これで三度目。否、毎日、同じ作業をしているのだから、それだけではおさまらないだろう。それなのに何故か、狛枝はどれだけやっても上手く出来ないのだ。一生、失敗し続けるのかと悲観して、項垂れる。その頭を優しい掌が落ちて狛枝は釣られて目線を向けた。あるのは狛枝の愛してやまない夫の穏やかな微笑。
「もういいぞ、ありがとう狛枝」
「ご、ごめんね、日向クン、ボク、キミの奥さんなのにこんな単純なこと……ネクタイを結ぶことすら出来ないだなんて!クズにもほどがあるよ……!」
「そんなことないぞ、帰ってきたら部屋は綺麗だし、ご飯だってちゃんと用意してくれているじゃないか。それに上手いとか下手とかじゃなくて、狛枝、お前が
ネクタイを結んでくれることが俺は嬉しいんだ」
そこで言葉を切る日向は薄らと頬を染めて、狛枝の視線を避ける。まだ何か言いたげな日向に首を倒して続きを待てば、もごもご口の中で咀嚼された語は下の上に乗せられ、小さな声でだけど十分と狛枝にも届く音が発せられた。
「……その、夫婦、らしくて、お前と結婚、したんだなって……実感できて……」
「日向クン……」
「……い、行ってくる」
羞恥に居たたまれなくなったのか、慌てたように靴へと足を突っ込む日向を目にする狛枝も類似した想いと喜びを抱く。幸福感に胸が詰まって苦しい。
「あ、待って!」
出ていこうとする日向に声を張り上げ、制止を請う。振り返る日向に狛枝はあまり良いとは言えない出来栄えのネクタイを引いて屈むよう促してからそのまま首に縋りつく。
「忘れものだよ、日向クン……?」
その音を押し込めながら唇を重ねた。ほんの一瞬でもその口づけには万感の想いがある。
これもきっと夫婦らしい、行為。
当然ながら狛枝も日向と同じものを実感したいのだ。毎日毎日、その喜びを味わっているとしても、飽くことなく、繰り返し幸せを噛みしめたい。
「あは、行ってらっしゃい、日向クン」
見送りは幸福を模った満面の笑み。同じものを浮かべる姿を扉が閉まりきるまで狛枝は見つめ続けて、閉音にようやく玄関を後にした。
家事をこなしていれば一日などすぐに過ぎていく。料理は練習中だが、日向はたとえ失敗しても残さず食してくれるのだ。上達していると頭を撫でて笑う日向の記憶も真新しい。
思い出に上機嫌で夕食を並べる狛枝は、しかし、迫る帰宅時間にどうも落ち着かない。そわそわと時計を何度も見ていれば鍵の差し込まれる音が聞こえ、弾かれたように面を上げた。はやる心を抑え、慌てて部屋を飛び出していった狛枝は押し倒す勢いで日向に抱き付きながら笑みを振り撒く。
「お帰りなさい、日向クン!」
「おい、危ないぞ、狛枝」
ゆっくり狛枝を引きはがす日向に若干の不服を覚えつつ、大人しくされるままなのは、それだけで日向が真っ赤だからだ。いつも以上に狼狽えが見えるのは胸が触れた故だとか、それが妥当な線だろうか。当然の如く故意ではなく意図的なものである。
「お疲れ様、日向クン、ご飯にする?お風呂にする?それとも」
「言わなくていいぞ、最後まで。ご飯だ、ご飯!」
「えー、これも夫婦だからこその浪漫じゃないの?」
「確かに!浪漫でもあるけど!
……お前が作ってくれた飯、冷ますわけにはいかないだろ……」
ちょっと目を見開いて、だが狛枝はすぐ破願する。口元が緩んで仕方がない。
「……えへへ、日向クン、大好き」
「……おう」
そこで、好きだと返してくれれば満点なのだろうが、靴を脱いで隣に並ぶ日向の色づいた頬と幸せそうに模られた表情を見てしまえば、些細な問題に思えてくる。ちらりと見えた胸元に下がるネクタイは朝のまま変わらず歪んでいて、それがまた、堪らなく嬉しい。
「あ、」
「……どうかした、日向クン?」
歩き出そうとした日向が、不意に振り返る。枯草の双眸は狛枝を取り込んで、徐々にその色を失くしていく。在るのは自身の顔だけになった所で、日向が笑った。
「……忘れ物、だ」
「え、…んっ……」
熱い手が頬を包んで唇が触れた。重なった部分から刹那でも伝わる温度が心地よい。離れていくことが惜しく、視線が口元を自然に追っていた。もう一度、と願って、つま先で立つ。あとほんのわずか。
しかし、その前に日向は狛枝から逃れる。日向は自分に手一杯できっと狛枝の行動が見えていなかったに違いない。
「……た、食べるぞ、ご飯」
上ずった声の呟き。誤魔化す様に引かれた手に狛枝は肯定を示して自分のものを絡める。残念と言う気持ちは確かにあるが、それは一瞬だ。これからも日向との生活は続いていく。口づけも、抱擁も数えられないくらいすることもされることも何時でも叶うだろう。日向は狛枝の傍に変わらずいて、ずっと愛情を、優しい笑みを、唯一の幸福をくれるのだから。
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