小話倉庫(深上)
2025-11-30 21:10:18
6708文字
Public 悠アキ/haruwise
 

いくじなし(悠アキ/haruwise)

頂いたタイトルで書きました第六弾。
それは不運か、幸運か、はたまた希望か。みたいな小話。

 朝からどうにも不運が続く、という日に時々遭遇する。アキラにとっては今日がその日だった。
 寝坊してリンの小言を食らう。ドレッシングが服に飛んでシミを作ってしまう。買いたかった限定品は売り切れで、カプセルトイの結果もいまいち。知人と会う約束も向こうの都合で直前にキャンセルとなり、ただ電車賃だけを取られて街をぶらつくだけになる。いつもなら寄ってきてくれる猫も今日はご機嫌斜めなのか、アキラの顔を見るとふいっと目を逸らして行ってしまう。
 些細な「不運」の積み重ねにすぎない。さほど致命的なものでもなく、ただアキラの気分を沈ませるだけ。だが――刺さった棘が残るような違和感があった。まるでこれらが全て、何かの予兆であるかのように。
 考えすぎだ、そんなことはあるはずも無い。信号トラブルで遅延した電車を降り、悪い考えを振り切るように六分街の路地を抜ける。朝まで晴れていたはずの空はどんよりと厚い雲で覆われ、ますます不安を煽ってくる。アキラは芽生えた不安から目を逸らすように足早にビデオ屋まで向かい、扉を開いた。
 店内で誰かと電話をしていたリンが弾かれたように顔を上げて帰宅したアキラを見る。ただ事ではない妹の様子にたじろいでいると、リンは通話先に「ちょっと待って」と短く告げ、こちらに駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、やっと帰ってきた!」
「どうかした……のかい?」
「それが……あ、お兄ちゃん、スマホの電源切れてなかった? 何度掛けても繋がらなくて」
……その電話の相手は?」
 焦るリンが増やそうとする情報を堰き止める一言を放つと、彼女はハッとしたように自分のスマホに視線を落とした。通話をスピーカーモードにしてアキラの前に出すと「帰ってきたよ」とスマホの向こうに居る相手に呼びかける。
『戻ったか、アキラ』
 SOUND ONLYと表示された画面から響いてきた雅の声に、アキラは思わず背筋を伸ばす。忙しい彼女がわざわざ連絡をしてくるのは珍しい。だからこそ事態の緊急性が増したようで、ざわつく胸を押さえながら促す。
「雅さん? 何が……
『悠真が倒れた。今、病院に搬送されているところだ』
 一気に血の気が引く。最悪の事態を想定して咄嗟に言葉が出ないアキラの反応などお構いなしに、雅の静かな声が必要な情報を紡いでいく。
『お前が思い描いている発作ではない。……ホロウの中での立ち回りにミスがあり、頭を打ってな。軽い脳震盪だ。ただ、脱出するのに時間が掛かってしまった。僅かに侵蝕の症状も出ている』
 雅の言葉で安堵しかけた胸のうちを、すぐに引き締める。最悪ではなかった。しかし、決して“良い”わけでもない。
「病院の、場所は」
『スロノス区の総合病院だ』
 確かH.A.N.D.の敷地からさほど離れていない病院だ。車で本部に出向いた時に車窓から見えた、白く大きな箱のような建物を思い出す。隣の助手席に座って「よくあそこにうちの連中が世話になっている」などと零していた悠真の言葉も、連動するように頭に浮かんできた――彼自身もその「連中」の中に含まれていることを、今になって思い知る。
『お前には伝えた方が良いと思ってな。すまなかった、急に』
……いや、ありがとう。教えてくれて良かったよ」
 アキラと悠真の関係は、六課のメンバーには話してある。悠真に何かあった時に雅がアキラを思い浮かべるのも必然だ。
 通話が切れて、アキラは深く息を吐き出した。その場に立ち尽くしたまま動かない兄の姿を見て、リンが怪訝そうに首を傾げる。
「行かないの?」
 リンは当然のように、駐車場に続く裏口に足を向けている。それでもアキラは動けない。
……朝から、不運ばかりで」
「うん?」
「もしかしたら、僕が行けば更に悪いことが続くんじゃないかって……
 ジンクス、というものもある。朝から芽生えていた予兆はこの事態に繋がっていたのでは、とすら思う。そんなオカルトめいた考えから二の足を踏む兄の前に立ったリンは、キリッと眉をつり上げた。両手を伸ばしてアキラの両頬を強く挟み込み、顔を近付ける。
「お兄ちゃんのいくじなし。馬鹿。弱虫」
「うっ……
 ぐいっと頬を指でつねられて、痛みが、その後は熱が滲む。リンはそれ以上兄を責めることはせず、すぐにアキラの側から離れると、18号がカウンターの上に準備してくれていた社用車の鍵を掴み取った。
「私は行くよ。心配だもん。お兄ちゃんは心配じゃないの?」
「心配に決まっているだろう」
「じゃあそれでいいじゃん。ほら、行こ」
 投げられた鍵に慌てて手を伸ばし、キャッチする。運転しろということか、と顔を上げると、リンはにっと明るい笑顔を見せた。
「仕事でヘマした情けない悠真の顔、見に行こうよ」
 笑みを崩さない妹を見て、まったく情けない兄だ、と息を吐く。自分以上にこちらの感情を汲み取ってくれるリンに背中を押されるように、アキラはようやく一歩を踏み出した。


 病院のロビーは混み合っていた。一般患者だけではなく、H.A.N.D.や調査協会の制服を着た団体の姿も見える。「よく世話になっている」という言葉はどうやら真実らしいと横目で確認しながら、見舞い者用の受付に向かう。
 悠真の名前を告げると、受付の女性から疑いの眼差しを向けられた。
「関係者以外は面会禁止ですが」
 抑揚なく吐かれた相手の言葉を聞いてようやく、自分たちが悠真にとってただの他人であるという事実に思い至る。六課の協力者という身分は公表していないし、もちろん彼の家族でもない。
「ちょっと雅さんに連絡を……あ、居た」
 スマホを取り出そうとしたアキラの目が、靴の踵を鳴らし、執行官の制服を揺らして歩いてくる狐のシリオンの姿を捉えた。その存在に、周囲の空気が一変する。彼女はアキラの隣に立つと、目を見開く受付の女性を見据えた。
「彼らは我が星見家の関係者だ。伝えていなくてすまない。通してくれるか」
「ほ、星見様がそう仰るなら、もちろん」
 慌てて居住まいを正してお辞儀をする相手に目礼を一つ返し、雅はアキラ達に視線でついて来いと示す。リンと顔を合わせると、アキラ達は黙ってその後に続いた。
 エレベーターで辿り着いたのは五階だ。一番奥の部屋を指し示されて、リンがいち早くその部屋に向かう。小走りで行って看護師に怒られないかと懸念を抱きながらアキラも同様に進もうとして、雅が動いていないことに気付き振り向いた。
「雅さんは行かないのかい?」
「私が行くと、叱責になるだろうから」
……叱責?」
「うむ……すまないが、ここはお前達に任せたい」
 曖昧に濁して、彼女はエレベーターの下行きのボタンを押した。まだ動いていなかったのだろう、扉はすぐに開き、雅はそこに滑り込むように入って姿を消した。何か含みがあるのだろうか、と階数が下がっていく表示を見つめて首を傾げてから、アキラは妹に追いつくべく足を動かす。
 示された扉の前で、リンは躊躇するように中を覗き込んでいた。何があるのだろうとその脇からアキラも部屋の中に目を凝らす。
 家具はほとんどなく、一つだけベッドが置かれた簡素な個室。そのベッドの傍らには、パイプ椅子に腰掛けた蒼角が居た。彼女は歯を食いしばるように口を真一文字に引き結び、両手を膝の上でぎゅっと握り締めている。何か刺激を与えたら、その目から涙が零れそうなほど悲壮感に溢れていて、確かにこれは躊躇する、とアキラは苦笑した。
 リンの横を素通りして、アキラは部屋の中に入る。ベッドを緩く隠すカーテンをめくって、そこに寝ている人物の姿を目に宿して――ぎゅ、と胸が詰まった。
 穏やかな顔で眠りに就いている悠真の胸がゆっくりと上下しているのを確認して、安堵の息を一つ吐いて。
 それから、アキラが来ても顔を上げようとしない蒼角の側に歩み寄る。
……雅さんが心配していたよ、蒼角」
 雅の言葉が向けられていた先は悠真ではない。そう解釈して、俯く鬼の少女に優しく声を掛ける。アキラの言葉を聞いて、水色の頬がひくりと動いた。怒られる前の子どものように、上目遣いで、けれど決意を込めた眼差しでアキラを射貫く。
「プロキシ……あのね、蒼角、ハルマサに謝らないといけないの」
「どうしてだい?」
「ハルマサ、蒼角を庇って怪我しちゃったから……わたしがいけないんだ。もう全部エーテリアスはぶっ飛ばしたと思って、油断しちゃった」
 ビデオ屋で聞いた通話の内容を思い出す。立ち回りのミス、というのはどうやら彼女の方らしい。再び視線を下に向けてしまった蒼角と目を合わせるべく、アキラは片膝を突いてしゃがみ込み、彼女の顔をじっと見つめる。
「悠真が起きたら、一番に謝りたかったのか」
「うん……ナギねえもボスもね、お医者様に任せればいいっていうんだけど……上手く言えないんだけど、それは嫌だなって、もやもやしちゃうんだ」
……そうだね」
 気持ちは痛いほどわかる。誰かに迷惑をかけたり自分のせいで傷つけてしまったりしたら、まずは謝りたい。罪悪感はじくじくと身の内側を焼き、苦しみはなかなか拭えないものだから。
「でもね、蒼角。君にそんな悲しい顔で謝られても、悠真は困るんじゃないかな。君はどう? 誰かを助けて怪我をした時、その誰かに自分のせいでって泣かれるのは、嫌だろう?」
 蒼角は目を見開いて、アキラの顔を見た。咄嗟に開いた唇をまたきゅっと引き結んで、ぶんぶんと頭を振る。
「そんなの、いやだ」
「それなら、君がするべきなのは謝ることではないよ。笑って悠真に『ありがとう』を言うことだ」
……うん。うん。そうだね、分かった」
 その目に別の決意が浮かんだのを見て、アキラは背後を顧みた。いつの間にか後ろに来ていた妹の名前を呼ぶ。
「リン」
「はいはーい、蒼角を笑顔にする依頼だね。任せて、私の十八番だから!」
 アキラの言いたいことを察してびしっと親指を立てたリンに、調子がいい妹だ、と肩を竦める。リンは昏々と眠る悠真を一瞥して僅かに微笑を浮かべると、蒼角の手を引いて病室から出て行った。
 自分の仕事は、間違った道に行こうとした少女の行き先を正しく定めること。そしてリンは、その行き先に向かうために必要な物を調達してくれるだろう。二人で一人のプロキシは、こんなところでも健在だ。
 閉ざされた扉から視線を外すと、アキラは今まで蒼角が座っていたパイプ椅子に腰掛けた。すぐそこに、悠真の顔がある。その顔には一切の傷痕がなく、怪我をしたのは頭だけのようだ。六課の誰かがやってくれたのだろう、彼のトレードマークとも言える黄色いハチマキとチョーカーは、綺麗に畳まれて棚の上に置かれている。
 眠る悠真を見るのは初めてではない。それこそ、幾度となく共に朝を迎えたのだ。なかなかベッドを抜け出せない自分を起こすのは彼の役割だが、時々早く目が覚めた時は隣で眠る彼の横顔に安堵を覚えていた。だが、それはあくまでも普段の悠真の話だ。
 病室で眠る彼、というのはどうしても脳裏を過るものがあり、落ち着かない。
 蒼角に偉そうなことを言っておいてこの体たらく、と苦笑する。子供に説く側の大人が、実際には同等の未熟さを持って接していることなどよくある話だが。
 個室の静寂に染みるように、明るい笑い声、器材の金属が触れ合う音、重い引き戸が開く音、忙しない足音――見知らぬ誰かが発する音が響いて、アキラの心にさざ波を立てる。
 静かな寝息だけしか発しない彼に、少しだけ苛立ちと、焦燥を覚える。
 眠り姫という、幼い頃に絵本で読んだ物語を思い出す。王子が口付けを落とすと、眠り続けていた姫の目がゆっくりと開かれるシーン。小さなリンが一時期その話を気に入って、何度も読まされた覚えがある。
 自分は王子ではないし、彼も姫ではない。けれど。
 テレビだったか、いつか読んだ雑誌の文章だったか。幸運と不運は平等に振り分けられるのだと、誰かが言っていた。ジンクス、という言葉を思い浮かべる。本来は「縁起の悪いもの」を示すそれ。だが、“縁起を担ぐ”という言葉もある。不運しか生まなかった自分の今日は、たった一つの幸運に向けての下準備だったのではないか、という淡い期待。
 立ち上がり、彼の顔をまっすぐ見下ろす。腰を屈めて、顔を近付ける。睫毛が長い、といつも思う言葉を胸中に流しながら、さらに近付けて。
 触れるまで、あと一ミリ。
 ――馬鹿馬鹿しい、とふと正気に返る。自嘲するようにか細い息を吐いて、離れようとしたところで。
「いくじなし」
 目の前の唇が震えて、はっとすると同時に頭を押さえられ、ぐん、と引かれた。
 勢い余ってカチッと歯が当たる音がする。乾いた唇の感触よりも、滲んだ鉄の味に驚いて、アキラはがばりと身を起こした。脳が理解に追いつこうとフル回転する前で、してやったりと言わんばかりの悠真のにやにやと細められた目が見える。むす、と不機嫌でコーティングした顔を向けながら、アキラはなるべく平常心を保つように目が覚めている彼に言葉を紡ぐ。
「起きていたのか。いつから?」
「あんたが蒼角ちゃんに説教垂れてたところから」
「狸寝入りかい。やるね」
「そしたらあんたが可愛いことしてくれそうだったからさ〜。ついつい、様子見しちゃった」
 ヘラヘラと笑いながら起きようとした彼は、どこかが痛んだのか、びくっと体を震わせた。頭を打っていたことを思い出し、アキラは思わず手を伸ばす。
 その手を素早く掴むと、悠真はゆっくりと自分の頬に添えた。冷たい肌にアキラの手のひらから温もりが伝って、境界線が曖昧にぼける。
「ありがと、アキラくん。蒼角ちゃんを慰めてくれて」
……いくじなし、は君もじゃないか」
「あはは、そう。申し訳なさそうにしてる蒼角ちゃん、見てられなくて」
「じゃあ、お互い様だ」
「そうだね、ふふ」
 アキラの手を掴む悠真の力が強くなる。存在が伝わる。命がそこに在る。
 ああ――何という、幸運な今日の締めくくりだろう。
「悠真。僕も、気が気じゃなかったよ」
「あれ、そうなの?」
「これはきっと、これから先も何度もあることだと、分かっていても」
 病院のベッドで静かに眠る彼の姿。
 彼とこの先も共に在ることを決めた以上、いずれ来る問題だと――分かっていても。
「僕はきっと、最後までいくじなしのままだ」
 こんな無機質な場所ではなく、明るい空の下で彼と笑い合いたい。ずっと、これからも。現実ではなく願いを見据えてしまう自分は、臆病者のまま。そしてそんな自分を、彼は静かに肯定する。
「いいよ。あんたがそうやってちゃんと向き合って希望を見出そうとしてくれるから、僕も全部伝えたいって思うんだよ」
「伝える……
「そう。だから……来てくれてありがとう、アキラくん」
 そっと額が重なって、息遣いが混ざる。至近距離で笑い合って静かに離れて、穏やかな心地になるアキラの前で、悠真はここまでの余韻をぶち壊すかのように眉間に皺を寄せた。
……二人、戻ってきたかな」
 言われて耳を澄ますと、二つの軽い足音がこの病室に近付いてくるのが聞こえた。再びベッドに視線を戻すと、悠真はいそいそとシーツにくるまろうとしている。
「君は向き合わないのかな、今一番向き合うべき相手と」
「えーと、なんか突然頭痛がぶり返してきてさぁ、こんな姿見たら蒼角ちゃん泣いちゃうでしょ?」
「僕には偉そうなことを言っておいて……やっぱり君の方が僕よりも意気地がないな」
「それとこれとは話が別だって! ……あっ」
 悠真が叫ぶと同時に扉が開かれて、目を丸くした蒼角が「ハルマサ起きた!?」と飛び込んできた。無邪気に喜ぶ蒼角の後ろで、リンは得意げに親指を立てて胸を張っている。彼女の両腕にあるのは、大量のお菓子とゴミが入ったビニール袋だ。
 どうやら妹は、蒼角の胃袋を満足させる形で任務を遂行したようだ。大丈夫か、うちのエンゲル係数……まあ、うちのH.D.Dには大食らいのAIが棲んでいるので今更だろう。電気代を食費に換算して良ければ、の話ではあるが。
 悲しんだり怒ったり笑ったりとめまぐるしい蒼角に苦笑いしながら応じている悠真に、思わず笑みを零す。悠真が起きたことと、蒼角の問題が解決の兆しを見せたことを彼らの上司に報告するべく、アキラは部屋の隅で静かにスマホを開いた。