いまさら
2025-12-05 19:14:51
6755文字
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手中の光

日陸から数ヶ月後、街中でばったり会う浅草とトガシ。CP要素なし。

 高校時代の陸上部の面々とは、十二月に入ったら集まろうと約束をしていた。
 一か月後か、とカレンダーを確認して時間の流れを苦く思ったのは記憶に新しい。
 トガシは今、シーズン中に酷使して故障した脚の回復に専念している。幸い今後二度と走れなくなるような致命的な怪我ではないが、油断できないのも事実だった。
 あの決勝でこれ以上ない幸福な時間を味わった後でも、いや、味わった後だからこそだろう、焦っているのは確かだ。あれを失いたくないと思えている自分がいる。
 焦っているだけだった以前と違うのは、少しだけ地に足がついているような感覚が生まれたこと。不安がないわけではないが、目指す場所は明瞭になっていた。またあの場所に立つために、この脚で走るために、今日も生きていく。
 今期は無所属のままシーズンを終えたが、成績を残せたこともあり数社から声がかかっていた。怪我をしているためいずれの企業でも厳しい条件付きでの契約になるだろうが、有難い機会なのは間違いない。
 今日はまずは話だけでも、と連絡があった企業と面談をしてきたところだ。かしこまった面接ではなく、本当にただヒアリング程度の場だった。
 久しぶりに引っ張り出した冬用のスーツは重く感じるが、世の中に溶け込むための装いに体をしまい込むのは意外と嫌いではない。
 人が行き交うオフィス街で、人々の人生を思う。スーツを着てここに立っている自分はどこかの会社員にしか見えないだろう。自分が何に人生をかけているのか、ここですれ違う人々は知る由もない。人々が何を大切にしているか、自分が知ることもない。
 百メートルに興味がある人なんて、全人口のうちほんの数パーセントもいないのだ。そのことを奇妙に思う。愉快なような、寂しいような。何にせよ自分はこれを選び取った。今はそれだけが確かであればよかった。

「トガシくん?」
 駅に向かう途中で、女性に呼び止められた。
 よく知っているはずの声なのに、すぐに声の主の名前が出てこなかった。まさかこんなところで出会うとは思っていなかったからだ。
……浅草さん!」
 呼びかけから数秒置いて、彼女の名を声に出す。なぜか夢のように現実味がない出会いだった。
 浅草の方も自分でトガシを呼んでおきながら、驚いた顔でトガシを見ている。
 高校時代より髪が伸びた浅草は、オフホワイトのブラウスにシンプルな紺のジャケットを羽織っている。トガシはそれを見て会社勤めの人の格好だ、とひねりのない感想を抱いた。
「あれ、知り合い?」
 浅草の隣にいた女性が、浅草に尋ねた。浅草や自分と年齢が近そうな女性もオフィスカジュアルといって差し支えない格好だ。浅草ははっと我に返ったように「そう、高校の後輩」と短く答えた。トガシも慌てて会釈をする。
「あ、もしかして」
 女性はトガシの顔を見て何かに気がついたようだったが、その先を口にすることはなかった。その代わり、浅草に「私、先に戻るわ」と告げた。
「え、お昼は?」
「ひとりで食べて帰る。君たち、久しぶりの再会っぽいし。このままランチでもしてきなよ」
 浅草とトガシの答えを待たず、その人は歩き出す。どこに行くのかはっきり決まっている、迷いのない足取りだった。
「なんだかかっこいい人ですね……
 トガシは呆気に取られてそう呟く。
「でしょ、同僚なの。ランチでも、って言われたけど、トガシくんあんまり外食とかしないよね」
「あー……はい、すみません。今は食べられないものが多いです」
「やだなあ、謝らないで。えーと、野菜は大丈夫? 近くにサラダのお店があって、結構おいしいんだけど。あ、無理はしないでね、ていうか、時間は大丈夫?」

 昼時で満席だったので、テイクアウトにして近くの公園で食べることにした。十一月に入ったが日中はまだ暖かい。
 晴れていてよかった。ベンチに座り、青空を見上げる。公園には自分達と同じように昼食を取っている人々がちらほらいた。ピクニック日和だ。散歩をしている人も見かけた。
 先ほど買った昼食を紙袋から取り出す。プラスチックの丸い容器には青々とした野菜が敷き詰められている。体に良さそう、とだけ思う。
 この日、トガシはサラダ専門店という店の存在を初めて知ったのだった。メニューが豊富でよく分からなかったので、とりあえず脂質の少なそうなものにした。
 いただきます、と手を合わせ、よく分からない名前のドレッシングがかかった葉野菜を口に運ぶ。
「えっ、うまい……
「えっ、て何よ。えっ、て」
「いや、野菜だけでこんなに美味しいものなんだと感動しちゃって」
「期待してなかったってこと?」
 浅草は呆れたように笑った。その表情は十年前と変わらなかった。
 浅草たちとはたまに会っていたが、何しろトガシにはずっと余裕がなかったので陸上部で集まっていたときにどんな話題が出たか、誰が何を話したか、何を食べたか、記憶が曖昧だ。直近で会ったのはいつだったかを思い出そうとして、それができないことに気がついた。ずいぶん追い詰められていた、と申し訳ない気持ちになる。
 きっと、周囲はかなり気を遣っていてくれたに違いない。陸上部で集まっていたくせに、トガシの走りについての話題はほとんど出なかったのだけは覚えている。そして自分がそれに安堵していたことも。
 浅草はサラダとともに購入した硬そうなパンを頬張っている。
「浅草さん、この近くの会社だったんですね」
「うん。トガシくんは……
 言いかけて、浅草は黙った。パンを置き、代わりにフォークを手に取るとトマトを突き刺して口に放り込んだ。
 どこまで踏み込んでいいものなのか探っているのだろう。スーツを着てオフィス街にいる。これだけで察せる事情もあるが、近況を浅草に黙っておく必要はない。トガシは正直に現状を話した。別に悪い知らせではないのだ。
 今、複数の企業やスポンサーから声がかかっていること。声がかかっているだけで、何も決まってはいないこと。今日訪問した企業からは、練習の見学に誘われたこと。
 浅草はへえ、とか、おお、とか当たり障りのない相槌を打ちながら真剣にトガシの話を聞いていた。
「そっか。お疲れさま」
 トガシがあらかた話し終えると、浅草は一言だけ労いの言葉をくれた。そこでようやく息ができる心地がする。自分のことを話すのに緊張してたのか。ようやくトガシは気がついた。
 所属を失ってから何でも自分でやらなければならず、誰かに相談どころか話もしていなかった。忙しさにかまけて、他者との関わりを怠っていた。
 浅草に自分なんかの話を聞いてもらって悪い気もする一方で、中途半端に話すのもフェアではないような気もした。どうしよう、どこまで話せばいいんだろう、と考えを巡らせる。
「聞いてこないんですね、色々と」
 あ、今のは面倒くさかったかな。言ってしまってから発言を後悔したが、浅草の返事はあっさりとしたものだった。
「じゅうぶん聞いたよ。残りは今度みんなで会うときの楽しみに取っとかなきゃ」
 何の含みもない言葉に、トガシは安心する。浅草のこういうところが好ましい。
「来月、楽しみですね。みんな元気かな」
「仁神くんとは会ってたんだよね?」
「夏頃はよく会ってました。病院も紹介してもらって。でも、最近は連絡もしてないな」
「連絡してあげなよ。仁神くん、ていうか、陸上部はみんなトガシくんのこと気にしてるよ」
「俺も皆さんのことは気にしてます」
「知ってる」
 そう言って浅草はパンを齧った。トガシもサラダを食べるのに意識を向けた。ドレッシングの程よい酸味が舌に広がって、これ、家で作れないかな、とぼんやり考える。公園にいる人々を眺めて、この人たちも昼休みが終われば会社に戻るのだろうかとどうでもいいことに気を取られる。
 浅草と会えて嬉しいが、あまりに突然すぎたためか、なんだか落ち着かない時間だった。

「これ、ありがとう」
 浅草がトガシにスーツのジャケットを返す。ベンチに座っている間、トガシが膝掛けとして浅草へ差し出したのだった。晴れていても、じっとしていると肌寒かった。ふたりとも、体が冷えることがどれだけ良くないか、競技を通してよく知っている。
 クリーニング出したばっかりだし、面接の間ちょっと着てただけなんで、嫌じゃなければ使ってください。かっこつけてるみたいですけど、俺がこんなことするの浅草さんと椎名さんと仁神さん限定ですから。とジャケットを貸すのにトガシは変な断りを入れていた。
 仁神くんもなんだ、と浅草が言うと、仁神さんもです、あの人は腰が悪いですから、とトガシはきっぱり言い切った。先輩を敬う気持ちが大前提だろうが、どこか年寄り扱いのようでもある。浅草はそう思ったが黙っていた。
「トガシくん?」
 浅草からジャケットを受け取ったトガシはなぜか呆然と立ち尽くしている。
「トガシくん、ねえ、大丈夫?」
……えっ、うわ、すみません。なんか、今、すごくデジャブで」
 向かい合って立つふたりの間に風が吹いて、髪が揺れた。風は浅草の脳裏にも十年前の景色を運ぶ。
「あ、私も、そうかも」
 トガシも浅草も同じ日のことを思い出していた。浅草がトガシに走りを見せてほしいと頼んだあの春の日。
 トガシはジャケットを持ったまま、気まずそうに地面に視線を落としていた。
「あのとき……高校のとき、俺、浅草さんのことがこわかったんです」
「ええ? 私、優しい先輩だったでしょ」
「それはもちろん。でも、同時にすごくこわかった。浅草さんは、俺にはないものをたくさん持っていて。羨ましかったのかも」
「トガシくんが持っていないものって?」
 トガシは浅草の目を見た。迷いのない真っすぐな視線がトガシに注がれていた。そうだ、この目がこわかった。
 この目に、自分の弱さが暴かれていくようで。それでいて、この人を前にすると、自分の強さも認めなければいけないような気もしていた。自分が強いという事実は希望でもあり、絶望でもあった。今持っているものは、いつか失われていくものだと、当時のトガシはなぜかそう思い込んでいた。
 浅草のように、陸上を信じることが自分にはできなかった。それが失われたときのことなど考えたくもなかったから。だから、陸上って良い、と言い切れる浅草が羨ましかったのかもしれない。
 トガシは彼女に感じる眩しさを言葉にするのも憚られ、今は逃げることにした。
……ぜんぶ?」
「答えになってない!」
 疑問系の回答を浅草は笑い飛ばした。トガシが浅草の強さに甘えてこう答えたこともきっと浅草には見透かされているだろう。
 浅草は体の前で手のひらを組んで、トガシの顔を見上げた。真昼の光が浅草の顔を照らし、瞼に乗せられた薄茶色のアイシャドウがよく見えた。その下の瞳の強さは十年経っても変わらない。
「後出しみたいになっちゃうけど、私、トガシくんのこと心配してなかったよ」
「え?」
「あ、怪我は本当に心配だったんだけどね。ただ、なんていうか、君はずっと走るんだろうなって、出会ったときから思ってた。今もそう」
「それは、どうして」
「だって、トガシくんは違うから。それこそ、ぜんぶが。成績が出なくても、走るのは続けてたし。他の種目に変えるとかも頭にないみたいだったし。でも、トガシくんはそうだろうなって思ってた」
 浅草は一瞬だけトガシの足元に視線を落とし、そしてまたすぐにトガシを見上げた。
「私だって、そういう生き方ができる君のことがこわかったし、羨ましかったよ」
 自分の太腿をぽんと叩きながら浅草が言った。それにつられて、トガシも自分の脚を見る。誰よりも速く走ることができていた、そして、きっとこれからもそれができる二本の脚。
……俺は、他にできることがなかったから」
 視線を落としたまま、トガシはそう絞り出す。地面に落ちている影は短い。トガシくん、と呼ばれて、はっと顔を上げる。浅草は笑顔を浮かべていた。
「私ね、トガシくんは何だってできるって、今でも思ってるの。走るのだって、楽しくもできたでしょ?」
 きっと浅草は初めからトガシの答えを知っていたのだ。トガシはようやくそのことを理解して、走りだしたいような衝動に駆られた。きっと、嬉しいのだろう、と自分の衝動を分析する。そして、やはり逃げ出したくなるほど恐ろしくもなった。
 浅草の言葉は、他人から押し付けられる期待とは違っていて、切実な重さを持っていた。彼女に言われれば、そのようになってしまうような、そんな強さを感じる。
「残念。トガシくんが革靴じゃなかったら、今日も走るのお願いしたのに」
 浅草が冗談めかしてあの日をなぞる。
 彼女はトガシが陸上を続けることを確信していたと言うが、トガシ自身は浅草に出会っていなければどうなっていたか分からない。今になって、その現実が実感として湧いてくる。
「やっぱり、浅草さんはこわいです」
「それ、褒め言葉としてもらっておくね」
 浅草は背伸びをし、ジャケットを脱いだ。
 これ持ってて、とトガシにジャケットを渡し、ブラウスの袖をまくる。
「何ですか?」
「私って唐突な人間だから」
「それは知ってますけど」
 身軽になった浅草は、とん、とん、と靴で地面を踏んでその硬さを確かめるような動きをした。長めのスラックスを履いているので気が付かなかったが、浅草はパンプスではなく黒いスニーカーを履いている。
 その場で何度か屈伸をして、軽く自分の頬を叩く。
 よし、と小さく呟くのが聞こえた。
 ぐっと膝を曲げて体を沈める。鋭い視線は数メートル先の地面へ向けられている。直後、浅草は強く地面を蹴り上げた。素早くトガシの目の前を横切り、その勢いで生まれた風が頬を掠めた。
「あ……
 トガシにはすぐに分かった。浅草も、走り続けている。
 大学でも陸上部に入ったのは聞いていたが、きっと今も走っている。フォームを、いや、スタート前の姿勢や視線の置き方を見れば分かる。そして、公園を駆けていく今まさに浅草はこれまで走り続けてきた人のかたちをしていた。
──すごい。心の底からそう思う。生まれたのは称賛ではなく、確信。
 浅草さんはすごい。トガシの体は喜びと畏怖とで震えている。
 五十メートルほど走ったところで浅草は力を抜いた。
「はー、いきなりごめんね。トガシくんと話してたら走りたくなっちゃって……えっ、どうしたの」
 軽く息を切らしながら戻ってきた浅草は、トガシを見て驚いた。
 トガシが瞬きをすると、ぽろ、と涙が頬を伝う感覚があり、そこで自分が泣いていることを知った。でも、そんなことはどうだってよかった。
「浅草さんもずっと走ってるんですね」
 今度はトガシが浅草にジャケットを返す。また、記憶に残る瞬間が増えた。十年前の春と同じで、いつか今日のことを思い出す日が来るだろう。
「うん、結構良い線いってるでしょ」
「はい、かなり」
 頷きながら、鼻を啜る。泣かないでよ、と浅草が笑う。
 真昼間の公園で、良い大人が泣いているのは異様な光景かもしれない。少なくとも自分が子供の頃に、今の自分のような大人を見ればドン引きするだろう。そういえば、いつかの子どもたちには悪いことをした。
 公園には他にも人がいたが、誰もトガシたちを気に留めていなかった。各々、食事を取ったり、スマホを見たり、散歩をしたりしている。そうだ、案外そんなものなのだ。
「浅草さんが相変わらずこわい先輩だから、嬉しくて」
「あははっ! なにそれ!」
「マジで、どうしてくれるんですか。かわいい後輩を泣かせて」
 トガシの言いがかりに、浅草はさらに笑い、トガシがポケットからハンカチを取り出して涙を拭くと、いよいよツボに入ったようで腹を抱えて笑った。ハンカチの何がそんなにツボなんだろう、と疑問に思いながらもトガシもつられて笑った。
 浅草の目尻に浮かぶ涙がきらりと光る。
「トガシくんは本当に大丈夫だよ。だって、そんな風に泣けるんだもん」
 浅草からそう言われて、トガシはふと自分の手のひらを見る。光は、初めからずっとここにあって、自分がその存在に気づいていないだけだった。何故だかそんな気がした。
「今度の集まりで話すことが増えたね」
「任せてください。俺、シラフで二時間ガチ泣きできます」
 目を真っ赤にしたトガシが大真面目にそう述べると、浅草も、それは頼もしい、と真面目に返したのだった。