いまさら
2025-12-05 19:17:10
6648文字
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捕捉

カバトガ。『洗足』の続き。

 後輩の視線には気づいていた。
 憧れの眼差しというものを向けられることには多分慣れていて、表彰台から遠のいた今でも偶にその視線を感じることがあった。ただ、その瞳に映るのは今ここに立っている自分ではなく、勝利しか知らなかった過去の自分だ。
 すごい、すごかった、好きです、好きでした、応援してます、してました。
 何と言われても受け取り方が分からない。いらない広告であふれた郵便受けのように、投げられた言葉は本人には届かず地面に落ちていく。
 そのことに胸も痛まない、鈍った自分の存在にも気がつかなかった。

 学生時代無敗のスプリンターが入社してくる。トガシは胃が痛くなるのを感じながらその話を聞いていた。
 まだ高校生の彼が進路選択の参考にするために練習に参加する日があった。そういう建前だ。実際はほぼ入社が確定している。
 彼はチームの全員の前で自己紹介をした後、全体の練習に加わった。休憩中に改めてトガシの元へ挨拶してきた時点で嫌な予感はあった。
「トガシ、さん。樺木です。よろしくお願いします」
 十八歳の少年がたどたどしくトガシの名を呼び、頭を下げる。目は泳いでいるが、そこにはよく知っている、そして少し懐かしい色が乗せられていた。憧れ、尊敬、夢、理想、とかその辺り。自惚れているわけではない。むしろそうではないからこそ、相手が自分に抱く幻想が見える。
「樺木さん。こちらこそよろしくお願いします。かばきさん、で合ってます?」
 樺木から向けられる感情に気づかないふりをして笑みを作り、少し珍しい苗字のアクセントを確認した。どうせすぐに自分のことなど忘れるだろう。他の皆がそうであったように。
 練習の間、トガシは樺木を直視できなかった。自分が成し遂げられなかったことを成し遂げた存在。息が詰まる気がした。
 そういうわけで、トガシにとっては樺木との出会いはあまり良い思い出ではない。樺木の印象が悪いのではなく、トガシ自身に余裕がなかった。
 そもそも、自分の人生において良い思い出とは何だろうか。いつも何かに追われているような気がして、生まれてこの方きっと落ち着けたことなどない。安全な場所に生まれ、健康な肉体を持っていて、生き方を選べる立場だ。何かに不満を持つべきではないのに。それなのに。
 成績を出せないまま、同じような日々が過ぎていき、数か月後、樺木が正式に入社してきた。その頃には、樺木が初対面時に見せたあからさまな憧憬は姿を消していて、トガシは真っ先に安堵してしまったのだった。そしてその直後に他人の憧憬を忘れさせるほど影が薄くなっている現状への恐怖が訪れた。
 憧れが去った代わりに、樺木はトガシに対して生意気な後輩を演じてくれた。気を遣ってくれていたのだとも思う。トガシが練習以外で選手との交流を避けていたこともあり、深い付き合いをすることはなかったが、それでよかった。会えば軽口を叩いてくる、かわいい後輩だった。

 その日は不思議と調子が良かったので、部室に残って動画でフォーム確認をしていた。いつもこんな風に走れたらどんなにいいか。普段の走りと見比べて相違を洗い出していると、樺木が戻ってきた。後輩と会話をしているうちに、ふと気がついた。向かいに座った彼から向けられる視線が、覚えのある感情を孕んでいる。
 どっと体が重くなる。座っていてよかった、と思うほどに。
 相手が樺木でなければ、ここまでショックを受けなかったかもしれない。大抵の相手は今のトガシを見れば落胆なり幻滅なりして、勝手に通り過ぎていくだけだったから。でも、樺木はそうではないようだ。
 普通なら後輩が慕ってくれているのを喜ぶべきだろうが、トガシの頭の中は樺木を責めるような疑問でいっぱいになった。どうして、樺木のような上手くいっている選手が今の自分をそんな目で見るのか。どうして、諦めてくれないのか。どうして、放っておいてくれないのか。
 他人からの感情にばかり敏い自分に嫌悪を抱き、樺木に申し訳ない気持ちになる。彼の純粋な憧れを負担に感じてしまうなんて。
 だから、足を見せてほしいと頼まれたとき、どこか罪滅ぼしのような気持ちで自らの足を差し出した。それは樺木の憧憬を肯定する行為で、トガシの後ろめたさとは矛盾しているのかもしれないが、他人を傷つけたくない、許してほしいという保身の方が勝った。
 樺木は恐る恐るトガシの足に手を伸ばした。とても大切なものに触れるように、そっと肌に手を這わせ、熱い指で輪郭を確かめていた。その様子は静かで、何かを祈るようですらあったし、プレゼントの箱を開ける子どものようでもあった。
 トガシはそこで初めて、今まで自分がいかに他者からのリスペクトを蔑ろにしてきたかを自覚して愕然とした。他人の感情まで否定する必要はなかったのかもしれない。それはその人のものでしかないのだから。
 そんなことを考えているとき、樺木が思いもよらないことを言った。
──足の形まで綺麗なんですね
 思わず言ってしまったのだろう、樺木は声に出してしまってからはっと驚いたような顔をしていた。トガシも驚いたが、樺木の反応を見て、すぐに毒気を抜かれた気分になった。かわいい、と微笑ましくなったほどだ。
 ああ、そうか、この子は自分の走りを綺麗だと思ってくれているのだな。樺木の走りはどうだったか思い出そうとして、思い出せなかった。代わりに、彼や他の選手に怯えている自分自身を嫌というほど思い知る。
 樺木は発言を誤魔化すように再びトガシの足に視線を落としたので、トガシも触れなかった。
 先ほど見た樺木の目の輝きが、トガシに過去を思い出させる。高校生くらいまでは、無邪気な憧れをよく向けられた。試合の後で一緒に写真を撮ってほしいと他の出場者から頼まれることもあったし、履いてる靴を見せてほしい、普段どんな練習してるの、などと聞かれることもあった。
 それで樺木につい思い出話をしてしまって、樺木が帰ったあとで少し後悔したのだった。過去に縋る惨めな人間だと思われただろうか、と。先ほど他者の感情について反省したばかりだというのに、樺木から自分がどう見えたかを気にしている。
 トガシは己の軸の弱さを鼻で笑って、フォーム確認を再開したのだった。

 ◆

 人が走るのを見るのは嫌いではなかった。
 冷たく乾いた空気を引き裂くように駆ける樺木を見てそのことを思い出す。
 いつからか他人の走りを視界に入れるのを避けていたが、元々は──小学生の頃、小宮に走り方を教えていたときだって──自分はこれを好んでいたはずだった。
「どうですか、調子は」
 トレーニングがひと段落した樺木が声をかけてくる。年明け、リハビリ中のトガシを一般の競技場での練習に連れ出してくれたのが彼だった。どうせ暇でしょう、体が鈍りますよ、次は俺が勝たなきゃいけないんだから、とここでも生意気な後輩役をやってくれている。おかげでトガシは遠慮なく誘いに乗ることができたのだった。
 一月の冷たさを真昼の光があたためる、気分の良い時間だ。日の光を浴びながら、トガシは自分を連れ出してくれた後輩に感謝していた。
「調子……
 トガシは樺木の問いを復唱して、答えを考える。これまで小さな怪我をかばって誤魔化しながらやってきた。大きな怪我は高校のとき以来だ。今も樺木のようには走らず、トラックの端でゆっくりと体を動かす練習をしている。
「分からない」
 樺木に取り繕っても仕方ないと判断して素直に答えると、樺木は何か言いたげな顔をして、しかし何も言わなかった。
「樺木くんは、調子良さそうだね」
 これも本心だ。若い体の筋力不足が解消されて、良い走りに繋がっている。まだ二十一歳、いや二十二歳になったんだっけ。どちらにせよ若いんだもんな。人によっては骨も成長する年齢だ。樺木はこれでもまだ未完成なのだ。トガシは眩しく思いながら後輩を見る。
「俺の走りについて、何も言わないでください」
 樺木が釘をさすように言う。ジャージの金具が日光を反射して、鋭く輝いた。
「え? うん、分かった」
 選手同士での意見交換を樺木はトガシに望まないらしい。トガシも他人の意見を避けた時期があるが、樺木がそれを言うのは少し意外だった。まあ、俺と樺木くんは全然違うタイプだし参考になることは言えないかもしれない、と納得する。
 樺木はスクイズボトルを手にして、人が疎らなトラックを見やる。
「トガシさんにコーチの才能まであったら、ムカつくので」
 そう言い捨てると、トガシの追及を制するようにドリンクを口に含んだ。コーチの才能まで、ってかわいいな。俺の走りを認めてくれている人の発言だ。
 トガシはくすぐられるような気持ちで樺木の隣に立っていた。今ならあの「変わりましたね」がどういう意味だったのかが分かる気がする。言われたときは余裕がなくてショックだった発言も、後で樺木なりの鼓舞が含まれていたのだと気づいたのだ。
 はやくそこに戻りたい。そう思いながらトガシも鮮やかな赤のトラックを見た。
 練習を終え、クールダウンのジョグでトガシは樺木の隣を走る。樺木は着いてこないでください、とつれない返事だったがそう言われると構いたくなって後を追った。樺木が口では文句を言いつつも走るペースを緩めてくれていることにも気がついている。
 ゆっくり走っているが、体は軽い。冷たい空気と自分との境界がはっきりと分かる。きっと大丈夫だ。そう思えて、トガシは機嫌が良かった。
「樺木くんは、なんだか悠々と走るよね」
「言わないでくださいって言ったじゃないですか」
「えー、これもダメなの?」
 トガシは怪我をして走れなくなってから、ようやく他人の走りを落ち着いて見ることができるようになった。特に、じっとしているほかなかった怪我の直後は、他の選手の大会や練習、動画サイトにアップされているレースも見るようになった。
 樺木のような有名選手のレースは視聴に事欠かなかった。名前を入力しただけで試合の動画が山ほど出てくる。何度も見ていると、樺木が速い理由もよく分かった。実際のフォームを見れば樺木の走りは後半は力んでいるようにも見えて悠々、とは言えないのかもしれないが、どうしてかその表現が合うような気がするのだ。本人のクールさのせいかもしれない。言うなと頼まれたら、これも黙るしかないが。
「俺、コーチにはならないよ。どこからその話を聞いたのか、何となくわかるけど……
 かつての所属企業の社員を思い出す。守秘義務とやらがどうなっているのか不明だが、あの辺りから流れた噂だろう。そういえば樺木の入社も本決まりではなかったのに、陸上部は皆その話を知っていた。
「当たり前です。勝ち逃げとか、やめてくださいね」
「うん。でも、次も勝つよ」
 トガシがそう言うと、樺木は無言で走るスピードを上げて、トガシを置き去りにした。ひどい、とトガシが笑う。

 トレーニング室でストレッチを終え、床に座り込んだままアイシングバッグを脚に当てている。樺木とこうしてふたりで過ごしたことはほとんどなかったなと振り返る。
「そういえばさ、何年か前に、樺木くんと部室で一緒になって」
「はあ」
「足を見せてほしいって言ってきたの、覚えてる?」
……覚えてないです」
「俺、あのとき意外でさー、樺木くんは俺に興味ないと思ってたから」
「トガシさんってたまに人の話無視しますよね……それがどうかしたんですか」
 樺木は諦めてトガシの会話に付き合う。平日だからか他の利用者のいない部屋で、ふたりの声だけが小さく響く。
「俺、最近陸上オタクみたいになってるんだけど、あのときの樺木くんの気持ち分かるかもって。気になるよね、足の形。フォームは分析できるけど足って見えないから」
「今さら陸上オタクって。トガシさん、何年走ってるんですか」
「だよね、みんなこうやって研究してたんだって、大発見」
「はー、出た、天才ムーブ。まじでムカつきますね」
「あのとき樺木くんはてっきり俺に憧れて足を見せてって言ったのかと思ってたんだけど……あ、自惚れてるの分かってるよ、ただ昔は結構そういう子がいて……でも実際はそうじゃなくて、走りの研究のためのお願いだったんだなって、ようやく気がついたんだよ。数年間、恥ずかしい勘違いをしてたなーって」
 樺木の憧憬を負担に思ったり、森川の称賛を拠り所にしたり、本当に自分勝手だった。トガシは自分の迷走ぶりを反省する。
「好きなように解釈してください」
 樺木は呆れてふてくされた、かと思うと「いや、やっぱりムカつくな」とアイシングバッグを畳んだタオルの上に置き、トガシの方を向いて胡坐をかく。床に直接アイシングバッグを置かないところが樺木らしい。
「ガキの頃見てたって言ったじゃないですか。どうせトガシさんのことだから覚えてないでしょうね。憧れてないわけがないです。正直、下心もありました。というか、下心しかなかったです。あのとき」
「おお……それはつまり……俺の勘違いだと思ったけど、それも勘違いってこと?」
 失礼なことを言われた気がしたが、トガシは気圧されて、よく分からない返事をした。それでも樺木には伝わったらしい。
「そうです。めちゃくちゃ癪ですけど、研究とか走りのためとかそんなこと微塵も、いやちょっとは考えたか……? とにかく、俺はあなたに憧れてたし、あなたの足が見たかったんです」
 何が琴線に触れたのか、樺木は半ばやけ気味にトガシに心中を打ち明ける。樺木くんって何を話しても表情はあまり崩れないんだな、とトガシはどこか他人事のような気持ちでそれを見ていた。
「そうやって聞くと、やばいね」
 返事に困って、素直な感想を述べると「うるさいな。分かってます」と拗ねられる。申し訳なく思いつつも、分かりやすく拗ねる姿は妙にかわいかった。
「じゃあ俺も白状するけど、樺木くんが俺に憧れてるの、知ってたよ。でも俺は他人の理想の俺と、実際の自分との乖離がしんどくて、樺木くんが俺をキラキラした目で見るのがちょっとつらい時期があった」
「それ、本人に言いますか」樺木は恨めしそうにトガシを見る。
「それは樺木くんもだよ? 下心で俺の足を触りたいとか……まあでも、あのときは樺木くんが本当に純粋に俺に憧れてるんだって思ったら、それがすごくかわいくて、負担とかプレッシャーとかどうでもよくなっちゃったんだよね」
「触りたいなんてひとことも言ってないです」
 それだけ訂正すると、樺木はトガシに背を向けてしまった。綺麗に揃えられた襟足をからかいたくなる。
「昔の俺のどこが樺木くんの心に響いたの?」
「図々しいってよく言われませんか」
 向こうを向いたまま樺木が答える。律儀にからかわれてくれるのがおかしかった。
「だって気になるじゃん」
「言いません。悔しいので」
「ええ、残念」
「思ってないくせに」
「あははっ、樺木くんって面白いね」
「だるっ! 最悪や、もー、何なんですか、トガシさん」
 樺木は頭を抱えてしまった。だるっ、も最悪や、もトガシの語彙にはないので新鮮に聞こえた。数年の付き合いがあるくせに、樺木のこうした姿をあまり見たことがなかったことに気がつく。
 樺木が今のトガシをどう思っているのか分からないが、先ほどトラックで目が合ったとき、そこにトガシは闘志を見た。そうだ、樺木は今や自分と同じ地面を走る競争相手なのだ。
 自分は誰かを目指して、何かを追って走ったことはないな、とふと気がつく。一体それはどんな景色なんだろう。はやく走り終わりたいと願っていた時期もあるが、今はずっと走り続けたいと思っている。どちらでも、その先に他人が立っていたことはない。
 走るきっかけやトラックに立つまでの道のりは人それぞれだ。そこに興味を持ったことはない。が、今からでも興味を持ってみてもいいのかもしれない。樺木の背中を見てそんなことを思う。そういえば俺、この子の年齢もちゃんと知らないな。
「樺木くんって誕生日いつだっけ?」
「は?」
 そっぽを向いていた樺木がこちらを振り返って間抜けな声を上げるのがおかしくて、トガシはまた笑わなければならなかった。