いまさら
2025-12-05 19:19:31
8198文字
Public
 

お互い様

海トガ。事後の匂わせあり。

 心配していた通りになった。
 なし崩しではなかった。きちんと段階を踏んだうえで始めた交際だ。何度か食事に行って、その中で海棠はトガシから向けられる好意に気がついた。いや、もっと言えば、食事に誘われる時点でそうだったのだ。はじめは仕事の相談という体裁ではあった。実際、この年はトガシを取り巻く環境が大きく変わった節目であることに間違いはなかった。今後の身の振り方、業界との関わり方などで話を聞いてほしいと連絡があり、それ自体に疑いを持つこともなかった。確かに相談相手として海棠は適任であっただろう。
 断っても構わない誘いだったのだ。既に所属も異なるし、海棠にとってトガシはれっきとした競争相手である。敵に塩を送るような真似はしなくてもよかった。それでも、海棠はトガシの相談を受けた。そうするべきだと考えての行動だ。
 陸上選手とは、まずそれ以前にこの社会に属する人間であるので、走るのが速いだけでは生きていけないのが現実だ。トガシは走り以外の部分で振り回されやすい。懇親会で受けた相談や、決勝後のプレス対応を見て、それはすぐに分かった。もったいない、と思った。
 トガシの相談に乗った理由は、海棠の私情がほとんどを占めていた。
 何からも惑わされることもなく、ただ走っていてほしい。
 自然とそう思えるほどには、トガシの走りは魅力的だったのだ。あとは、選手として、年長者としての責任だ。トガシから刺激を受けてこの世界に飛び込む若者もいる。競技の未来のためにもトガシにはこんなところで潰れられるわけにはいかない。
 そうして、オフシーズンの練習の合間に海棠はトガシと会うようになった。業界内で他者との交流が薄いトガシは恐らく海棠にしかこのような相談を持ちかけていないだろう。
 頼られて悪い気はしない、というのが本音だ。海棠の同期など、この種目にはもうほとんど残っていない。年の近い後輩もいない。海棠自身も同業者との交流はそう多くないのだ。
 だからこそ、トガシと話すのは面白かった。走りへの向き合い方だけを聞いていると財津を見ているようでぞっとする瞬間もあるし、トラック外の社会的な振る舞いに関しては全く見当外れな迷走をしていることもある。
 見ていて飽きない。と、同時に心配だった。
 つけ込まれる隙が多いうえに、この冬はトガシは無所属で、復帰に向けてのリハビリと基礎練習をしながら過ごす。後ろ盾がない中で走ることだけに集中するのは思った以上に難しいだろう。損失だ。俺にとっても、業界にとっても。
 契約の話はいくつか来ているらしい。契約書をよく読め、不利なら交渉しろ、難しいなら他のフリーの選手や弁護士も紹介する、と端目に見ても分かるくらい世話を焼いた。哲学を説いたあとに続くのは実践だ。具体的な行動だ。
 トガシはいつも申し訳なさそうにしながら海棠に頼った。海棠は遠慮せず頼れと伝えた。信頼のすり合わせが上手くいったのは、ふたりが似たような道を歩んできたことも一因だろう。寄りかかるばかりでも、受け止めるばかりでもない。互いに自分の脚で立ったうえで関わり合う。それが心地いいと感じてしまうようになっていた。
 そのうち、トガシからの誘いは同業者同士の付き合いにとどまらなくなっていた。この店が気になってるから行きませんか、と会食自体が目的の誘いも混ざる。海棠もそれに応じたし、同じ目的でトガシを誘うことも増えた。トガシは食の選り好みがなく、むしろ、意外にも海棠と好みが似通っており、そこも海棠は気に入っていた。
 どうしたものか。トガシから向けられる信頼の中に微かに滲む恋情を、海棠は持て余していた。七つも年下のいたいけな後輩を傷つけたくはない。これは難しい問題だ。人との関わりにおいて、傷つけ合わないということはまずできない。大事なのはその傷の負い方、負わせ方、治し方だ。
 トガシは恐らく海棠のそうした考えも分かっていて、それゆえに分かりやすく海棠を口説いた。年下ってどうですか、今はお相手いないんですか、陸上と恋愛は両立できるタイプですか、と。料理の上で飛び交う会話に、それとなくそんな話題が混ざる。視線はずっと直截的だった。絆されてみてもいいんじゃないか、と思ってしまうくらいには。

 傾きかけた関係はその角度を保ったまま春を迎えた。
 シーズンに入った。海棠は走る。財津がいなくなったトラックを。小宮が記録以外を求めるようになった今を。樺木や森川を筆頭とした若手が背後に迫りくる現実を。じきにトガシが戻ってくるタータンの上を。
 トガシの復帰は初夏だった。昨年の選手権で鮮やかに爪痕を残したあのトガシが一年ぶりに走る。地区の記録会だったが、そのレースは密かに注目を集めた。海棠もトガシには告げずに見に行った。客席でもちらほらと見知った顔を見かけたが、皆言葉少なに会釈を交わしてトラックだけを見ていた。
 鮮烈。その一言がぴったりなスタート。タイムこそそれなりだが、スタートの合図と寸分のズレもない駆け出しは健在だった。上々だ。海棠はほくそ笑む。
 元より、海棠はトガシの復帰に関してそこまで心配はしていなかった。昨年の選手権でゴール後に倒れるのを至近距離で目撃したにもかかわらず、なぜかあの脚は完治してまたすぐここに戻ってくるという予感めいたものがあった。
 全く理性的ではないと自分でも理解しているが、自然現象のようなただ受け入れるしかない事実として、トガシの走る姿が脳裏に存在し続けていた。そういう理なのだ。見るものにそう思わせる何かがトガシにはある。だから、成績が振るわなかった間も妙に人の目を惹きつけてやまなかったのだろう。
 トガシも海棠が認めなければならない現実の一部なのだ。それはずっと変わらない。全中三連覇。財津を彷彿とさせる選手。七歳下の少年。恐れたことがないといえば嘘だ。二十代の立派な大人が十代の子供に怯えるなんて情けなかった。年の差に少し安心こそすれど、自分がその年齢だった時の記録をトガシはことごとく上回っていた。ああ、認めたくない。恐ろしい。
 トガシの入部が決まったときも、あまり良い気分ではなかった。トガシに限らない。若手は皆脅威でしかなかった。当時の海棠は二十代後半に差し掛かっていたし、常に表彰台に上がれるというわけでもなくなっていたから。それでも、自分なりに迷って苦しんで走り続けた。そして今も走っている。全てを認めて、その上で逃げることを学んだ。
 海棠の視界に鮮やかな赤が戻ってきて、そして今度はそれを追いかけたり置き去りにしたりする季節が始まる。今日まで走り続けてきた褒美のひとつだと思えた。

 夏はあっという間に終わり、秋になってもあまり気温が下がらないままシーズン最後の試合を終えた。海棠はまだ上位を譲らないし、トガシも復帰後とは思えない記録を出して世間を騒がせた。彼が同い年の小宮と並んで走る機会もあった。
 シーズンの間も海棠とトガシは連絡を取っていたし、会場が被れば挨拶もした。いずれも話題は競技についてだ。一度、トガシの復調を確信した企業から声がかかったと報告があり、悪い噂を聞かない契約先だ、とだけ答えた。交渉が進むのはシーズン後になるだろうと推測して、そのときはそれで話を終えた。
 そしてまた去年と同じような流れで相談を受けている。無所属の自由もあるだろうが、所属を持つメリットは大きい。トガシは複数社から声をかけられているらしく、そのうちのどこかと契約する気でいるようだ。もう彼の中では答えが出ているのだろう。去年の揺らぎはほとんど見えなかった。一年。十秒を生業とする男が変わるのには十分すぎる時間だ。
 これも昨年と同じで、仕事の相談がひと段落すると、今度は私的な逢瀬が始まった。この頃にはようやく暦通りに気温が下がっていた。
 去年と同じような傾きのまま、でも、多分、あと少し押されたら落ちてしまってもいい。そう思いながらトガシと会っている自分がいる。
 自分から手を出さないが、かといって牽制もしない。トガシの方から手を出させている自分に後ろめたさを覚えつつも、彼が逃げるなら追う気もある。奇妙な気分だった。
「俺たちって、飲まないくせに酒飲みみたいな飯が好きですよね」
 前菜の生ハムをつまみながらトガシが言う。コースの食前酒だけはふたりとも口をつけたが、あとはノンアルコールだ。
「塩分の摂りすぎは良くないんだがな」
「でも、塩分って美味いんですよね……オリーブオイルも、小麦も、チーズも美味い。困ったことに」
「まったくだ」
「トマトはいくら食べても罪悪感ないのに……
 切実なぼやきに海棠は笑った。トガシは喋ってみると案外素朴なところがあって、海棠にはそれが面白かった。
 会うたびに、互いのことを知る。味覚に関しては好みが近いことも知った。食以外の好き嫌いで合わない部分があることも、それが何なのかも覚えた。考え方や生き方の相違も分かる。辿ってきた人生が断片的に見える一方で、全く知らない部分があることを突きつけられる。未知とは、これから歩み寄るための喜びだ。
「去年の冬は基礎練習ばっかりだったので大丈夫だったんですけど、やっぱり冬季のトレーニングってきついですよね」
「俺の前でそれ言うのか。三十過ぎたらもっときついぞ」
「うそ、海棠さん、年々スタミナついてるように見えますよ。練習がきついのもありますけど、俺、寒いのダメみたいで。冬は結構落ち込むっぽいです」
「他人事みたいな言いようだな」
「最近やっと気づいたんです。冬、調子悪いなって。嫌いじゃないんですけど」
「良い気づきだ。これで対策ができるじゃねえか」
「海棠さんは? 冬は平気ですか?」
「ああ。俺は夏の方が嫌いだよ」
 今年の暑さを思い出して苦々しく答えるとトガシは笑った。体を揺らして笑うせいで、照明の光が彼の瞳の中をきらきらと踊る。
「なんだ、そんなに面白いか」
「いえ、なんていうか、嬉しくて」
 屈託のない笑みだった。言葉通りに、本当に、純粋に、ただ嬉しそうな笑顔。どこかで見せる取り繕ったような表情ではない。それがひどくかわいらしかった。かわいいと思ってしまった。海棠は己の単純さを嫌というほど理解する。そしていよいよトガシのことを憎からず思っていると認めざるを得ない。
 ちょうど次の皿が運ばれてきて、海棠はトガシが何を嬉しく思っているのかを聞きそびれた。トガシは目の前の料理に目を輝かせている。食べるのが好きなのは知っていた。そして、自分がその姿を見るのが好きなことも、もう分かっていた。
「イタリアのカルボナーラって、生クリーム使わないらしいですね」
「ああ、これはこれで好きだが」
「俺はこれしか知りません」
 本場のものより幾分まろやかで脂質の多いパスタもしっかり美味しい。外から伝わった料理がその地で独自に変化を遂げるのはよくある話だ。海棠は昔イタリアで連れて行かれた寿司屋を思い出してそんなことを考えた。
 今回はトガシのリクエストだった。イタリアンに行きたいというので、海棠が店を選んだ。店の前に着くなり、トガシがこっそり「めっちゃちゃんとした店ですね? 緊張するな……」と呟いたので海棠は笑った。大きな舞台では堂々と走るくせに、とおかしかった。
「いつも緊張してます」
 パスタを食べ終わったトガシが思い出したように言う。仰々しいのは外観だけで、入ってみれば存外カジュアルな店だったので、トガシの緊張は解けたものと思っていたが、違ったのだろうか。それとも何か別の話か。
「緊張? 何に対して」
 海棠はトガシの唐突さには慣れつつあった。発言を紐解いていくことに面白さすら見出している。
「海棠さんと会うとき。ちゃんとしてなきゃなって。背筋が伸びるというか。でも、それが嬉しいんです。がんばりたいと思えるのが」
「そりゃあ先輩冥利につきるな。だが、俺だって後輩と会うのにかっこつけてるのは否めない」
「海棠さんが?」
 きょとんとした顔で聞き返される。どうやらトガシの中で海棠は随分高く見積もられているらしい。こんなに臆病でずるい人間もそうそういない。今だって、その高い見積もりを利用してやろうと思っているのだから。
「かっこつけてないところ、どうすれば見られますか」
 トガシはサングラス越しにこちらの目を捉えた。照明が落ち着いているので、きっと普段よりレンズの反射も抑えられているのだろう。しっかりと目が合っているのが分かる。
 口説かれている。七つも年下の男に。そして確かに揺らいでいる自分がいる。海棠はその事実を受け止めながら、ノンアルコールワインで喉を潤した。パスタのクリームの重さが白ワインの風味に流されて消える。
 酔っていないせいで、俺たちはどこまでも冷静だ。今日は酒を飲んでもよかったかもしれない。少し後悔していると、セコンドの肉料理が運ばれてきて、海棠はまたトガシの言葉に返事をしそびれたのだった。
 トガシもメインディッシュに気を取られるふりをした。不安定さを楽しんで結論を先延ばしにしている。でも、滑り落ちるのはもうすぐだと、海棠は理解していた。

「今、いいひとがいないなら付き合ってほしいです」
 店を出て、歩道でタクシーを待つ間だった。顔を見ず、隣に立ったまま小さく打ち明けられた。
 きたか、と海棠は思った。言わせてしまった、とも思った。
 十一月の夜の空気は冷たい。シーズンが終わったばかりの今は束の間の休息だ。これから厳しい冬が来る。それを予感させる寒さだ。
「お前がそのいいひとじゃないのか」
 海棠はトガシの耳のあたりを見下ろしてそう答えた。トガシがこちらを見上げる。
 不安そうな顔をしているのが見えて、そういう顔をさせてしまったのだな、とちくりと胸が痛んだ。しかし、不安が見えたのは一瞬だけで、次の瞬間にはその顔には明るい色が乗せられていた。
「やった」
 幼い子どものような喜び方だった。それがどうしようもなく海棠の心をくすぐり、愛おしさや申し訳なさや情けなさを一緒くたに掻き立てた。
 先ほど自分に下した評価に間違いはなかった。俺はずるくて臆病だ。
「海棠さん、好きです」
 トガシは笑っている。少し目が潤んでいるのが、暗がりでも分かった。

 ◇

 恋愛の仕方なんて未だに分かっていないし、ここまで上手く振る舞えないのはもしかしたら初めてかもしれない。

「寒いですね」
 好きです、と海棠に告げた後、トガシはそう言った。事実でもあったし、海棠を試す台詞でもあった。
 海棠は、タクシーが到着したらトガシだけを車に乗せて、そこで別れてもいいと考えていた。このまま一緒にいると自分が何をしでかすか分からない。
 そうだ、今日は寒い。寒いから、早く帰って暖かい部屋で休め、とトガシを帰らせてもよかったのだ。
 そう考えているうちにタクシーが着いて、ドアが開く。
 乗り込む前、トガシは海棠の手に触れた。掴むでもなく、触れただけ。指先がひどく冷たかった。そのせいで、海棠は思わずそれを掴んでしまった。トガシは海棠の手を握り返し、そのままタクシーの中に海棠を引き込んだ。海棠も逆らわなかった。
 運転手に行き先を聞かれて、海棠は自分のマンションの住所を伝える。それから、ふたりは車を降りるまで無言のまま手を繋いでいた。
 オートロックを解錠して入口をくぐり、エレベーターに乗る。部屋の前まで来てもふたりは黙ったままだった。ドアを開け、中に入る。トガシが海棠の後に続いて玄関に踏み入れた瞬間、海棠はトガシを抱きしめた。トガシは縋り付くように海棠の背に腕を回した。
「海棠さん……
 名前を呼ばれ、堪らなくなって口付ける。トガシは黙ってそれを受けていたが、やがて頬を濡らし始めた。海棠はトガシの顔を見ようとして、照明をつけていないのを思い出す。慌てて明かりをつけると、ぽろぽろと涙を流すトガシが照らし出された。
「っ……あ、海棠さ、ごめんなさっ、おれ、ほんとは、ずっと不安でした……っ」
 顔を歪めたトガシが途切れ途切れにそう述べるのを見て、海棠は途端に自分に腹が立った。言葉にしなかった自分が悪いのだ。トガシに全部言わせて、自分は受け身でいた。
「俺が悪かった。ちゃんと言わなかったな。俺はお前が好きだよ」
 トガシは言葉を紡げずに泣き続けている。泣かせてしまった。抱きしめて、宥めるように背を撫でる。冷たい玄関でしばらく体温を分け合っていた。

 ソファに座らせたトガシにコーヒーを出してやると、暖を取るように両手をカップに当てている。部屋が温まるまでもう少し時間がかかりそうだった。悪いな、と声をかけると、コートを着たままの彼は首を振ってコーヒーを啜った。
「すみません、情けないところばっかり」
 海棠が隣に座ると、ぽつりと謝られた。ばつが悪そうに俯いて、湯気が立つカップの表面を見つめている。
「怒ってたとか、悲しかったとかじゃないんです。色々込み上げてきて……多分、嬉しかったんだと思います。泣くつもりなんかなかったのに、気が緩んだら止まらなくて」
「情けないのは俺の方だ。お前の気持ちに甘えてた。お前より七つも多く歳食ってるくせにな。俺はお前が思ってるような人間じゃねえ。今ならまだ帰してやれる」
 言いながら、まだ濡れているトガシの目尻を指で拭う。帰してやるなんて嘘に決まっていた。
「嫌です。そんなこと言わないで」
 トガシが海棠の指に縋るように頬を擦り付けたので、海棠はその頬を撫でてやりながら、反対の手でトガシが持つカップを取り上げてローテーブルに避難させた。コーヒーの香りが遠ざかる。
……さっきの、もう一回聞きたいです」
 トガシの頬に添えたままの海棠の手に、トガシの手が重ねられる。カップを持っていたおかげか、先ほどまでの冷たさは随分和らいでいた。
「さっき?」
「俺のこと、どう思ってるか」
 不安に揺れる瞳が海棠をまっすぐ見つめ、海棠の理性を揺らす。否、揺れなどとうに過ぎて既にふたりとも落下の最中だった。
「見せて。あなたのかっこよくないところ」
 サングラスのフレームに手を伸ばし、トガシは海棠を素顔にする。レンズを介さずに直接視線が交わり、ふたりはようやく温まってきたリビングをすぐに去らなければならなくなった。

 味覚が似てると体の相性が良い、という俗説を思い出す。海棠とトガシは不思議と気の遣い方もよく似ていて、居心地がよかった。互いの快と不快を探り合いながらも、初めからそうなることが決まっていたかのような自然な触れ合いだった。
 汗を洗い流さなければ、と思いつつ、まどろむような気分でベッドに横たわっている。トガシが海棠の髭を柔らかく撫で、くすくすと笑った。
「触ってみたかったんです、ずっと」
 海棠はキスで返事をした。髪に、頬に、額に、唇に触れるだけのキスを落とす。
「髭がある人とのキスってこんな感じなんですね」
 くすぐったそうに細められる目元にもキスをしてやると、トガシはふふ、と笑みをこぼした。それから、海棠の頬にキスを返す。
……俺が弱ってたから、海棠さんの優しさにつけ込んだみたいですよね。みたいで、というか、完全にそうだ。それが少しだけ後ろめたいな」
 後悔はしてないけど、と付け加え、トガシは海棠を見つめる。その目元はまだ赤かった。明日は腫れてるかもしれない、と思いながら、海棠は赤い目尻を撫でてやる。
「奇遇だな。俺もお前が弱ってるところにつけ込んだんだよ」
 トガシははっと目を見開いて、それからすぐに無邪気に笑った。
「なんだ、じゃあ、お互い様ですね」

 心配していた通りになった。
 なし崩しではなかった。きちんと段階を踏んだうえで築いた関係だ。何度か逢瀬を重ね、その中で海棠は自分がトガシへ抱く愛情に気がついた。
 冬の迫る寒い夜、隙だらけの美しい青年は、ずるくて臆病で情けない男の手に渡ってしまった。
 ずるい男は、隣で横たわる美しい青年を強く抱きしめた。