ぷの
2025-12-07 07:24:10
8644文字
Public レイチュリ
 

レイチュリワンウィーク - カップルシート・胸キュン

少し仲良くなってきた頃のお仕事のひととき。
これはまだ一方通行の片想い。

 カップルシートといえば、どんな場所を思い浮かべるだろうか。映画館、バー、プラネタリウム……二人きりのおこもり感さえあれば、どんな場所でもそう呼んでいいかもしれない。
 例えば、大型トラックの運転席と助手席もね。
 ハンドルを握るアベンチュリンは一つ大きなあくびをした。だだっ広い平らな草原の中、眼の検査の画像のようなまっすぐな道がひたすら続いている。他に走っている車はなく、道路脇にも建物どころか標識ひとつない。古びた舗装がときどき割れていて、車体が軽くがたつくくらいのものだ。変化のなさに脳はとっくに飽きている。
 右隣のレイシオは少し前に寝てしまった。アベンチュリンと違って繊細な彼は揺れる車中で文章を読むと酔うらしく、読書も仕事もできないと顔をしかめていた。
 レイシオと二人きりで車に乗るのは初めてで、どう間を持たせたものか手探りだ。寝つく前は、二人で頭の中にチェス盤を浮かべ、口頭で駒を動かして対戦していた。けれど、アベンチュリンがインカムで外と話し始めたことで、決着がつく前に流れてしまった。仕切り直してもう一局どうかと誘ったが断られた。また中断するようなら煩わしいと思ったのかもしれない。
 それからは、音量を絞って地元局のラジオを流している。交通情報と天気予報、地元のニュースに、ローカル施設のコマーシャル。そりゃあ退屈が極まって眠たくもなるというものだ。
 隣の健やかな寝息を聞いていたら、昔々姉が口ずさんでいた歌を思い出した。刺繍をしているときいつも同じ曲なのはなぜかと尋ねた弟に、歌で目を数えているのと姉は答えた。内職をするのは決まって夜だったこともあって、幼いアベンチュリンはそれを聴いているうちに寝てしまうことがよくあった。
 繰り返し刷り込まれた記憶は思ったよりしっかり残っているようで。ラジオに紛れるくらいの小さな声でためしに歌ってみると、六番まである歌詞を頭から最後まで全部覚えていた。姉は母から教わったと言っていた。ということは、この曲はアベンチュリンに残された数少ない母の思い出のひとつとも言える。
「それは?」
 いつのまにか目を覚ましていたレイシオが、まだ夢から覚めていないようなぼんやりした様子でアベンチュリンに尋ねた。
「歌詞が翻訳されない。君の故郷の歌か?」
「そう。起こしちゃってごめんね」
「構わない。おおまかでいい、歌詞の意味を教えてくれ」
 レイシオは姿勢を直し、水筒のコーヒーを一口飲んだ。それから、ラジオを消してしまった。第三者の声がなくなると、なんとなく車内が狭く感じる。
「ありきたりな内容だよ。若い女性が市場で布と糸を買ってきて、大切な人たちへの贈り物に小物を仕立てるんだ。その仕上げに心を込めて刺繍を施す」
 親、兄弟、友人、恋人、夫、そして我が子。それぞれの健康と幸運を祈って針を刺す。同じフレーズを相手ごとに一部分だけ変えて繰り返す、シンプルな歌だ。
 ついでに、故郷の刺繍には身につける人の年齢や性別によって定番の意匠があることや、売り物にする用の華やかな図柄についてなど、関連することを思い出しながら話した。他の文化圏にも例がある珍しくもない風俗を、レイシオは興味深そうに聞いていた。まあ、ラジオの話題よりはマシだろう。
「君も歌いながら刺繍をしていたのか?」
「ううん。僕の故郷では針仕事は女性の役目なんだ。それに、当時はまだ針に触らせてもらえなかった。小さくて失くしやすいから、ナイフよりも取り扱いに気をつけなくちゃいけないって」
 そのときの定番の文句は、家の中で失くしたことを忘れ、錆びた針を踏んで怪我をしたうっかり者の話だ。傷口から足が腐って切り落とすしかなくなった、と脅して締め括る。
「怖い話で子どもを危険から遠ざけるの、ありがちだよね」
「そんなに昔のことをよく覚えていたな」
「一緒に歌ったわけでもないのにね。僕も驚いた」
 話していたらレイシオはすっかり目が覚めたようだ。普通の車なら暇潰しに運転手を交代しろと言いたいところかもしれないが、生憎彼は大型車を運転できる免許を持っていない。免許があったって、こんな武骨な車をレイシオに運転させるのはなんだか恐れ多いけど。
 他に何か提供できる暇潰しはないかと考えたものの、思いつかなかった。だから、一時停止していた記憶を引っ張り出した。
「Rxd5」
 仕切り直しの一局は興醒めでも、続きならどうだろうか。次は白、有利な先手を譲られたアベンチュリンの番だ。前の手ではレイシオのクイーンが攻め込んできた。こちらはルークで敵陣に切り込む。
「覚えていたのか」
「まあね。記憶力は悪くないみたいで」
 ハンドルに片手を置いて、横目でレイシオを見ながら自分の頭を人差し指で叩く。レイシオの声の温度から察するに、正解を引いたようだ。彼の唇が楽しげに弧を描く。
 なにもかも頭の中でやらずにバーチャルのチェス盤を表示させれば、中断しても問題はなくなる。アベンチュリンがそうしないのは、目に見えないところで二人で同じ景色を思い浮かべていたいからだ。気づいているだろうに自分の端末を出さないレイシオも、同じように考えていたらいいなと思う。
 今だけレイシオの体も頭もアベンチュリンが独り占めしている。せっかくの機会に一緒にいるだけで満足したらもったいない。脳への負荷を上げて、より深くゲームに集中する。読み合いは、相手の性格や思考回路を推し量る相互理解への一歩だ。レイシオという人を知るために、駒を進めるように彼の懐に潜り込みたい。
「今度は邪魔が入らないことを願おう。Nd4」
「邪魔ねえ。ああ、もし地平線あたりに気球が出てきたら、教授のチョークで撃ち落としてよ」
 レイシオは「何を言ってるんだこいつ」という顔をした。彼が知る屈折の測定機に気球は出てこないらしい。出会ったばかりの頃は、くだらない話を振ろうものなら綺麗に無視されていた。こういうところで少しずつ関係が前進していると実感する。
「僕をミサイルの発射台だとでも思っているのか? 気球が何者だか知らないが、その距離で黙視できるサイズのものが墜落すれば大きな被害が出るだろう。まずは安全を確保できる場所に誘導する方法を考えることだな」
「それって射程内なら落とせるってことかい? 巨大な気球をチョーク一本でどうするつもりなのか詳しく教えて」
「無駄話で気を散らそうとするのはよせ。口を閉じて、僕の予想外の手を打つことに集中しろ」
 そうは言っても、アベンチュリンがじっくり考えて決めた手にレイシオは即座に返してくる。相当先を見据えた慎重な奇襲でなければ裏をかくのは難しそうだ。アベンチュリンにはまだ、そこまでの展開を組み立てる力はない。
「あっ、今の待って!」
「実戦に待てはない」
「あのさ、これまだ逃げられる?」
「よほどのマヌケが相手であれば」
 レイシオはアベンチュリンの王の死を宣告した。勝ち筋ではなく負けない筋を探している時点で終了していることは、ほぼ素人のアベンチュリンにもわかっている。往生際悪くゲームを長引かせるのは美しくない。
「僕はルールを覚えてるだけの初心者だよ。少しくらい手加減して楽しませてくれてもいいじゃないか」
「接待されて本当に楽しいのか? 簡単なことだ、上達すればいい」
 容赦ない言いぐさにむくれたアベンチュリンを見て、レイシオは挑戦的に笑った。近頃そういう顔を二人きりの時だけ見せるんだから、ずるい。
「はあ……負けました。検死してくれ、お医者さま」
「いい心がけだ」
 感想戦はゲームのほとんど最初からダメ出しされた。本当に容赦ない。合わせてより良い手も数パターンずつ教えてくれるので、一応アベンチュリンを育てる気はあるようだ。
「上手くなるまで付き合ってくれるんだ?」
「退屈しのぎになるうちはな」
「見限られないようにせいぜい頑張るよ。そうだ、今日中に僕が一回でも負けなかったら、教授にお願いを聞いてもらおうかな」
「好きにすればいい。無理だろうが」
 そう自信満々に言われると、なにがなんでも崩してみたくなる。まぐれでいいから、レイシオの得意なことで負かしてみたい。
「賭け事となれば、僕には強力な後押しがつくんだよ」
「チェスに運要素はないぞ、ギャンブラー」
「そうかい? まあやってみようよ。君の賞品も考えておいて」
「では、もう一度君の故郷の歌を聴かせてもらおう」
 なんという雑な間に合わせか、勝ってもなんにも得がない。レイシオにはアベンチュリンにしたいお願いなんてないのだ。アベンチュリンのお願いが何か聞きもしない。
 さらにレイシオは、今日ずっとアベンチュリンが白でいいと言った。持ち時間もレイシオは十分、アベンチュリンは無制限。アベンチュリンは実力で劣る上、運転しながらの勝負。そのくらい優遇しなければ不公平というわけだ。
「いいよ。情けをかけたこと後悔させてあげよう」
「それは楽しみだ」
 時刻はまだ昼過ぎ、今日を折り返したばかりだ。それでもレイシオは自分が勝ち続けると確信している。アベンチュリンが力の差を幸運で埋められるかは、神のみぞ知る。


 日が暮れてから、風が出てきた。だだっ広い草原を吹き抜ける風が荷台の横っ腹に当たって、ときどきハンドルを揺すられる。
 何もない道にはもちろん街灯もないので、車のヘッドライト以外は真っ暗だ。ライトを強くしたってまっすぐに舗装された道がさらに数メートル先まで見えるだけ。プラネタリウムのような空一面の星は、残念ながら流れてきた雲に隠れてしまった。
「風があるにしても、やけに揺れるな」
「気になるかい?」
 アベンチュリンは備え付けのモニターをつけて、車の周囲の映像を表示した。後方を映した枠でパチパチと火花が散っているのを見て、レイシオは顔をしかめた。
「攻撃を受けているのか」
「そうなんだよねえ。大丈夫、頑丈が取り柄のトラックだから荷物も僕らも安全さ。念のため、運転が荒くなるかもしれないことを頭に置いといてほしいかな」
 しばらく前から、左耳につけているインカムが賑わっている。このトラックをヘリで援護する部下たちの情報共有と、別動隊の部下たちの報告だ。立ち回りは出発前に決めてあるので、アベンチュリンから指示することはない。
「いつからだ?」
「暗くなってからお尻を追いかけてきてるんだ。がっついてる狼は初デートからディナーに誘おうとするものだろ。それからこの先に待ち伏せがいて、別動隊が先回りして処理中」
 会話の合間にもチェスを進めていたけれど、それなりに緊迫した状況での同時進行は厳しい。レイシオのターンが終わったところで、襲撃に対処する間のタイムアウトを申し入れた。
 フロントガラスをスクリーンモードに切り替えて、周辺の熱感知カメラの映像と前方の暗視カメラの映像を出す。その他トラックに積んである装備をもろもろ起動して、お迎えの支度は完了だ。
 アベンチュリンたちは当初、襲撃される確率は半々とみていた。そこで厄除けのお守りになればと、レイシオに助手席に鎮座願った。ところが、先方には宇宙の宝の価値がわからなかったらしい。レイシオと比べたら、運んでいる荷物なんてその辺の石ころ同然だ。同乗していると知っていて手を出すなんて正気とは思えない。
 トラックの後方でフラッシュが瞬く。アクセルを踏み込むと同時に囮を投げ込んで追尾ミサイルを無力化した。
 爆発の衝撃でトラック全体がビリビリと震えるものの、大きく姿勢を崩しはしない。防音性能もバッチリだ。カンパニーは良いものを作る。ただし、特殊装備はレンタルでも目玉が飛び出るほど高く、損傷すれば修理費で赤字だ。今回は特別にレイシオを乗せるので奮発した。
「悪いね、こう見えて身持ちが硬いんだ」
 スピードを戻し、ゆらりとトラックのお尻を左右に振ってからパッシングして、襲撃者をからかった。体幹が強いレイシオは少々振られてもびくともしない。
「挨拶もなしに後ろから手を触れようとは、マナーがなっていない」
「ははっ! あちらさん、ナンパのダメ出しをされてるとは思わないだろうな。教授ならどう誘うんだい?」
 内心かなり答えを楽しみにしながら、アベンチュリンはレイシオにちらりと目線を送った。暗い車内でモニターの薄明かりが差して、端正な顔に神秘的な雰囲気がトッピングされている。インカムのやり取りに耳を傾け、各画面をチェックしてまたレイシオに目をやると、示し合わせたように赤い瞳がこちらを見た。
 その美しさと鋭さに、アベンチュリンは息を飲んだ。
 捕捉されて震え、身がすくみそうになる。同時に、高揚する。高いところに一気に吊り上げられたように、心が急加速で浮き上がる。
 だけど、それはほんの一瞬のことで、視線はすぐに正面に戻ってしまった。
「一度目を合わせればいい。黙って待っていれば、向こうから来る」
『キャーッ』
 インカムの向こうで、流れ弾にときめいた誰かが野太い悲鳴を上げた。
 実演付きでご教示どうも。まんまとぐらついたアベンチュリンは、むぐ、と唇をすぼめた。幕間のミニゲームでも一敗を喫してしまった。
「やれやれ、色男はこれだか、ら」
 ミサイル二発目。今度は基石のバリアで弾いていなす。レイシオに見惚れたせいで対処が遅れたわけじゃない。ミサイルをよそに飛ばす理由があったのだ。
 上空の援護班のスナイパーが、発射直後の隙をついて後ろの車のタイヤを撃ち抜いた。車はぐるりと回転して舗装路から脱落していった。そこに旋回して戻る途中のミサイルが着弾したのは不幸としか言えない。当たる前に蜘蛛の子を散らすように車から飛び出す人影が見えた。死人が出ないのはこちらとしても気が楽になる。
「お見事」
「君のところの人間は優秀だな」
 アベンチュリンに続いてレイシオからの褒め言葉も頂戴して、今度はインカムの向こうで歓声が上がった。ありがとう、士気が上がるからもっと言って。
 なお、レイシオはインカムをつけていないので、二度の部下たちの反応も、襲撃が始まってから車内の会話が援護班に筒抜けになっていることも知らない。ナンパ野郎を撃退したので、アベンチュリンはそっとマイクをオフにした。
「僕のことも褒めていいんだよ、教授」
「褒められることをしてから言え、ギャンブラー」
 援護班から、周囲に不審な姿はなくなったと報告が来た。彼らは引き続き周辺を警戒しながらついてくる。別動隊からも、待ち伏せの排除が完了したと連絡が来た。こちらは目的地で合流だ。アベンチュリンたちは予定どおり、ゴールまでこの速度で駆け抜ければいい。フロントガラスのスクリーン他各種装備をオフにすると、ナビと外のヘッドライト以外に明かりのない車内はぐっと暗くなった。
 ゴールが見えたのは、中断していたゲームもだ。一時停止していた頭の中のチェス盤を開くと、トントンと白い駒たちが勝手に動いてアベンチュリンに道を示したのだ。
「Bd5」
 アベンチュリンの再開後の一手を聞いて、レイシオが固まった。唇に指を当てて思考に潜っている。どこで形勢が変わったのか棋譜を遡っているのだろう。
「次の次でチェック。合ってるかい?」
……ああ」
「襲撃で気が散ってたみたいだね」
「そのようだ」
 レイシオは潔く負けを認め、横並びではしにくい握手の代わりに左手のひらをこちらに向けた。その手に応えて軽くタッチしてすぐ、手を強く握って引く。左手でシートベルトを外して右隣に身を乗り出した。
「おい!」
「賭けは僕の勝ちだよね。ハンドル持ってて、勝者のお願い」
 律儀に約束を守るレイシオは、お留守になったハンドルを掴むためにアベンチュリンの方に体を向けざるをえない。
「お待たせ、来たよ」
 レイシオの懐にすり寄って、頬に挨拶程度のキスをした。
「で、誘った相手が落ちたら、続きはどうするんだい?」
 暗がりでは血のようにも見える赤い瞳が、至近距離でアベンチュリンを見る。なにもかも見透かされそうだ。そうされたいと思わせてくるのがまた恐ろしく、背筋が冷える。自分の中にそんな願望があるとは知らなかった。まるで暗示をかけられているみたいだ。
 これが学者で医者だって? 視線ひとつで人を釣り上げるなんてカリスマ、野放しにしてたら危険じゃないか。誰かが見てないと――あぶない、それは要らないお節介だ。レイシオは戦略的パートナー、必要以上に干渉するのは契約から逸脱する。
 この道は殺風景で、まっすぐ走ってさえいればまず事故は起きない。レイシオはハンドルを握って気づいただろう、勝手にステアリングが微調整されていることに。襲撃を察知してから手動にしていたけれど、さっき自動運転に戻しておいたから。
 レイシオはアベンチュリンから目を逸らして溜め息をついた。呆れている。つまらない悪戯にか、引っ掛かった自分にか。ハンドルを離した右手が胸元にしなだれかかるアベンチュリンの後ろに回り……猫の子のように襟首を掴んでひっぺがした。
「もう一度君が勝ったら教えよう」
 またか。もったいつけるな、色男め。これも答えを教える前の実演だろうか。相手が自分に前のめりになったら、一度引く。余裕たっぷりでお上品なことだ。
「いいよ、乗った。君の賞品は歌のままでいいのかい?」
「ああ。ただし、聴くだけでなく録音させてもらおう。今度こそ邪魔が入らないことを願う」
 そういうの、フラグっていうらしいよ。他に想定されるトラブルはあったかと頭に入っている資料を探る。同じようなことが起こっても、もうレイシオはミスしてくれないだろう。さて、勝ち目はあるだろうか。運も実力のうちとはいえ、神頼みばかりでは情けない。
 本来幸運は、可能性を絞り、狙って掴むもの。いつもなら荷運びなんて役目を自分たちに割り振ったりしない。厄よけのお守りなんてのは建前だ。レイシオと密室で二人きりで過ごし、普段より気安く接してくれることに期待したのだ。
 初対面のレイシオは嫌味な変人にしか見えなかった。でも実際は、案外親切で面白い。アベンチュリンはレイシオの扉を開けたくなった。内側の柔らかいところに招かれたい。紆余曲折を経てぼろぼろになったアベンチュリンとは違い、レイシオのそこはとても暖かそうなのだ。呼ばれても厚かましく上がりこんだりはしない。開かれた扉の外から眺めるくらい、いいだろう?
 トラックの中は普通車より振動がうるさく、シートは固く、空調の効きが悪くて、まったく居心地がいいとは言えない。お世辞にも美味しいとはいえない安物のコーヒーは気休めの眠気覚ましだ。映画館やバーやプラネタリウムのように静かでも洒落てもないけれど、アベンチュリンとレイシオの関係にはちょうどいい。お近づきになりたい相手と過ごせるなら、これもまた立派なカップルシートと言えよう。
 作戦が当たり、今日はレイシオのガードが甘い気がする。アベンチュリンはゆるみそうになる頬を引き締めて、頭の中の駒を初期位置に並べ直した。気づいているのかいないのか、公私混同について何も言わないレイシオも、この時間を心地よく感じていたらいいのにと思いながら。
「ところで、教授はどんなタイプが好みなんだい? 実際に誰かを誘うところを見てみたいな」
 正直なところ、アベンチュリンにはレイシオがあの手管を使うところを想像できない。パーティーや学会などの公の場で、レイシオはほぼ石膏頭を身につけている。もし興味を引かれる相手を見つけたら脱ぐのだろうか。それは、視線どうこう以前にわかりやすすぎやしないか。
 戦略的パートナーであるアベンチュリンの前でさえ、レイシオが常に素顔でいるようになるまでに時間がかかった。初めて丸一日素顔だった日は、餌をやり続けた野生の生き物がやっと心を開いてくれたような感動があったものだ。以来、レイシオは石膏頭をつけていてもアベンチュリンを見かけるとスッと素顔を出す。そのたびに周囲がどよめくところを見るに、こっそりお目当ての一人に視線を送るのは難しそうである。図太いアベンチュリンは気にせずレイシオに話しかけに行くが、注目されることに慣れていない人なら萎縮してしまうだろう。
「タイプなどという分類は無意味だ。強いて言えば、僕の著書や論文を読んでいて、普段の会話の中にも知性を感じられる人間が好ましい」
「ああ、そういう……。残念、そんな人種が集まる場に僕は居合わせないだろうね」
 こちとら、知性とは程遠いアティニークジャクだ。レイシオの好みが軽薄なおしゃべりへの当てこすりのように聞こえるのは、たぶん気のせいじゃない。ほら、呆れたように首を振った。
「無駄話は終わりだ。次のゲームを始めよう」
 レイシオはアベンチュリンに右手を差し出した。ゲーム開始の握手だ。その手を握り返して、運転席に座り直した。
「お手柔らかに頼むよ。d4」
「甘やかしていては上達しない。d5」
 まずはポーンを交換してご挨拶。威風堂々と中央に躍り出たクイーンにダンスを申し込みたい気持ちを抑え、アベンチュリンは手堅く守りを固めることに努めた。