らん
2025-11-30 12:02:02
8892文字
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さくこと

26/02新刊進捗 ※モブ男とことはが付き合う

 好きになることを、『罪悪』と例える人間がいるらしい。
 普段ならすぐに寝てしまう現代文の授業は、ここ最近の桜にとって興味深い時間に変わっていた。
 古典や漢文はいまだに耐えきれず目蓋が睡魔を許容さるが、現代文は桜でも分かりやすい言葉が並ぶので頭に残りやすい。桜は黒板に書かれていく国語教師の解説を板書しないまま、ただぼんやりと目で追っていく。
「先生は『恋は罪悪ですよ』と私に言ったが、そのあとに『神聖なもの』だとも言及する。こころは主人公である私が先生との出会いから遺書を受け取るまでの話だ。当時、先生が私に『恋は罪悪ですよ』と説いた心理はなんだろうか」
 風鈴の生徒にそれを正当出来る奇特な者はいくらか存在しているが、偏差値最底辺のこの高校で答えを求めるのも間違っているだろう。教師はとうの昔からそれを理解しているため、数人耳を傾けている人間が居るだけで満足そうだった。
 桜は教科書に書かれた文字を眺め続け、それから教師の問いかけに対して思案してみる。
(恋が罪で、悪いことなのは、相手の意思を無視して、自分の感情を押し付けるから)
 少なくとも、桜にはそう思えた。そして、きっと、この物語のキーパーソンである先生も、似たような考えなのだろうと何故か思う。
 出自や気前、そういったところに自分と重ねられるようなものなどこの作品に登場する先生には何も無いが、桜は先生の思想といえばいいのか、考えにはどことなくシンパシーを感じていた。
 妻が好きでたまらないのに、ずっとジレンマがある。
 形振り構っていられないほど彼女が好きで、手段は選ばず妻にして、ひとを精神的に傷つけて、その生を間接的に奪ってしまった痛みを抱えて生きている先生の事が、桜はとてもではないが嫌いになれなかった。
 ここまで頑張れたのなら、ことはも自分に微笑んでくれただろうか。
 どこまで形振り構わなければ、ことはは自分を認めて愛してくれただろうか。
 いつまで願えば、この恋は終わらせられるんだろう。
 物思いに耽っていると、授業はそれなりに進んでいた。教師は『恋は罪悪』の意図をそろそろ黒板から消しそうなくらい授業を進めており、桜は板書出来ずともどうにかチョークの文字だけを追っていく。
 国語教師って、どうして字が綺麗なんだろう。あれぐらい書けたなら、ことはは偉いと褒めてくれただろうか。
 そんなたらればをまた考えている自分に辟易とし、桜は溜息をついた。

 ことはに彼氏が出来たと知ったのは、二年生になり、ゴールデンウィークを迎える直前だった。
 明確に彼女を好きだと自覚してから数ヶ月経ち、その想いを自身の内側で大事に育てていた桜にはまさに青天の霹靂であった。
 気づいたきっかけはなんてことない、他人からの伝聞だ。本人からでも無かった。
 その日のことは、どうしてか忘れられない。あまりにも陽射しが眩しくて、ことはの顔が霞んで見えた、晴天の日。
 それは見回り当番が無く、五限までで終わった日だった。おやつ時の頃合い、桜は楡井、蘇枋と共に帰路を歩み、どうせならとポトスへの寄り道を選んだのだ。
 何も変わらない日常だったと思う。三年は卒業し、自分達が進級し、後輩が入学していたけれど、ちゃんと地続きの毎日だと桜には認識出来ていた。
 それだから、ポトスに行くのも当たり前でしかなかった。
 進級しても朝はポトスに行く比率が圧倒的に高く、それは周知の事実でもある。放課後にポトスへ集うのも多聞衆はそこそこ多い。それ故に、楡井と蘇枋も桜の足が向く先を特に聞かずともポトスだろうと見当がついていた。
「クリームソーダ飲みたいんすよねー」
「先週も飲んでたろ」
「それを言うなら桜君もオムライスばっかりだよ」
 軽口を叩き合いながらも通い慣れた商店街の道を進むと、ちょうどポトスの軒先には桜の想い人の姿がある。
 差し込む陽光がどこかの屋根に反射しきれず、ちょうどことはの顔あたりを照らしていた。うっすらとした輪郭でも彼女だと認識出来るのは、見慣れても見飽きないほどその姿を写してきたからだった。
 ぱあ、と少しでも顔を輝かせてしまうのは許してほしい。左隣の蘇枋が、桜の心を知ってか知らずか生温い笑みを浮かべている事には気づいていた。
 桜は何度かもごもごと唇を動かすと、今更ながらにつとめて無表情を装う。
 想い人――ことはの向かいで話している相手は、桜も何度か顔を見たことがあった。いつも私服なので、きっと高校生ではないだろう。というのも、会うのは夜の時間帯ばかりだったからだ。
 大学生か、社会人か、風貌だけで判断するなら前者に見える。同い年だというのに大人っぽいことはは、その男と向き合って話しているとまるで本当に大人みたいだった。
 ことはの交友関係などあまり聞いた事が無いけれど、ポトスの常連なのだろうと桜は勝手に結論付けていた。
 他愛ない、大それたことでもない、いつもの日常のワンシーンだ。モーニングの時間にもよく常連の爺さん婆さんと話している。だから、一度だってふたりの間にある何かを気にした事が無かった。
 視界の端に誰かしら映り込んだのか、ことはは会話を中断すると桜達にお決まりの挨拶をかけてくる。
「いらっしゃい。お好きな席どうぞ」
 その時、桜ははじめてことはと向き合う男の顔をちゃんと見た。
 過去に数度顔を見た気がしていただけで、実際のところ印象はとても薄いままだったが、よくよく見ると柔和そうな雰囲気を醸し出す男だった。目尻は優しく下がり、人の善さが伺える。以前よりマシとはいえ、いまだに過去の風説も消えていないこの町で見かけるにはいささか場違いなほど、ケンカや不良とは縁遠そうだ。
 相手が先に会釈をしてきたので、三人も同じく会釈を返すと、ふたりの会話を邪魔しないようにそそくさとポトス店内へと足を運ぶ。
 チリリン、と聞きなれたドアベルの音が鳴った。誰も居ないだろうと桜が佇まいを崩した瞬間、いの一番に先客に気づいたのは楡井だった。
「椿さん!」
 朝なら桜の定位置になっているカウンターに座っていた椿が、溌溂とした声で応えるように三人の名を呼ぶ。椿野は相変わらずレディースものの春服に身を包んでおり、よく手入れされたロングヘアが当人の動きでサラサラと揺れた。手元のテーブルにはコーヒーカップがあり、お茶をしに来ていたのだと見当がつく。
「アンタたち、元気に先輩やってる?」
 梅宮をはじめとした三年生が卒業してから会うのははじめてだ。相変わらずな椿野の変わった所といえば、放課後なのに風鈴の制服を着ていないくらいのもので、それもそのはず、卒業したといえどまだ二ヶ月程度である。
 こちらも先輩としての自覚がようやく出てきた頃だと話に華を咲かせていても、なかなかことはが戻ってくる様子はない。どんな時もポトスの店員という立場を大事にしていることはにしては珍しいと感じ、桜はいまだに軒先で話しているふたりの姿をドアのガラス越しに確認した。
 そんな桜の様子に気がついたのか、椿野はことはの代わりに事情を説明してくれる。
「ごめんなさいねぇ、梅が居ない隙に話してるみたいで。梅もこれから来るから」
「待ち合わせだったんですね!」
 楡井の声が一段階明るくなった。梅宮とは、彼が卒業してからあまり会えていないのだ。高校という一種の箱庭から飛び出していった先輩とは、生活時間も変わる。時たま街で出会いはするものの、それもそう多くない機会だった。
 今目の前に居る椿野だって、ケイセイ街のバイト先にでも顔を出さないと会いにくいのが現状である。
 椿野は片思い続行中の梅宮を思い出したのか、そっと髪を手櫛で梳きながら先を続けた。
「そーそー。そしたら、ちょうどことはの彼氏も来てたのよ。まだ梅に彼氏出来たって言ってないんですって! だから、今のうちにね」
 前から恋バナが好きだった椿野らしく、弾んだ声で落とされた事実に、突如桜の頭は金槌か何かで叩かれたようだった。
 かれし。突拍子も無いワードが椿野から飛び出し、桜は何も考えずそれを復唱する。すると、椿野が桜の様子に気づいたのか苦々しい顔を見せた。
「もしかして、ことはってばアンタたちにも話してないの?! ごめん、聞かなかった事にして……そんで梅にもことはから話すまでは内緒にしといて……
 慌てて手を合わせてくる椿野を前にしているはずなのに、焦点がどんどん合わなくなり、像を上手く結ばない。足元が覚束なくなる。幻覚だ。分かっているのに、床をちゃんと踏みしめられているのか、今の桜には唐突に分からなくなってしまった。
 彼氏、と、確かに椿野は言った。その名称が指し示す先を誤魔化す事は出来ない。たった今会釈をした、あの柔和そうな男だろう。ことはを前に優しく笑う、自分よりも確実に年上だろう人。
 桜に恋愛センサーがある事は、この場にいる全員が知っている。そんな桜の顔が赤く染まる事はついぞなく、それを目の前で眺めていた椿野は首を傾げた。
「恋愛センサー、だいぶ落ち着いたのね?」
……、そう、かもな。……いや、それよりもビックリしてるっつーか……
 いつのまにかカラカラに渇いていた喉が絞り出せたのはそこまでだった。驚いているのは本当だ。けれど、隠したい事も少しばかりあった。
 桜は、あの男がことはに気がある事になんとなく気づいていた。
 はじめてポトス内で彼を見た時、桜の恋愛センサーは確かに反応している。それは新年を迎え、雪が降りそうなほど寒かった冬の日。三年生の一部は大学受験本番だった気がする。二月の上旬頃だったろうか。
 その日、鼻や手先を真っ赤にさせながら見回りを終え、桜はいつもより少し遅い夕食をポトスで食べようとひとりで訪れていた。
 会話自体は聞こえなかったけれど、ことはと相対して話す男の表情は確かに物語っていた。ことはが好きなんだ、と、頬にマーカーで分かりやすく書いてありそうなくらいには分かりやすい好意だった。それだから、桜の恋愛センサーも露骨に反応した。
(オレもあんな顔してんのか?)
 恋愛センサーが無くても分かるんじゃないか。そのくらいに男の好意は露骨に見えたが、桜の中にもことはへの好意が着実と育っていたので、それ故の気づきとも思えた。
 同士ではない。ライバルにすらならない。あんな直向きに、桜はことはへの好意を表現出来ない。
 恥ずかしいから。まだ、受け止めきれていないから。腑に落ちただけで、自覚しただけ。
 自分と同じ感情を持っているのに、自分とは全く違う感情表出をしている男。それだから、喋った事はなくとも、桜の中で朧気にも記憶に残っていた常連のひとりだった。
 あの感情を、ことはは受け入れたということなのだろう。更に言葉を重ねるならば、同じ感情を返しても良いと思ったということだ。
(なんで、ことはは誰のものにもならないと思ってたんだろう)
 梅宮という絶対的存在が居るからというのも一因な気がしている。梅宮が妹分であることはを溺愛している事は、風鈴生なら知らない人間は居ない。それが確実に風鈴生の中でことはを一目置く人間にしていたのも確かだ。
 誰も手を出そうとはしなかった。桜自身も、梅宮がいるからと行動を起こす気など一匙も湧かなかったくらいだった。
 今思えば、全てが言い訳だと悟ってしまった。
 自分の心を守る過去の言い訳で、自分の心は今、傷ついている。
 心臓の音が分からない。鳴っているだろうか。息が出来ているか分からない。肺は動いているだろうか。上手く取り繕えているか分からない。
 隠すのは、とても苦手だ。
 身体の中で燻る痛みは、まこち町にはじめて来た日、ナイフで脛あたりを切られた時の痛みに似ている。
 これまで思い出す事なんてほとんど無かったのに、桜はことはと出会った最初を回想した。
 ケンカに武器を持ち出したダセー奴にやられた傷だ。あの痛みを和らげてくれたのは、ことはが巻いてくれた包帯だったのに。ひとりじゃないって、示してくれたのに。
 今は縋るものさえない。あの日、はじめて触れた対等な心の温もりは自分だけのものだけれど、橘ことはという人間は、桜遥のものじゃない。
「ごめん、ふたりとも。オレ、このあと用事あるの忘れてた」
 淀みそうな空気を切り裂くような戯けた声は、いつもホラばかり吹く男の口から聞こえてきた。
 桜は思わず蘇枋を見やると、相手はいつもと変わらないにこやかな笑みを浮かべている。
「また明日、学校で話そう」
……お前が帰んなら、オレも今日は帰るか。梅宮に上手く隠せる気もしねーし」
「そうっすね。オレもことはさんに質問攻めしそうなので、今日は心を落ち着かせます」
 結局席に着くことも無く踵を返す桜達に、椿野は残念だと肩を竦ませた。
「久しぶりにアンタたちともお喋り出来ると思ったのに! 梅には会わなくていいの?」
「お前らに比べたら会う機会多いし……
 梅宮は東風商店街に顔を出す機会が他の先輩よりもなんだかんだ多い。学校で会う事は無いが、見回りをしている最中に会ったという声は時たま聞くので、遠方の学校や就職先になった先輩に比べると余程身近な存在だった。
 椿野もすぐに思い至ったのか、それもそうかと納得したようだ。
「またアタシのバイト先にも遊びにきなさいな。しずか達と歓迎するわ」
「ぜひ!」
 卒業しても縁は続くことを実感しながら今しがた聴いたばかりのドアベルを鳴らすと、ちょうど振り向いたことはと目が合う。
「もう帰るの?!」
「オレが予定あるの忘れてたんだ」
 桜が口を開くよりも先に蘇枋が自ら状況を説明し、ことはは気後れしたのか素直に頭を下げた。
「もてなせなくて悪かったわ、また来てね」
 いつもなら返せるはずの決まり文句に、ついぞ桜は最後まで一言も発せずその場を後にする。一番最初のT字路に差し掛かったあたりで名残惜しくポトスの方を見やれば、いつのまにかことはと男は軒先から消えていた。
 商店街内の大通りに出ると、ちらほらと見回り中の連中とも出会う。すれ違いざまに挨拶しながらも歩き続け、ようやく楡井が蘇枋に対し口を尖らせた。
「蘇枋さん、予定があるってのは噓ですね?」
「ええ? まさかー」
「蘇枋さんが忘れるなんてありえないです」
「買いかぶりすぎだよ。まあ、今回は確かに嘘だけど」 「はぁ?」
 楡井が口を出すまで蘇枋にも珍しいことがあるものだと納得していた桜はそこでようやく声が出る。蘇枋はずっと貼り付けている笑みを崩すことなく、さらりと言ってのけた。
「ちょっとムカついちゃって」
 あの短い会話の中で、苛立つ要素が一体どこにあったのだろう。桜だけでなく楡井も真意が汲み取れなかったのか、ふたりでただ蘇枋を見つめるも、どうやら本人は理由を話す気はなさそうだ。
「お前も、あいつが好きだったのか?」
 桜はふと思いついたものを素直に問うてみれば、相対する蘇枋は変わらない笑みのまま声を上げた。
「あはは! オレはことはさんのこと、恋愛対象として好きになったことはないよ。君の恋愛センサーも反応したことないだろ?」
 その言葉にどこか安心した自分がいる。
 桜は無意識にこれ以上自分が傷つかないよう保険をかけたのだと気付いてしまい、そっと蘇枋から目を逸らした。そんな桜の様子に気づかなかった楡井はなおも首を傾げていたが、蘇枋はハリボテの笑みをようやく引っ込める。
 赤みがかった瞳の向かう先は質問主である桜だ。目を逸らしたままの桜には、その目に映る自分がどんな姿なのか想像も出来なかった。
「桜君こそ、ことはさんが好きなんだと思ってた」
 歩みは止めないまま、「思う」などと口にすれど、ほぼ断定の形式で蘇枋が桜を伺う。地面に障害物はないのに、途端にスローペースになった歩みは最早肯定と変わりない。
 まず歩みを止めたのは、桜ではなく楡井だった。
「さくらさん」
……すげーよな、あの女に告白するやつがいるなんて」
「桜さん」
「あいつの彼氏、優しそうなやつだったな。ケンカとは無縁そうで」
「桜さん!」
 楡井より数歩手前で歩みを止める。蘇枋の隻眼は優しい。段々とオレンジに染まり掛けた陽を浴びているせいか、いつもより柔く見えた。
 声に出せたら、この気持ちにも決着がつくかもしれない。本当は、ずっと誰かに吐き出したかったのかもしれない。
 いちばん伝えたかった相手には、届けられないけれど。
 振り返った先、西日に当たった楡井の顔がよく見えた。
「あいつが笑ってると、うれしいんだ」
 それだけだ。
 自分がどんな表情をしていたかなんて、桜には分からない。けれど、眼前の楡井の瞳に薄い透明な膜が張り、つ、と一筋の雫が伝っていく様は、一瞬遅れて桜に衝撃を与えた。
「な、っん、どうした?!」
「っ、……っあ、れ、すみませ、……ッ」
 必死に目を擦っているが、それで止まるはずも無い勢いだ。桜はなんだか呆けてしまって、蘇枋にも言った事を繰り返す。
「お前、ことはが好きだったのか」
「そ、それは、……っそれは、こっちの、」
 そのあとの言葉はわなわなと震えた唇からこぼれることは無く、ただ楡井が悔しそうに泣き続けた。どうにか堪らえようとしているのはよく分かるが、堪らえようとするが故に尚更止まらなくなっていくようだった。
「な、んで、……ッなんで、桜さんは……っ」
「は?」
「オレだって、ことはさんが好きですよ!」
 立ち止まっていた楡井の最初の一歩は大きかった。まるで感情と呼応しているようだ。たったの二歩で桜の目の前に立ち、肩を揺さぶってくる楡井の告白は、桜の打ち明けたものより潔かった。
「でも、それは桜さんと同じ好きじゃない! っ、……ッオレは、ことはさんに恋人が出来ても、良かったですねって思うだけだ! お、っオレは、それだけで済むくらいの好き、なんです。友達みたいなひとで、それ以上でも、以下でもなくて、……っで、でも、桜さんは……ッ」
 笑っていた。やるせなく、笑っていた。悔しさと、後ろめたさと、そんな感情に似たなにかを沢山煮詰めて無理矢理飲み込んだような、諦めた笑みだった。
 楡井がはじめて見た桜の笑顔と似ているようで、どこか似つかない、とても寂しい表情だった。
 それだけで、楡井は悟ってしまったのだ。
 桜遥は、橘ことはが心底好きなのだと理解してしまった。恋人が出来たと知っても、すぐに失せることなど出来ないほどの恋心を持て余しているのだと、理解せざるを得なかった。
 こんなにも苦しい思いが、「誰かと付き合った」、そんなたったの一言で終わる。あまりにも呆気ない恋心。風に吹かれて飛んでしまうくらい、目に見えないそれ。
 笑ってると嬉しいんだと言えるだけの感情に優劣などない。そこにあるのは、誰が「先に伝えたか」という事実だけだ。
 桜は、伝えなかったのだ。
 なんで、なんて、楡井には言えない。自分と桜の間で起こる事ではないからだ。これは桜とことはの間でしか清算できない。そして、その清算の方法は、桜が答えを出すしかない。
 泣きじゃくる楡井の肩を叩いたのは、桜より前を歩いていたはずの蘇枋だった。わざわざ少し戻ってきたのか、嗚咽を漏らす楡井の顔を隠してやれるようにハンカチを差し出している。
「独り占めしたいって思った事が、桜君には無かったんだね」
……誰を」
「ことはさんに決まってるじゃないか。……結構前から気づいてたんだ。多分、君が自覚したくらいの頃」
 一年の冬。はじめて三人で雪を見たあの日。まさしく桜が自覚した日の話を持ち出され、桜は身体の内側がなんだかむず痒くなる。やはり、自分に何かを隠すというのは難しいらしい。
「君は見てるだけで満足そうだった。隣に並ぶとか、どうにかしたいって欲がずっと無くて……そうやって、君は君の心を無意識に蔑ろにする所があるけど、ことはさんへの感情は大事にしてるんだって事も分かったから、ずっと聞かなかったんだよ」
 独り占めしたいなんて、露ほども考えた記憶が桜には無い。桜が好きになったのは、自分の事をどう思っているのか分からないことはだ。自分を嫌っていない事は分かっていたし、気心の知れた仲でもあった。けれど、ことはからは桜に対する恋愛感情など微塵も感じた事が無かった。
 そんなことはを好きになったから、振り向いてほしいとも思わなかったし、独占欲さえも無かった。
 ただ在るが儘、大事な居場所で笑うことはを見ていたかった。
 それでも、彼氏が出来たのだと知ってこんなにも苦しいのだから、自分が思う以上に心の何処かでは彼女が欲しいと思っていたのかもしれない。
 笑っていてほしい。笑顔が見れるだけで嬉しい。本心のはずなのに、その笑顔が誰かのものになると思うと、寂しさよりも悔しさが勝つ。
「こういう時、ケンカに負けたみてぇな気持ちになるんだな」
 知らなかった。知ってしまった。不戦敗だ。あの男の勇気に負けた。それだけなのに、これほどの虚しさがある。
「ことはさんのこと、好きなんですね」
 ようやく涙を収めた楡井の確認に、桜はただ小さく頷いた。
……やっぱり、オレはムカつくけどね」
 どこか遠くを眺める蘇枋の淀んだ感情の先が何処にあるかは、桜にも、楡井でさえも分からなかった。
 きっとあの男に向いているのだろう。なんだかんだ蘇枋は身内に甘く、情に厚い。桜はその依怙贔屓的な優しさにほんの少しだけ救われた気がした。
 自分の代わりに泣いてくれる友がいる。自分の心を慮って怒ってくれる友がいる。足りないものは、補える。
 桜が散り、新緑が顔を覗かせる時節の夕日は、思ったより早く夜を連れてきた。