yuugetu
2025-11-29 18:54:46
15999文字
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ケイトリンとすてきな秘密

WA3 本編終了後のハンフリースピークでの息抜き的な話。時系列は自作のクラウディアの話の後です。
ラスダン手前で世界を回ると読める会話のクラウディアとマイラとキャスリンのがフォローしたくて仕方なかったので、やっと気が済みました(笑)。
自作「父というもの」へ至るヴァージニアとジェットの感情変化を少し入れてあります。

 ファルガイアの空は、今日もいつもと同じ快晴だった。
 太陽の光はこの大地に生きるもの達をじわじわと灼く。
 大地もまた、常と変わらない過酷な姿をさらけ出している。
 この星に生きる者は誰もが、真綿で首を絞められるような恐怖感を抱かずにはいられない。

 考古学者であった亡き父は、その恐怖心に屈するのを良しとしなかった。
 我が子により良い未来を迎えてほしい。それは父にとっては人生を懸けた大きな願いであり、自らに課した使命だった。
 そして今、夫もまた同じように荒野を歩んでいる。


 いつか再び、この土地に雨が降るのを見ることがあるのだろうか。
 自宅の居間から窓の外を見ながら、そんなことを脈絡もなく考える。
 キャスリンは洗濯物を畳む手が完全に止まっていることに気がついた。沸き上がる悪寒に困惑する。

 なぜこんなにも思考が整理できないのだろう?やっとのことで洗濯物を畳み終わる。次は食事の準備をしなければ。
 立ち上がろうとして眩暈に襲われる。

 ふらりと、体が傾いだ。

 
「キャスリン、ケイトリン!戻りましたよ!」
「えッ?お父さん!」
 玄関の扉を開けるバタン!という音が居間に響いた。
 青いリボンで薄い茶髪を結んだ女の子——娘のケイトリンが驚いた様子でこちらを振り返り、ぱっと明るく笑う。ソファから立ち上がり旅支度のままのクライヴに走り寄った。
 背負っていたライフルを壁に立て掛け、空いた手で愛娘の頭を優しく撫でる。
「驚かせてしまいましたね。ただいま、ケイトリン」
「びっくりしたけど嬉しい!おかえりなさい」
 こちらに腕を伸ばしたケイトリンを抱き上げる。室内はいつもと変わりなく整頓され、テーブルの上にはケイトリンが読んでいたらしい絵本が置かれていた。ケイトリン自身も普段通りの様子だ。
「ケイトリン、お母さんはどうしていますか?」
 一安心しながらも訊ねる。
「あ、お母さんなら……
「クライヴさん?戻られたんですね!」
 寝室のドアが開く。姿を見せたのは、白いスカートとエプロンを着用し、スカーフで髪を纏めたシヴィルだった。
「おかえりなさい、皆さん大丈夫でしたか?」
 気遣わしげに訊ねるシヴィルに「ご心配をおかけしました」と頭を下げる。
「それでキャスリンは?体調を崩したのでしょう?」
 クライヴはいつになく焦って尋ねた。

 一行がハンフリースピークに入ったのは、その日の午前中だった。
 四人が運命の箱船 ディスティニーアーク教団を逃亡し、マルチナと共にティティーツイスターを出てハンフリースピークに戻ると、町に入ってすぐにダットサンからキャスリンが体調不良で伏せっていることを知らされたのだった。

「今は眠っているから、起きるまで待ってあげてください」
 シヴィルは口元に人指し指を立てて見せた。静かに、というジェスチャーだ。
「無理をして風邪をこじらせてしまったみたいなの。昨日のうちに熱は下がったのですけど、今日までは安静にするようにとわたしから言ったんです」
 シヴィルがキャスリンを看病しなからケイトリンの面倒を見てくれていたことも、ダットサンから聞いていた。こんな時に町の人達が助けてくれるのは心底ありがたい。
「ありがとうございました。何とお礼を言えば良いか……
「わたしは医者ですから。当然のことをしただけです」
 クライヴに抱き上げられ、普段よりも高い位置にいるケイトリンをシヴィルは見上げた。
「ケイトリンちゃん、偉かったんですよ。お母さんが具合が悪そうだって教えてくれたんです。とっても助かったって、お母さんが言っていたわ」
 ケイトリンはシヴィルに褒められて、照れたようにクライヴに小さな体を寄せた。
「あのね……ケイトリン、お母さんのこと心配だったけど、シヴィルさんがお母さんはすぐに良くなるって言ってくれたから、とっても安心したんだよ」
 はにかんだ様子で話すケイトリンの表情は、思いのほか明るかった。
 クライヴは重ねてシヴィルに礼を伝え、外で待っている仲間達に断りを入れてから、ケイトリンと共にキャスリンの眠る寝室へと入って行った。


「わかったわ。クライヴはキャスリンさんについていてあげて」
 そう言ってクライヴの背中を見送ってから、ヴァージニアはぽつりと呟いた。
「今夜はクライヴの家にお世話になるわけにはいかなさそうね」
「だなあ。心配させちまっただろうしな」
 仲間達に目をやると、ギャロウズは後頭部を掻きながら同意し、ジェットは軽く目を閉じて何も言わなかった。
 指名手配の件を町の人達は皆知っていた。当然キャスリンの耳にも入っているはずだ。彼女の体調不良については心配しなくて良いと言われたものの、今のウィンスレット家に負担は掛けられない。
 玄関の扉が開く音がし、全員の視線がそちらに集まった。中から見知った人物が現れる。
 シヴィルだ。
 彼女はヴァージニア達に声を掛けようとして、チームと一緒にいた少女に目を止めて驚きの声をあげた。
「マルチナ!あなたも一緒だったの?」
「シヴィルさん、こんにちは!」
 シヴィルとマルチナはたちまち笑顔になる。母子や姉妹のような気安さだった。
 シヴィルの表情は明るく、心を閉ざしていた時期があったとは思えなかった。これが本来の彼女の姿なのだろう。
「キャスリンさんのことなら心配しないでください」
 そう言いながらもシヴィルは表情を曇らせた。
「心配なのは皆さんのことです。あの教団の……
 シヴィルはマルチナにちらりと目を向ける。すると少女は少しむっとして言った。
「あれは何かの間違いです」
「もちろん、それはわかっているわ」
 シヴィルが表情を和らげ、マルチナを落ち着かせるように優しく頭を撫でる。マルチナの前で手配書のことを話題にして良いものか迷っていたのかもしれない。
「町の人達もわたしも、皆さんのことはよくわかっていますから、ここでは安心して過ごしてください。ただ、面倒なことが増えたでしょう?」
「わたし達は平気ですから!」
 ヴァージニアは慌てて両手を振った。何だかここの人達に心配をかけるのが悪いような気がしたのだ。
 シヴィルが怪訝そうな表情になり、ギャロウズもちらりとこちらを見る。
「今困ってるって話なら今夜の宿だよなあ。ま、町の外で野宿でも良いけどよ」
 野宿くらい何でもないという様子でけろりと言う。
 ジェットは少々眉根を寄せてはいたが、口を挟んだりはしなかった。いつ危機的状況になるかわからない今、休めるならしっかり休んでおきたいのが本音だったのだろうが、それでも反論しないのは彼なりの気遣いかもしれない。
「残念だけど仕方ないかもね。じゃあ今夜は……
「あの、皆さん」
 ヴァージニアの言葉を遮ったのはシヴィルの声だった。三人一緒にそちらに向き直る。
「手狭でも良ければ、今夜はわたしの家にいらっしゃいませんか?もちろんマルチナもね」


 中二階のある特徴的な室内が手早く整えられていく。中心となって指示を出すシヴィルの手際の良さにヴァージニアは感心していた。
 ジェットとギャロウズの手を借りていくつかの家具を移動し、普段の寝台の他に簡易ベッドも設置して人数分の寝床を確保する。荷物置き場も作られ、さらには男性と女性の寝床の間に衝立も用意された。
 しかしそうなるとさすがに手狭で、夕食は町の広場にテーブルと椅子を持ち出して早めに摂ることになった。シヴィルの提案でクライヴとケイトリンも共に食事をすることになっている。
 ふと、キャスリンに気兼ねせずに休んでもらう意図もあるのだと気がついた。うまく全員で分担して準備を進めていくのを見て、シヴィルの行動に合点が行く。
 同時に少しだけ、自身の気持ちの重さの理由に思い至った。

「ねえ、ギャロウズ。……キャスリンさん、大丈夫かなあ」
 ギャロウズがヴァージニアの顔を覗き込んだ。ヴァージニア自身も、今の自分がらしくもない表情をしているのはわかっていた。
「体調は大丈夫だって話だったろ?お医者さんがついてるんだしよ」
「そうなんだけど……
 広場の端で、夕食会の準備をする人達を眺めながら困りきって首を傾げる。
 ギャロウズはヴァージニアの煮え切らなさに、怪訝な顔で顎に手を当てた。
「リーダーの心配事は、そういうことじゃないんだな?」
「うん、なんて言うか……
 チームで一番背の高い彼の顔を見上げると、こちらが考えながら話す言葉を忍耐強く待ってくれている。ギャロウズになら、この答えのないもやもやも安心して話せる気がした。
「ほら、わたしもお父さんが旅に出てから、お母さんとふたりで過ごす時期が長かったの。叔父さん叔母さんや皆がいてくれたから、いつもは大丈夫だったけど」
「ブーツヒルの人達、皆良い人達だもんな」
 ギャロウズの相槌に頷き、ケイトリンとマルチナが花柄の布をクロス代わりにテーブルに広げる姿を見ていた。
 内気なケイトリンもマルチナとはすぐに打ち解けたらしい。普段近い年代の友達がいないケイトリンは、マルチナとのおしゃべりが楽しくて仕方ない様子だ。
「うん。ただ、わたしもだけど、お母さんもたまに寂しそうな時があって……。娘のわたしにはそういう気持ちを見せないようにしていた気がするの」
 ヴァージニアも幼い頃のことは詳細には覚えていない。十年より前のことはなおさらに。
 だがそれでも感情は残っているものらしい。母が隠しごとをしていると気がついたときの、言葉にできない、寂しく悲しかった気持ち。
「キャスリンさんも、ケイトリンちゃんやクライヴに本当の気持ちを隠して過ごしているんじゃないかって……少し、思っちゃったの。それにね」
 ヴァージニアは両手をもじもじさせながら、
「わたしのせいで、皆が家に帰りにくくなっちゃったかなって……
小さな声で言う。勝手な言い分だと自分でもわかっているが、つい口に出てしまった。
「おいおい!リーダーのあの時の決断は間違っちゃいねえ。それは俺達が保証する」
 ギャロウズは右拳で自身の胸をどん、と叩いた。
「全員わかってて、覚悟決めて、リーダーについて来てるんだぜ?それに俺なら、知らない所で家族が冤罪なんかで捕まっちまう方がイヤだね」
 ギャロウズは大袈裟に、おどけたように両手を天に向けて広げて見せた。
 ギャロウズの言葉は事実だ。あの時の決断は間違っていなかったこともわかっている。
 だがそれでも、キャスリンとケイトリンのことを考えると気持ちが沈むのも確かだった。
「まあ、あんまり気にすんなよ」
「うん。ありがとう」
 その言葉に反して、すっきりしない気持ちがギャロウズにも伝わってしまったらしい。
……でも、そうだなあ。キャスリンさんのことが心配なら」
 そう言いながら、彼の瞳がきらりと輝いた。
 ちょうどそこにジェットが椅子を両手に抱えて通りかかり、
「おい。喋ってる暇があったら手伝え」
不機嫌な顔で二人を睨んだ。シヴィルにずいぶん頼られているようだ。
 だがその瞬間、ギャロウズが太い腕を少年の肩にがっしりと回した。ギャロウズにとっては何気ない行動だが、小柄なジェットはそれだけで逃げられなくなる。
「ちょうど良いからお前も聞けよ。俺の素晴らしいアイディアをよッ!」
 声を抑えてはいるものの、面白い遊びを発見した子供のように楽しげだった。
「またろくでもないことを企んでるんじゃないだろうな?」
 いい加減にしろとでも言いたげに、ジェットはさらに眉間に皺を寄せた。全く話がわからない彼にとっては災難以外のなにものでもない。
 しかしギャロウズは楽しいことに夢中になると制止しても聞かないときがある。今がまさにそれだった。
 ヴァージニアは少々不安になってきた。
……一応聞くけど、クライヴやキャスリンさんのためになることなのよね?」
「もちろんだぜ。まずはシヴィルさんに協力を仰ぐ!」
 その言葉に、ヴァージニアはジェットと顔を見合わせた。


「つまりですね、一晩ふたりきりで過ごせるようにしてやりたいんですよ!」
 キッチンで食材を準備していたシヴィルを交え、ギャロウズは彼が言うところの『素晴らしいアイディア』を披露していた。
 この陽気な巨漢は時たまはしゃぎすぎるが、今回に限っては、なんのことはない夫婦だけの時間を持たせようというまっとうな考えだったらしい。ヴァージニアはひそかに胸を撫で下ろした。
「あら。良いと思いますよ。今夜は慌ただしいから、明日でどうです?」
「さすがシヴィルさん!話がわかるなあ」
 医師のお墨付きを得たギャロウズは得意気だ。ヴァージニアにも異論はないが、ふと別の問題が思い浮かんだ。
「確かに良いと思うけど、ケイトリンちゃんはどうするの?外泊するにしてもシヴィルさんのお家はもう満員だし」
「それなら俺にも良い考えがある」
 こういう時には珍しく銀髪の少年が発言した。ギャロウズに引きずられてきたジェットは当然ながら機嫌が悪い。最後まで何も話さないかと思っていたのだが。
「言い出しっぺのこいつが野宿すれば良いじゃねえか。そうすれば寝床が一つ空くだろ」
 ギャロウズを指差して、本気か冗談かわからないことを言った。腹立たしさを隠しもしない。
「う……。そう来るかよ」
「確かにそれが良いかも。これ以上誰かに迷惑掛けなくて済むし」
「リーダーまでッ!」
 笑顔で便乗するヴァージニアにギャロウズがショックを隠さずに言うと、隣でシヴィルが「まあまあ」と笑った。
「ギャロウズさんはダットサンさんかリカルドさんに、お宅に泊まらせてもらえるようにお願いしてみて。あとは、ケイトリンちゃんが泊まりたいと思えるような誘い方ができたら良いんですけど」
——それなら、うってつけの子がいますね」
 シヴィルとヴァージニアが顔を見合わせて笑った。


 日が落ちる少し前に、広場に食事会の会場が、予定よりも大きな規模で出来上がっていた。ギャロウズが泊めてもらうことになったダットサンを夕食に誘い、それならとシヴィルがリカルドとカンセコも誘ったのだ。
 皆が手土産を持ち寄り、食卓も予想以上に充実した。肉料理、豆料理、トウモロコシのパン、チーズ、焼きそば、ギャロウズの好物のカレーまで並んだ。普段から食べ慣れている料理が多いが、これらを一度に揃えられるのは比較的裕福で人の気持ちにも余裕のあるハンフリースピークだからこそだった。
 馴染みの【渡り鳥】チームの無事を祝って、自然と賑やかな一席になった。大人達が子供や若者——特にジェット——に絡みすぎて思いきりうんざりされたり、クライヴに酒を勧めすぎた男性陣がシヴィルに酒瓶を全て取り上げられたりといった一幕もあったが、概ね和やかな一夜であった。


「ねえ、ケイトリンちゃん」
 マルチナがケイトリンに尋ねたのは、夕食会の片付けが終わりに差し掛かり、子供が手伝えることがなくなった時だった。
「もし良かったら、明日の夜、わたしと一緒にシヴィルさんのお家にお泊まりしない?」
 ケイトリンが首を傾げた。マルチナはヴァージニアとシヴィルから、ケイトリンをシヴィルの家に誘うよう頼まれていたのだ。
「よそのお家にお泊まりしたことはある?」
「ううん。お父さんともお母さんとも離れて寝るってことだよね?」
 ケイトリンは首を横に振り、少々不安げな表情だ。
 さて、どう誘うべきか。強要はできないし大人の事情はあるにせよ、マルチナ自身もケイトリンとはもっとたくさん話したい。純粋にお泊り会と思えばこれほど楽しいこともない。
 マルチナは内緒話をするように、ケイトリンに少し近付くと、声を抑えて話した。
……あのね。わたし、パジャマパーティーっていうのがしてみたいんだ」
「パジャマパーティー?」
 初めて聞く言葉にケイトリンが興味を示す。
「お部屋にぬいぐるみとか可愛いものを飾って、お菓子を食べたり、友達と寝るまでおしゃべりするんだって」
「すっごく楽しそう……!」
 ケイトリンは初めて聞く話に目を輝かせた。女性三人でひねり出した作戦が上手くいきそうで、マルチナはつい嬉しくなる。
「でしょ?わたしも人に聞いたことがあるだけで、実際にやったことはないの。だからね、ケイトリンちゃんのお父さんとお母さんに聞いてみて、良いって言ってくれたら……
「うん!ケイトリン、お父さんとお母さんにお願いしてみるね」
 よし!と言いたいのをこらえていると、
「楽しそうですね。何のお話ですか?」
ちょうどクライヴが声をかけてくる。ケイトリンを迎えに来たのだろう。
「あ、お父さん!あのね……
 背の高い父親を見上げ、ケイトリンは薄茶の大きな瞳をきらきらさせた。

「パジャマパーティーなんて楽しそうね。いいわ、いってらっしゃい」
「本当に?お母さんありがとう!」
 キャスリンはベッドに腰掛けたまま、ケイトリンのお願いを承諾した。クライヴからは「お母さんがいいと言ってくれたら、いいですよ」という言葉を既にもらっている。ケイトリンは一緒にお願いに来たマルチナと手を取り合って喜んでいた。
 その夜は家族三人でいつも通りに休み、次の日の午後にシヴィルの家に集合することになった。


 ヴァージニアはシヴィルが貸してくれた花瓶に紙製の花束を差すと、テーブルの中央に置く。
 壁に小花の刺繍の入った大きな布を掛ける。そこにマルチナとケイトリンの手で、色とりどりのリボンが飾り付けられた。あとはベッドメイクを済ませれば、ほとんどの準備が整う。
 可愛らしいものが好きなヴァージニアは、マルチナとケイトリンと一緒に飾り付けするのが楽しかった。出番があるかはわからないが、旅の荷物の中からまだケイトリンに渡せていなかった『空色の冒険』の続刊も準備する。ちょっとしたサプライズに、ここに来るときに見つけた白い花の押し花を栞にして挟んでおいた。

「ねえ、ヴァージニアお姉ちゃん」
 準備がほぼ終わると、ケイトリンがにこにこと嬉しそうにヴァージニアに言った。
「ジェットお兄ちゃんて優しいね」
 ケイトリンの言葉に思わず首を傾げる。
「ジェットと何かあったの?」
 ジェットは確かに根は優しい少年だが、はっきり言って素直ではない。それが小さな女の子に伝わる出来事が何かあったのだろうか。
「お家にあるクマのぬいぐるみをこのお部屋に飾りたいって言ったら、ジェットお兄ちゃんが持って来るって言ってくれたの。ケイトリンが運ぶのは大きすぎるからって」
「あの可愛いクマさん?」
 ヴァージニアはすぐに思い出した。ケイトリンがクライヴから贈られ、ウィンスレット家の客室に大切に飾られていたものだ。
「パジャマパーティーにぴったりね」
 そのヴァージニアの言葉を遮って、玄関の扉が大きな音を立てて開いた。見ると、ジェットが納得いかないような怒ったような表情で立っている。——両手には、大きなクマのぬいぐるみ。
 その姿には妙な愛嬌があり、ヴァージニアは思わず笑いそうになった。我慢したつもりだったが、ジェットは目ざとく気づき睨み付けてくる。
 続いてギャロウズがクライヴから預かったらしい荷物を持って入って来た。ギャロウズはなにやら楽しそうで、その視線が銀髪の少年を捉えた瞬間、にかっと破顔した。
「すげぇ似合ってるぜ、ジェット」
「うるせぇ」
 さらに目を吊り上げそちらを睨み付けたジェットが、早く手放したいとばかりにケイトリンにぬいぐるみを差し出した。
 ケイトリンはよほど嬉しかったらしく、ジェットの苛立ちにも気づかない。ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、
「ありがとう、ジェットお兄ちゃん!」
と満面の笑顔を見せた。ジェットは毒気を抜かれ、「いや……」とだけ呟いて目をそらす。
 ギャロウズがこらえきれずにげらげらと笑い出し、腹を立てたジェットに小突かれていた。


 ジェットはギャロウズをシヴィルの家から追い出し、やっと一息ついた。寝台に寝転んで窓の外を見れば既に日は翳り始め、衝立の向こうの女性陣の喧騒もだいぶ静まっている。
「ケイトリン、パーティーの前にお父さんとお母さんにおやすみって言いに行きたいな」
 ふいにケイトリンの声が耳に飛び込んでくる。そういえば一人で外泊するのは初めてだと言っていた気がする。
「そうなの?じゃあ……ジェット、ついていってあげて」
「!?なんで俺が」
 衝立を飛び越したリーダーの一声に、思わず抗議の声を上げた。
 体を起こして衝立を横にずらすと、ヴァージニアとマルチナの二対の瞳がこちらをのぞき込んだ。
「ジェットだって、ケイトリンちゃんともっと仲良くなりたいでしょ?」
「はあ?いきなりなんなんだ……
 いつもの笑顔を振り撒くヴァージニアの隣で、ケイトリンがやはり無邪気ににこにこと笑って待っている。
「その間にわたし達は最後の仕上げを済ませておくから。それともジェットがこっちをやる?」
 反論しても無駄らしい。頭を抱えながらも、ジェットは引き受けるしかなかった。

 ご機嫌のケイトリンの後を追うように扉を出る。シヴィルから、ケイトリンが両親と離れて過ごすことを不安に思っていたら教えてほしいとこっそり頼まれてはいたが、幸いそういったことはなさそうだった。
 さきほどクライヴにぬいぐるみを抱えた姿を「なかなか良いですね」と言われたムカムカが少々甦ったりしながらも、ケイトリンから両親へのおやすみの挨拶を見届け娘の教育のためにと、ジェット自身も半ば強制的におやすみの挨拶をさせられ——二人はウィンスレット家を出た。

 すでに辺りは薄暗く、雲の無い空に一番星が瞬いている。面倒な仕事を終えた気分で息を吐く。
「ジェットお兄ちゃん」
 ケイトリンに呼び掛けられ、ジェットは振り返った。少し後ろに立ち止まったケイトリンが、右手をこちらに伸ばしている。
「なんだ?」
「今日はケイトリンのぬいぐるみ、持ってきてくれてありがとう」
……?」
 何がしたいのかよくわからないが、手を繋ごうというのだろうか?柄にもなく左手を差し出すと、ケイトリンが右手を重ねた。
 小さな手だが、子供は体温が高く、ひんやりとした空気の中では熱く感じられた。
「ジェットお兄ちゃんの手、あったかいね」
 子供の相手に慣れないジェットは、ケイトリンがどうしたいのかわからず戸惑いがちに言った。
……すぐに暗くなる。これからパーティーなんだろ?もう戻るぞ」
「待って。あのね……お願いがあるの」
 そう言ってケイトリンはわずかに目を伏せる。六歳の女の子が、今だけなぜか大人びて見えた。
「ジェットお兄ちゃん達は、お父さんを守ってくれる?」
 一瞬どきりとした。
 ウィンスレット家を訪ねる前に、ケイトリンに指名手配の件は知られないようにと全員で示し合わせていたのだ。町の人々からもしっかりと釘を刺されていたというのに。
 この小さな少女は、今の状況をどこまで理解しているのだろう?
「前にね、お父さんが帰って来たとき、ケイトリン、お父さんに大切な人達を守ってってお願いしたの。だから今度は、お父さんのことも誰かに守ってほしいの」
 繋いだ小さな手が、ぎゅっと握られるのがわかった。
「少し前に、町の人達が怒ってて、お母さんが悲しそうで。お父さんや皆に何かあったのかなって思ったの。でも、ちゃんと四人で帰ってきてくれた。やっぱり強いんだね」
 大きな瞳が真剣にこちらを見上げる。
 ジェットはケイトリンの言葉を黙って聞いているしかなかった。何を言えば良いのか全くわからなかったが、その場しのぎの言葉だけは言ってはならないと直感的に理解していた。
「お父さんも強いから大丈夫って思うけど、でも……ちょっとだけ心配なの。ほんとうはお礼がいるってわかってるけど、ケイトリン、ジェットお兄ちゃん達にあげられるものがなくて……。だから、かわりにケイトリンにできることはある?」
「俺に……依頼したいってことか?」
 驚いて聞き返すと、ケイトリンが頷いた。
「ケイトリンにできることなら、がんばるから」
「そんなことは——
 そんなことならヴァージニアに言えば良い。あのリーダーならば二つ返事で引き受け、当たり前のことだと言うだろう。
 そう思い口を開きかけて、閉じる。もっと仲良くなりたいでしょ?というお節介な言葉が頭の中に響いた。
 この少女と仲良くなりたいなどと考えたことはない。そう思いはするものの、ケイトリンの真剣な言葉にこの場で答えなくていいのか、そんな逡巡が胸中に渦巻いた。自分自身の中に答えが既にあるというのに。
 言葉を探しながら、ジェットは片膝をついてケイトリンの目線に合わせた。子供と話す時にヴァージニアやクライヴがそうしていたことを思い出したからだ。
……引き受けても良いが、今ふたりで話したことは誰にも秘密だ。俺がお前にしてほしいのは、それだけだ」
「誰にも言わなければいいの?」
「そうだ。クライヴにも、他の連中にもだぞ」
「それだけ?」
 ジェットはきょとんとしたケイトリンに頷く。
「ああ。……俺達全員、お前の父さんにはいつも助けられているからな」
「じゃあ、お父さんが危なくなっても……
「心配するな。——どんな時も、俺達がついている」
 その言葉を口にするのに、不思議と気恥ずかしさはなかった。今ではそれが当たり前になっているのだから。
「そっか……。そっか!それなら大丈夫だね」
 こんな小さな依頼で子供に要求できることなどない。ただ、仲間に知られるのも面倒だから秘密にしてくれと言ったに過ぎない。
 しかしケイトリンは不思議なほど嬉しそうだった。
「えへへ……。ケイトリン、お母さんと同じくらいすてきな秘密ができちゃった」
「秘密?」
「うん!お母さんはね、いつでもお父さんのことを考えてるんだって。それを聞いて、すごくすてきだなって思ったの」
 ケイトリンが話してしまったらキャスリンの秘密はもう秘密ではないような気がするが。自分が誰かに言わなければまあ良いだろうと思いながら、嬉しそうに喋り続けるケイトリンの言葉を聞いていた。
「だからね、ケイトリンも秘密を考えてたの!ジェットお兄ちゃんとの秘密も同じくらいすてきだから、嬉しいなあ」
 うきうきと話すケイトリンの姿に、ジェットはリトルロックで出会った男の子のことを思い出す。
 朗らかで活発な少年モック。リトルロックに立ち寄る度、彼にはひたすら話しかけられたものだ。その時はなぜこんなにも懐かれたのかと面倒に思ったこともあるが、今なら少しわかる気がする。
 きっと信じられる大人だと思ってくれたのだ。
 子供達は、大人が話せば懸命に耳を傾け、大人が聞いていればいくらでも話しかける。信頼された大人は相手が幼いからといって適当にあしらわない。お互いそうするのは理屈ではない。
 そんな年齢を越えた信頼関係に、ジェット自身も覚えがあった。
 この星に生まれ落ちたばかりのあの頃、多くの秘密と重責を負ったあの背中に、もっとたくさんのことを自分から話しても良かったのかもしれない。
「そうだ、お母さんにだけは伝えてもいい?お父さんは心配ないよって教えてあげたいの!」
……仕方ないな。それなら、お前の母さんにも秘密だと言っておいてくれ」
「うん!約束だね!」
 ケイトリンが繋いでいた手を離して小指を立てて見せた。ジェットもその意味は知っている。
 星の輝きが強くなる空の下、戸惑いながらも右手の小指を差し出した。


「ケイトリン、今夜はちゃんと眠れるかしら」
 刻一刻と闇を深めていく窓の外を見て、キャスリンは思わずこぼした。
 明日にはクライヴ達が旅立つ予定だ。ケイトリンを預けてしっかり休めるのも今夜まで。誰かに我が子を任せられる安堵感も確かにあるが、数日間距離を置いただけで寂しく感じる気持ちもあった。
「心配する気持ちはわかります。でも皆がついていますから、今夜は気にせず休んでください」
……わたしがちょっと過保護なのかもしれないわね」
 ケイトリンは賢く優しい子だが、少々引っ込み思案なところがあり、時にはそれをもどかしく感じてしまう。しかし今回のことで周りの人から見れば些細な問題なのかもしれないと思うようになっていた。
「シヴィルさんにも言われたの。ケイトリンはお手伝いもできるし、わたしが寝込んでいてもぐずったりしなくて偉いって。すごくがんばってるって。いつも一緒にいるからわからないのかしら?」
「僕も帰ってくる度にケイトリンの成長には驚かされていますよ。君のおかげです」
 寝台の隣に腰掛けたクライヴが優しく言った。キャスリンを休ませてから傍で本を読むつもりだったらしい。
「キャスリン」
「なあに?」
 全く進まない栞の位置をちらりと見て、クライブの言葉を待つ。
……僕は、君の方が心配です」
「もう……過保護なのはあなたの方ね。しかも子供にじゃなくて、わたしに!」
 クライヴはこの二日間、体を冷やすなだの、してほしいことはないかだの、ひたすらキャスリンに世話を焼いていた。
 もう何日も休みすぎて体が痛いくらいだ。せめて明日の旅立ちの準備は手伝おうと思っていたのに、クライヴはキャスリンに何もさせてくれない。今も早々にベッドに寝かされてしまい、ずっと夫は隣にいる。逃げるに逃げられなかった。
——もしかして、わたしが倒れたのはあなたのせいだと思わせてしまったのかしら」
 体を寄せてクライヴの顔を覗き込むと、青みがかった緑の瞳が揺れる。
……ショックではありませんでしたか?」
「指名手配のこと?確かに驚いたけれど、信じているから」
 クライヴが何をそんなに気にしているのかがキャスリンにはわからない。最初は手配書の件だと思っていたのだが、それだけではない気がしていた。
「それに、わたしよりもダットサンさんの方が凄かったのよ!どんなに宥めても全然怒りが収まらなくて。リカルドさんとカンセコさんも、ケイトリンに知られないうちにって、手配書を端から集めて全部燃やしちゃったの」
「そんなことが……
「あなた達がそんな酷いことをするはずないって、皆わかっているのよ」
 この町の人々は皆、教主殺害が冤罪であることを微塵も疑わなかった。特に教団を良く思っていなかったダットサンの怒りと動揺は大きかったようだ。
 亡き父ベルリッツと同年代だからだろうか、ダットサンやリカルドはいつもウィンスレット家に世話を焼いてくれる。カンセコもキャスリンにとっては良き話し相手だった。
 だからこそクライヴへの忠言は厳しくもなるのだろうが。
「子育てのことなら、今はシヴィルさんも助けてくれる。困ったら周りの人達を頼るわ。だからあなたは夢を叶えて、無事に帰ることだけを考えて」
 急にクライヴがキャスリンを抱きしめた。力強い両腕に包まれていると安心するが、彼が今感じている無力感も伝わってくる。
……僕は君に無理をさせてはいませんか?君はどんなに不安な時でも、僕を送り出してくれますが」
 彼を見送る時、不安にさせるようなことを自分は言ったのだろうか。
 しかしふと引っ掛かった。ひどく寒々しい不安感に苛まれながら、クライヴを送り出した記憶がおぼろげに、だが確かに浮かび上がる。ケイトリンはわたしが守っているから、と。
 ——あれはいつのことだったか。
 よく思い出せないが、おかげでこの二日間のクライヴの言動が腑に落ちた気がした。
「せめて、ふたりきりの時くらいは甘えてください……
「なんだか今日のあなたは駄々っ子みたいね」
 くすりと笑って言った。これでは不安になっているのも甘えたいのも夫の方ではないか。
 その腕を優しくほどき、クライヴの頬を両手で包み込むと、キャスリンは視線を合わせて言い聞かせた。
「わたしの考えは変わらない。ケイトリンが生きる未来が少しでも良いものであってほしいの。あなたが旅に出るのと同じ気持ちで、わたしもこの町でケイトリンを育てている。どんなに離れていても、必ず帰ってきてくれると信じているもの」
 確かに家族の繋がりはキャスリンにとって一番大切なものだ。しかし、この砂の星でそれだけを頼りに生きていくのはあまりに難儀だった。
 キャスリンはこの町に生まれて良かったと思っている。クライヴにヴァージニア達がいるように、キャスリンのことはこの町の人達が助けてくれるのだから。
「わたしはあなたと、ヴァージニアさん達を信じてる。わたしはいつでも、ここで待っているわ。ケイトリンと一緒に」
「ですが……
 さらに何か言い募ろうと口を開きかけたクライヴに、キャスリンは笑いかける。
「それに、そんな顔をされたら甘えようにも甘えられないわ!だから今は、いつものあなたの『ありがとう』が聞きたいわ」
 そこまで言って、やっとクライヴは表情を和らげた。
 ふたりきりでいられるのは今夜だけ。笑顔で過ごせるのなら、それが一番幸せなのだから。
……いつもありがとう、キャスリン」
「わたしも、いつも感謝しているわ。わたし達の未来を探してくれて……ケイトリンの未来を明るくしてくれて、ありがとう。大好きよ」
 言って、そのままキャスリンはクライヴに唇を重ねた。
 夫のいつも結わえている後ろ髪を右手でほどく。抱きしめた両腕にかすかな緊張が伝わってきた。
 子供が生まれてからふたりきりで過ごす機会はめっきり減っている。今夜はふたりにとって、ふいに訪れた貴重な時間だった。
 照れて戸惑った様子でクライヴが体を離す。
……今夜はこのまま休みませんか?君の体調も心配ですし」
「甘えてほしいって言ったのはあなたよ……クライヴ」
 キャスリンは囁いて、夫の胸に体を預けた。


「お父さん、お母さん、ただいま!」
 玄関に聞き慣れた娘の声が響いた。
 いつもと同じ、日射しの強い朝だった。
「おかえりなさい、ケイトリン」
 出迎えたキャスリンは、珍しい光景にきょとんとした。
「あら、今朝はジェットさんにエスコートしてもらったのね」
「うん!」
 ケイトリンと手を繋いでいるのは、鈍い銀髪に赤と白のマフラーを巻いた少年だった。いつもより仏頂面に拍車がかかっているが不機嫌だからではなさそうだ。
 ジェットはなんとも気まずげで、マフラーに口元を埋めて誰とも目を合わせようとしない。関わった時間が短いキャスリンにも彼が照れているのはすぐにわかった。
 一方のケイトリンはこれ以上ないほどご機嫌で嬉しそうだった。小さな右手でジェットの左手をしっかり握っている。
 そのすぐ後に、ケイトリンのクマのぬいぐるみを抱いたヴァージニアと、ケイトリンの外泊のための荷物を持ったギャロウズが入ってきた。キャスリンと朝の挨拶を済ませ、ヴァージニアが不思議そうに話してくれた。
「ケイトリンちゃんにどうしてジェットとそんなに仲良くなったの?って聞いてみたんですけど、教えてくれないんです」
「えへへ、秘密だよ!」
「何が秘密なのですか?」
 家の奥から出てきたクライヴが、手を繋ぐケイトリンとジェットの姿を見咎めてわずかに目を細めた。気の毒なことにジェットが不穏な空気を察して焦っている。
 キャスリンは「ああ」と思わず呟いた。こういうときの夫は少々厄介だ。
「あなた。ケイトリンが秘密と言っているのだから尊重しましょう?」
 袖を引っ張って小声で諫めると「わかっていますよ」とは返ってきたものの、やはり気が済まなかったらしい。町の人達への挨拶があるからと、もっともらしい理由を付けてうんざりした表情のジェットを引っ張っていってしまった。ヴァージニアとギャロウズも呆れた様子で一緒に玄関を出ていく。
 ウィンスレット家の居間には嘆息するキャスリンと、変わらずご機嫌なケイトリンだけが残された。
 子煩悩も行き過ぎると困りものだと思っていると、ケイトリンがにこにことこちらに手招きしている。
「あのね、ケイトリンの秘密、お母さんにだけは教えてあげるね」
「あら、良いの?」
「うん。ジェットお兄ちゃんも、お母さんには言っても良いって。だからお母さんも秘密にしてね」
 身を屈めて覗き込むと、ケイトリンの薄茶の瞳がきらきらと輝いている。今は亡き父ベルリッツから娘に受け継がれたその色が、キャスリンは大好きだった。
「そうなのね。責任重大だわ」
「うん、約束だよ。それでね、昨日ね……
 耳打ちするケイトリンの表情と声色からは、胸いっぱいの喜びが伝わってきた。
 その秘密には喜びだけでなく、娘の大きな優しさがあった。娘の成長に驚きながらも、キャスリンの心は様々な感情で満たされていく。
——ね?ケイトリンの秘密、すてきでしょう?」
「ええ、とても……とってもすてきな秘密だわ」
 キャスリンは言いながらケイトリンを抱きしめる。目頭が熱くなり、溢れそうになるのを娘に悟らせないために。
 いまだに小さな娘と思っているのは、母親である自分だけなのかもしれなかった。


 その日の見送りは、いつもよりずっと賑やかだった。
 クライヴがケイトリンを抱き上げてシヴィルと何かを話しており、マルチナがヴァージニアとギャロウズとの別れを惜しんでいる。彼らに声が届かないよう、少し離れてこっそりと銀髪の少年に話しかけた。
「ジェットさん」
 鋭さの中にわずかにあどけなさを残した紫の瞳が振り向く。若くして過酷な【渡り鳥】稼業に就きながら、剣呑さはそこにはない。
「ケイトリンから聞きました。主人のこと、どうか守ってやってください」
 その言葉に少年は目を見張り、すぐに視線をそらした。
……努力はする」
 きまり悪そうに腕を組んで、キャスリンにだけ聞こえるようにぼそりと呟く。
「ケイトリンにもまた会いに来てくださいね、喜びますから」
「娘のことでアイツに絡まれるのはもう御免なんだが……
 後ろ頭をがりがりと引っ掻きながら困り果てた様子で言うジェットは、どこから見てもごく普通の少年だった。


 一行が旅立てば、キャスリンにとっていつもの日常が——少しだけ寂しい日常が戻ってくる。
 そうと知らないうちに夫を亡くすかもしれない。そんな恐怖を完全に捨て去ることはできないが、今では旅立つクライヴを見送ることにためらいはなくなっていた。
「皆さん、主人をどうぞよろしくお願いします」
 そう頭を下げれば、力強く頷いてくれる人達がそこにいた。
 だからキャスリンとケイトリンは、クライヴを笑顔で送り出すことができる。

「いってらっしゃい、あなた」
「いってきます、キャスリン」

 ファルガイアの空は、今日もいつもと同じ快晴だった。


 この星の誰もが、緩慢な死への恐怖を捨てることはできないだろう。
 だがそれでも、雨雲のかかる空を二度と見ることがなかったとしても、希望を捨てる理由にはならない。
 ケイトリンに贈られた『空色の冒険』と、そこに挟まれた白い花の栞に気づいたとき、キャスリンはそう思ったのだった。