遠目からでも分かる幼い顔立ち。休日だというのに慌ただしく掃除に駆け回っている彼女と対照的に狛枝は、長椅子で本を片手に時折、日向の様子を盗み見ていた。手伝うの一言は一蹴され体を休めろと厳命されたためである。
狛枝としては仕事のないせっかくの休暇なのだから、日向に存分に甘えたいのだが埃の駆除の方が優先的事項であるらしい。
嘆息を散らして、本を閉じる。内容が一片も入らないものをいくら目で追っても無駄だろう。立ち上がって向かう目的は日向だ。
二人分にしては少し大きい卓上を拭く日向の背後に近寄って抱き付く。
「……邪魔するなよ、狛枝」
「キミも狛枝だよね、創サン。それとも夫の名前を忘れるほどキミの愛は薄いのかな」
妨害故の剣呑さを瞳に宿しながらもちょっと頬を染める日向は余計、幼さが際立つ。童顔とまではいかないが、年相応とは言えない相貌だ。高校生と間違えられてもおかしくない日向は今年でようやく十九を迎えたばかりだった。比べて狛枝は二十九。
十離れた日向との出会いは今から十三年前に遡る。
幼い時、両親を亡くし、その遺産に群がる愚かな親族の対処に何時までも追われていた十六歳の狛枝は心身ともに疲れ果てていた。起こった事象を目の当たりにし今まで狛枝は不幸を呼ぶと散々忌避していたはずでだが、その金目当てに掌を返したように接し始める態度には吐き気がした。
そんな中、公園でぼんやりと時を過ごしていた時にその少女と会ったのだ。
何気なく始まった会話の中、ずっと独りなのだと意味もなく零した。否、胸を巣食う孤独を誰かに知って欲しかったのだ。慰めを求めたのではなく、ただどうしようもなく寂しいのだと気付いてくれるだけでよかった。だから、偶然出会っただけの幼子に話したのだろう。
だが彼女は大きくなったらお嫁さんになってやる、それなら独りぼっちじゃなくなるぞと無邪気な笑みで言い放って破願した。
それがまさか現実となるとはその時には思っていなかったが、今は籍を入れ、結婚式も終え、新婚生活の真っただ中である。
回帰に湧き上がる幸せのまま日向をぎゅうぎゅう抱き付いたままでいれば、胸を軽く押されて尖らせた唇から非難が浴びせられる。それをのらりくらりと躱していたが、さすがに限界が来たらしい。
「……な、ぎと、おい、苦しい、退けよ」
たどたどしくも名前を口にしたのは、そうでもしなければ狛枝が身を離す気がないと知っているからだろう。
「もうちょっとキミの柔らかさを味わっていたいんだけど」
「……太ってるって言いたいのか、それは」
「何言ってるの、創サン!このままで十分だよ、こことか、こことかも丁度良くて……」
「っ!何処触ってるんだよ!やめろ、馬鹿!」
太腿や胸元に触れる指先を叩かれて、痛みにちょっと眉を寄せる。こういった行いに対する制裁は手加減する気はないようだ。
次の手を考えていれば狛枝の目を逃れるように小さな溜息が零される。この所、日向はあまり元気がない。普段通り振る舞っているようだが、ふとした瞬間に暗澹たる表情が覗いていた。それがどうも気になってしまって顔を覗き込み、そっと問いかける。
「……ねえ、創サン、最近元気ないけど何か心配事でもあるの?」
「……別に、何も……」
「……でも溜息ばっかりついてるよね。あ、もしかして、ボクと結婚したこと後悔してる?」
冗談じみた口調ながらも本心が思わず口を突いて出てしまったのも仕方がない。
結婚という楔で彼女の未来を早々と決定づけ、何より、十の差は大きい。どうしても埋められないその溝は焦燥を狛枝に与える。日向が同じ年の異性と並んで歩いているだけでも、仄かな嫉妬が身を焼き、どうしても入り込めないもどかしさに悔しさを覚えるのだ。
「……ボクなんてもう三十だし、結婚とかやっぱり若くて同じ年の相手の方が良かったんじゃないの……?」
「……はあ?そんなわけないだろ。お前、極端すぎだ。それに後悔するなら……」
そこで言い淀む日向は、狛枝の視線を避ける様に俯く。
「…………とにかく、お前はその、関係ないから気にするなよ」
その言葉は、拒絶に似ていて苛立ちが募る。夫婦なのだ、以前以上に頼ってほしいと思うのは我儘だろうか。狛枝を遮断する瞳も何だか気に入らなくて顔を寄せた。ただ自身だけをその思考に埋め込みたく、行為を望む。
だが触れる寸前にその腕から日向は抜け出てしまった。
「……私はまだまだ用事があるんだ、お前はゆっくりしておけよ」
偶然かもしれない。しかし、意図的に口づけを避けられた気がして、狛枝はその背から視線を外せず、ぼんやりとそこに立ち尽くした。
風呂上りの日向は髪を拭きつつ寝台に腰掛ける。擡げてくる焦燥を持て余しなら狛枝は日向の傍らに寄った。軋みで日向が狛枝を振り向く。
「創サン、貸して?ボクが拭くから」
「別にいい、自分でこれくらいできる」
「ボクがしたいんだよ、ねえ、いいでしょう?」
半ば強引に奪って日向の髪から水分を取る作業を再開する。せっかく日向の夫という立場を手に入れたのだから、有効にその特権を利用したい。
取り戻していく感触が心地よく、手を滑らせていれば、首筋がちらりと現れる。
その光景はぞっとするほど美しく色香に充てられ髪の隙間から覗く白い項に誘われるよう唇を押し付けた。
「おい、」
非難じみた声と共に無遠慮に胸へと触れる手が掴まれるが、意思を持って弄ればん、っと声を上げて全身の力が緩む。
「……かわいい声だね、創サン」
耳に熱を注いで唇を歪ませる。
己の出した音に羞恥を覚え真っ赤な相貌をじっくり眺めながら、体を狛枝の両脚の上へと跨がせた。
初夜からそれなりの時は過ぎた。そろそろ二度目を望んでも赦されるのではないだろうか。抗議を発する唇を己のもので塞ごうと近づけてだが、重なる寸前で翳された掌に防がれる。それを外そうとすれば今度は顔を背けられ、明確過ぎる拒絶に面が不機嫌を模っていく。今朝のことも相まって脳裏に浮かべば焦燥が膨らむ。
「……ボクからのキス、嫌……?」
「……、いや、なわけじゃないけど」
歯切れの悪い日向に不審を覚えながらも、明瞭な否定を吐露される前に少々強引に唇を重ねた。軽いものを数度加えてから、息苦しさに喘ぐ隙を狙って舌先を含ませ、日向のものに絡ませ弄る。生ぬるい温度がぞくぞくとした快楽に来た感覚を染み渡らせた。
「ん……ぁ……」
「気持ちいい?もっとしていいよね……?」
惚けた瞳と合わせながら、熱い吐息と共に呟く。日向が答えを紡ぐ前に顎を汚す唾液を舐めて、再び口づけながらその体を敷布に倒せば、簡単に寝台に沈んだ。
釦に手を掛ける狛枝は随分と落ち着いて居られる自分に安堵する。
一度目は狛枝は初めて故に緊張と失敗してしまう恐怖が常に付きまとっていた。それを必死に出さないように振る舞って、何とか襤褸を出さずに事を終えられたのだ。今夜はもう少し余裕をもって行為に及べるかもしれない。
「……ねえ、いい……?」
返事を待つ間すら惜しく覗く白さに唇を落としながら、双眸を見つめた。口づけの余韻を払って瞳の焦点を取り戻す日向は、逡巡を露わに、だが、狛枝を視界から追い出した。
「…………いや、だ」
耳を浸す語に目を見開く。小さな囁きながらもはっきりとした否定に、胸が痛んだ。否、そう言われる予兆を微かに感じていた為、余計、了承が欲しかった。
「……ダメ、なの?」
声色にも表情にも落胆を押し出して狛枝は縋るようにその頬を撫でる。
「……当分、したくない。離してくれよ、狛枝」
淡々とした口調と触れていた手を振り払われて、体の下から抜け出された。
嗚呼、そういえば、日向は近頃、羞恥故ではなくて、もっと別の意図を含んで狛枝からの接触を断っていた気がする。
「ねえ、もしかしてキスもこんな風に触られるのもイヤってこと?」
距離を取られる前にその腕を引いて抱きしめた。
だが返答はない。日向の無言は肯定とさして差がないだろう。先ほどの口づけさえ一方的なものだったのかもしれないと思えば、心音が嫌な軋みを奏でた。唯一、腕の中に収まり変わらない体勢が狛枝を冷静にさせている。そうでなければ、情感に任せて強引に聞きだしていたかもしれない。
「……創サン、それって何か怒ってるの?」
「…………別に怒ってない」
しかし、日向の平常とは言い難い顔色ではあまり説得力はなく、むしろ図星なのではないだろうか。必死に記憶を手繰り寄せ、原因を探るが思い当たる節は該当しない。
「…………初めての時、ボク何かした、とか……?」
思わず零れたのは時折、心中を掠めていた不安。だが息を詰める様と揺れる枯草色に確信を持つ。
その日からまだ一週間も経っていない。何より日向を恋情の対象と意識してからずっと待ち望んだ一夜だ。彼女の一挙一動まで容易に思い出せる。
恐らく初めてだろう日向に苦痛を与えたくなくて、そのことだけに徹していたはずだ。慈しむように愛撫を繰り返して、ほんの少しでも、怯えを見つければ口づけを降らせて安堵させる。狛枝にとっても全て手探りで、しかし、そんなことを日向に知られてしまえば不安になるかもしれない。故に余裕を誂えて、事を成した。
心配げに日向を見やる度に大丈夫だと笑っていた彼女は狛枝との行為を喜んでくれているのだと信じて、だけどそもそも、前提が間違っていた可能性がある。
緊張で口内が渇く。過ぎる考えに相貌が歪む。
ひどい顔を見られたくなくて肩に埋めた。
「……それとも嫌だったのに我慢して付き合ってくれてたの、創サン……?」
「それは違うぞ……!そうじゃなくて……っ!」
真っ直ぐ日向が狛枝を射抜いた。数回、躊躇いがちに唇を開閉し、ようやく音が紡がれる。
「……お前が、慣れてるのが嫌なんだよ……!した時、余裕で手慣れてて私が初めてじゃないって気づいたら狛枝に触れられる度に嫉妬するんだ!綺麗で私みたいに子どもじゃなくてお前に釣り合っててそんな相手に同じことしたんだって勝手に想像して………!何時か、お前が私と結婚したことを後悔するんじゃないかってどんどん不安になるんだ。
こんなこと言ったってどうしようもないだろ……!」
水の膜が今にも決壊しそうな両眼が狛枝を映す。
日向がそんな様子だというのに、胸を満たす歓喜は少し不謹慎かもしれない。しかし、抑えようのない感情は、行動に変換され衝動のまま口づけた。
逃れるようと身じろく日向を押さえつけて、額、頬、唇へと想いを振り撒いた。
口元が緩んで仕方がない。
「……ボク、全部、キミが初めてだよ」
「え」
「好きになったのも、抱きしめたのも、口づけたのも、それ以外も全部、全部、創サンだけだよ」
「なんで……」
「理由?キミを誰にも渡したくなくて、触れさせないようにして、創サンの初めてを全部、貰ったのにボクだけそうじゃないなんて不公平でしょ?」
体躯を抱きしめた。どうしても出来てしまう隙間がもどかしい。
「それに綺麗だとか釣り合ってるだとかどうでもいいよ。
キミだから好きなんだ。キミもボクだから愛してくれるんでしょう?」
「……狛枝」
「……名前で呼んで?キミの声で呼ばれると、結婚したんだって幸せだって思えるから……ねえ、お願い、創サン……」
背に回る手に力が込められた。泣き笑いのような貌が愛しい。
「凪斗」
思慕が重なった音が鼓膜を打つ。激情に体を敷布に結いつけた。
ぎりぎりで残る一線で狛枝は、懇願を日向へ吐く。耳に落とした声への返答は想定のもので、甘い誘いに身を委ねた。
前日談
抜け出た指先にぴくりと体を震わせる。ぐらぐらと不安定な頭は、快楽に酩酊していて呼吸の維持すら覚束ない。
「……もう、いい?」
少し切羽詰まったような声に小さく頷く。狛枝が何を求めているかなど明確な言葉がなくとも理解して、来るであろう衝動に耐える為に息を詰めた。
数秒の間の後、初めに襲うのは圧迫感だ。同時に路が押し広げられていく感触に、生理的な涙がこぼれた。けれどさほど痛みがないのは、狛枝が前戯を繰り返して丹念に準備していたおかげだろう。
そこには狛枝からの情愛が溢れていて、日向の事を第一に考えてくれているのだとよく分かる。
幸せで口元を緩ませようとして、しかしふと思う。
こんな風に他の誰かにも狛枝は触れたことがあるのだろうか。
結論は考える必要もなく出る。
手慣れた仕草。落ち着いた対応。きっと、日向が初めてというわけではないのだろう。以前には何人もの相手がいたに違いなく、それは自立した美しい女性だろう。
心中に暗雲が立ち込めるのは、何処かで日向が狛枝との年の差を気にしているからだ。幼い顔立ち。何時も鏡を前にする度に嘆息が散る。並んでもきっと夫婦にも恋人にすら見えないのではないだろうか。
肥大するもやもやとした感情は、その内、もっと狛枝の隣に並ぶには相応しいような人間が現れて、この結婚を後悔するのではないかという迷夢を生み出す。
愛されていると実感できる瞬間だというのに、一度、思考を広げてしまえば中々、閉じる事が出来ずにいる。それを狛枝が見抜けないはずがなく、色を失くした日向に不安げな双眸が過ぎた。
「大丈夫?もしかして痛い?」
「ん……大丈夫だ、気にするな」
こんな幼稚な嫉妬を悟られなくない一心で日向は、気丈を張り付けて微笑する。どうしようもない事象を覆すことを願うのは駄々を捏ねるようで子どもだと、思われたくない。見目と年齢は変えようがなくともせめて精神だけは隣に寄り添いたいと思う。
狛枝が動く度に高揚感は増すというのに心肝は冷え切っていて、何処か息苦しい。
その表情も心も覆い隠す様に体へと縋りついて夢想を奥底へと沈ませた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.