった。
隣の座席の上に置かれたままの一輪の花を手に取る。白く嫋やかな花びらはまだ美しいまま萎れていない。良かった、と安堵の息を一つ溢す。生花を摘んでそのままの状態で持ってきたものだから傷んでしまわないか不安だったが、杞憂だったようだ。壊さないようにそっと胸に抱いて車両を降りる。不安定で優しく、脆い砂浜に一歩目を預ける瞬間は何度経験してもやはり慣れない。
「リー、久しぶり」
波の音に掻き消されてしまう程、小さな声で呟く。しかし彼ならきっとどんなに小さな声でも拾い上げてくれるだろう。今は彼以外に届かなくて良かった。きっと、誰にも見せたくない弱さを晒してしまうから。
戦闘続きで置き去りにしたままの日常へ帰るように波打ち際まで歩いた。靴を脱いで、つま先が波に濡れても嫌ではなくて、冷たい海水を厭わずに浅瀬へと歩みを進める。波が表面の熱を攫っていくのが心地良かった。
「今回は白い彼岸花。今回の任務地の近くに群生地があったのをリーフが見つけたんだ」
気に入ってくれると嬉しい、なんて答えが返ってくるはずのない言葉と共に嫋やかな花を波へ手向ける。今は浅瀬に留まっているが、いつか離岸流に乗って見えなくなってしまうだろう。
「彼岸花って赤色だけだと思ってたけど、案外いろんな色があるんだね」
戦場のすぐ隣、運良く戦火に晒されることなく育った白い彼岸花。そういえばリーフが彼岸花には幾つか色があると話してくれたはずだった。確か色ごとに花言葉が違うとか
……
あまり良く思い出せない。何か大切なことを教えてもらったはずだったのに。
「彼岸花って不吉って良く言われるけど、綺麗な花だよね。花言葉とか、そういうものはよく知らないけど
……
君に見せてあげたくて」
花は陽光を受けて光を散らし、揺れる水面に揺蕩う。以前までこんなに平穏ではなかったのに、と伏せた睫毛が陽光を遮った。
数年前まで、この砂浜は海から異合生物が押し寄せる戦場の一つだった。構造体だった機械の塊や異合生物の肉片が散らばり、循環液か血液か、それとも異合生物のものか判別のつかない液体に濡れた砂浜は何処に目を向けても死という影を落としていたが
――
今はただ、穏やかな海と柔らかな砂があるだけ。いつか空中庭園の映像の中で見た鮮やかな青が揺らぐだけの海岸で、凄惨な光景は最早何処にも残されていなかった。
「
…………
リー」
砂浜から戦闘の痕跡が消えても、未だにあの日が脳裏に焼きついて離れない。
『指揮官、何があっても振り返らないでください』
青い閃光が奔って、衝撃から守るようにライフルケースが視界を覆う瞬間、リーは静かにそう告げた。何かが灼けた匂いと海の匂いが混ざり、それを押し流すように潮風が吹いて、構造体の淡い金髪を揺らしていた。
『もう此処の戦線維持は厳しいでしょう。体制を整えるために、まずは指揮官と最も損傷しているルシアを後方に送ります。既にリーフと支援部隊が待機しているはずです』
リーだって満身創痍のはずだった。裂けたバイオニックスキンからは絶え間なく青色が流れ落ち、機体表面の一部は崩れたのか、内部構造が剥き出しになっていた。
『貴方が後方に移動できるまで、此処は必ず僕が守り抜きます』
こちらを安心させるように他の人にはわからないくらい柔らかく笑んで、リーは振り返らずに異合生物が押し寄せる波打ち際へ歩いていく。
そして、帰ってきたのは認識票ひとつだった。機体も武器も、きっと押し寄せた異合生物の群れの中で砕け、沈んでしまったのかもしれない。何一つ残らず全て海に沈んで二度と帰らないまま、数年前の今日からこの海で彼は眠り続けている。
小さな破片はどこか遠くまで流されてしまっただろうが、もし残っていれば
……
今も海底で機体の一部が取り残されているだろう。だから年に一度だけ。この日だけはリーを弔うために一輪の花を携えて、この海に手向け続けていた。
――
その海底まで、あの彼岸花は届くだろうか。波に攫われて、届かないまま散るのだろうか。
現実的に考えるのならばきっと後者だろう。海底まで届かないまま波と砕け、花を散らして泡沫と散る脆い命に過ぎない。それなのにどうしてか、あの花は彼のいる海底まで届いてくれるような、そんな根拠のない自信のようなものが思考の端で揺れていた。
「ねえ、僕は何を理由に生きればいい?」
不意に溢れ出た言葉の続きをいつものように抑え込もうとして、そんな必要は無いのだと気が付く。此処には他に誰もいないのだから、英雄である必要などない。強い指揮官でなくとも良い。
貴方の考えていることを全て、素直に、僕に教えてください
――
彼が超刻機体に換装するよりもずっと前、遠い日に言われた言葉は今でも有効だろうか。まだ縋ることは許されるだろうか。しかしもうその言葉が無効だとして、何故か今この瞬間、リーが眠るこの場所でなら心を全て吐き出すことを許されてしまう気がした。
「分からなくなったんだ、もう」
意味もなく眺めていた水面で、ひとひらの花びらが波に砕けて散った。刹那。
『
――
指揮官』
揺れる潮騒と光の隙間に、彼の影を見た気がした。
「リー
……
?」
手を伸ばした。指先が宙で弧を描いて、影を裂く。隙間に見た幻影は刹那のうちに消え去り、そこには波間を揺蕩う花と光が在るだけ。
「
……
リー」
頭では分かっていた。あれは白昼の光が見せた幻だと。僕の記憶に留まる一片で、触れられない影でしかない。それでも、伸ばした手を力無く投げ出すことはできなかった。泣き出してしまう直前の、喉が強く渇くような感覚がして喉が震える。
「
――
僕も、連れて行ってくれよ」
誰かが聞けば呆れるだろうか、彼の元に行ける花が羨ましいなんて。
リーという存在を失ってから胸の奥に住まい、誰に語ることもなかった感情を吐き出すように指揮官はあえかに息を吐いた。胸元を撫でた指先が布越しに金属の感触を捉える。まるで愛しい人の頬を柔らかに撫でるような優しさでそこにある認識票の形をなぞった。
「君がいないと、酷く寒く感じるんだ」
吐き出した心は酷く脆く、一人を怖がる子どものようだった。昔は一人が怖くて、寒く感じてしまうこの感情を形容する言葉を持っていたはずだったのに、今はもう思い出せない。
「
……
君のところに行きたい」
レイヴン隊の隊員を、いつも隣に在ったひとらしい温もりを失った心は泣くことすらできないまま、埋めきれない空虚を引き摺り歩いてきた。ルシアでもリーフでも他の誰でも満たされない、どんな温もりに触れようと埋まらない何か。リーならこの空虚の正体を教えてくれるだろうか。埋まらず、満たされない何かを癒してくれるだろうか。
「でも、そんなこと言ったら君は怒るかな」
君のおかげで今僕は生きているのに、と自嘲するように笑い、そっと閉じた瞼の裏側に色はないはずだった。瞼を透かした透明な光がそこに在るだけだと信じていた。
『指揮官、生きていてください』
いつかの彼が、閉じた瞼の裏で願うのだ。
疾うに記憶の色彩が褪せても、声を忘れてもおかしくないほどの時間が経った。思い出せないことの方が多くなって、それでもその姿だけはやけに鮮明に瞼の裏に描くことができる。
『どうか、終わるその日まで。
……
貴方は、貴方が望んだ未来の中にいて欲しい』
いつもリーはそうやって僕に同じことを言って、震えた手で僕の手を包んだ。自らの足で死に向かうことを許さないのではない。彼の言う終わりがこのパニシングとの戦いの終わりなのか、僕の命の終わりなのかはわからないが
――
ただその『いつか終わる日』まで、生きていることを願う。純粋で、真っ直ぐな祈り。
「
……
そう簡単に死んだりなんかしないよ。君も知ってるでしょ」
だからこそ、君の傍までが遠い。こんなに
……
こんなに君の眠る場所の近くにいるのに。制服が濡れるのも厭わず浅瀬の中で膝をついた。海はどこまでも穏やかで、リーの凪いだ瞳とよく似ている。
「でも
…………
少し、疲れたな」
手袋越しに指先を撫でる海水の温度は冷たいのに、やはりどこか心地よかった。水分を含んでじわじわと色を濃くしていく制服が重くて、動くことすら億劫だった。
いっそ、このままこの冷たさの中に消えられたら良い。そして君の傍に行けたら良い。そうしたら、この埋められない空虚に苛まれる心も、少しは満たされる気がした
――
それでも。
『指揮官』
記憶の奥から響いた声が空洞の心を撫でる。何かを怖がるように響いたのはきっと都合の良い幻聴だろうが、死を選べなくなるのならそれで構わない。僕は一人笑みを溢した。
「
……
大丈夫だよ、リー。まだ死んだりしないから」
だからさ、リー。一つだけ約束して欲しい。
「君の傍に行く日が来たら、迎えに来て」
生きていてくださいと喪失を怖がる手で僕の手を包んだ時みたいに。僕がいつか君の隣で眠る日が来たら、誰の手も握り返せなくなったこの手をもう一度、優しく握って欲しい。
――
それまでは、現世という波打ち際で待っているから。
「約束だよ」
そっと紡いだ密やかな声は波の音に掻き消される。波間に手向けた花はいつの間にか砂浜から遠く離れ、水面で光を受けて、静かに揺らいでいた。
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