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べるどくん
2025-12-03 00:20:32
8955文字
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オメガバース(Ω×α)アン兵wip
兵アン(α×Ω)から始まります ※兵アン部分は成人向け描写なし 完成したらpixivにアップする予定です(完成版はR18です)
その日、パンドラがアジトとして所有するカタストロフィ号には剣呑とした空気が漂っていた。大人たちは乗船する子供に悟られないように気を使ってはいたものの、乗組員はすべて超能力者という特異柄、完全に隠し通せる訳もない。
大型客船は太平洋上のポイントで停泊し、空間固定能力によってひとときの休息を得ていた。いつも通りの認識阻害をかけて普段は終わりだが、今回は幹部である葉にも仕事があった。
「まあ、二回もジジイの力を間近に受けりゃ、ああなることもあるかぁ」
頭の後ろで手を組んで、隣を歩くスーツの男にぼやく。話しかけられた男、真木は相槌のようにため息をついた。
「俺たちはああはならんだろう。あいつが特殊なんだ、能力もそうだが、受容体も俺たちと違うのかもしれん」
「まあしょうがないっしょ。あいつ、ヒノミヤは
――
オメガちゃんなんだし」
現代日本において、第二の性が世間に認知されるようになったのが1930年代頃。奇しくも超能力が軍事利用され始めた時代と時同じくして、バース性というものが表出化した。バース性も超能力も、それまで公にされていなかった部類のものが研究対象となったのは、欧米諸国の発展に遅れまいとした日本の矜持だったのだろう。学術的に整理されていったバース性だったが、昨今の超能力者の扱いと同じように、未だ発展途上にあった。
アルファ性は強く、オメガ性は弱く、ベータ性は無個性。まるで血液型のようにぱっきりと評価を分けるのは、この国お得意なのかもしれないと真木は鼻歌をうたう葉の様子を見やった。
「あまりオメガを下に見るなよ、葉。過去には支配層がオメガだったこともあるんだ。エジプトのクレオパトラだって、最近の研究じゃオメガだと
……
」
「んなの大昔の話っしょ!? 今は今じゃん。俺らはアルファで得してて、現にヒノミヤは損してるし」
「白か黒しかないのか、お前の頭は
……
」
道徳のやり直しだな、と葉の頭をわしわしと撫でる。「んわー」と面白がる弟の姿を鼻で笑って、葉の言葉にも一理あると目を伏せた。
超能力とバース性の研究が同時進行されたことには、国の発展と、もうひとつ理由があった。多くの日本国民がベータ性であったが、統計を取ってみたところ、多くの超能力者がアルファ性またはオメガ性だったからだ。現に真木と葉はアルファ性を獲得していたし、紅葉や兵部もアルファ性である。
パンドラという小規模組織が超能力者や普通人の権力者に支持されているのも、トップ層がアルファのみということが大きい。確かに、真木はその点においては胡坐をかいているところがあった。名刺としても重宝するし、情報としても威嚇ができる。真木がどれだけ理性的にバース性を捉えようとも、葉の在り様が一般的な社会を表していた。
今も昔も、大衆が求めるのは『わかりやすさ』だ。超能力は無限の可能性を秘め、バース性もベータからすれば不明瞭なものに他ならない。恐れられていることには変わりなく、そういった意味でも真木は、早いところ、この一般常識を覆してやりたかった。
「ヒノミヤも哀れだろう。稀有な超能力に加えてバース性もオメガで、これまでどれだけ苦労してきたか想像には難くないしな。俺もまだ仲間とは認めちゃいないが」
「
……
まー、ジジイが乗せたんなら考えはあるんだろうけどよ。別に俺も鬼じゃあるめぇし、ジジイに言われたことくらいはやってやるってだけだ!」
やれやれと背伸びして、葉は人払いを済ませたホールで立ち止まる。
「こっから向こう側、全部でいいんだよな?」
「ああ。念には念をだそうだ」
「ういーっす」
ホールに備えられたソファに腰を下ろし、真木は炭素繊維を細く張り巡らせる。二人に任された仕事は『人除け』だ。二人がいるホールから船の先まで、何人も立ち入らせるなとの兵部からのお達しである。それは、その範囲に兵部の部屋があり、その部屋にヒノミヤがいるからだった。
――
ヒート中の。
「俺がトラップワイヤー役をやるから、誰かが踏み入ったらお前の出番だ。音消しだな」
「あーやだやだ。なんで人のセックスのお守りなんか
……
ジジイも隔離だけしてほっときゃいいのに」
「そんな気分じゃなかったんだろう」
「気分ねえ」
「ああ」
船前方、人気のなくなった廊下へ見えない糸を張り終えると、真木は深くソファへ座り直した。両腕を組み目を閉じて、意識を伸ばした炭素にだけ集中させる。それ以外は考えないように。
「きっと、それだけだ」
まったく手の掛かる奴だなあ、と、兵部の頭にはそれだけがあった。
アンディ・ヒノミヤとは獄中で出会い、そのときからUSEIの手の者だということには気付いていた。それなのにヒノミヤときたら迂闊そのもので、兵部から差し出された食事に手を付けるわ、船では幹部らに遊ばれているわで緊張感の欠片もない。
(ま、あれが作戦なら僕も一目置くんだが)
そんな訳はないだろう。だからこそ、彼が普通人の顎で使われていることが兵部には気に食わなかった。使いようによってはとても便利な超能力を持つヒノミヤだったから、普通人が利用するのも時間の問題だった。彼らに見つかる前に掬いきれなかったのは、まだまだパンドラの組織力が足りないことを痛感させられる。
兵部は歩きながら、自分の船室へと向かっていた。いつもならテレポートでひとっ飛びだったが、今夜はなんとなく段階を踏むことにしたのだ。部屋が近付くたびに肌を撫でてくるオメガ特有の香りが、足を速めようとしてくる。なんともいじらしいことじゃないかと肩を竦めて、歩みはそのままに匂いを掻き分けた。
長年生きていると、オメガの誘惑にもそう易々と振り回されなくなった。それは逃れようのない老いを感じさせたが、経験則からのリスクヘッジができていると捉えれば兵部の機嫌も損ねない。
「ユウギリを助けるときに一度。カルロを葬るときに二度か。オメガにしたって、どうにも繊細だな、君は」
ヒノミヤのバース性がオメガであることは、監獄にいたときから認知していた。というのも、監獄島・デッドロックではオメガの人間に強力な抑制剤が配布される決まりになっている。バース性で監獄が分けられない経済的理由によるものだろうが、食事時のトレーに乗る薬袋を嫌々手に取る姿を、兵部はほぼ毎日、目にしていた。
USEIに所属しているのだから、そちらからも薬は処方されているはずだ。カタストロフィ号にも常備薬はあるし、ヒノミヤもただオメガとしてフェロモンを垂れ流して生きていた訳ではないだろうから、必要になれば言ってくるはず
――
そう踏んで静観していたところに、ヒノミヤのヒートである。
モナーク王国に向かって舵を取り始めたカタストロフィ号だったが、兵部の目の前でヒノミヤが発情期に倒れたのだ。突如として吞み込んできた甘ったるい香りには、さしもの兵部も眩暈を覚えたが、そこは多くのオメガ性もいる船の主、指を鳴らしてひとまずヒノミヤを自室に隔離することにした。
ベッドにヒノミヤを転がすだけで、誘うような芳香が意識を引き寄せてくる。ぐわぐわと銅鑼が鳴る頭を抱えながらも、ヒノミヤの顎をひっつかんで顔色を確かめた。発情期さもあらんといった様子で、潤みきった瞳がぼんやりと、兵部を見上げている。
「
……
自分のヒート周期も把握してないなんて、君は思ったよりもお馬鹿さんだねぇ。オメガとしての自覚がないのかな?」
小鳥のさえずりのようにからかうと、熱っぽい吐息混じりにヒノミヤは眉を顰めた。
「ちが
……
、おれ、いつもはこんなじゃ
……
今じゃない、なんか
……
変だ、あんたの仕事、見てから
……
」
「は? 僕のせいにするのかよ」
「わ、っかんねぇって! なんかっ
……
でも、あんたの、念動波か? あれの余波、すごくて
……
脳がずっとビリビリして、気付いたら
……
こう、なってた、悪い
……
」
ふーっ、と深く息をして、芋虫のように蹲る。
「しばらく放っておけば、収まると思うから
……
悪かったと思ってるよ
……
」
だからちょっと離れてくれ、と細い声が紡がれる。オメガとしても、潜入捜査官としても自責の念に堪えられないのだろう。ふむと兵部は顎を撫でながら考える。自分が放つ念動力は、超度で測れるものではない。加えてヒノミヤは超能力無効化能力という稀有な超能力中枢を働かせていたから、兵部の超能力によって脳波が乱れ、ヒートの不順を引き起こしたのかもしれなかった。
超能力とバース性の研究が同時進行だったのは、こうした関連付けが可能であるからかも
――
と思案しつつ、兵部は一度テレポートで幹部らの集まるバーへと向かった。
彼らもオメガのヒートを感じ取っていたらしく、どうするかと話し合っていたところに出くわす。話を通したあと、「僕片しとくから」と口にしたとき、意外に思ったのは自分自身だった。
(なんで僕がやるって言っちゃったんだろ)
そして今、幹部らと連携を取ったあと、ひとりヒノミヤの待つ自室へと向かっている。ヒノミヤは放っておけと言ってたにも関わらず。
ヒノミヤに指示されるのが気に食わないとか、いつもの気まぐれだと理由をつけるのは簡単だった。ただ引っ掛かるのは、この状況をUSEIが予期していないはずがないという点だ。兵部京介という高超度の超能力者、かつアルファである人間の前に、オメガの人間を送り込むことの意味を知らない訳ではあるまい。
(美人計のつもりか? 生意気な小僧共だ)
それじゃあ、その罠を一杯食ってやろうじゃないか。それでいて覆してやるのが僕というものだろうよ。
つまりはヒノミヤを介して、USEIを弄んでやろうという思惑があった。哀れなヒノミヤには悪いが、それも織り込み済みで仕事を請けたんだよな? そう口角を吊り上げて、兵部は初夜を待ち侘びる王のように、ドアを開けたのだった。
■
ヒートを抑えるためにヒノミヤと寝てからは、済し崩し的に兵部がヒノミヤの世話係、のような位置づけになってしまっていた。それも当然で、ヒノミヤのヒートは結局、一度ずれたことによって予測がつきづらくなってしまったのである。抑制剤を飲むことで大体は抑えられるようにはなったが、原因のアルファが傍にいればなにがあっても安心だからと紅葉に押し付けられることになったのだ。
「原因ってなんだよ。原因はヒノミヤ側の受容体だろ
……
!」
「全くだな。あんたにも世話かけるね」
「そう思ってるならもっと申し訳なさそうにしろ」
なんだか抱いてから太々しくなった気がするのは、兵部の気のせいではあるまい。
「あー、迷惑かけた分は体で返すよ。あ、どっちの意味も含めて!」
「コメリカ流オメガジョークかい? 笑えないねぇ
……
」
カタストロフィ号の甲板で、離れていくモナーク王国を眺めている。ユウギリが王女を誘拐する、外におでかけもすると言った日にはどうなることかと思ったが、こうして船に乗れたことにヒノミヤは安堵していた。戻ることができたと思っている自分に驚いて、芽生えた帰属意識がくすぐったい。
軽口を言い合ううち、船内に戻ろうとする兵部を引き止める。
「なあ、兵部」
「なんだい」
振り返ると、暮れる陽光を一身に受けるヒノミヤの姿があった。それが少々、眩しくて見ていられなかったので、兵部は自分の影にヒノミヤを入れる。
「あんたさ。俺のこと噛む気ないか?」
「ないね」
「即答
……
!」
がく、とこれ見よがしに項垂れてみせる。兵部はからからと笑って、ヒノミヤに近付き肩を叩いた。
「番を作るつもりはないなぁ。今まで誰のうなじも噛んだことないし、僕はやめといた方がいい」
「なんでだよ?」
「幽霊だからね。憑りついて祟るぜ」
海風がふたりの髪を大きく揺らして、視界がまばらになる。髪の隙間から見えるお互いの表情が対照的だったのを、真正面の人間だけが知っていた。
「便利だと思うけどなー。あんたも四六時中、俺につきまとってなくていい訳だから」
「滅多なこと言うもんじゃない。君が僕につきまとってんだ、僕を犯罪者扱いするな」
「犯罪者だろ?」
「品位が違うだろ!」
そうかねぇと不満げにするヒノミヤだったが、それ以上、番について追及することはしなかった。兵部の背を追うように海鳥の影が重なって、ヒノミヤは真鍮の手すりに肘を預けて空を仰ぐ。手のひらに触れたレイリングは風を受けて冷たくなっており、過ぎ去った夜に掴んだ兵部の手首の冷たさを、ぼんやりと思い出した。
ことが起こったのは、ヒノミヤと兵部のすべてに決着がついてからだった。
潜入捜査官であることが公になり
――
もっとも、兵部には初めから試されていた訳だが
――
パンドラを裏切って、ユウギリが連れ去られ、倒れた兵部を拾いあげ、再び二人でユウギリの救出に向かった日。周囲一帯を消し飛ばすような兵部の暴走を辛くも食い止めたヒノミヤは、それから昏々と眠り続けていた。
兵部と幹部らは彼が眠るベッドを取り囲み、一様に難しい顔を突き合わせる。
「
……
やっぱりさぁ、ただで済む訳がなくない?」
口火を切ったのは紅葉だった。サングラスの奥に冷や汗を隠しつつ、頬杖をつく。ヒノミヤといえば大一番を乗り切った故か、脳に受けたダメージとは掛け離れた、穏やかな寝顔を浮かべていた。
「少佐のアンリミテッド! を何回か喰らってヒート不順起こす奴がさあ、少佐の暴走を吸収してヒート起こさない訳なくない?」
「みなまで言うな紅葉。全員そう思ってるところだ」
頭痛が止まない真木に、面倒そうに舌打ちをする葉。一通りの検査を済ませてやってきた兵部は、養い子たちの顔を見回した。
「数値的には落ち着いてるんだろ? 自発脳波からバース性の暴走まで見るのは無理だからな、目が覚めるのを待つしかないさ」
「でもよお、ジジイ」
兵部の肩を肘置きにして、葉がにやけ顔を寄せる。
「もしヒノミヤがエッグいヒート起こしてさ、一か月くらいヤリまくりになったらさすがに死ぬんじゃねえの? 腹上で」
「葉!」
次の瞬間には葉の体が壁にめり込み、紅葉が息を切らせていた。あーあ、という顔で真木が手形にめり込んでいる葉をベリベリ引き剥がしていく。
「さあね、どうなるかは箱を開けてみないと。なにかあったらあとは頼んだぞ、真木」
「縁起でもない! 親代わりが馬鹿みたいな死に方せんでください!」
気絶したまま立つ葉から壁の破片を取り払いながら、真木は肩を怒らせた。
「とにかく、僕とヒノミヤは一度カタストロフィ号に戻るよ。お前たちの懸念も尤もだし
……
やりたいことがあったんだが仕方ない」
「やりたいことって?」
「野暮用さ。僕の部屋の周り、人払いしといてくれ」
わかったわ、と紅葉が相槌する。そのまま少し考えた風に視線を上にやり、決心したように兵部を見据えた。
「少佐、ヒノミヤは少佐を助けてくれたんだから、彼が嫌がることはしちゃだめよ?」
「はあ?」
兵部が大口を開ける。藪から棒に、と言わんばかりに目を大きくしていると、いかにも真面目な顔をして紅葉は続けた。
「少佐は調子に乗って遊びすぎるところがあるんだから。今回はヒノミヤのこと、うんと甘やかしてあげて! それがアルファの務めってもんでしょ?」
「なんだいそりゃ
……
ノブレスオブリージュってか?」
現代社会では、アルファは支配者でオメガは被支配者という認識があり、おおよそそれは間違いではない。ベータからすれば確かにそう見えてしまうのだが、当事者からすれば、アルファこそがオメガの機嫌を取っているシーンも少なくなかった。オメガがヒートをもってアルファを誘うといっても合意がなければアルファが加害者として犯罪となる世の中、アルファ側がオメガを最大限気遣い、フェアな関係を築くことこそ美徳とされてきている。力ある者は力なき者を支え、尊重するべきだという論調は、戦時中を生きた兵部からすればひどく生温かった。けれどこの世論を、間違いだとは思わない。
眠りっぱなしのヒノミヤに目を落とす。口では面倒そうにしながらも、どこか慈しみのある視線がヒノミヤへ注がれるのを、紅葉だけが気付いていた。かつて自分たちに向けられていた情が、この男にも注がれようとしている。そのとき、ヒノミヤはどのような顔をするのか、紅葉には判断がつかなかった。
「
……
わかったよ、今回ばかりは出血大サービスしてやるか。そんじゃ、先に行くからな」
兵部が深く考えずとも、今回の件で命を救ったのはヒノミヤの功績によるものであることなど承知していた。ただわざわざ態度に出すのが癪に障るだけで、いつも通りの佇まいを心掛けていたのだが、長女にはお見通しだったらしい。こう言葉にすれば満足か、とでも言うようにため息と共に返事をすると、兵部は空間の狭間に消えていった。
テレポートで消えていく二人を見送って、残った兄と弟を振り返る。
「さ、追いかけて船に戻るわよ。末っ子の面倒を見てあげなきゃ」
「
……
もうちょっと葉を休ませてやらないか? 紅葉
……
」
■
ヒノミヤが自身のバース性をオメガだと知ったのは、ハイスクール入学前の身体測定のときだった。周囲の同年代よりも幼く見られがちだったのは日系の血が入っているからだと思っていたが、バース性も手伝っていたと知った。いかに大人びた言動を心掛けたところで、生来の性格や実年齢もあって背伸びしたものにしかならない。流れる血が形作る顔立ちも、発現してしまった使いどころの分からない超能力も、露見したバース性も、なにもかもがヒノミヤの境界を曖昧にさせた。
(だから、そうだ、泳ぐしかなかった。自分ひとりで、自分のことを確かめに行った)
微睡みの中で目を覚ます。白むほど眩しい世界で、果てのない浅瀬に両手両足を投げ出して浮かんでいる。花のひとつも見えやしないのに甘い香りで噎せ返り、それが自分のバース性が薫らせるフェロモンであることを本能で理解した。夢の中でさえヒノミヤは水辺を漂って、つま先をつける場所さえ見つけることができなかった。
――
今までは。
「
……
なんだこれ」
投げ出した指先になにかが柔らかくぶつかる。南国の海のようなエメラルドグリーンを滑ってきたのは、白い小振りの花だった。
「花
……
う、わっと!?」
香りの正体はこれだったのだろうかと体を起こすと、泡が溜まるように白い花が打ち寄せてくる。
「ち、ちょっと待った、待った待った
……
」
溺れそうになりながら、思わず花の絨毯に手をついた。雲のようにたわむそれに乗り上げると、なんとか足をつけることができる。ヒノミヤは遠い昔に見たサーカスのトランポリンを思い出して、膝で弾力を確かめながら立ちあがった。視界が一気に広がり、白い絨毯の先に、小さくだが陸が見えることに気が付いた。あそこまでこの道が続いているといいが、と一歩踏み出す。
「はは、浜辺みたいだな。全然やわらかいけど
……
」
歩きづらいが泳ぐよりもだいぶん良い。少々危なっかしく、ところどころ海の穴が覗いている花道ではあったが、そんな完璧ではないところも朗らかに笑えた。なにより歩くと包み込むようにして花が沈み、自分の足の形を意識する。ああ俺はここにいるんだなあ、とヒノミヤは機嫌をよくしながら陸へと向かっていった。
ただし今度は、照り付ける太陽が忌々しい。責め立てるようにぎらぎらと降り注ぐ陽の光は、歩き続けることを選んだヒノミヤにとって邪魔なものでしかなかった。あれが自分のすべてを暴き立てるような不安があり、自然と目線も下になる。
「あーあ、船があればなぁ」
日陰で休むこともできるし、そのまま進むこともできる。花の絨毯は手で避ければ海が覗けたから、立派な船ならば掻き分けて進めるだろう。ヒノミヤはそっと絨毯から一輪だけ花を掬い、暑さ凌ぎに眺めてみる。白いカトレアに似ていたが、ヒノミヤの持つ知識ではそれがなにかは分からなかった。陽光の当たり具合によっては銀に反射して、それは蝶の羽根のようにも見えた。
「うわ
……
」
喉を潤そうと蜜を吸ってみると、目を丸くするほど甘い。けれどほんの少しだ。舌の先を痺れさせるだけで、ヒノミヤはもっと、と花を摘む。
(ああでも、たくさん摘んじまったら道がなくなるな
……
こんなひとつずつ吸ってたってキリがねぇ)
見るも美しい道を得ても、ヒノミヤはいつも揺れていた。どんなものでも構わないから、この揺れを収めてくれる錨のようなものがほしかった。そんな揺れ動く自分が浮き草じみた花々を頼りに歩いているのは、ある意味、とても似合いのように思えたが。
けれど海の上では、ひどく喉が渇く。
(もっと欲しい
……
)
注がれても、注がれても潤うことはない。それならば自ら、枯らすほど奪い取ってやらねばならなかった。
■
夜に花弁を開く花には、どんな種類があっただろう。
(ヨルガオ、オシロイバナ、月下美人
……
)
兵部はベッドサイドに椅子を引っ張ってきて、そこで読みかけの小説を開きながら思案する。夕暮れ時に蕾をゆるめ、翌朝には萎んでしまう儚い花だ。けれど一晩中、放ち続ける華やかな香りは、夜という時間も相まって蠱惑的な香しさがある。そばで眠り続けていたヒノミヤも、そろそろ覚醒が近いのか、予兆のような香りを漂わせていた。
文庫本を閉じ、そっとヒノミヤの横顔に目をやる。目蓋が震え、開花のように瞳を見せた。
「
……
兵部?」
「おはよう」
視線が絡んだ瞬間、引き寄せられるように兵部の視界が揺らぐ。胸の奥で淡い色の火花が弾けて、自分でも気づかぬうちにその身を覆いかぶせていた。花に舞い降りた蝶のように、ヒノミヤの顔に影を落とす。それを合図にしたように、ヒノミヤは兵部の唇に吸い付いてきた。
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ここから成人向け部分が続くはずです。
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