chisen0501
2025-11-29 18:25:26
5128文字
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ひそやかな夜の匂いがする

桐智大学if。智視点片思い。


 夜の匂いが甘い。
 秋も終わりに近い、満月が明るく照らす夜だった。まとわりつくような芳香が空気に混ざり、辺りを満たしている。
(何かの花の匂いか?)
 日常的に花を意識することがないので、咲いて初めて存在がわかる。街の其処此処に淡い色の雲のように咲く桜を見て、こんなに植えられていると気づく。季節は違うがそれと同じだ。夜の中で香りをまき散らす花の名前を知らなかった。

「要クン、コンビニ行くから付き合って」

 同室の桐島から誘われて、大学野球部寮から一番近いコンビニエンスストアまでぶらぶらと歩く。桐島は、こうやって時々圭を連れ出して買い物に出かけた。秋季リーグ戦も終り、秋の気配が深まった夜は夏とは匂いが違う。水分を含んだ草木の香りではなく、乾いていてどこか懐かしい。数歩先を歩く桐島は、圭が知らない歌をハミングしている。機嫌がいいのだろう。
「あ、忘れ物したわ。ちょっと先に行ってて」
「はい」
 何か思い出したのか、ふいに立ち止まって告げる桐島に返事をして、後ろ姿を目で追う。コンビニはすぐ近くだ。桐島が追い付けるように少し歩調を落して、ゆっくり歩いた。
(何忘れたんだ?財布か?)
 野球部寮の門限は十一時だ。まだ時間に余裕がある。時刻は十時を回っており、人通りも少ない。寮のすぐ向かい側に硬式野球部のグラウンドがあり、他のスポーツ部の施設も隣接している。周囲に商業施設はなく、辺りは戸建てやマンションなどの住宅が立ち並ぶ閑静な環境だった。
「要クン♡」
 声に振り向くと、頭の上からパラパラと何かを振りかけられた。
「ちょっと、何するんですか」
「あ、それ後で俺がやるから、そのままにしといて」
 髪についたものを反射的に払い落とそうとして、桐島にやんわりと止められる。
「は?何です、これ」
「金木犀や。かわいいやろ」
 桐島が圭の髪を指で梳き、絡まっていたものを手のひらに乗せる。オレンジ色をした、砂糖菓子のような小さな花だった。
「ほら、ええ匂いする」
 目の前に差し出された手のひらの匂いを嗅ぐ。さっきから空気中に漂っている香気が、投手の硬くなった指に纏わりついている。
「要クン、そうやって匂い嗅いでるの、猫ちゃんみたいや」
「は?」
「猫って好奇心が強いのかと思っとったけど、匂い嗅ぐのって本能なんやて」
 ニッと糸のように目を細めて笑う。お前の方が猫だろうと思う。口に出さずに黙っていると、桐島は満足したかのように頷いた。
「髪、いい匂いしとる」
 顔を寄せてスンスンと匂いを嗅ぐ。本当にお前が猫だ。夜道を二人歩きながら、感情が波立っている。髪を触る桐島の手が気持ちいいと思ってしまった自分に対してだった。それをこの人に知られるわけにはいかない。
「帰ったらすぐに髪、洗います」
「もったいない。似合っとるのに」
 隣を歩く桐島は、顔を覗き込むようにして笑う。
「要クンの髪、ふわふわや。触り心地ええな」
 桐島の指が髪の中に滑り込み、くしゃくしゃに掻き回す。
「やめてください」
――恋人みたいに馴れ馴れしく触るな。人の気持ちも知らないで。
(まだ髪についてる。取れねぇな)
 花びらを全部振り落とそうとして、ふと手を止めた。
「いやに早かったけど、忘れ物って何だったんですか?」
「これや、これ」
 桐島は圭の髪にまた手を伸ばし、金木犀の花びらを一つ摘んで見せる。
「は?」
「これやりたくて。枯葉のシャワーとかやるやつおるけど、こっちの方がええやん。可愛いし、いい匂いするし。要クンに似合う」
――俺ら、付き合ってるわけじゃねぇだろ。
 そう口に出しそうになって黙り込む。恋人にするような行為を、この男は時々仕掛ける。こんなふうに夜道を歩いている時、寮の部屋にいる時。二人きりの時限定だった。その度に心臓をぎゅっと掴まれた。桐島の無邪気な振る舞いに、気持ちを揺り動かされる。
(勘弁してくれ。デートでやるような遊びは、どっかよそでやってくれ。好きな人と。俺じゃなく)
「そういうことは、付き合ってる人にしてください。俺じゃなく」
 そのまま口に出してしまった。
「俺らバッテリーやろ?要クンが俺の女房や」
「野球の話でしょ?」
「今の俺は野球しかないから、キミが俺の女房や」
「は?意味が分かりません」
「他に誰もおらへん。キミだけや」
 口説き文句は、昔から桐島の常套手段だ。

「俺の球も捕って」
「要クン、最っ高」
「だからこそ惹かれるんかもな」

 高校時代からのラブコールは、捕手である自分に対してのものだ。それは分かってはいる。それでも時々、桐島の言葉はそれを超えた甘さがあるように聞こえる。桐島が仕掛けて来る疑似恋愛の遊びを、受け流すのが我慢の限界を超えている。
――クソ。人の気も知らねぇで。
 桐島とセックスする夢を見たことがある。
 まだ誰とも経験したことがないので、知識が乏しい自分の妄想が元なのだろうが、クリアで音も感触もある夢だった。桐島と大人のキスをして、服を脱いで体を弄り合い、深く繋がる。自分が桐島に抱かれていた。温かく湿った肌の質感や汗の匂いを感じた。
 目が覚めた時の狼狽は酷かった。ドキドキと早鐘のように鼓動が鳴っていた。数メートルにも満たない距離に桐島が眠っている。夢の中で濃密な体験をした相手が。
 寮の同室になった時は内心嬉しかった。今はそれが呪わしい。
 熟睡している桐島の前髪がまばらに顔にかかっている。無防備な、端正な顔に心が締め付けられる。大事な人を汚してしまったと感じた。


 コンビニで桐島はホットコーヒーを買い、圭にも好きな飲み物を奢ってくれた。アイスラテを買ってもらい、二人でちびちびと飲みながら寮に向かって歩く。
 結局コンビニに欲しいものがあるわけではなく、悪戯したいがために付き合わされたようなものだ。圭は桐島が後輩に強要する「おもろいこと」をやらされることはなかったが、気まぐれに悪戯の餌食にされた。
(これはいじめとか、そんなのじゃない。わかってる。でも……
 二人だけの時に発動する恋愛めいた遊戯。桐島をまったく意識していなかった頃は「しょうがねェな」と軽くあしらっていたが、今では持て余していた。いつからこんな気持ちを抱いたのだろう。もし時間が遡れるなら、その時の自分に、桐島に恋をするなと忠告したい。
「涼しくなると、熱いコーヒーが美味いわ」
「そうですか」
「要クンはいつも冷たいもの飲んどるね。あったかい方が体にええんとちゃう?」
「そりゃまあ、そうですが」
「何で?猫舌?」
「そうですが」
 何か問題でも?という顔をすると、桐島は口の端を上げて嬉しそうな顔をした。
「ははあ」
「何が“ははあ”、なんですか?」
「いや、ホンマもんの猫ちゃんや」
「俺が猫に似てるとか言うの、桐島さんだけですよ」
「みんな言わん?めっちゃ似とるのに」
「似てねェよ」
 意地になって言うと、桐島は目を細めて笑う。一学年先輩である桐島に対して、時折混じるタメ口も大目に見てくれている。二人だけの時間、二人だけの会話だった。こんな時間を一緒に過ごしたのだと、懐かしく思い出すのかもしれない。
 来年、桐島は四年生になる。最終学年、卒業までのカウントダウンだ。卒業してしまったら、同じ野球部の後輩であり、元バッテリーというだけの関係になる。今の濃密な関係とは程遠い。ドラフト候補の桐島は間違いなくプロになる。そうなれば多忙を極め、連絡をくれることもなくなるだろう。寂しさと安堵のどちらが大きいのか、圭にはわからなかった。
「ここのコーヒー、コンビニの中じゃ一番美味いわ。飲み頃になったから、要クンも飲んでみ?」
「じゃ、一口」
 桐島からカップを受け取り、慎重にふうふうと吹いてから熱い液体をコクっと飲む。確かに香りは良いが、見た目通りに味は苦い。
「苦い」
 一言告げてカップを返すと、桐島はまた笑った。
「こっち、飲んでみます?」
 桐島にアイスラテのカップを渡すと、ストローから一口飲んで返された。
「ラテも美味いわ」
 桐島から渡されたカップを片手で持ち、ストローに口をつける。ミルクの甘さにホッとする。考えてみれば関節キスかもしれないが、こんなやり取りは日常茶飯事だった。距離感がおかしいのかもしれない。
「来年の今頃は、桐島さん、引退してますね」
「せやな。あと一年かあ。楽しかったなあ」
 晴れ晴れとした顔で言う桐島が眩しかった。来年はこうして一緒に夜道を歩くこともないだろう。胸の中心に小さな痛みが走った。
「要クンがうちの大学選んでくれて、ホンマに嬉しかったわ。念願のバッテリーや」
「光栄です」
「また雑な返事しよる」
「本心から言ってますよ」
「俺は騙されへんで」
「ほんとですって」
 ふふっと二人で顔を見合わせて笑った。野球部寮からコンビニまでは歩いて十分足らずだった。ほんの短い、貴重な時間。次の角を曲がると、寮の建物が見えて来る。
 住宅の狭間に小さな児童公園があった。夏は木立が濃い影を落とすが、今は夜空を背景に黒いシルエットになっている。街灯が樹木に邪魔されて、そこだけがスポットのように暗かった。
 桐島が急に立ち止まった。
「要クン、キスしようか?」
 何を言われたのか、わからなかった。満月が煌々と夜を照らす。白い光を遮る樹木の暗がりの下、桐島の色素が薄い目がじっと圭を見つめている。時が止まったように感じた。
「あの……
 キス?今ここで?
 桐島はサプライズが好きだ。圭の意表をついて悪戯を仕掛けて来る。でも、これは違う。こんな真剣な目をして言われたことはない。
 なぜ、どうして?
 桐島の意図が分からずフリーズしてしまう。淡い期待と疑念と困惑が、いつもの冷静さを根こそぎ奪う。言葉が出なかった。夜の中に、濃厚な花の匂いだけが漂っている。桐島が圭の髪に振りまいた金木犀の香り。
「冗談や」
 桐島は小さくため息を吐いた後、何事もなかったように明るく告げた。曖昧な笑みを浮かべながら、硬直した圭の額をピン、と指先で弾く。魔法が消えた合図だった。


「要クン、何か怒っとる?」
「いえ、別に」
 公園から寮までは、ほぼ会話もなく急ぎ足で歩いた。部屋に帰り着くと早々にベッドに入った。桐島に背を向けて寝ている。
「怒ってないなら良かったわ。そしたら俺も寝よか」
 おやすみ、と言いながら部屋の照明を落とす。
 恥ずかしかった。先輩投手の悪戯には慣れていたはずなのに。こんな程度のことで感情的になる自分が子どもっぽい。桐島はどう思っただろう。本心に気づかれやしないだろうかと、今さらながら不安になる。
――クソ。どうしようもねェな。
 忘れよう、と思う。一晩寝てリセットする。今日あったことも含めてすべて忘れてしまえばいい。良いことも、悪いことも。
(寝よう)
 目を閉じた瞬間、どさっと重いものが布団の上からかぶさってきた。
「おい!」
「寝る前にもう一回吸わせて」
 桐島が圭の髪に顔を埋め、スンスンと匂いを嗅ぐ。
「桐島!」
「んー?先輩やぞ」
 桐島の鼻先が、唇が、髪に、肌に触れる。くすぐったさとゾクゾクする感触が首筋から駆け上る。
「ふざけんな!」
「こわっ」
 桐島がベッドの上からどくと、圭は枕を桐島めがけて投げつけた。投げられた相手は行動を読んでいたのか、至近距離でキャッチする。
「髪、洗わんかったね。ええ匂いがする」
 ドッドッと鼓動が大きく鳴る。いつもの楽しそうな声。暗くて表情はわからない。
「明日の朝洗います」
 桐島から枕を奪い返し、顔を見ずに布団に潜り込んだ。頬が熱い。間違いなく赤くなっているだろう。電気を消した後で良かったと思う。
「もうこっちに来ないでください」
「行かへんよ。おやすみ」
 ふーっとため息が出た。今のでウジウジした気持ちはどこかに吹っ飛んだ。強心臓の左腕投手は、火で火を消すタイプだ。
――ふざけんなよ桐島……小学生男子かよ。
 桐島が顔を埋めた感触が髪に残っている。本気なのか冗談なのか、もうどちらでもいい。もしかしたらという未練も抱えながら、桐島が卒業してしまう日まで、一緒にいたい。
 シーツの上に小さなオレンジ色の花が散っていた。指先でそっと摘む。自分の頭から花の匂いがする。桐島がつけた甘い香りが、寝具やシーツにも移っている。
 誰も知らないひそやかな自分の気持ちごと、甘い香りを抱きしめる。

 髪にするなら、唇にしてくれたらいいのに。