『旅』
彼は、自分がいつここに座り始めたのか、なぜ座っているのかもわからなかった。
遠くで「強盗だ!助けて!」という叫びが聞こえる。記憶が混乱し、意識が朦朧としていた彼は、突然指令を受けたように駆け出した。
山賊から救ったのは商人たちだった。勇敢な行いの代償として夕食をご馳走になり、熱い料理を口にしたのは何日ぶりだろう? わからない。思い出せない。啞然と見つめる商人たちの前で何杯もお代わりを重ね、やがて差し出された麦茶で喉を通すよう促される。
どこか懐かしい感覚だった。何年も前に、同じように貪るように食べていたような。
何年も前に、麦茶を差し出しながら「ゆっくり食べなさい。まだたっぷりあるから」と言う声があったような。空腹に怯える必要はない、と。
商人たちと別れた後も人々との出会いは続いた。新婚夫婦の里帰りを護衛して食事にありつき、無事到着した邸宅では祝儀まで貰った。門を出た途端、兵営から逃げた炊事女を追う官兵を見つけると、あのおばあさんを軽々と抱え、棍棒をかわして村外れに駆け込み、呆然とする彼女にさっきの祝儀を分け与えた。
振り返れば、最初の場所から遠く離れていた。
彼が進んだ距離は、助けた人々の歩んだ道程で決まっていた。
なぜこんなことをするのか思い出せない。でもあの玉佩を見れば、かすかな誓いの声が頭に響く。
道端に座り、夕陽が沈むのを見つめる今日は、役に立つ場面に遭遇しなかった。
だからずっと座っていた。麦藁を燃やす匂いが漂い、夕飯の煙が遠くに立ち上るまで。
突然、誰かに呼ばれて帰るのを待っているような気がした。振り返れば、誰もいない、広大な草原に自分ひとり。
風が吹き過ぎ、帯が風に翻弄され、虚空を彷徨うように舞っていた。
彼は立ち上がり、あの方へ歩き出した。
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ueki先生から尾羽がひらひらと舞っているイラストをいただきました:
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『枉』
白は決して負けを認めない。今も剣を杖にしながら、なお立ち上がろうとしていた。何度も試みた末、とうとう大きくよろめいて地に倒れ込む。
紫は周囲を見渡した。草の葉に残る霜はまだ消えていない、地面に散らばる氷片も溶けていない
——白の命に差し迫った危険はない、むしろ少し休ませれば、また一戦交えることになるのだろう。
冷える。
紫は思わず襟元の寒気を遮ろうと襟巻きを直そうとしたが、自分が将装を着ていることを思い出した
――それは白が最も見たくない姿。
だが今は着替える場所もない。
倒れ伏したまま白は動かない。不審に思った紫は身を屈め、鼻息を確かめようとした。距離が近づいたその瞬間、白が目を見開き、紫の腕を掴んで地に引き倒す。身を翻し、背に覆いかぶさるようにして紫の喉を締め上げた。
速い。一瞬にして視界が白む紫は、白が本気で殺意を抱いたのかと考える。だがすぐに白は手を放し、体を後ろに投げ出す。ただ光を遮るように片手で目元を覆うほか、もはや力は残っていなかった。
「
……飯、食ったか」
紫は一番気になっていたことを、そのまま口にした。
「
…………嘲りか」
白は力なく冷笑し、横目で鋭く紫を射た。
「そういうつもりじゃない」
紫は転がるように白の隣に仰向けになった。白はなお動かない。今日の勝負はこれでようやく終わったらしい。紫は大きく息を吐いた。
馬蹄の行軍、刃と刃の交わる震動が大地を伝って届く。微かだが確かに。だがここには二羽の孤鳥しかいない。
濃霧は日を覆い隠し、空気に漂う氷晶だけがやけに眩しい。白はまだ目を覆っている。紫も目を閉ざした。誰も口を開かない。
かつて、あなたが夜半にあの丘へ探しに来たときも、こうして並んで空を見上げた。あれは夜で、天の河が巡り、あなたは理想を語った。自分はただ聞いていた。朱和が探しに来るまで。あの時の空は、確かに目で追えるものだった。
紫の体内を、支離滅裂な感情が流れていった。だが言葉にはならない。自分の行動の理由を説明できない。あの複雑さ
――政治のこと、理念のこと
――それは白が求める話だ。だが紫には語れない。
紫は、そんなに賢くない。
目を開けたときには、星河が頭上にあった。
一瞬、現実感を失った紫は身を起こし、傍らを見る。
案の定、白の姿はもうなかった。
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