それが図々しく、恥知らずで、失礼で無理で危険な頼みであることを樺木は重々承知していた。しかし、いざ憧れの人を目の前にすると居ても立っても居られなくなってしまい、欲望を抑え込むのに必死だった。その努力のうえで、いつも盗み見るだけにしていた。
トガシ選手の足に触れてみたい。
欲望を言語化してみると、性欲に駆られた愚かな男の戯言にしか聞こえない。その自覚はありながらも樺木は至って真剣に、スプリンターとしてこの願望を抱えていた。
樺木が小学生の頃、親にねだってトガシが使用しているものと同じモデルのスパイクを試したことがある。ジュニア向けサイズもあるモデルだったので、意気揚々と試着した。
結果は、撃沈。
憧れの選手と同じスパイクは樺木の足にはとにかく窮屈で、とてもではないが走れる気がしなかった。モデルは違えど、せめて同じブランドなら、と色々試してみたが、どれも合わない。
スパイクの側面にあしらわれた流線形のマークを見つめながら、シンデレラのガラスの靴みたいだ、とメルヘンな連想をした。この靴を履くのはトガシだけに許されている。そんな気すらした。
トガシとは会ったことも話したこともないのに、足の形がまるで違うということを、試着を通して理解させられた。この体験を通して彼の足の形を知ることができた、というのも収穫ではあったが、彼に憧れる少年としては同じものを身につけられないショックの方が大きい。
履いているシューズから察するに、トガシはきっと足の幅が狭く、土踏まずのアーチが高い。足の甲は低め。そして、接地時の反発に癖があるあのスパイクを使いこなす能力がある。それが皆を置き去りにするスタートを作り出している。
小学生の頃にはただ自分とは足のサイズが違うということしか理解できていなかったが、中学生にもなればトガシの速さにその足の形も大きく貢献していることがよく分かった。ゆえに、自分とトガシは同じ走りはできないということも。いくらフォームを寄せても、どうしたって足が、体が違うのだ。当然だが、完全な再現はできない。
樺木は未練がましくも、背が伸びるたびにトガシと同じスパイクをこっそり試着していた。少なくとも半年に一度はシューズを買い替える。その度に、どうせ買わないのに習字の筆の跳ねのようなロゴマークのブランドを試す。そしてため息をつく。自分のスパイクが気に入っていないわけではない。ただ、憧れの男になれない思春期の少年の落胆だ。
靴ひとつで、これだけの現実を突きつけられる。彼と自分との違いが、一方的に彼への憧れを育てていく。
彼の何がそんなに自分を惹きつけるのだろう。動画サイトにアップされているレースを片っ端から見た。雑誌だって読み込んだ。実際に会場に足を運んで試合を見たこともある。
トガシはいつもかっこよかった。シンプルだ。ただそれゆえに、あの走りが自分を魅了して止まない。
戦隊もののヒーローのように、ピンチに陥っても必ず勝つ、という憧れと安心感を彼の走りに感じていたように思う。
あの日──無敗記録が止まったあの大雨の日。彼が架空の物語に登場するヒーローではなくひとりの選手であることを樺木は知った。それでも、憧憬は消えなかった。彼のタイムが伸びなくても、彼が表彰台に乗らなくなっても、自分はトガシに憧れ続ける。
低迷期などよくあることだ。そのまま浮上しなくても、過去の栄光が消え去るわけでもない。そう思い込みたかった。
もしかしたら、自分はトガシ以上に彼の走りを諦められていないのかもしれない。
樺木がインタビューでトガシの名前を出したことこそないが、高校を卒業して今の所属に決めた一因にトガシの存在がある。その頃には彼に注目する人はかつてよりはずいぶん減ったが、あの美しいフォームに魅了され続けている人は少なからずいるという確信があった。
自分もそうだし、十年も前に動画サイトにアップロードされた動画も今だにじわりと再生回数を増やしているからだ。特に、中学の全国大会や高校のインターハイの時期が近づくと再生が増えて、新しくコメントもつく。自分も同じサイクルで動画を見返している。
オタク。一言でいえばそうだ。でも、俗にいう成功したオタク、というやつではないか? 憧れの選手と同じ所属になり、隣で練習をしているのだから。
入社した当時はそのことに浮かれていたが、一年も経てばもどかしさが生じた。もちろんトガシに関してだ。
成績にムラがありすぎる。ふらふらと暗闇の中を彷徨うような走りに勝手に苛立った。あんた、もっと本気で走れるんじゃないですか。何か無駄なことに気を取られてないですか、と。余計なお世話かもしれないが、本心だ。
やがて気づいた。
この人はずっと何かから逃げていた。きっと、インターハイで初めて負けを知るまで、そういう走りをしていたのだ。
何かに憧れて、それを目指して追うように走ったことはきっとないのだろう。自分とは大違いだ。腹立たしい。
今の彼は何から逃げていいのかも分かっていないのかもしれない。だからあんなに曖昧な走り方をするのだ。
その日の練習で、珍しくトガシは樺木に背を見せた。樺木はそれを追った。
たまにこういう日がある。それでもトガシは嬉しそうにしない。調子いいですね、とチームメイトに話しかけられても偶々です、とヘラヘラ返している。何を考えているのか分からない。
もっと嬉しそうにしろよ、とも思うし、あの頃みたいに無表情でいてほしい、とも思う。
「トガシさん、靴、変えたんですね」
チームメイトがトガシに声をかける。靴。その単語が入ってきてトガシの足元に目をやる。いつもと同じブランドの、別のモデルを履いていた。
「あ、そうなんです。今日はこれのおかげかな」
またしてもヘラヘラと返している。高校のときもこんな感じだったのかな、この人。走ってるときはあんなにかっこいいのに。
スパイクの話が出て、自分の昔の愚行を思い出す。トガシと同じスパイクを履いて走ってみたかった自分を。
樺木はひとりでトラックに残ってクールダウンした後、シャワーで汗を流す。荷物を取りに部室に戻るとそこにはトガシがいた。今日も己の欲望と戦わなければならない。
「樺木くん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
トガシは中央のベンチに座ってスマホで今日の練習の動画を見ていた。フォーム確認をしているのだろう。
「スパイク変えたんでしたっけ」
「うん。だからフォームがどうなってたかなって」
壁際のシューズラックを一瞥すると、そこにはトガシの真新しいスパイクも並んでいる。
「スパイクって、どうやって選んでるんですか」
「うーん、俺、あんまり合う靴がなくて……まずそこでかなり絞られるね」
トガシは樺木に見えるように片足を持ち上げて、反対の膝の上に乗せた。くるぶしまでの靴下で覆われたその足に目が奪われる。触れてみたい、と純粋に思う。いや、純粋ではなく、下心なのか? この場合のこの欲が何に当たるのか自分でも分からない。
「樺木くんは?」
「底の厚さですね、反発きついのも苦手で」
言いながらトガシの向かい側のベンチに腰を下ろす。さりげなく座れただろうか。ソワソワする。トガシの視線がこちらの足元に移る。そう、あなたとは全然違う、幅広で甲高の、日本人に多いと言われている形です。
「あの、変なお願いなんですけど」
「うん?」
「足を……いや……やっぱりいいです」
「え? なになに?」
「何でもないです」
「えー、気になる! 言ってよ」
嘘つけ。他人に興味ないくせに。そう思いながらも、言ってみてもいいか、という気になる。スプリンター同士だし、会話の流れ的におかしくないのでは、と。
「トガシさんの足を見てみたくて。決して変な意味じゃなくて。走り方も、靴も、全然違うので、気になって」
「足?」
トガシは首を傾げながら自身の足を見た。
「スプリンターの足を見せてほしいなんて、失礼なのは分かってるんですけど」
「いいよ。樺木くん、同業だし。えーと、いちおう、シャワー浴びたけど、このままで大丈夫かな」
あっさりOKが出た。言ってみるもんだな、いや、でもいいのだろうか、と迷いが生じる。いざ目の前にすると自分がものすごく邪な欲を持っているように思えてしまって。
トガシはこちらの葛藤など意に介せず、靴下を脱いだ。そして片足を向かいに座る樺木の方に伸ばして差し出した。
トレーナーやコーチが触るのとは訳が違うんだぞ、となぜか怒りのような感情が生まれる。
「どうぞ?」
どうぞって何だよ。大事な商売道具をこうもあっさり差し出すなよ。見せてほしいと頼んでおきながらさっきから苛ついてばかりだ。
しかし、先輩の脚を宙に浮かせたままにしておくのも忍びない。内心の苛立ちをおくびにも出さず、おずおずと憧れていた選手の足を手に取った。やばい、今、トガシさんの足に触れている。
自分の手が熱いのか、トガシさんの足が冷たいのか、手のひらに乗った足は思ったよりひやりとしていた。
「……やっぱり、あの靴を履く人の足ですね」
シューズラックを顎で指すと、トガシも振り返って自分のスパイクを見た。
「他のブランドも試したことあるけど、合わなくて。あれが一番しっくりくる」
トガシの足は思ったとおり、幅が狭かった。指は細長く、甲は低い。小さく平たい踵に触れて、確かにこれでは合う靴が限られるだろうと思った。
自分より四つほど年上の男の皮膚は、自分より少し柔らかいように感じた。この薄くてどこか頼りない足が、あんな風に美しく走るのか。
「足の形まで綺麗なんですね」
「えっ」
思わず漏れた感想にトガシは驚いたが、樺木は自分でも驚いていた。こんなこと言うつもりではなかったのに。
「あ、いや、すみません」
何に対してか、つい謝ってしまう。セクハラみたいなこと言ってしまったかも。後悔に襲われるがもう遅い。
トガシは何を考えているのか、黙り込んでしまった。部室の換気扇の音が沈黙を埋めてくれて、密かに感謝する。
嫌われてしまったかも。でも、好かれてたわけでもないだろうしな。トガシさんってマジで他人に興味なさそうだし。どう見られてるかばっかり気にして。そういう姿は正直ダサくてモヤモヤするのに、どうしようもなく美しく走る姿を知っているせいで、樺木はトガシへの尊敬を失いきれない。
薄い足を両手で包む。俺が追いつきたかった人。今は追い抜いたのではなく、トガシが勝手に道を逸れているように思う。
どうか戻ってきてくれ、と念を込める。
「昔……中学生くらいの頃かな、俺と同じスパイクを履きたいけど、足の形が合わないから諦めたってよく言われた」
トガシが懐かしむように言う。
「でも、俺は俺でどんな靴でも合うわけじゃなかったから……数ヶ月に一度買わなきゃいけないものが高価なのが、親に申し訳なかったな」
トガシが履いていたのは確かにいつも高い価格帯のものだった。樺木は過去トガシが履いていたスパイクを思い出す。
トガシから親の話なんて初めて聞いた。当たり前に、彼にも親がいるはずなのに、なぜか初めてそのことに気がついたような心地だった。トガシさんのご両親ってどんな人なんだろう。トガシさんはどんな子どもだったんだろう。
「……新しいスパイク、合うといいですね」
樺木はどう返せばいいのか分からず、そう述べた。本当はもっとトガシ自身の話を聞きたいような気もしたし、知りたくないとも思った。この人がひとりの人間だと知ってしまったら自分の中の何かが崩れてしまうような気がしたのだ。
「うん」
トガシはゆるく笑って、樺木から足を取り戻す。靴下が、神様の足を覆い隠した。
「何か参考になった?」
「はい。やっぱり、俺はトガシさんと同じモデルは履けないことがよく分かりました。走り方も、あなたと同じようにはできない」
それに、中学生やそこらの年齢で、数ヶ月でスパイクを履き潰すなんて余程走っていないとできない芸当だ。この人はいつも苦しそうに走っていたくせに、走るのをやめられなかった人なのだ。
樺木は目の前の男を憐れむ。そして、彼がそう生まれついたことを嬉しく思った。
今がそのときではないだけで、彼が自らを取り戻して走る日がいつかまた訪れる。彼の目が開いたとき、そこには自分が映っていてほしい。
「次は勝ちます」
樺木がそう告げると、トガシは虚をつかれたような顔をする。この人には闘争心というものがない。やはり腹が立った。が、今はそれでいい、と思った。
「俺にとってはみんな敵ですから」
お疲れ様です、と挨拶をして荷物を持って部屋を出る。手のひらには、憧れた人の足の冷たさがまだ残っていた。
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