kaede
2025-12-06 13:37:42
2953文字
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一彩くんから電話がかかってきた燐音くんのはなし

天城兄弟

 夜。風呂上がり。濡れた髪をタオルで拭きながら、ビールでも飲むか……いや、無難に牛乳……せっかくならフルーツ牛乳でキメたいところだが、さすがに寮内には置いてないか、とシームレスに流れていく思考を分断するかのように、電話が鳴った。
 弟からだった。
 珍しいこともあるもんだ。

「もしもし? どうしたよ」
『兄さん。……急にごめんね』

 躊躇いがちな謝罪で始まった弟の声はどこか、薄暗い。いつもは余計なくらいに眩しいのに。

 もしかして、何かトラブルでもあったのか? 

 確か弟は、今日明日と地方ロケの仕事が入っていたはずだ。そこで何か、のっぴきならない問題が発生して、兄に助けを求めようと……いや、それなら弟は開口一番、それを口にするはずだ。この子は持って回った言い回しを好まない。というか、そこに意義を持ってはいない。良くも悪くも純粋で誠実なのだ。
 ということは……

 ただ単にお兄ちゃんの声が聞きたくなった。

 とか、それだけのことか?
 いや、この子がそんな、用もない用件でわざわざ電話をかけたりするか?

『用もないのに電話をしてしまって』

 おお、ドンピシャか?

「別に、用がなきゃかけちゃいけねェ、ってルールはねェだろ」
『え? 用もないのに電話するな、と言ったのは兄さんのはずだけど』

 そんなこと言ったか?
 言ったな。
 確かに以前、弟なのだから電話くらい寄越すよう人伝てに頼んだら鬼電してくるようになり、いくらかわいい弟のすることとはいえさすがに辟易して、電話するな、とこれまた人伝に頼んだら今度は一切かかってこなくなった。
 極端なんだよ。
 と頭を抱えながら、緊急時と早急に返事が欲しい時、それから、寂しい時はかけていい、みたいなことを詳らかに説明した記憶は、ある。
 ということは。

「ん? そりゃつまり、寂しくなった、ってことかァ?」

 馬鹿。しっかりしろ、天城燐音。声が緩んでるぞ。からかってる振りで誤魔化せ。
 いや、だが、うん。
 嬉しいな。
 嬉しい。
 世間知らずなくせに自立心だけはやたら旺盛な弟に自発的に甘えられて、嬉しくない兄なんてこの世に存在するか? いや、しないね。

『ううん。ただ、兄さんの声が聞きたくなっただけだよ』

 無下に否定するな、弟よ。
 ていうか。

「それを世間的には、寂しくなった、って言うンだよ」
『違うよ。……恋しくなった? 多分、そちらの方が適切だよ』
…………
『兄さん?』
……そーかよ」
『納得してもらえたならよかった』

 無邪気な声でとんでもねェこと言うな、この子は。
 寂しい、よりも、恋しい、の方が感情の濃度が強い気がするのは、俺だけか?
 向けられた感情の強さで震えそうになるのは、俺だけか?
 いや、お前が言葉の定義以上の話はしてないのはわかってるが。
 それでもな。
 嬉しいな。

「あー……それで?」
『それで、とは?』
「声を聞いて満足したからそれで終わり、おやすみなさい、とでも言う気なのかよ」
『そのつもりだったけど』
「薄情な子だな」
『兄さんの時間を奪ってはいけないと思って』
…………
『兄さん? 眠いならもう切るよ?』
「いや」

 もう眠いから僕は寝るよ、とか言われたらやるせなくなるところだったが。
 薄情から一番遠い健気で喜ばせるんじゃねェよ。
 お前は知らないだろうが、お前のお兄ちゃんはだいぶチョロいんだ。

「お前が眠くねェなら、もうちょっとだけ駄弁ろうぜ」
……ウム』

 うん。今の声はあったかくて明るい色をしてたな。
 ということは、現時点で弟が電話をかけた目的の九割以上は達成されている、と判断していいんだろう。
 この子の寂しさ……恋しさがいっときでも解消されたなら、よかった。

「仕事の方はどうよ」
『順調だよ。今日の分の収録が早めに終わったから、ついゆっくり温泉を楽しんでしまったよ』
「へェ、温泉かァ。いいな」
『いつか兄さんと一緒に行きたいな』
「酒が美味いとこがいいなァ」
『お酒の良し悪しは僕にはわからないけど。あ、でも』

 いくらかは気掛かりになってしまうほどの、短い、いささか不自然な、沈黙。

……一彩? どうかしたのか?」
『ううん。えっと、……ウム。都会に比べてずいぶん静かで、夜になると灯りも少なくて』

 そこで一彩はまた黙って。
 いや、一度言葉を切って。

『どことなく、故郷に似てるんだ』

 数拍置いて、そう言った。
 何となく……何となく、戸惑っているような声音で。
 実際、一彩が何を考えているのか、その心境なんて知れるわけもないが。顔が見えていたら、表情から多少は察することもできただろうが。
 だが、今はそんなことは小事だ。

 ああ、だから電話をかけたのか。
 特に理由もなく。
 心の底にある理由を言語化できないまま。

 故郷に似ている場所。それがトリガーになって、心の底で燻っていた寂寥があふれた。だから電話をかけた。それにきちんと向き合って。
 言語化できない感情を、恋しさという原動力に換えて。
 この子が素直でよかった。そういうサインを見過ごさず、ちゃんと外に出せる子でよかった。

「良い子だな、一彩は」
『どうしたの? 急に』
「別に。思ったことを言っただけっしょ」
……僕はもう、ちいさな子供ではないよ』

 わかりやすく拗ねた声。
 珍しい。
 いや、俺が知らない間に、そういう感情を外に出す方法を獲得したのか。
 子供の成長は早い。
 でも。

「いくつになったって、お前は俺の、ちいさくてかわいい弟だよ」

 それだけは永劫、変わらない。

『ム……

 また拗ねた。
 いや、照れたのか?
 
「まァ何にしろだ。お前に0と1の間があってお兄ちゃんは安心したよ」
『0と1の間に数字はないよ?』
「あるだろ。小数点が」
『なるほど……ん? どういう意味だろうか』

 求められるまま、大人であろうと合理的に生きてきたお前が、自分の中の曖昧さを切り捨てなくて良かった。
 そういう意味だよ。

「さァて、弟くんはそろそろおねむの時間だろ」
『まだ眠くはないけど。でも、明日も仕事があるから、早めに就寝するのが得策だね』
「そーいうこと」
『兄さん』
「ん?」
『電話は便利だけど、もどかしいね』
「もどかしい?」
『兄さんの声はこんなに近いのに、兄さんの熱は遠いから』

 急に話題が飛ぶから何かと思えば。

「俺は結構好きだけどな。お前の声を独り占めできるし」
……そう』

 お、今のははっきりわかったぞ。

『弟くん、照れた?』
「見えてないのにどうしてわかるのかな」
『なんでだろなァ』

 都会に来て、いくらか感情に繊細さが出てきたかと思いきや、図星を突かれても否定せず、動じないところは相変わらずだな。

「んー、前言撤回」
『え?』
「声だけじゃ足んねェな、やっぱ」

 早く、寂しんぼうの弟くんの頭をヨシヨシしてェやりてェなァ。

 わざと冗談めかして言うと、電話越しの一彩は、だから僕はもう子供ではないよ、と軽やかな声で笑った。