幼い頃、夜は恐ろしいものだった。暗くて、寒くて、獣の遠吠えや、昼間はなんとも思わない風の鳴き声にびくついて、双子の妹と手を取り合っていなければ眠れそうにないくらい、夜が怖かった。あにうえ、おやすみなさい。そう言って握られた小さな手のやわらかさとあたたかさに、とろりと眠気がやって来るのを、毎日祈るように待っていた。兄だというのに情けない。そう思うけれど、今思えば、それが途方もなく幸せな時間だったと、そう思う。もう戻れぬ、無垢で愚かな幼い頃のことを。
今はその手は離れ、妹は夜そのものと自分よりもずっと長く戦っている。戦いの終わりに、消えてしまうとわかっていても。幼い頃から、彼女は強い子だった。それは、今も変わらない。それが嬉しくて、しかし、悲しかった。
自分が兄として妹にしてやれたことなどほとんどない。無事を祈る、それだけだった。せめてどこかで生きていてくれたら。そう思いながら剣を握り、戦い続け、それに限界が訪れようとした時、やっと、その機会がやって来た。祈りが届いたのかも知れない。何か妹にしてやれることがあるとするならば、命をかけて、妹に普通の人生を歩ませてやりたい。そのためになら、なんだって。
体の感覚はとうになく、痛みも何も感じない。限界だった。けれど、まだ動く。追跡者は、夜空へ跳んだ王へ向けて鉤爪を放った。もう、次にあれが放つ一撃には耐えられない。躱せるほど体も動きそうにない。ならば、引きずり落としてやればいい。
飛び上がった瞬間を狙われ、王は地に膝をついた。そこに向けて、追跡者は一気に距離を詰める。炎を纏った大剣が振り下ろされ、そして――焼け爛れ、千切れかけた左腕から、鉄杭が放たれた。真っ赤に熱された鉄杭が爆炎を伴ってナメレスの体を貫き、か細い断末魔を上げながら崩折れた夜の王は、二度と立ち上がることは無かった。
「……」
やった。自分も、一人でやり遂げた。無理に無理を重ねた左腕は、もはや指一本動かない。けれど、もうそんなことはどうでも良かった。鉄の目から奪った夜の王のルーン。ルーンを失っても、夜の王は目の前に現れた。それを奪い返すためだったのか、物言わぬ王のこと、その真意はわからない。しかし、目の前には夜の王の遺体があり、手の中には、彼のルーンと、銀の雫がある。それだけわかっていれば十分だった。あの円卓そのものを解放するために必要なものは、すべてここにある。
追跡者は兜を取り、砂地にそれを放った。もう、この醜い顔を見られることを恐れる必要もない。顔中、数えるのも面倒なほどの大小様々な傷跡だらけだ。片目は抉られ、無理に縫い合わせた傷跡は引き攣れて、半分は火傷で爛れた跡で覆われている。これを見られぬうちに、妹と離れ離れになれて良かった。正体を明かせなくとも――本当は気付かれていたとしても――妹と再会できたことは、奇跡に等しいことだった。嬉しかった。言葉に表せないほど、幸せだった。でも、どうか、もう一度奇跡が起きますように。
追跡者は、大切に仕舞っていた銀の雫を取り出すと、とくとくと微かに脈動するそれを一飲みにした。これは、自分ひとりが背負うには釣り合わない願いだ。身勝手で、愚かで、喜劇に近いようなことかも知れない。けれど、こうすることしか、兄として出来ることは何もなかった。
どくん、腹の奥で銀の雫が跳ねる。痛みとも苦しみともつかぬ感覚に追跡者は膝をついた。そうだ、辛くないはずがない。何しろ、人の身で王に成り代わろうと言うのだ。黒い血を吐き、喉を掻き毟りながら、追跡者は身悶えた。数人の同胞に斬りかかられた時よりも、異形の魔物に焼かれた時よりも、夜の王に腹を裂かれた時よりも酷い苦痛がその身を襲う。枯れ果てた喉で叫び声を上げ、精も根も尽き果てて、そして、やっと終わりの時がきた。
その体を砂地に横たえた追跡者は、焼け焦げた左腕に何かが触れるのを感じた。幼い頃、自分の手を握ってくれた、ちいさな妹の手だ。その優しいあたたかさが、つめたく熱をしずめてくれる気がして、追跡者は残された片目を閉じた。彼の体は少しずつ夜に呑まれ、彼が望んだ通りの姿に変じていく。
ああ、きっと、うまくいく。かわいい、いとしい妹。きみだけは、ぼくがたすけてあげる。
甘く優しい夢を見ながら、追跡者は眠りについた。二度と目覚めぬ、夜の中へと。
追跡者がナメレスを討って数刻後のこと。
崩れていく円卓で、仲間たちが困惑の声を上げる中、鉄の目だけが笑っていた。
どうやら、あいつは成し遂げたらしい。あれの思惑通りにいくかどうかは知らないが、どちらにせよ、夜は終わらないのだ。新たな円卓、新たな仲間たち。その中にきっと、自分は再び選ばれる。そうなるはずだ。そうでなければならない。
崩壊した円卓は、巫女と夜渡りたちを解放し、そして――再び、その形を取り戻した。ただ一人を除いて。
暗くて寒い、静かな空間に、それは一人きりで佇んでいた。夜空に溶けるように夜そのものになった彼は、ただそこにあるだけだ。夜がもたらす悲劇の中心となり、それをただ続けていく、寂しい夜の王。
ナメレスが抱いていた夜のすべてを受け継いで、追跡者の自我と呼べるものはほとんど無くなってしまった。自分のことも、妹のことも、円卓の仲間たちのことも、……鉄の目のことも、意識の奥に沈んで、思い出すことも出来なくなってしまった。当然、自身の願いの結末がどうなったのか、気にすることもない。
夜に呑まれた仲間たちの気配が消えたり現れたりを繰り返す。それを感じ取りながら、誰かの訪いを待つだけだ。誰か、……誰か? 誰のことも知らないはずなのに、忘れてしまったはずなのに、自分は一体、誰を待っているのだろう? ふと浮かんだ疑問も、夜の闇に溶けていく。そうしているうち、自分が佇む夜への扉が開かれた。
巨大な斧を持った大男、片翼が傷ついた翼人、魔術を操る魔女、妖刀を携えた鎧、幽体を伴った人形。彼らが現れては、新たな王はそれを退けていった。彼らのことを、どこかで見たことがあるような気がする。彼らは、王へと何かを語りかけてきていた。その言葉はよく理解出来ない。自分はどこから来て、どこへ行くのか、何をすべきか、何のために大剣を握っているのかさえ、わからない。ただ、自分を斃そうとする相手を退けなければならないことだけが頭にあった。そのための力の使い方も、彼らが何を得意とし、何を苦手としているか、それだけは体に染み付いていた。だから、王は負けなかった。
何度目かの戦いを終え、王の足元には、翼人と魔女、そして人形が横たわっていた。彼らは夜に呑まれ、消えようとしている。けれど、彼らは何度でも立ち向かって来るのだろう。かつて、自分がそうしていたように。
相変わらず、彼らが何を言っているのかはわからない。ただ、消えようとする彼らの目に浮かぶのは、敗北の悔しさでも、怒りでもないことは理解できた。彼らは皆、哀れみを込めた目で王を見て、そして消えていく。
何も感じることも、考えることもなかったはずだった。しかし、いつしか王は、彼らのことを――何度も自分に挑んでくる夜渡りたちのことを考えるようになっていた。自分は、彼らを知っている。ここで戦うずっと前から、彼らのことを知っていたはずだ。だって、彼らは、俺の……。
しかし、完全に彼らを思い出すことは出来なかった。夜の雨は記憶を奪う。夜そのものになってしまった彼は、過去の記憶を思い出すことはおろか、新たな記憶を維持することさえ難しくなっていた。思い出そうとする端から霧散していく記憶の欠片たちを、懲りずに訪れる夜渡りたちがかろうじて繋ぎ止めていた。
そんな戦いを幾度となく繰り返し、今日もまた、扉が開かれた。どこまでも広がる夜空、そこからひたりと輪郭が零れ落ちる。今日は、誰が訪れたのか。翼人か、魔女か、それとも――。
「……!」
どこまでも広がる砂地の向こう、その先に立っていたのは、今まで訪れたことの無かった男。血に濡れた緑の衣服に身を包んだ弓使いが、ただ一人、王の前で短剣を構えていた。
つづく
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