sisimi 
2025-11-29 21:13:07
3443文字
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動くな応えるな

 
父+水木
父の言いつけを守り、父が戻るまで一人で待つ水木の話

 

「ここで待っておれ」
 心配に下がった眉と後ろ髪を引かれる顔をした男が恐ろしい声色で言う。
「一歩たりとも動くなよ」
 目前に立つ相手の顔をまばたき無くじっと見つめながら男が指差すのは足下に引かれた線。
「知る顔が現れ知る声に呼び掛けられたとて、一言も応えるでないぞ」
 そうくどく言い聞かせる白髪の男、ゲゲ郎は傍らに立つ友人を心配してなかなか側を離れようとしなかった。しかしふたりが此処に来た理由も原因も、それらを取り除いて家に帰ろうにも、男がこの先へ行って問題を解決してこなければならないのであった。
 その男の友人である水木は人の身なればこの先へは共に進めぬため、ゲゲ郎に託して暫し此処で一人待つ必要がある。
 一人置いて行く水木を心配し、いつまでも言葉を重ね続ける男に「俺を信じろ、いいから早く行ってさっさと戻ってこい」と水木はその尻を蹴り上げ送り出す。ぐっと唇を引き結んで「ワシの言うたことを守れよ」と念を押してようやく男は背を向け走り出した。
 そうして一人残された水木は煙草に火を付ける。

 此処は境目さかいめ、人の身で来れるきわの地。人の認識可能な世界から二つほどずれた所にある何者のものでも無い場所。此処に棲むモノはおらず、皆が通り過ぎるだけの場所。
 人の身で入り込めぬ場所ではないが辿り着けもしない、迷い込むこともほぼ無い場所。現在、水木が立っているのはそのような所である。
 容易に立ち入れぬのは人間や動物達だけでそれらとはまた違うモノ達には近道や使いやすい通り路とされている。もっともこの様な深い所をよく通るようなモノ達は人や動物達とも接触を拒んでいるか此方側だけで生きている様なモノ達か、何か外に出られない様な理由のあるモノ達である。
 では人の身でそのような場所に居れば一体どうなるか。
 人間を喰うモノは此方側には存外多く、喰わなくても遊べる玩具であるからして、もしも此処に放り込まれた憐れな人間がいたならばその末路は想像するに難くない。
 それらからすれば水木は獲物で肉で無防備な魂で、暇潰しに弄べる玩具で都合の良い餌で栄養たっぷりのご馳走である。
 そして、艶のある深い黒髪に整った顔、均整の取れた身体とその左身に刻まれた傷痕の記憶や魂にいたるまで水木の持つ全ては、人を喰うようなモノ達にとって極上であった。

 男が離れるのを待っていたのか、その姿が見えなくなった途端に水木の周囲がうごめきだす。地面から何かの影が膨らみ何も無いくうが裂けた合間からは何かが這い出てくる。いつから其処にいたのかにじむように姿を現すモノたちが無数に現れ始めた。
 煙のような、或いは湯気のように歪み揺れるそれらの輪郭は次第に形を成しその存在を顕にしていく。そうして水木がそちらを認識したことで無防備な獲物へ群がるように一斉に迫った。
 魑魅魍魎が水木に襲いかかろうとして透明の壁に張り付く。ガリガリと爪を立てバンバンと見えない壁を叩く。知り合いの顔を貼り付けた人で無いモノ達が口を開いて水木を呼ぶ。そこから出ておいでと誘うその声音までもが記憶にあるものと全く同じであった。
 ゲゲ郎の張った結界が無かったならば、自分はこの隙間も無い程に塊となって押し寄せて来たあやかしどもに飲み込まれていたのだろう、水木はひやりと背筋を冷やした。しかし言われた通りに悲鳴一つ零さず、微動だにせず、『此処に』と男に示された位置から離れなかった。
 ぐちゃぐちゃと絡まり塊のようになって蠢く目の前のそれらを黙って見つめながら、ゆっくりと煙を吐く。
 友が施していったものだ、そう易々と壊されはしない。目の前のそれが軋む音を耳にしながら何もせずただ待つのに不安が無いと言えば嘘になるが、今の水木にできるのは友を信じて待つことだけであった。

 どのくらいそうして待っていただろうか。煙草二本分程の時間の後、三本目に火を付けた時である。
 突如としてぴたりと動きの止まった壁、もとい妖どもがにわかにざわついたかと思うと逃げるように左右二手ふたてに分かれた。
 そうして妖どもでできた両の壁の奥、そのずっと向こうから真っ直ぐに歩いて来る者がいる。
 白い髪をして縹色の着流しを纏う男だ。
 カランコロンと下駄を鳴らして真っ直ぐとこちらへ向かって来る。ゆらりと存在が揺らめいて霞と消えてしまいそうな、それでいて強烈なまでの存在感も放っている。
 それが姿を現した途端、ざぁと波が引くように妖どもが散り散りになって離れてゆく。空間の狭間に逃げ込むモノや地面に溶けるように消えるモノ、皆が逃げ消えると辺りはしんと静まり返った。見渡す限り何も居らず、水木と近付いて来る男だけになる。
 結界の向こう、すぐ近くまでゆったりと歩み寄って来た男がその顔を上げた。
 細く大きな体躯に老人のような白い髪。大きな目玉に小さな赤い瞳を光らせ、唇に緩やかな弧を描く。男は開いた口から白く尖った歯を覗かせる。
「戻ったぞ」
 男が結界に手を翳す。男と水木の間を区切っていた透明の見えぬ隔たりがぱぁんと弾け消えるのが分かった。
「よう耐えたな、さあ帰ろう」
 水木へ手を差し出し、男が言う。
 ひたと此方を見つめる大きな目も赤い瞳も、呼び掛ける声音も長身の立ち姿まで全てが馴染んだ男の持つそれそのままに感じる。
 それでも水木は動かなかった。
 黙って差し出された手をちらと見ると男の顔をじっと見据え、咥えた煙草を深く吸い込む。そうして肺に溜めた煙を男へ向かってふうと吹き掛けた。
 煙はふわりと男の顔を一瞬覆い、すぐに散り消えた。後に見える顔は水木のよく知る親友の顔だ。
「おい、何をする」
 少し顔をしかめて此方を見る男の姿には何も異常は無いようでゲゲ郎そのものであった。
「はようくぞ」
 水木は一歩も動かなかった。
「なんじゃ、どうした」
 言葉を発することなく、煙草を吸い続け動こうとしない水木を訝しげに見た男がその手を伸ばす。
 触れた、いや触れようとした瞬間その手は燃え上がった。生じた青い火は舐めるように男の全身に広がりその体を覆う。
 よろめきうずくまった男が苦痛の呻き声を上げるのを水木は黙って見ていた。至近距離で轟々と燃えていたが熱さを感じず、幸いにも火から逃れる必要は無かった。
「お、オお……ォノれ、ェ……
 形を崩し灰となりゆくそれの向こうからゲゲ郎が走り戻ってきた。
 ゲゲ郎は水木の周囲に張った結界が無くなったことに気付き、急ぎ戻って来たのだと言いながら地に散らばり塵と消えたそれを一瞥する。
「ああ、やはりな。何かされたか?」
「いや何も。問題ない」
 水木はそう答えると短くなった煙草を指で弾き捨てる。
 ゲゲ郎は水木の顔色を窺った。何か異変は無いか、違和感は無いかと。もし隠している事があればそれも全て、余すところ無く知ろうとするような深く探るような視線を水木へ寄越す。
「して、水木や。ワシの顔をしておったモノもいたようじゃが……言ったとおりよく耐えたのう。騙されなんだか、偉いぞ」
「ああ、まあ」
 いつものきっぱりとした物言いでない水木の応答に男が首を傾げる。その体も中身にも何も手を出された様子は無く、無事であったかと思ったがまさか違うのだろうかと気になった男が話を続ける。
「しかし良く似ておったことじゃろう、何故分かった」
「何となくだ何となく」
 水木は曖昧に返したが見つめる男の視線の強さにされ、言葉を探しつつ答える。
「うーん……俺を見る目がな、いつものじゃなかった」
……? そうか」
 分かったような分からないような顔をして聞く男の次の言葉を待たずして水木はさっさと帰るぞと歩き出す。話は終わりだと言わんばかりのその後ろ姿をゲゲ郎がカランコロンと下駄を鳴らして追い掛ける。
 暫くの間、並んで歩くふたりは無言であったが考え込んでいた男が口を開いた。
「のう水木や、ワシはおぬしをいつもどんな目で見ておるんじゃ」
 水木が傍らを歩く親友をちらりと見る。ふたりの目が合うと水木は笑った。
「ははっ。さてな、どんなだろうな」
 明るく軽やかで喜色が滲む声。しかし煙に巻くようなその言い方にゲゲ郎は一つため息を溢し、思う。これは答える気が無い返事だ、と。
 仕方がないので男はそれ以上を聞かず、ふたり並び歩いて帰った。