来羅
2025-12-06 23:05:18
2115文字
Public トワウォ
 

寒波(風信)

ワンドロライ第21回。




「寒い中、お疲れさん」
「信哥!」
 吐き出す息が白い。刺すような冷気に首を竦めてジャケットの前を掻き合わせた信一に、外で見張りをしていた部下たちが一斉に立ち上がって頭を下げた。
 亜熱帯の香港ではここまでの寒波は珍しい。十年に一度だったか、百年に一度だったか。雨でも降れば、ブラウン管の中でしか見たことのない雪とやらにでもなるのではないかという寒さだ。
「悪いな」
 できればこんな日に見張りなどさせたくないが、そうもいかないのが九龍城砦の物騒なところだ。
 けれども提子に持たせたポットと茶器と鍋を差し出した途端、笑顔で飛びついてくる部下たちにげんきんなものだと笑う。
「冬の門番の特権ってやつだな」
「大佬お手製の湯水だからな。大事によく味わって食べろよ! 特別に! お前らだから! 食べさせてやるんだ!」
「恩着せがましい」
「うるさい」
 ありがとうございます、と素直な部下たちを余所に、煙草を燻らす古株はニタニタ笑うばかりで腹立たしい。龍捲風を独占したがる信一のことを、彼はよくわかっている。
「大佬は?」
 だから、ここにその龍捲風の姿がないことに眉を顰めたのもこの男だけだった。
「四仔んとこ」
「誰か怪我でも」
「いや、風邪気味。だって」
 寒いからな、と肩を竦めた信一に、じとりとした眼差しが注がれる。信一の微妙な声音を感じ取ったのかもしれない。嫌な男だ。もっとも鋭くなければ門番は務まらない。
 風邪気味。
 こんこんと咳をしたのは昨晩遅くことだった。たまたま信一が起きてこなければ気づかなかったし、気づかせなかっただろう。
『急に寒くなったからな』
 眉ひとつ動かさずに答えた龍捲風は、今、四仔の診察を受けている。はずだ。
 来るな、とは言われなかった。
 信一が行きたいと言わなかったから当然だ。
 何も四六時中ずっと共にいるわけではないのだが、体調を崩した龍捲風に付き添わない信一を男が不審に思ってもしかたがない。提子からも驚かれたばかりだ。
「漢方もらうだけだろ」
 もし、付き添いたいと言ったら。
 龍捲風はどう答えただろうと思ったことはあった。
 答えを聞くのが怖くて、逃げるように見張りの差し入れを買って出た信一に、龍捲風は何も言わないから、信一だって何も聞くことができない。
 風邪だ。
 ただの風邪気味だ。
 たとえ、四仔への『風邪気味』の診察が定期的だろうと、繰り返される空咳に嫌な音が混じっていようとも、それを龍捲風が頑なに信一から隠そうとしていたとしても、風邪気味なだけなのだ。
 知らないと思ったら大間違いだ。
 隠し事の上手い龍捲風であろうとも、信一の目は誤魔化せない。
 それでも、言うなとばかりに何でもないと答える眼差しの鋭さに、いつもいつも立ち竦んでしまう。言葉は喉の奥につかえて音にならない。不安と恐怖だけが腹の底に渦巻いている。何もできない。させてもらえない。
 大丈夫、のたった一言さえ。
「コーラ」
………………は?」
 唐突に男が言った。
 何の話をしていたんだったか、頭がついてこられずに首を傾げた信一に、ぱりぱりと音でもしそうな煙を吐き出して男が眉を上げた。
「ホットコーラ。作ってやったら?」
 コーラ。
 ホットコーラ。
 ああ、風邪気味だったんだったか。
「レモンと生姜たっぷり入れて」
……昔よく作ってくれた」
「だろ。今度は大佬に作ってやったら? 煮るだけなら、あんたでもできるだろ」
 失礼な物言いに半眼を向ければ、男は楽しげに口角を上げる。
「レモンと生姜と、あとシナモン? だっけ?」
 家にあっただろうか。龍捲風のことだから、きっと生姜とシナモンはある。レモンは。
……今から買いに行って、ちょうどかな」
「ん?」
 四仔のところから帰ってきたばかりの龍捲風とは、少しばかり顔を合わせづらい。
 油麻地まで買いに出て、慌てて飛び出てくる王九と小競り合いして、レモンを買って、帰った頃にはもう龍捲風もいつもの彼に戻っている。きっと夕飯の準備をしていて、信一に「おかえり」と言ってくれる。
 変わらない、日常だ。
……うん、そうするか」
「あんたも一緒に飲んだ方がいい」
「俺?」
「飲んで、寝た方がいい。嫌なことも忘れる」
 一瞬、虚を突かれて言葉が出なかった。
 鋭さは門番の必須条件。本当に嫌な男だ。
「大佬、一緒に寝てくれっかな~?」
 わざとらしく茶化した信一に、だから男はそれ以上の核心を突かない。
「寝込み襲うの最低」
「んなこと言ってねぇだろ」
「じゃ、かわいく抱いてって迫ったら」
「大佬を馬鹿にすんな」
「面倒くせぇ人だな」
「お前もな」
 軽口を叩き合って、笑う。笑えた。
 とん、とその肩を叩くことで感謝に代えた信一に、男は何も言わない。
「信哥」
 振り返った信一もまた、それ以上の言葉は必要としない。軽く手を挙げて背を向けた。嫌な男にはそれだけで通じる。
「ああ、寒っ」
 早く帰ろう。帰らなければ。
 あの温かな部屋へ。
 龍捲風のいる部屋へ。
 あの場所だけが、信一の居場所なのだから。