mineml
2025-12-01 18:32:10
2381文字
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【SS】タムガの紅い旗・草原疾走 ネタバレ


欲しいもの

 髪を梳(くしけず)る。
 夜のうちに乱れた流れや絡まったところを櫛で梳かし、真っ直ぐに直していく。概ね落ち着いたあたりで、首の後ろでふたつに分ける。さらにみっつに分ける。青い飾り布をそこに足して、編んでいく。
 寝台から両足を下ろし、身繕いをしている背に声がかかる。
「残った方はどうしたんだ?」
「しまってあるよ。まだ綺麗だから、娘が生まれたら髪を飾ってやれる」
「お前がくれてやることなかったのに」
 胸の奥に響くような低い声にはまだ眠たげな調子があって、くすりと息を漏らしたエレグは後ろを振り返る。
 普段は高く括っている長い黒髪を豊かに敷いて、大柄な男が横になっている。エレグを見上げる目は鮮やかに紅いのだが、天窓をまだ開けていない早朝のゲルの中では黒に近く見える。その目を覗き込むように、少し身体を屈める。
「巾(きれ)のひとつふたつより、馬を大事にしてやらなきゃ。そうだろう?」
「そりゃまあ……
「それにほら、旦那さまが新しく買ってくれたのだし」
 冗談めかして言いながら、飾り布のまだ編み込んでいない片割れを指に巻いて弄ぶ。あってもなくてもいいようなものだが、なければないでなんとなく物足りないし、色を選ぶなら青がいい。さして理由もない。ずっと身につけていたから、というほどの愛着に近い。
「俺が買ったというか」
 ドルラルは笑い、自らの腕を枕に敷く。
「ルカが送り込んできたというか」
「そうだったな」
 エレグもおかしげに頬を緩める。
 フィレンツェから来たという若い商人が、ドルラル・ハーンの下を訪れたのは先日の話である。布を運んできたということだったが、中でも青い布がやたらと多く、ペルシャの更紗、敦煌の絹、フランドルのリネンと品を検めるだけでも各所からかき集めた様子が覗えた。
 加えて、彼はルカからの親書を預かっていた。ドルラルとエレグの安否を案じている旨と、エレグがもし飾り布の片方をなくしているなら役立ててほしい旨が書かれていた。サラーの添え書きもあった。彼らの近況というより、最近訪れた土地の話に終始するあたりが彼らしい。国の統治にはそのような情報こそが必要であると知っている、というあたりも含めて。
「お前が遠出から帰ってきたときも思ったけれど、ルカもサラーもあの書きぶりだと事情を知っているようだから、あれが本当にあったことだというのには驚いた」
「俺だってエレグが髪飾りなくしてんの見るまでは、夢だったんじゃねえかって半信半疑だったぜ。向こうでいきなり気絶したのにも驚いたけどよ」
「あれを見て平然としてたお前たちの方が変だってば」
 いまだに釈然としない様子で、エレグは眉根を寄せる。身体が人間、首が馬、という造形は、親しみのある見慣れた日常が破壊されて気が遠くなるに十分なものだったらしい。
「わかったわかった。……なあ、ほんとにその布だけでよかったのか?」
「うん。おれだけにはそんなに必要ないから」
 青だけで目移りする品揃えの中からエレグが選んだのは、リネン一枚である。髪に編み込んでいるのはその布から切り取ったもので、リネンの残りは他のものに仕立てることにしている。
 青以外のすべての布も買い上げられて、いずれ、この国の中枢で働く者たちへの下賜品になる。
 エレグの言葉のとおり、ふたりの暮らすゲルはそれだけを見れば、生活に余裕のある遊牧民のものと中も外もさほど変わりはない。
「そうやって、足りなくないかってよく気にかけてくれるけどな、大丈夫だよ。おれはたくさんはいらないの」
「あー……お前、家族も家畜も少なくて前から苦労してただろ。だからつい」
「布を手放すなって言ったのも、そのせいか? でも、サラーやルカに払わせてばかりも悪いもの」
「それもあるけどな」
 ドルラルの太い腕が伸びてきて、エレグの髪の、まだ編んでいなかった半分へ指を絡ませた。
「他の男の前で髪を解くなよ」
 エレグは丸い目を瞬く。次いで、自らの頬やら耳やらに朱が上るのに気づく。三つ編みを解くという簡単なことであっても、髪型を崩すのが極めて私的なことであるのは、確かに間違いないのだが。
……でも、ほら、あの場じゃ仕方ないというか……それにあのふたりは、おれのことをそういう目では見ないよ」
「俺が嫌だ」
 少し不機嫌な目とかち合う。背筋が淡く痺れるような心地がする。誰より強く美しいこの男に妬かれるというのは、どれほど幸福なことだろう?
「エレグ」
「うん。聞いてる。ごめん、あと、他じゃしない」
「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
 髪にゆるく絡んでいた指が離れ、まだ熱の引かない頬をくすぐる。
 ずっと人生の傍にいた存在を、本当はずっと欲しかったのだと思う。けれど自分が望めるような相手でもなかったし、多くを望まないことは得意だったから、蓋をして、気づかないことにしていた。だから彼の側から向けられていた視線にも気づかなかった。
 強大な国の王にまで彼が辿り着いてやっとこうなったのだと思うと少し可笑しい。同じくらいに、少し悲しい。それでも、
「一番欲しいものは、手に入ってるのかもなって」
 訝しげな表情が返ってくる。彼が思っているよりも彼は頭が切れるのだが、相変わらず朴念仁で、妻の頭の中までは思い至らないらしい。
「起きて。支度して食べるよ。あんまりゆっくりしてると、ハーンを待ちくたびれた文官たちがうちに押しかけて来るよ」
 身を離して髪を軽く梳かしなおし、もう一枚の飾り布を手早く編み込んでいく。のそりと身体を起こした夫が虎のようにあくびをする。
「そりゃ嬉しくねえな……
「おはよう、ドルラル」
 言うと、大きな手で包むように頭を撫でられる。
 そのひとを呼ぶたびに、愛を呼んでいる。