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いまさら
2025-12-05 19:18:18
8100文字
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困ってあげたい
ニガトガ。
「仁神さんは結婚しないでくださいよ」
飲み会で聞いた冗談だった。少なくとも、彼は冗談のつもりで言ったのだと思う。
オレンジジュースばかり飲んでいたくせに、妙に上機嫌で、呂律が回っていなかった。そんなに遅い時間でもなかったが、きっといつもだったら就寝する時間なのだろう。または、大人数に囲まれて、気を張っていたのかもしれない。
案の定、帰りの車内で彼は眠っていた。その姿を見て安心する。眠れているのだ、と思って。
助手席で眠る後輩とはもう十年の付き合いになる。出会ったのはそれよりも前。
今日は仁神の仕事関係の付き合いでの飲みだった。トガシも顔を出したことがある地域の協会の飲み会だったので、そのよしみでトガシくんも誘ってよ、と頼まれた。この夏のトガシの活躍により、仁神の肩書には「あのトガシの先輩」が追加されたのだった。
トガシには断ってもらうつもりで──一応声をかけたがダメだったと報告するための事実がほしくて──連絡をすると、意外なことに参加します、と返事があった。有名人を呼んで面白がりたいだけだと思うから無理に来なくても、と伝えたが、トガシは別に構わないという。
仁神さんは俺に会いたくないんですか? と言われてしまっては、苦笑しながら楽しみにしてるよ、と返すほかないのだった。
最近の彼は憑き物が落ちたような顔をしている。以前までの切羽詰まっている様子とは明らかに違う。大会前の、覚悟を決めたような、何かを諦めたような達観した表情とも違う。仁神はトガシが今どのような心情であるか分かる気がした。
「飲まなくてよかったんですか」
信号待ちの間にぽそりと尋ねられて、トガシの目覚めを知る。すみません、寝てました、とかすれた声で謝るトガシを見ると暗がりの中でぱちりと目が合った。もしかしてずっと見られていたのだろうか。小さく胸が跳ねた。
「元々そのつもりだったよ。明日も早いからね」
慌てて視線を前に戻すと、ちょうど信号が青になって安堵する。それでいて、仁神は自宅とトガシとの住まいとの距離が少し離れていることをありがたく思っていた。
「寒くないかい?」
「ぜんぜん。この車いいですね、シートがあたたかい」
あたたかい、が舌足らずで危うかったので思わず笑うと、トガシは何ですか、言えてたでしょう、とむくれてみせる。かわいい、と素直に思ってしまう。
「さっきの、結婚しないで、っていうのはどういう意味?」
安堵したくせに、すぐに自ら墓穴を掘ってしまって、浮かれている自分に呆れる。かわいい後輩が隣にいるせいだ。
「そのままの意味です」
トガシが答えるのと同時に右折に差し掛かかり、ウインカーを出すと会話が途切れる。帰宅ラッシュをとうに過ぎた時間帯の割に対向車が多く、車内にはウインカーの音がチカチカと響き続けていた。
仁神が右折を終えるのを待って、トガシはおもむろに仁神さん、と呼んだ。
「結婚したら、俺に構ってくれなくなるでしょう」
おどけたような声が仁神をくすぐる。
「そんなことは
……
」言い淀んで、違うな、と改める。「というか、まず、その予定もないよ」
これは事実だった。わざわざトガシに釘を刺される必要もない。
「ほんとうに?」
嬉しそうな声が上がり、仁神の顔もゆるむ。国道から細い道に入り、走行音がやや静まる。ドライブの終わりが近づいていた。
「君は、俺に構ってほしいってことか」
からかうつもりで言ったのに、トガシから返ってきたのは至って落ち着いた声だった。
「仁神さんは、違いますか?」
「え?」
「俺を構いたくないですか」
今度はその声に笑みが含まれていた。からかわれていたのはこちらだと気づく。
構いたいに決まっている。呼ばれればいつだって駆けつけたいし、本当はもっと会いたいと思っている。先輩と後輩という距離を超えないように取り繕うので必死だ。
「俺は構われたいです」
仁神の答えを待たずに、トガシはそう言った。ちらりと横を見るとまた目が合う。窓から射し込む街灯が、悪戯っぽく目を細めるトガシの顔を一瞬だけ照らして流れていく。仁神はうん、と曖昧に頷くことしかできなかった。
自分の心臓の音がトガシに聞こえてしまいそうだ。起き得ないことを心配する。音楽でもかけておけばよかった。そう思った瞬間、トガシが鼻歌を歌い始める。仁神も耳にしたことがある流行りの曲だった。気を許されているとつくづく実感する。
初めて会ったとき、トガシは年齢に見合わない落ち着きようだったのに。あの日の青空を思い出す。陸上に神様がいるとしたら確実にその神から愛されているであろうトガシのことが恐ろしかった。そして、自分がきっとそうではないことに絶望を感じ始めていた。その後の数年のことはあまり思い出したくもない。
トガシがいなければ、自分は陸上に戻るどころかあの狭い一室から出られなかったかもしれない。たまにそんなことを考える。もしも神が自分に何かを与えたのだとしたら、きっとそれは今隣に座っている男との出会いだ。
知り合ってみると、トガシは年相応の少年だった。仁神が似たような立場だったので慕ってくれていたのもあるだろう。トガシは仁神には弱っているところも見せたし、陸上部で集まれば後輩らしくはしゃいでいる姿も隠さなかった。仁神自身も不思議とトガシには自分の話ができたし、くだらない話で盛り上がることもできた。トガシに受容されるのが心地よかったのは間違いない。だから、トガシのことも受け止めてやりたいと思う。
「ありがとうございました。俺も飲まないし、べつに車じゃなくてもよかったのに、甘えちゃってすみません」
家の前に着き、シートベルトを外したトガシが礼を言う。さっきまで仁神をからかっていたのにこういうときは殊勝だ。
「誘ったのはこっちだし、これくらい当然だ」
「でも、駅まで歩くくらい、何とも」
「俺だって君を送るくらい何ともないよ」
名残惜しく思いながら本心を伝えると、トガシは惚けた顔をして仁神を見ていた。やはり眠いのだろう。早く帰らせてやればよかった、と反省する。
「大丈夫か? 車酔いしてない?」
「えっ、あ、いえ! 大丈夫です、ありがとうございました。お気を付けて」
トガシは慌てて車を降り、頭を下げた。外の冷たい空気が車内に流れ込んで仁神の肌を撫でる。さすがに夜はもう冷える、と実感し、すぐにトガシの脚のことが心配になった。
トガシはドアを閉めて仁神を見送るために立っている。はやく家に入ってしまえばいい、と思ったが、そうしないのがトガシで、仁神は後輩のそういうところも好きだった。
「おやすみ」
窓を開けて挨拶する。トガシは驚いたように目を丸くして、すぐに頬を緩ませた。
「おやすみなさい」
その柔らかな声に、胸がじわりとあたたかいもので満ちる。
寒空の下、トガシは仁神の車が見えなくなるまで立っていた。
◆
次に会ったのは一か月後だった。前回会ったとき、トガシと次は忘年会ですね、と話していたのだ。忘年会といってもふたりだけだ。浅草と椎名にも声をかけたが予定が合わず、また今度、新年会で集ろう、という話で終わっている。大人になれば、複数人の予定を合わせるのも難しい。
十二月に入ったため仁神も何かと忙しかったが、何とかトガシと会う時間を作った。トガシは療養中の身でわりと時間の融通がきくというので合わせてもらったおかげでもある。
仁神は今回も酒を飲まないと決めていた。最近飲み会ばかりだから休肝日だよ、と師走の忙しさを口実に、今回もトガシの送迎を申し出た。たった二つ年下の男に過保護かもしれないが、脚のこともあるので、寒い中、人が多い場所を歩かせたくないのだ。
迎えに行くと、トガシは黒いコートにマフラーを巻いて仁神を待っていた。車が到着してから家を出てくればいいのに、とまた前回と同じようなことを思い、今度はそれを本人に伝えた。
「えー、俺が待ってたら嬉しくないですか?」
トガシはしれっとそう言って、にやりと目を細める。子犬がはしゃいで腹を見せるような、そんな懐かれ方をしている。
「寒い中で待たれる方が心配だよ」
「仁神さん、俺のこと何だと思ってるんですか」
トガシはけたけたと笑うが仁神は至って真剣だ。体を冷やすのは良くない。特にトガシはこの冬の間にリハビリを終えて来期に挑まなければならないスプリンターなのだから、なおさらだ。
「大丈夫ですよ。俺も、脚も」
トガシが確信をこめた声で言う。今のトガシがそう言うなら、彷徨う日々を過ごし、散々苦しんでようやく走ることを肯定できたこの男が言うなら、間違いないのだろう。
陸上の神様はこの子を手放す気がないらしい。そして、トガシ自身もその腕から逃げ出すつもりはない。
「寒くないかい?」
予約していた店の席に着くなり、仁神は聞いた。店内は暖房が効いているが、コートを脱いでスウェットだけになったトガシの首元がなんだか心許なかったのだ。
「ぜんぜん。むしろちょっと暑いくらい? 掘りごたつって最高ですね、腰にも脚にも優しい」
仁神の心配をよそに、トガシはけろりと答え、きょろきょろと個室の内装を見回している。
座敷に胡坐をかいて座っていた前回の飲み会を思い出す。確かにあれは長時間だとつらい。
不意に、ふふ、とトガシが笑みをこぼした。仁神が視線を送って理由を問うと、トガシがおかしそうに言う。
「仁神さんって、いつもそれ聞いてきますね」
「それ?」
「寒くないか、って」
確かにそうかもしれない。自身の口癖を思い返す。夏でもそうだった。トガシを車に乗せたときや、彼と冷房のきいた店に入るときには大抵この質問をしていたような気がする。
「君はなんだかいつも寒そうに見えるからかな」
……
最近はそうでもないけど。そう頭の中で付け足す。
「俺がですか?」
きょとんとした顔で聞き返されて、仁神はどう説明しようかと迷う。
他意はない。ただ、何故かトガシを見るとそんな印象を受けるのだった。だから、温かくしていてほしいと、できれば何にも脅かされずに過ごしてほしいと、願ってしまう。
「だからか」
トガシは腑に落ちたように呟く。
「いつも優しいと思ってました。それって、俺が寒そうだから? つまり、ちょっと痛々しいとか、可哀想とか、そういう」
「いや、変な意味じゃなくて」
哀れんでいるわけでも、施しのつもりでもない。自分の感情を言葉にするのに困り、考え込んでしまう。
「いいですよ、変な意味でも」
トガシはあまり気にした様子はなく、卓の上にあったお品書きを手に取った。本日のおすすめ、と筆ペンで書かれている。
「俺が、仁神さんが優しくしたくなるように見えてたなら、ラッキーです」
お品書きに視線を落としたままトガシが言う。
それから、今度は顔を上げて「ちなみに、今のは変な意味です」と目を細めた。仁神をからかうときによくそんな顔をするが、今は彼の返事が妙に引っかかった。
しかし、トガシはその言葉の追求を許さず「ね、何頼みます? あんこう鍋、楽しみですね。予約してくれてありがとうございます。刺し盛りもいいなあ。飲み物はウーロン茶でいいですか」と早口で捲し立てる。
そのせいで、仁神はトガシの言葉の意味を考えなければならなかった。
「うま
……
」
鍋の蒸気の向こう側で、フグの白子に舌鼓を打っている姿を見やる。今日のおすすめということで店員に強く推された品だったが、頼んで正解だったようだ。分かりやすく感動しているのを見て顔が緩むのを感じた。
当の本人は、最初に魚の精巣を食べようと思った人ってめちゃくちゃ勇気ありますよね、と呑気に語っている。「それ、前も言ってたな」と返すと、「だって、白子のビジュアルを見るたびにそう思うんですもん」とばつが悪そうに言われ、笑ってしまう。そのたわいなさすら仁神の心をくすぐるのだった。
「浅草さんも椎名さんも来れたらよかったのに。この時期はやっぱりみんな忙しいですね」
「椎名のところは子どもも小さいからね」
「そうでしたね。ふふ、こないだの写真、かわいかったな」
「うん、見るたびに大きくなっていて驚くよ。トガシくんも、この時期は飲みのお誘いが多いんじゃないのか?」
「いえ、そんなには。それも、大体断ってます。俺、飲まないし、食わない、というか、食えないし。仁神さんとだったら飲まなくてもいいから、気楽です」
「飯はよく食うじゃないか」
「それは、仁神さんがいつも良い店を選んでくれるから」
トガシはそう言いながら、鍋を取り分けた皿を持ち上げてみせた。確かに、あっさりした塩味のあんこう鍋は正解だった。
好き嫌いは少ないようだが、選んだ生き方のために食べるものを限定している、というのはよく知っている。なので、仁神はトガシと食事をする際には気をつけて店を選んでいた。自身が持つ選手としての、そして指導者としての知識に感謝している。こうして彼を誘うのに困らないから。
とん、と掘りごたつの中でトガシの爪先が仁神のふくらはぎに触れて、すぐに離れる。
「あ、すみません」
「うん」
トガシは少し視線を彷徨わせて、意を決したように口を開いた。
「仁神さん、俺が行きたい店にも付き合ってくれるし、そうじゃなくなったら嫌だなって思ったんです」
「ん?」
「こないだの飲み会のとき
……
そういう話になったじゃないですか。結婚したり、お子さんが生まれたりしたら、家庭優先になるのは全然、悪いことじゃない、むしろそうするべき? だとは思うんですけど」
どういう話の流れだったか。仁神は思い出す。確か、前回の飲みのとき、いつもは集まりに参加していたメンバーが不在だったのだ。その理由が、今トガシが述べたようなものだった。それで、トガシのあの発言だ。「仁神さんは結婚しないでくださいよ」と。
トガシは話を続けるべきか逡巡している。いいよ、と頷いてみせると、彼は言葉を探すように卓上に視線を落とした。煮詰まるから、と弱火にした鍋の表面がふつふつと小さく揺れている。
「同時に、いつも、不思議だなって。結婚したら、それまでの人間関係より、そっちが優先されていくのが
……
うーん、上手く言えないけど
……
もし、仁神さんがそうなったら、取られちゃった、って烏滸がましいことを思ってしまいそうです、俺」
仁神の顔を見ないまま、トガシはそう言い切って、変ですよね、と自嘲した。
「変だなんて、」
それどころか、仁神はどうして今までトガシに対してそう思わなかったのだろう、と自分の慢心に気がついた。トガシが自分には心を開いて話している、彼の信頼を得ているという驕りがあるのを認めざるを得なかった。
「俺も、もし君の付き合いが悪くなったら同じことを思ってしまいそうだ」
今になってそんな当然のことに気がついて、仁神は自分自身に呆れる。トガシはようやく視線を上げて仁神を見た。ほっとしたような、少し泣きそうな表情をしていて、今のがいつもの軽口ではないことを実感する。
「何か頼みますか」
「気になるものある?」
「えーと、大根のから揚げ
……
か、山芋の鉄板焼き」
「いいね、どっちも食べられる?」
「どうだろう。うーん、悩みますね」
トガシが誤魔化すようにメニューを開いたので、仁神は誤魔化されてやることにする。
この後輩は自分に対して、強気なのか弱気なのか分からない。そして、自分はそういう彼に振り回されるのが嫌ではないようだ。
鍋の熱さのせいか潤んだように見える瞳とやや火照った頬を盗み見て、仁神は自分の中に安心と騒めきとが生まれるのを感じ取った。自分の気持ちには気づいている。
「はあ、すっごく美味しかったです。めちゃくちゃ良いお店でした」
「また来よう。今度は陸上部で」
「はい。あ、俺、小銭たくさんあります」
コインパーキングの精算機の照明が、仁神とトガシを照らしている。トガシは仁神が財布を出すのを許さずに、自らの財布からぴったり小銭を出してじゃらじゃらと駐車場代を投入した。
「ありがとう、あとで返すよ」
「車出してもらったし、これくらいは。ガソリン代もあるし、足りないくらいです」
トガシが財布をしまおうとした瞬間、小銭が地面に落ちた。仁神がそれを拾ってトガシに渡した際、手指が触れ合い、トガシはそのまま戯れるように仁神の手を掴んだ。
「仁神さん、手、冷たいですね」
「君の手が熱いんだよ」
「いっぱい食べたから代謝がよくなってるのかな
……
俺、ちゃんと、大丈夫でしょ?」
マフラーに顔を埋めたトガシに見上げられて、仁神は一瞬言葉に詰まる。縋るような、試すような視線だった。
「寒そう、って言ったの気にしてる?」
「いえ、でも、口実にしようとしてます」
トガシはきゅっと仁神の手を掴む手に力を込めて、すぐにそれを離した。小銭を財布にしまい、帰りますか、運転お願いします、と仁神の車に向かう。きっとトガシには気づかれている、と仁神は悟った。
帰りの車内は静かだった。それ自体は珍しいことではないが、今日の沈黙はきっと普段と違う。
また音楽でもかけておけばよかった、と後悔するがそれは仁神の習慣ではない。今からラジオでも流せば、トガシのことを意識しているのが丸わかりだ。今はこの無言の時間を享受するほかなかった。
「怒ってますか?」
不意に、トガシから問いが投げかけられる。
「何に?」
「困らせるようなことを言って」
「どれのことだろう」
「色々です」
「君が俺を困らせるのは、今に始まったことじゃない」
「
……
いじわる」
「はは、否定してほしかった?」
「いいえ
……
」
再びトガシは黙り込む。仁神も追求しなかった。
そのまま無言のドライブが続き、とうとうトガシの家の前に着いた。ハザードをつけて一時停車し、トガシの降車を待つ。
「仁神さんは、いつも寂しそうです
……
最近はそうでもないけど」
別れ際になって、トガシがようやく口を開いた。
「俺たちきっとお似合いですね」
トガシの熱い手が、遠慮がちに仁神の左手に触れて、すぐに離れていく。
「待って」
仁神は反射的に、ドアを開けようとするトガシの腕を掴んで彼を引き留めていた。確信犯が仁神を振り返る。わずかに差し込む外灯の光でも分かるくらい、おそらくトガシの顔は赤かった。
「君は、俺を困らせるのが上手だね」
強気に出たかと思えば、それを後悔したようにすぐにしおらしくなる。トガシの詰めの甘さがかわいくて仕方がない。
「だって、仁神さんが困ってくれるから」
トガシはどこか拗ねたように、答えになっているのかいないのか分からない返事をよこした。
「今度、いつ会える?」
「新年会で、会うじゃないですか」
「その前にまた会いたい、って言ったら困る?」
「困ります
……
その、嬉しすぎて」
帰したくない、と仁神が思っていると、後続車にクラクションを鳴らされ、そのまま抜き去られた。
「あ、邪魔になりますよね。ここ、狭いし
……
俺、もう、」
トガシは降りようとするが、仁神が彼の右腕を離さなかったのでそれは叶わなかった。仁神が言葉を選んでいる間、また沈黙が訪れる。
つけたままのハザードの音がいやに大きく聞こえた。
「
……
トガシくん、」「俺、仁神さんの運転、好きです。この車、シートもあたたかいし。音楽もラジオもかけないところも好き」
仁神がようやく口を開いたとき、トガシも同時に喋り出し、そしてトガシだけが自分の台詞を最後まで言い切った。
「本当に、君には敵わないな」
仁神は幸せなため息をついて車を発進させる。
話したいこと、伝えなければならないことが山ほどある。ふたりきりの深夜のドライブが始まった。
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