景生
3284文字
Public 完花
 

空洞

※R-15 ※成人後設定 ※主←花前提


 巽は部屋の隅にある消灯したブラウン管テレビを見つめながら、今夜の花村の言葉を思い出していた。彼は遠い光に目を細めていた。『俺の相棒は幸せそうだった』。アナログ放送から役目を終えた旧型のテレビは埃を積もらせて、日々侵食する劣化に耐え忍んでいる。その小さな枠内は延々と沈黙していたが、やがて視聴者の存在を感じ取るように点灯し、砂嵐を映し出した。薄暗い室内に雨音が響き渡り、巽の険しい顔がぼんやりと浮かび上がる。テレビ画面は巽の記憶に呼応していた。それは意識を集中させるための〝錯覚〟に過ぎなかったが(実際には電源も付いていない)、巽に蘇るのは現実的な感覚だった。
 
 仲間の結婚式。鳴上悠の晴れ舞台。祝福する大勢の参列者。消えた一人の男。そこら中を探し回って、ようやく見つけた。「花村先輩」。会場から最も遠いトイレの個室。便器の前で彼は蹲っている。充満する酒と吐瀉物のにおい。湿った空気の中、絞り出すような拒絶の声が巽に届いた。「俺に近付くな」。寄るな、離れろ、どこかへ失せろ。縮こまった身体で咽せながら、彼は言葉を滲ませる。吐き出すものは力無い。巽に聞こえるのは寂しい男の喪失感。自分で自分を押し殺す、自傷の声。襲いくる虚無感に震えながらも、彼はそれを受け入れようとしている。彼は唇を噛み締めて、嗚咽を喉の奥に押し込む。見ないでくれと怯えていた。
 巽はそれを見つめていた。振り返ることも後退ることも出来ない。虐待の様子に思考が飲み込まれていく。痛々しいその姿に手が伸びる。床に落ちた涙の反射に、瞳が吸い込まれていく。髪に隠れた彼の素顔を、巽は探した。記憶にあるのは笑顔を絶やさない彼の姿。一人の男に羨望の眼差しを向ける彼の姿。どこにいる。巽は探す。彼はどこにいる。彼の前髪にそっと指を掛ける。びくりと肩を上げて、彼は怯む。逃げ場を無くしている姿に巽は生唾を飲み込む。腹の中に緊張が渦巻く。熱くなる。むず痒くなる。
 彼の前髪をゆっくりと持ち上げて、そこに潜む皮の下を覗き見た。

「そうやって黙ってると、知らない男に見えるな。完二」
 呼ばれた声に意識を取り戻す。窓から流れる夜の光に目が眩んだ。瞬きすれば、シャワー室から戻ってきた花村が巽を見下ろしている。現実の続き。花村はテレビを一瞥して、巽の隣に座った。備え付けの古びたベッドが男二人の重さに軋んだ音を立てる。「帰りたくなったか」花村はタオルを腰に巻いただけの姿で、巽を覗き込んできた。その視線は巽の身体を駆け巡る。石鹸の香りと、湿った熱気。息遣いまで聞こえてきそうな静けさの中で、二人は見つめ合う。片方は汚れるために身体を清潔して、今からその身を投じようとしている。「後悔してるなら、帰った方が良い」花村の声は和らいでいた。それは穏やかで優しい感覚を呼び起こしたが、実際には意味を伴わない。彼を隔てる虚勢の壁。巽はその僅かな隙間から彼の中身を垣間見ている(見せられている?)。覗いた先には底知れない、どこまでもどこまでも続く感情の抜け殻が存在する。今まで満たされていたものがどれほど大きなものだったのか。それを物語る空洞に、巽は視界を奪われていた。この男の器は他人を糧に形成されている。献身的な愛情の成れの果て。巽は亡骸を目の前にしている。
 巽は花村をベッドのシーツに押し倒すと、彼に跨って逃げ場を塞いだ。掴んで拘束した手首は筋張った男の感触がする。巽は思わず指に力を込める。巽が今まで男を組み敷いた経験があるとすれば、それは喧嘩の最中だった。暴れ回る相手を取り押さえて牽制し、服従を強いる行為。殴り合いの応酬で生まれていた優勢な立場が、今は目的を別にして存在している。巽は衝動に突き動かされていた。怒りには慣れていたが、この男に対する感情はそれだけではなかった。自分の下で身を差し出して、哀傷の眼差しを向けてくる彼を確認すると、胸の奥底に潜む醜悪な感情が沸々と湧き出るような感覚に襲われる。巽は右手の力を緩めて、彼の肌に指を滑り落とした。腰のタオルを潜って、浅く呼吸する花村の下腹部に手を止める。巽の指を感じ取り、彼の引き締まった筋肉が強張るのを感じる。血の通った皮膚の下。生温かい内臓の感触。脈打つ肉体の気配が巽に絡み付いてくる。誘われるように巽の身体が熱くなる。その熱を彼の中に放ちたいという欲望が、ずくずくと背中を這いずってくる。「先輩、俺」
 巽は彼に求められていた。巽はその期待に応えたかった。不埒な欲望に身を任せたかった。しかし二人の欲求を隔てるように、時折、冷静な光景が垣間見えることがある。それは雲間の太陽で、現れた陽射しに目が眩むように、巽の暗い視界を惑わした。昼と夜の境目に見えたのは、幾重にも重なる影だった。影は潜ませていた傷口を埋めたいと、寂しそうに胸の空洞を震わせている。助けて、助けてと。艶めいた声で巽の名前を呼びながら、紅潮した顔の裏で泣きじゃくっている。あの金色の瞳を見たことがある。影は砂嵐の虚像となって、曖昧な世界で行き場を無くしていた。何かを探しているような、もがいているような、嘆いているような、悲痛な残像を残している。巽はその破綻した姿を、見て見ぬ振りにすることなど出来なかった。
「もしも、俺なら良かったんだけどよ」巽はそう言って花村の隣に横たわると、彼を自分の胸に引き寄せた。「でもよ。それじゃあ駄目なんだろう」指の隙間に柔らかい髪が絡み、整髪剤の香りが巽の鼻をかすめる。その匂いに顔を埋める。巽は深く息を吸い込む。吸って、彼の匂いで肺を満たした。そうした生々しい感覚は現状を浮き彫りにして、相手に抱いた情欲をますます膨らませる。けれど先程までの急き立てるような欲とは異なり、徐々に温まるような、なだらかな意識を保っている。巽は熱を帯びる身体で花村を包んだ。少し寒さに冷えてしまっていた彼の身体を強く抱き締める。
 花村は暫く動かなかったが、次第に痺れを切らしたように巽の腕の中で小さく身じろぎした。彼は前髪の隙間から巽を覗いた。躊躇したような、どこか困ったような気配が感じられる。
「あの。さ」花村は戸惑いながら口を開いた。「しねぇの、完二」
 不安げな視線が巽に届く。
 巽はその揺れる眸に返事した。「したい?」
 花村は答えない。二人の視線が絡まり、唇が触れてしまいそうな距離に近付く。そのまま熱い空気に身を委ねてしまいたかったが、巽は有耶無耶にすることを拒んだ。「悪いな、先輩」。自分にあの人の代役は務まらないと、巽は彼の愛情深さに痛感する。「俺だってあんたが大事だ」。喪失が満たされないままの蓋に意味はない。形の合わないそれを無理やり穴に捩じ込んで、彼の悲鳴を聞き続けたくなかった。苦しませたくなかった。痛みから誤魔化し続けることを、巽は望んでいない。
「本当に俺と居たいって思ってくれたらよ」巽は花村の髪を撫でながら、彼に言った。「今度、あんたの家に呼んでくれや。行くからよ」それは本心からの言葉だった。花村が自分のために家の鍵を開けてくれるのならば、巽は喜んで彼の家に向かうつもりだった。それが同情なのか愛情なのか。まだ定かではないが、しかしこの男のためにそうしたいと思える自分がいる。再会の日は確かに巽の意思だった。
 花村の返事は無かった。彼は言葉を彷徨わせている。巽の揺籠に包まれながら、視線を追憶に迷わせている。彼の眼光が金にぐらつく。膜の張った両目が、瞬きに揺れて溢れていく。口に出せない名前を涙に溶かして、彼は遠い記憶に心を偲ばせた。唯一の微睡みに向き合いながら、その崩壊を受け入れようとしていた。
 せめて今この時が後悔に変わらないよう、巽は優しく彼を抱き締める。彼の喪失が全身を駆け巡るとき、その寒さに囚われないように温もりを分かち合う。彼がどこかへ行ってしまわないように、寂しさを少しでも埋められるように、この先に自分を呼んでくれることを願いながら、待っていると耳元に囁いて。静寂の中、二人は夜明けを求めた。