Jun_sousaku
2025-12-01 00:00:28
3330文字
Public
 

アンテリ本編後

アンテリ本編後のHO2。秘匿や本編に触れるため現行未通過×。

   ✢

 締切が迫っていた原稿も無事に片付いて、ようやく一息ついた頃。安穏とした街の上には底抜けの青が高く広がり、歩みを進めれば街路樹が散らした赤や黄色の音を聞く。今こそ秋ただ中と謳うようであれど日に日に勢力を増す寒さは、そうこうしているうちに着実に積もっていく時の流れを示していた。
 気付けばあれはもう先月のことだ。色々……本当に色々、あった。たった一晩と少しの時間に詰め込まれた6年間は一度に飲み込むにはあまりに重いものだから、忙しさにかまけて何も考えないことにしていた。手付かずに放り出された感情が未だ床に散らかっているのを、ひと月もの間視界に入らないようにして。
 しかしそれも街にとっては些末事でしかないようで、変わったようで変わらない日常が続いている。相変わらず殺し屋との密会は回を重ね、編集者は満足気に原稿を受け取っていった。ルナは作家・園田拙のファンであることをひた隠しにしなくなった以外には表立った変化はないように見える。永田に至っては今回の件の代償として信用を支払っていることは自覚してもらわなければ困るが、百も千も承知の上で変わらない顔をしていそうだから厄介だ。
 そして離れた実家に暮らす両親は、何も知らない。
 鍵を回し玄関の扉を開ける。ただいまもない。おかえりもない。ここは今は亡き弟の──達也の住んでいた家だ。

 ひやりとした空気と明かりのない部屋が出迎える。玄関先に荷物を一度下ろして靴を脱ぎ上がり込む、そんな動作も続けて6年だ。
 6年も経てばもう、とは薄々思っていた。法の上でも7年を過ぎれば死んだことになる。でもなければきっと、話そうと決めたあの場で……いや。もっと前、ルナと顔を合わせた瞬間に後先も考えず掴み掛かって問い詰めていた。実際は感情に振り回されないだけの距離がそこにはあった。それを諦めと呼んでしまえばあまりに遣る瀬ない。
 いつ帰ってきても良いようにと言いながら埃ばかりが待っているこの部屋に何度訪れただろう。もしや「どうしたの兄さん。久しぶり」なんて声が聞けやしないだろうかと。無事でいてくれたのなら、達也が何ひとつ変わらない日常を過ごしていたのなら、どんなにか幸せだったろう。
 今や知ってしまったすべては何もかも信じ難いものばかりだ。毎夜悪夢に魘されていたことも、変わってしまう恐怖が日常を侵していたことも、ひとり離れる決心を固めたことも、何も知らずのうのうと生きて大事な弟ひとり守ることもできない。してやれたことといえばこの部屋を綺麗に保つことくらいで、それももう必要のないことだと知れてしまった。
 とはいえ何もしないというわけにもいかない。原稿から手が離れた今こそ、ここに来なければと足を運んだのだった。

 普段通り軽い掃除をして回れば、この部屋に染み付いた生活の約束事が見えてくる。
 キッチン。まとめて買った調理器具は大きさ順に揃えておくこと。それでいてデザインも大きさもバラバラの食器はよく使うものを手前に置くこと。クマのマグカップは達也専用で、いつもカフェラテを入れて僕に出されていたのは青色のカップ。特定の時にだけ活躍するコーヒーメーカーは僕のために置いているものだと知っている。僕も家ではただのインスタントコーヒーしか淹れないのに。
 リビング兼ダイニング。テレビのリモコンはモニター横が定位置で、エアコンのリモコンなら壁から移動させないこと。一人暮らしには少し贅沢なサイズのソファにはクッションをひとつ。隣でゲームをする達也がいつもこれを抱えていた姿を覚えている。
 本棚や机の上は整頓されているのに、枕元はどうにも賑やかだ。達也はそばに安心するものを置きたがる癖があった。特に枕元。眠れないとき、目が覚めたとき、いちばんに視界に入るものだからと。そこに自分の本を見る。失踪のひと月前に出版されたものだった。

 嗚咽が漏れる。僕は何かしてやれたんだろうか。お前を安心させられる何かを。「兄さんも、兄さんの書く小説も大好きでした。」そんな言葉を真に受けて泣いたっていいんだろうか。疑う気持ちなど無いけれど、それでももっと何かできたんじゃないかと今更どうしようもない事ばかりを考えてしまう。
 テーブル。ソファ。クローゼット。全てがそのままなのに、生活の温度だけがどこにもない。寒い、と思ったのはエアコンを点けなくなって久しいからか。片付いた部屋のフローリングが妙に空白を主張するものだから、堰を切った涙は止まらなくて、重力に従って座り込む。
 大事な弟だった。大事な弟だ。血が繋がっていなくても、人間ではなかったのだとしても、僕もお前が好きだと言ってやりたかった。お前を嫌ったりしないと安心させてやりたかった。
 けれどそれだけが自分にできた精一杯だったことも、それだけで何も変わりはしないことも、わかっていた。

   ✢

 気付けば窓から入り込む光は随分と弱々しくなって、あれから数時間が過ぎたことを知らせてくる。泣き疲れて眠るなんていつぶりだろうか。固い床で痛くなった身体を起こす気にもなれなくて、ただ寝返りを打つように転がっては天井を眺めた。刻々と陰っていく天井の色にカーテンレールの影が輪郭を失っていく。
 眺めるうちに、最も身近な読者たちの、聞いている方が小っ恥ずかしい告白を思い出す。彼らのよく知る作家は世の巨匠に比べればはるかに拙く凡庸で、賞もヒットも度重なる幸運が運んできたに過ぎない。筆を執って以来、少なくとも僕の認識の上ではそれが園田拙という作家だった。だというのにあの恥ずかしい奴らは惚れただの光を見せてくれただの、……ああもう、本当に。

「なんだって言うんだよもう…………

 恥ずかしい。むず痒い。不意打ちに投げつけられた柔らかな塊が胸の奥をくすぐって、いっそ笑い転げてしまいたいような、堪えてしまいたいような。今に飛び出して踊り出す足の運びを靴のせいにしてしまいたいような、それに任せるままずっと踊らされていたいような。落ち着かない胸の内を何と呼ぶのか知らないはずがない。

……そんなの、嬉しいに決まってるだろ」

 本人達には言うつもりはないけど。どうにもならない後悔も悲しみも、その存在で報われるなんて。墓までとは言わないがそのくらいの権利は僕にだってあるはずだ。
 ああそうだ。来年には達也の墓を作ってあげないと。実家もうちもいつだって帰ってきてくれて構わないけれど、僕らはきっとそれに気が付けないから。毎月は無理でも毎年盆には顔を出そう。そこに骨が埋まっていないことも知りながら。

 PiPiPi PiPiPi

 唐突に響いた電子音が静寂を破る。スマホのアラームだ。

「あー……今日はまた、ルナに会う日だったっけ。何か言われなきゃいいけど」

 今晩の予定を思い出して身を起こす。いつものカフェまでは少し距離がある。そろそろ向かわなければ。
 赤くなっているだろう目元と眼鏡のあとを気にしながら荷物を拾い上げ鍵を手に取る。引っ掛けた靴に踵を押し込んで玄関を開ければ、室内よりも冷えた夜が待っていた。

「うわ寒ッ」

 思わず口をついて出た声が闇に溶ける。
 カーテン1枚、ドア1枚越しの世界が、きっと全部隠してくれる。少なくとも待ち合わせまでの道中くらいなら。
 すべてが溶け切ってしまわないように、閉まるドアの隙間から誰も居ない部屋の奥へと声を投げた。

……。また来るよ」

 バタンと音を立ててドアが閉まった。役目を終えた鍵をポケットに滑り込ませて歩き出す。

 ここもじきに引き払うことになるだろう。生活の薄れた部屋からまた少しずつ生活の欠片を持ち出して。ここにあった形を崩して、誰にでも合う形に戻して。そうして砕いた欠片に達也の姿は埋まっていく。
 少しずつ均していくことでしか、その上を歩いていくことはできない。それでも灰に埋もれた骨を拾うように記憶を掻き集めてはまた泣くんだろう。ここに居ないこと、ここに居たこと、そのすべてをいつか消化できるまで。

 短い秋が早くも過ぎ去ろうとしていた。