べるどくん
2025-11-29 14:34:26
8929文字
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二度としないよ

『にっくき逃亡史(id=25625859)』のあとのアン兵② ミスコミュニケーション

 長雨が続いている。風もなく、ひび割れた窓を叩くわけでもなく、ただ曇り空から垂れ下がった薄いカーテンのような雨は、街から人々がいなくなったことを覆い隠しているのかもしれなかった。
 降り出した雨を凌ぐために、中東のとある地域にジープを停めたのが一週間前。そのときはすぐさま大嵐になって、瓦礫の影に車を隠して、兵部たちはいつもの如く空き家に滑り込んでいた。移動の頼みであるジープを酷使する訳にはいかないからと、ヒノミヤは備蓄をまとめて空き家に移動させたが、それももうすぐ尽きる。本来は小雨になったら出ようという話で兵部も合意していたのだが、ようやく小雨になったと思ったら次なる問題が噴出した。
「おいヒノミヤ、水。ほら。飲めよ。死ぬぞ」
「冗談じゃないっての……
 古ぼけたソファに横たわるヒノミヤの額に手を当てて熱を読む。とうとう39℃を越えてしまったらしい――そう、ヒノミヤは絶賛、風邪を引いていた。兵部がサイコメトリーをした限りでは、免疫が落ちていたところを突かれた風邪のように見える。これが本職ならもっと別の要因を見つけることができたかもしれないが、兵部もレベルが高いだけで医学的な知識が伴っている訳ではない。だからまあ、しばらく寝ていろよとヒノミヤを横にさせて半日が経つ。
 そもそも、この季節の中東は雨季ではない。雨季だとしても一週間も続く雨は異常で、兵部は元の世界との隔たりを身に染みて感じていた。超能力者と普通人との戦争が星に深いヒビを入れて、なにかが“ずれて”きていた。
 水筒に残るぬるい水を飲ませてやると、ヒノミヤも噎せながら飲み下す。ふむ、と兵部は小首を傾げた。
「車に痛み止めがあったよな? 熱さましに使うか?」
「うん……いや、うん、もったいないから取っとく……。体感、寝てれば治る感じするから」
「そーかよ」
 兵部よりもだいぶ年下とはいえ、ヒノミヤも自分の体の調子くらいは分かるほどに生きている。兵部はヒノミヤの言葉を丸呑んで、運転席側のドアポケットに押し込まれている痛み止めの箱のことを考えていた。封が切られた箱だ。錠剤の数は、もう残り少ない。外箱には茶に変色した血液もついていたので、自分の知らないところでなにかがあったのだろう。つまりヒノミヤは、そこまでのことがない限りアレを使わないつもりなのだ。
(この先、どれだけ“もつ”か分からないのに。お前じゃなくて世の中の方が)
 虚数空間を経た兵部がやってきたこの世界は、まばたきの間のような儚い世界だ。兵部にとってはこの場所は夢で、熱にうなされながらも笑みを浮かべるヒノミヤは夢の住人である。それなのに、と兵部はヒノミヤの前髪をつまんで遊ぶ。
(それなのに、この僕に心配かけさせやがって)
 腹の底では苛立ちがあった。普段、元の世界で過ごしているうちは考えることもやりたいこともごまんとあったから、自分の感情の分析などしたことがなかった。けれどもこの世界に来てから兵部は、暇潰しに内省することが多くなっている。そんなのは大人がやることで、僕がやることではないのだと考えを振り払っても、ヒノミヤとの生活がまた自身に余白を生み出すのだった。
 とどのつまり、兵部はヒノミヤを気に掛けていた。情を移しているとも言ってよかっただろう。兵部はそれを自覚しつつも、認めたくはなかった。だって、この世界にも兵部京介はいたのだから――そして、この世界のヒノミヤは、彼に恋をしていたというのだから。
「ああクソ……ヒノミヤ、眠れそうか?」
「んー……う、ん……
「しょうがないやつ」
 熱で朦朧としているのか、判然としない様子に舌打ちをする。汗ばんだ後頭部に手のひらを差し込んで、覚醒状態にあるヒノミヤの脳波を読み始めた。
「こっちで意識落としてやるから目を閉じろ。睡眠導入剤代わりになってやる」
「ん、待った……待って、要らねぇ、風邪移るかも……
「こんなんで移るかよ! ていうか多分問題ないよ、僕ここじゃ人間じゃない枠だし」
 この世界で旅を始めてしばらく経つが、名残りのように空腹を覚えたり、睡眠の真似事はできるものの、生理的な問題が生じたことはなかった。兵部はこの世界を自分の見ている夢と捉えているが、その実、この世界にとって自分こそが夢なのかもしれないと思うことがある。
 ヒノミヤは力なくも、兵部の言葉に鼻で笑った。
「普段から人間じゃないくらい強いけどな……
「冗談を言えるなら、僕の看病は要らないな」
 つんと語気を強めると、ヒノミヤの口元がくにゃと曲がる。
「あー、それは……いや、それなら……じゃあ、」
「うん?」
「寝る前にキスしてくれよ」
「はぁ?」
「どうせなら、手じゃなくてさ。風邪引かないんならいいだろ」
 なにを言い出すのかと思ったら、と兵部は肩をから力が抜ける。目尻に皺を寄せるヒノミヤの笑みに毒気を抜かれ、兵部はソファの背に手をつけて覆い被さった。
「甘えるなよ」
「甘えるよ」
 病人だし、とぬけぬけとするヒノミヤの口をそっと塞ぐ。『こちらの兵部』とは、こんなこと日常茶飯事だったのだろう。ヒノミヤは常日頃から兵部の腰を抱いては引き寄せて、ところ構わずキスをしてきたし、空いている手に指を滑り込ませてきた。今のように甘えることだって、病を得ていないときにもしょっちゅうだ。それは恐らく、兵部の知らないところで、それが日常だったからだろう。
(なぞりやがって)
 別に構わんが、と兵部は旅の始まりのことを思い出す。誘ったのはこちら側だし、世界の事柄を知って受け入れたのは単なる気まぐれと、憐れみがあったからだ。ただ、知れば知るほど――世界の違いを、ヒノミヤの違いを……兵部の違いを思い知るほどに、この世界と同じく、兵部自身にもズレが生じてきている。
 それでも、ただ慰み者になっているつもりはない。ヒノミヤとてそのつもりは全くないのだ。だからこそ決まりが悪くなり、兵部は普段より幾分か熱い唇を食み、音を立てて離れていった。ヒノミヤはご希望を堪能できたのか分からないうちに、とっくに寝息を立てている。
「いい気なもんだな。人の気も知らないで」
 薄く上下するヒノミヤの胸で頬杖をつき、わがままにむくれた。
 生きるものが亡きものを追って取り縋るのを、誰が突き放すことができよう。誰もが道に迷っており、小さな希望の火を絶やさぬよう、薪をくべることに必死なのに。
 ……ああそうだ、と兵部は唇を舐めた。再びヒノミヤの額に指を滑らせて、眠りに落ちた脳波に干渉する。比べられるのが気に食わないなら、もういっそのこと。





 まどろみの外側から、くぐもった声が降ってくる。どうやら自分の名前を呼んでいるようだったが、ヒノミヤは目を開ける気にはなれなかった。自分の身体ではないように重たく、目蓋ひとつすら開ける気にならない。昨夜はそんなに深酒をしたつもりはないのだが、とヒノミヤはどうにか指先から動きを確認していった。人差し指、中指、薬指……五本指を握り、広げていく。病人のエクササイズをしているうちに、これは睡魔が原因ではないのではないかという気になってきた。ならばこの体の重みはなんだ。
 疑問に思っていると、機能を取り戻した鼓膜が、ようやく声の主を捉える。
「ほら、できてるぞアンディ。……おい、まだ眠ってるのか? ねぼすけ」
 鼻先を指で弾かれて、痛みに目が開く。視界の先にあったのは、銀髪を揺らした見るも美しい少年だった。“いつものように”胸の開いた白いシャツをゆったりと着て、人を小馬鹿にするようないたずらっぽい笑みを浮かべている。
「アンディ・ヒノミヤ?」
……、京介?」
 ヒノミヤの様子がおかしいことに気付いた兵部が、きょとんとして覗き込んでくる。肩越しに自室の天井が見えて、ああまたうちに泊まってもらったんだっけ、とヒノミヤは体を起こして、その勢いで抱き締めた。
「なんだよ。朝から暑苦しいな」
「え……いや、……確かに。……? 悪い」
 目を丸くしたのは兵部もヒノミヤも同じで、互いに訳が分からない、という顔を突き合わせて、また背に手を回した。
 着古して柔らかくなったシャツに、更に皺を寄せる。指先ひとつひとつで握るように兵部の背中を確かめて、ベッドの上でしばらく抱き合っていた。じわじわと鮮やかになっていく視界が熱を持ち、ついにはぼやけて霞んでいく。頬に涙が伝うことで、ヒノミヤはようやく自分が泣いていることに気付いた。
「なに。なんだよ」
 首筋にうずまり、涙を染みこます男の背を兵部が宥める。
「やな夢でも見たのかよ?」
「わかんね……そうかも……
「でかいガキだなあ」
 全身を兵部に預けて、目頭から熱が引くのを待つ。自分が膝を立てているのは確かに使い馴染みのあるベッドで、腕の中にいる細い体だって幾度となく抱き締めたことのあるものだったのに、この独特の浮遊感と拭いきれない不安はなんなのだ。
 ヒノミヤは湧き上がるものを不快に感じて、目を逸らすように体を離した。吸い込まれるような昏い瞳が、ヒノミヤの焦燥を写している。
……ん?」
 兵部は目を逸らす素振りもしない。こんなに心を許してくれるまでどれだけの時間がかかったことだろう。互いに見つめ合ったままでいると、ヒノミヤの動悸も少しずつ収まっていった。そうすると今度は、視線に炙られるように頬が熱くなり、先ほどの自分の狼狽が恥ずかしくなってくる。
「ん、もう大丈夫……なんかダサかったな、忘れて」
「君は出会った頃からずっとダサいから気にするなよ」
「それもそれでなぁ!? ……あれ?」
 すん、と煙の匂いが鼻を掠める。近所で枯れ葉かゴミでも燃やしているのだろうかと思ったが、窓が開いているような気配はなかった。となれば、とキッチンの方へ視線をやる。そうして、ばつが悪そうに俯く兵部のつむじに目を落とした。
その後頭部が勢いよく上がってきたので、仰け反るように避ける。
「うおっ」
「き、……君が言ったんだぞ! その様子じゃ忘れてるだろうがな、僕の、この僕の! 朝飯が食いたいだのなんだの……
「ああ、なんかできてるって言ってたっけ。何作ったんだよ?」
……め、……目玉焼きの……ようなものだ。あとなんかパン焼いた」
 どうも目玉焼きがこんがり焼けた良い香りではない。焦がしたワケね、とヒノミヤが笑うと脇腹をどつかれ、その勢いでベッドから転がり落ちる。
「僕にこんなことさせるのは君くらいなんだよ! とっとと自分のわがままの始末をつけろ!」
「ははっ、じゃあ食べるとするかぁ」
 寝巻のままダイニングへ向かう。背伸びをして、軽くストレッチ。ワックスをかけ直したばかりのフローリングをふたりで裸足で歩いて、両面が黒くなったトーストにひとしきり笑って、殴られて、カピカピになった目玉焼きに塩コショウをかけた。どんなことをしても全部同じような苦い味で、今度からは兵部よりも必ず先に起きることを誓った。
 ――今度ってなんだろう。明日ということだろうか。
 彼と目を合わせていると安堵する。愛しいものを眺めているから当然であるのに、それでいて「目を逸らしている」という罪悪感が芽生えるのはなぜなのだろう。こんなにも視線を交わし合っているのに。
 シンクに皿を置いたまま、兵部のくつろぐソファに雪崩れ込む。彼が興味のなさそうなゴシップ雑誌を開いていたことを良いことに、邪魔するようにして膝に頭を預けさせてもらった。兵部は雑誌を少し上にあげ、眼帯がほどけない程度に撫でてやる。
「んー。よしよし」
「嬉しい」
「腹も撫でてやろう」
「嬉しいです」
「ふん」
 満足げに鼻で笑う兵部を、膝の上から見上げる。ページをめくる腕の隙間から兵部と目が合った。
「皿、洗ってこなかったろ」
「んー、あとで……
「洗え」
「今はこっちだから」
 他愛のない、昼には忘れてしまいそうなやり取りをしながら、兵部の体温を頬に感じる。窓の外から弾き語りのアコースティックギターが聞こえてきて、ヒノミヤは、ああこんな日も確かにあったなあと微睡みながら思ったのだった。
(こんな日……?)
 またこの感覚だ。足元にぽっかりと穴が空いていて、黒い砂の渦に呑み込まれていくような恐ろしい心地がする。
「なあ、今日どっか外出る?」
 足元にまとわりつく嫌なものを振り払うように、兵部に助けを求めた。
「君が僕とどこかに行きたいんなら、付き合ってやらないでもないが」
「そういう回りくどいこと聞きたいんじゃなくてさぁ。せっかくお前がいるんだし」
 体を起こし、兵部の手元から雑誌を取り去る。最近仕入れたラタンのサイドテーブルに放り投げ、肩を寄せ合った。無防備に見上げてくる姿に胸が締め付けられて、ヒノミヤの口も早くなる。
「あったかくなってきたから海、いや普通に買い出しでもいいな。旬のフルーツ切ってやるよ。あー、車借りてどっか走るとか? あ、そだ、お前に見せたいとこもあるし……
 ふと、口の形に既視感を覚える。
……そう、……見せたいとこが……
 つい最近も、同じようなことを話した気がする。兵部京介に。
 ぐんと意識が強く下に引っ張られたが、恐怖を感じる前に踏み止まった。強く足踏みをするイメージで戻ってくると、脂汗が額に滲み出る。
「お前、兵部だろ」
 考えをまとめる前に口について出た。
 売り言葉のようになったそれを、隣で肩を触れ合わせている彼は買わなかった。
「? 確かに僕は兵部京介だが」
……そういうことじゃ、なくて」
 自分の勘違いだろうか。
 本当は“向こう”が夢で、“こっち”が現実なのか。
 幸せだと噛み締めてしまった、こちらの方が。甘い果実が喉元を過ぎていく、この心地が真実であるならばどれだけよかっただろうと奥底が叫んでいる。自分はこの叫びを無視することはできない。目を逸らしていたものが何かを、ヒノミヤはようやく掴んでいた。
「お前と俺とで、同じ時間を過ごした時間はもうとっくに過ぎていった」
 確かにあの日があった。起き抜けに抱き締めた日も、焦げた朝食を食べた日も、ソファで膝を借りた日も。けれどそれがあったのは、すべて過去だ。ヒノミヤが置き去りにしたまま、埃を被らないようにたまに撫でていた風景だった。
(でも大切だからって、昔に戻りたい訳じゃない。もう戻れないものだから、何度でも思い出せる)
 兵部の薄い肩を掴んで、親指の腹で撫でる。
「俺はお前の骨をしがむつもりはないよ」
 こんなにもここに居るのに、自らの口で言わなければならないことがつらかった。
「だから、この夢は要らない」
 苦しげに吐き出すと、ヒノミヤの胸元がぎゅっと詰まる。眉根を寄せていると、兵部が唇を指でなぞっていった。太陽が雲に隠れて、部屋のなかも薄暗くなっていく。陽光をなくして冷えていく空気のなかで、兵部の凍り付いたような美貌がよく似合っていた。陰を湛えながら、ヒノミヤと兵部の間に沈黙が渦を巻く。
……
……
「夢の、……
 口元を撫でていた指がヒノミヤの耳の輪郭を辿る。指先でヒノミヤの熱を確かめながら、たどたどしく話し始めた。
「夢の研究は、超能力者を交えた研究を行っても、未だ解明できていない部分が多い」
……、それで?」
「だから、僕でも粗があるんだ。ばれたな」
 ち、と小馬鹿にするような舌打ち。まるで小さな子供のいたずらが露呈したようなときの気軽さに、ヒノミヤは一層、深く眉をひそめ……すぐに緩めた。溜息交じりに、兵部、と名を呼ぶ。
「お前のせいじゃないよ。俺はこれが夢だって気付かなきゃいけなかったんだ」
「いや、でもだな」
 兵部はずいとヒノミヤの体を押し戻し、太腿あたりに手をつく。許そうとつとめていたヒノミヤの様子に気付くこともなく息巻いた。
「一応最初のときとは違って、今回の僕はお前の記憶に基づいてエミュレートされてたはずだぞ。言うなれば僕はシステムを構築して起動しただけだ。あとはスタンドアローン状態に入るから『異物の僕』では全くなかったし、それなら君の心もより慰むはずだと踏んで、」
 捲し立てながら、ごまかすように口元を歪める。笑顔の作り方に夢との乖離を感じて、ヒノミヤもつられるように口角を上げた。嘲笑のようになっていなければいいが。そんな気遣いが頭を掠めてしまうのが、遠く虚しかった。兵部、と膝に置かれた手に手を重ねる。
「どんなにお前がうまくやっても、何度こんなことしても、俺はいつでも気付く。分かりたいんだ。気付いてやらなきゃいけない」
……
 あいつのためにもか、という言葉を兵部は口にしなかったし、ヒノミヤも続けなかった。それ以上、追い詰めることをしたくなかったのだ。目の前の人物の心も、己のことも。
「だから、……頼むから、やるな、二度と」
 潜入捜査官としてスパイ活動をしていた頃から数十年経った今でも、ヒノミヤは人を騙したり、疑うことが苦手だった。こんなことを何度もしたくはない――兵部のこととなれば尚更。
 言葉を強め、肩口を握り直す。爪を立てないように、怒りが伝わらないように、けれど誠実さがまろびでた結果の衝動だけは殺せずに。
 先に行ってしまった兵部のことを思い出さない日はない。ただこうして、自分の記憶の中のものを人の手で反芻させられるのは居心地が悪かった。こんなことをしたいんじゃないと突き放してしまったのは、彼を死者として受け入れることができていることの証明だろう。
 だからこそ、兵部にこんなことをさせてしまったことが悲しかった。
……俺はさ、お前と――
 それを伝えなければならなかった。たとえ今ここが夢の世界であろうとも、今ここで。
(『お前』と世界中を旅できたことで、どれだけ俺が救われたのかってことを、)
 叫ばせてくれと息を吸ったところで、ぐんとヒノミヤの意識が重く引っ張られる。まるで落下するかのような浮遊感に抗えず、ヒノミヤは息を求める魚のように口を開けた。声が出ない。視界がぼやける。ああ、順を間違えた、とヒノミヤは苦悩した。この兵部がどれほどヒノミヤを慮っているのかなんて、はじめから分かり切っていたことだったのに。
(どんなお前でも幸福であるべきだ)
(『拒絶』がどれだけこいつらを傷付けるのかなんて、知ってたはずだったのに、俺は!!)
 そんなヒノミヤの自省も虚しく、二度とやるなというあの声だけが、兵部の鼓膜にたわんでいく。
「そうだな」
 そうだな、ともう一度、口の中で後悔を転がした。学生服のポケットに両手を突っ込んで、兵部は強く拳を握り締める。言葉の節から滲み出るそれは怒気などではなく、深い無念でしかなかった。
「僕が間違えたんだ」





 パチン、と指を弾く音がして、ヒノミヤは反射的に体を起こした。
――待ってくれ、兵部!」
 口についた言葉が、石材の壁に跳ね返る。自身の慟哭を肌にびりびりと浴びて、ヒノミヤは乱れていた呼吸を整えた。寝起きで乾いている喉で叫んだからかひりついて痛い。けれどヒノミヤは喉の痛みよりも、なぜ自分が大声を出したのかを不思議に思っていた。
 なにも覚えていない。叫ばなければならないほどのことが、あった気がするのに。
「もうしないって言わないと…………なにを?」
 必死に直前のことを思い出そうとしても、次から次へと指の隙間から砂のように零れていく。取り落としてしまったものを膝の上でかき集めてみても、ただイメージだけが残像のように残り虚しいだけだった。
「なんだったっけ……?」
 忘れたことがただ息苦しくて、思わず胸を撫でる。罪悪感を抱いたときのような痛みがチクチクと胸を刺し、しかし思い出すきっかけにすらならないのが歯痒かった。眉間に皺を寄せていると、空間が歪み、兵部がソファの傍にテレポートしてくる。兵部、と声にすると、胸の痛みがまた増したような気がした。
「おはよう。体調は回復したみたいだな、さすが体力馬鹿」
「体力馬鹿のお陰でここまで生きてるようなもんだからなぁ。誉め言葉としてもらっておきマス」
 兵部がテレポートしてきた瞬間、ふわりと漂う雨の匂い。まだ降っているのかと窓の外を見やりつつ、兵部の手が額を覆った。
「熱も下がってるな。一応、薬を持ってきたんだけど」
「ああ……それまだ残ってたのか。もう必要ないみたいだ。ありがとな、兵部」
「ん」
 空間に浮かしていた薬箱を、またポケットに戻す。逡巡した様子を見せたあと、兵部は遠慮がちに口を開いた。
……で、なにを待てばいいんだ? 僕は」
「え? ……あ、ああ、なんだっけ? 俺そんなこと言ってたか?」
「言ってたよ。外からでも聞こえた」
「や、それがさ、覚えてないんだよ。多分、夢……? だったと思うんだけど」
……そうか」
 ほっとした風に息をついてから、兵部は重ねて尋ねてくる。
「どんな夢かは、ひとつも?」
 やけに疑るなと引っ掛かりはしたものの、自分も思い出せればいいとは思っていたので、また記憶を手繰る。あの刺すような痛みも、記憶と同じく瞬く間に消え去ってしまっていた。忘れてはいけないことだけは分かるが、その感覚すらも色褪せた日記のように遠退いていく。
 そのうち、それなら忘れた方がよかったものなのではないかという気さえしてきた。忘れた夢の後味が、こんなにも苦く、ざらついているのだから。
「んー、覚えてないけど……ただ、」
 ソファの上で片膝を抱え、ヒノミヤは虚空に視線をやる。腹にかけられたタオルケットを手繰り寄せて、失ったものを追いかけながら呟いた。
「すごく嫌な夢だった気がする」
 兵部は苦虫を嚙み潰して、飲み込みながらにやけるだけだった。







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