すぐそこの廊下を歩く足音が聞こえ、僕はつむっていた目を開けてじっと息を潜めた。近付いてきた足音は扉の前を通ってそのまま反対側へ進んでいく。ほっと息を吐いた途端、ガラッと教室の後ろ側の扉が開いた。
「ああ、今日はここだったか。今は授業中のはずだよね、綾部くん」
「……どうして毎回兵助さんが来るんですか?」
「学校の中では先生って呼んでくれる?」
「……久々知先生」
「うん。それはね、俺がこの学校の教師の中では一番若手で、サボっている子を校内中歩き回って探すなんていう無茶を押し付けられて……もとい、任されているからだよ。ほら、教室に戻ろう」
「……頭痛い」
「じゃあ保健室で熱を測ろうか」
「お腹も痛い」
「……」
「あと気持ち悪いです。だから、授業は受けられません」
話しているうちに空き教室の一番前の席に座る僕のところまで来た兵助さんは、はぁとため息を吐いて僕の隣の席に腰掛けた。机に片肘をついて僕を見る顔はいつのまにか先生から昔馴染みのお兄ちゃんに変わっている。
「特別扱いはできないよ」
「他の人が同じこと言ったらどうするんですか?」
「……保健室か教室に連れて行く。喜八郎も同じだ。俺としては教室に行ってくれた方が嬉しいんだけど」
「名前、綾部くんじゃなくていいの?」
「あんまり生活態度が悪いと内心に響くよ。大学、決めてるんだろう」
「……担任でもないのに。生徒のプライバシーはどうなってるんですか」
「大学のこと話してやってって言われたんだよ。まさか同じ大学を選ぶなんて、ついこの間まで知らなかった。喜八郎は立花先輩のいた大学に行くと思ったのに」
「あの人の背中を追いかけていては、いつまで経っても追い越せないでしょう」
「……追い越すつもりなんだ。かっこいいね」
兵助さんはくすっと笑い、姿勢を正してから「じゃあ」と声音を変えた。
「授業はちゃんと受けようね、綾部くん。いくら頭が良くてもこのままじゃ推薦はもらえないよ。さくっと合格するためにも毎日きちんと頑張りましょう」
「……先生みたいなこと言ってる」
「ふ、先生なんです。ほら、行こ」
手を差し出したまま待つ兵助さんから目を逸らし、僕は一人で立ち上がって教室の出入り口に向かった。廊下に出てすぐ、兵助さんが隣に並ぶ。
「ところで明日、綾部くんちの犬の散歩を任されてるんだけど」
「は?」
「あ、やっぱり聞いてない? うちの母さんとおばさんが二人でおいしいごはんを食べに行くらしくて、帰るのが夜遅くなるから夕方のお散歩は俺が行くことになってるみたいだよ」
「……早く実家出てくれませんか?」
「散歩、喜八郎も一緒に行く?」
「学校の中では名前で呼ばないでください。受験生なので、勉強で忙しいです」
「授業サボってるくせに。いいだろ、ちょっと息抜き。肉まん買ってあげるから」
「……おでんがいい」
「いいよ、もちろん。それじゃあ授業頑張ってね。また明日」
ぽんっと頭を撫でて、兵助さんは階段を下りていった。職員室は一階にあるからそっちへ戻ったのだろう。僕がちゃんと教室に戻るところまで見届けなくていいのかな。
「……」
まあ、今日のところは、大人しく授業を受けようかな。明日会った時に文句を言われても面倒だし。決しておでんを大盛りにしてくれないかなと思っているわけではなく。
休みの日くらい先生と生徒なんて関係は忘れたい。ただでさえ歳の差のせいで弟みたいにしか思われていないのに、兵助さんがこの学校の先生になってしまったせいで余計に距離が遠のいた気がした。近所の年上のお兄ちゃん、なんかじゃない。小さな頃からずっと変わらない僕の好きな人だ。
いい子にしたからご褒美ください、なんて子どもっぽいこと、兵助さんにだけは言いたくなかった。
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